ふう。と一息ついてペンを置く。
 書き進めていたトークの言葉が出てこなくなった。
 もっとも焦る必要はない。
 このページさえ終われば、作業は終了。
 彼女の同人誌「Sweet Nostalgia」は校了となる。

 青柳桜子。
 それが彼女の名前だった。
 もっとも、今は同人作家「あおばさくら」でもある。

 中学生の頃、桜子は「アマチュアの作るまんがの本」すなわち同人誌と出会った。
 学校のまんが研究会の先輩がつれていってくれた「オリジナルファンタジー」という即売会がそのきっかけである。
 そこで桜子が見たのは、アマチュアの作家たちが工夫を凝らして表現した作品世界の数々だった。
 桜子とて同人誌のことは知っていた。
 だが、既製の作品のパロディが当たり前だと考えていた桜子にとってその即売会で出会った「オリジナル創作」という世界は大きな衝撃だった。

 その日から桜子は「あおばさくら」というペンネームで活動を始めた。
 最初は分からないことだらけだったが、中学の先輩たちと一緒に何冊かの本を作ることで、ノウハウを少しずつ身に付けた。

 アルバイトと学校の勉強と同人誌の三足のわらじは多少厳しかったが、とにかく同人誌にはお金がかかる。
 道具としての紙、インク、ペン、スクリーントーン、本の印刷代、イベントの参加費。
 加えて、親からは活動を続ける条件として成績は学年百位以下にならないこと、と申し渡されていた。
 必死になってやり続けて、とうとう高校三年生になった。
 大学は東京に出ていくつもりだった。
 何と言っても、この世界の中心地は東京である。
 夏と冬にお台場で開催される「コミックマーケット」が頂点だった。
 昨年、初めて参加したとき、桜子は同人誌の抱えている大きなうねりのようなものを感じた。
 だからそこへ行く。
 東京へ出よう。
 そう考えた。

 だから今作っているこの本は名古屋で活動する最後の本になる、そう考えていた。
 冬は大学入試一本で挑まなくてはならない。
 だから、これが。

 一つため息をついて机の上を眺める。
 散らかし放題になった机の上に一本のクレヨンが置いてある。
 赤いリボンが結んであるそのクレヨンを手に取る。
 東京を目指す理由のもう一つがそこにあった。
 

 それは、桜子がまだ小学生だった時代に遡る。
 
 
 
 

Sentimental GUNG-HO-GUNS
赤いクレヨン
青柳桜子 愛知県瀬戸市

 
 

 その少年の部屋には大きな「疾走戦隊 ライダーファイブ」のポスターが貼ってあった。
 

 その少年は小学校の入学式の二年ほど前にやって来た。
 隣の借家に一家で引っ越してきたのだ。

 隣同士、ということですぐに桜子とは仲良くなった。

 遊ぶ時は色々なことをして遊んだ。
 ままごともしたし、ゲームもやった。
 近所の神社で笹舟を作り、池に浮かべたりめだかをすくったり。

 少年には妙なこだわりがあった。
 「赤」という色に。

 テレビの「疾走戦隊 ライダーファイブ」のリーダー、ライダーレッドのファンだったからなのだが、何かにつけてその色にこだわったのだ。
 幼稚園で描く絵は消防車。
 着る服も赤を好んだ。

 小学校入学の時、ランドセルも赤がいい、と言い放ち母親を困らせる。
 そんな少年だった。
 

 桜子が小学2年のゴールデンウィークの一日、愛知青少年公園でこども写生大会が開催された。
 元々、絵を描くことが好きだった桜子は絵の具箱を抱えて参加した。
 桜子の母親が誘い、少年も一緒に出かけることとなった。
 

 そしてそれは、昼のお弁当の時間に起こった。
 公園の芝生の上でお弁当を食べているときだった。
 何人かの少年が絵を描くことに飽きて野球をしていた。一人の野球少年の打球が大きく反れて桜子たちの方へ向かって来た。
「オーライオーライ」
 守備をしていた少年が打球を追って走ってきた。
 周りが見えていなかった。
「あぶない!」
 ぶつかりそうになった桜子の前に少年が飛び出た。
 二人とも頭をぶつけ、桜子の前で倒れた。
 桜子が、呆気に取られていると少年が立ち上がって、野球少年に飛び掛った。
「この野郎! あぶないじゃないか!」
「何を!」
 いきなり飛び掛られて野球少年も手が出た。
 喧嘩になった。

