『思考の断片』を発行するにあたり。
ホームページ「眼我真の創作の世界」の「思い」のコーナーで書き連ねている内容の中
からさしさわりのない部分だけを拾い集めたものです。何かご意見がありましたら
e−mail:ganga@mb.ccnw.ne.jp までお知らせ下さい。
2000年の「思い」から
「言葉(単語)と文章についての私見」
言葉(単語)だけでは意思は伝わりにくいその言葉に助詞、助動詞などが
ついて文章になる。文章は流れだと思う。
言葉は水で、文章の流れ方によってその言葉は輝きもすれば淀んだりもする。
言葉は日常、誰でも会話で使っている。文章も誰でも書く。しかし、名文となると
なかなか見当たらない、最近わたしが旨い文章だと思ったのは藤原新也さんと
柳美里さんのふたりぐらいです。流れが淀みなく言葉が輝いています。
ここでは先日、詩とエッセイについて書いたことをもう少し掘り下げて考えたいと
思います。詩はせせらぎの流れ、心澄まして聞かないと聞えない言葉のせせらぎ。
そのせせらぎを言葉が流れる、重い言葉もあれば軽い言葉もある。
重い言葉はせせらぎには向かないと私は思っています。
言葉自体に意味をもたせ過ぎるとその言葉はせせらぎの底に沈み、
読む側には理解しにくくなります。重い言葉はもっと流れの早い激流で
使うべきだと思います。言葉自体に重い、軽いがあるのか?
例えば「神」という言葉を使う、使った本人は自己の中で完結している意味
かもしれないが、「神」にもいろいろな神があり、文章の流れの中で理解出来る
程度の意味合いならばよいのですが。やたら「神」など信仰的、抽象的な
言葉を使われるとこちらは何を言っているのか解らなくなります。
もっと具体的に分かる言葉で話してよと言いたくなります。その人にとっては
日常的に使い、納得しているのでしょうが。その人の神とはどうゆう神なのか?
神の定義からしていただかないと、こちらに言いたいことが伝わってきません。
そのような言葉の羅列は一方的に押寄せてくる洪水のようなものです。
使う言葉自体に依存しすぎているのだと思います。言葉の流れを考えず、重い
言葉の羅列は水底に沈んで行くだけです。その重い言葉も激流ならば
迫力がある文となりこちらに危機迫る効果があると思いますが、
ある程度の文章の長さがないと激流になりきれないのです。
短い文や詩では激流になる前に言葉は水底に沈んでいきます。
詩などでやたら重たい言葉を使った詩があります。そのような詩は言葉自体に
依存している詩です。流れを無視して言葉自体の持つ意味に酔いしれている
のだと私は思います。言葉は流れの中で輝くのであって、流れを意識しないで、
言葉の意味だけに頼った詩は、流れの底に沈み淀んだ流れになります。
金子みすずさんや八木重吉さんの詩は
簡単明瞭な軽い言葉で輝く流れを作っています。
いかに軽い言葉で輝く流れを作るかが、難しいのです。
作者の感性が問われるのだと思います。
これは私の私的意見です。ご意見がある方はメールを下さい。
(11.8 夜)
いまにも雨が降りだしそうな、薄暗い静かな空、
一人思いを深めるには好きな空模様です。自然の中で考える自分がただ独り居る。
私の回りを自然が包み込む、私の思考はその中で自然と溶け合い、一体となり
拡大していく、外へ外へ宇宙空間までも拡大していく、膨大な思考は自然をも凌駕
(りょうが)したかのように思われるが思考は所詮、私独りの頭脳の中の作りごと。
現実の宇宙は遥かに膨大です。しかし、思考の中の宇宙と現実の宇宙、
現実の宇宙の膨張は思考の膨張と似ている?
他の人には現実の宇宙の膨張も、私の思考の中の宇宙も同じく、
目で見ることことは出来ない。
現