「やめなさいよ! お兄ちゃん!」
 野球少年の妹らしい少女が声を上げる。
 双子なのだろうか、そっくりな二人。
 少女の持つスケッチブックには「山本るりか」という名前が見える。

 そうこうするうちに、写生大会の開催委員会の世話役の男が駆けつけ、二人を引き剥がした。
 二人はにらみ合う。
 野球少年の仲間たちは行こうと声をかける。
 妹らしき少女も一緒に。

 野球少年は妹には弱いのか、ばつが悪そうに引き上げていった。

 あたりには、蹴飛ばされた桜子の絵の具やクレヨンが散らばっていた。
「とりあえず、絵が無事でよかったねぇ」
 母親の言葉に桜子はうなずいてみせた。
 そして、散らばった画材を拾い始める。
 少年も無言で拾い集める。

 赤いクレヨンがなかった。
 なくなってしまっていた。

 しょげかえりそうな桜子に少年が一本の赤いクレヨンを差し出した。

「え?」
「あげる」
 少年は言った。
「でも、赤って一番好きな色でしょ。ライダーレッドの色だって・・・」
「あげる」
「もらっておきなさい。桜子」
 母親にそう促されて桜子は受け取った。
 少年は下を向いて自分の絵を取った。
「さ、完成まであと一息だよ。がんばって描こう!」
 桜子の母親の言葉に二人の子どもはうなずいた。

 帰ってから、桜子は母親に聞いた。少年はなぜ自分の赤いクレヨンをくれたのか、を。
 すると母親は答えた。
「男の子だからだよ」
 桜子にはよく分からなかった。
 ただ、少年が桜子をかばった時、とてもほっとしたのは覚えていた。
 すごく安心したことを。

 そして赤いクレヨンを少年がくれた時、とてもうれしかったことを。
 
 

 次の日、桜子は近所の女の子と遊んだ。
 その次の日も。

 少年に声をかけるのが何となく恥ずかしかったのだ。
 なぜ恥ずかしいのかはよく分からない。
  でも何となく。

 だからその次の日も近所の女の子と遊んだ。
 

 5月も終わろうというある日、桜子は母親から少年の家族が引っ越すことを聞かされた。
「えっ? 何で?」
「お父さんの都合なんだって」
「じゃあ、いつ引っ越すの?」
「今度の日曜日だって」
 

 桜子はその夜、そっと部屋を抜け出した。
 裏庭の垣根は穴が開いていて、子どもだったら通り抜けることができた。
 桜子はその穴を抜けて、少年の家へと行った。
 そして少年の部屋を窓からそっとのぞく。
 暗い。
 もう寝ているのだろうか?
 桜子は窓を叩く。
 反応はない。
 だめかな?
 もう一度。
 窓の向こうに影。
 そして窓が開く。
 少年がいた。
 

「どうしたんだよ?」
「引っ越しちゃうの?」
「うん」
「写生大会のとき、何でクレヨンくれたの?」
「桜子ちゃんのクレヨン、ダメにしたのは僕のせいだから」
「え?」
「正義の味方なのに、守れなかった」
 少年はぼそっと悔しそうに言った。
「だから……」
 桜子は少年の顔を見た。
 あのとき以来、何となく見づらかった顔を。
「ありがとう。守ってくれて」
 桜子はそう言った。
 そしてそっと少年の唇に自分の唇を重ねた。
 
 
 

「恥ずかしいことしてるよなー、我ながら」
 思い出すと異常に恥ずかしく感じる。
 子どもの頃の甘い思い出、と呼ぶにはあまりに甘ったるい思い出だった。

 彼は今、東京にいる。
 あちこちを転々としているらしく、毎年届く年賀状は浜松からであったり、大阪からであったり、栃木であったりとばらばらの土地からやってきていた。
 やっと落ち着いたらしく、一昨年の年賀状からは連続して東京だった。

 まだ好きなのだろうか? と思う。
 思い出を美化しているだけなのかな、とも。
 それを確かめたい。
 それがもう一つの東京を目指す理由。
 昨年、東京へ行ったときは、行こう、行こうと思いつつ、行くことができなかった。
 だから。
 あの街で暮らす。
 そう決めていた。

「さ、やろう」
 今日は入稿日なのだ。
 小一時間ほどで、原稿を仕上げた。
 ページを確認し、バッグにつめる。

 印刷所は普段通学している名東区の東山線星が丘駅の近くだ。
 もっとも瀬戸からは遠い。
 直線距離はたいしたことはない。
 親の車で送ってもらえば、ほんの三十分の距離だ。
 しかし、名古屋周辺のいわゆる中部圏は、鉄道が名古屋市の名駅、栄、伏見を中心に放射状に伸びている。
 路線が一つ違うだけでえらく遠回りとなるのだ。
 普段なら学校帰りに寄っていくため、気にならないのだけど、さすがに休日に出かけていくとなると億劫になる。

「よし、行こう!」
 自分に気合を入れ、自転車に乗る。
 目指すは名鉄瀬戸線、尾張瀬戸駅。
 

 自転車置き場に自転車を放り込むと、駅前に人が集まっていた。
「何だろう?」
 近寄ってみる。

 駅員が説明をしていた。
「踏み切り事故が発生」したと。
 目の前が真っ白になった。
 

「え……、いつ電車動くんですか?」
「うーん、ちょっと何とも……ねぇ」
 駅員が言葉を濁した。
 

 桜子は携帯を取り出して家に電話した。
 迷惑を承知で母親に軽自動車を出してもらうしかなかった。
 自転車ではどうしようもない距離なのだ。
 

 母親は意外にもあっさりとOKの返事を出した。
 駅前で待っていなさい、と。
 

 しばらく待った。
 母親の軽自動車はスズキのワゴンR。
 しかし、一向に姿を現さない。
 いつ来るのだろう。
 イライラしながら待つと目の前に一台のバイクが止まった。
 赤いバイク。
 ライダーは、メタリックがかったワインレッドのヘルメットに赤いジャケット。
 

 彼はこういうの好きだろうな、とふと思う。
 

 何考えているんだろう。
 自嘲してみる。
 

「青柳さん、だよね」
 ライダーがそう言った。
「は?」
 顔を上げると意外と若い青年の顔。
「あれ? 違った?」
「え、あ、あたし、青柳ですけど……」
「桜子ちゃんだよね。覚えてる? 昔、隣に住んでた……」
「え?」
 ええええっ?
「ど、どうしてこんな所に?」
「家へ行ったらさ、きみが困ってるから行ってくれって、お母さんに」
 ほら、と母親が原付に乗るときに使っていたヘルメットを差し出した。
「え? これに……乗るの?」
「急ぐんだろ」
 彼は笑った。
 十年振りの笑顔だった。
 

 そんなーっ。心の準備がーっ!
 

「捕まって」
 ちょっと照れつつ、彼の言葉にしたがって、腕を回す。
 バイクの後ろに乗るのは初めてだった。
 多少の恐怖と緊張を感じる。
 しかし、彼の背中がその緊張を和らげる。
 安心感が伝わる。
 

「行くよ」
「うん」
 

 二人を乗せたドゥカティ400SSは風の中を走り出した。
 
 
 

 おしまい


「もう一つのセンチメンタル・グラフティ」第二弾です。
 とりあえず、激甘、直球ラブストーリー。
 浜松の次は瀬戸です。
 るりかがちょっと出てます。
 まあ、同じ愛知県ってことで。

 シリーズの他の作品は「sentimental GUNG-HO-GUNS」で検索すれば見つかるかも。
 高山の話とか。

 鎌倉とか神戸とかあったはずなんですけど。
 あと、どこだったっけ?
 九州とか関東とかもいたような……。

 お約束は少年はドゥカに乗っているってことで。
 構想時にはたしか「東京」の女の子というセンチにあるまじきキャラもあったような。

 シリーズの続きはあまりないと思います。
 私の創作世界ではなく、あの時期、あの場所でわいわいやってた物語世界なので。
 ま、とりあえず、では。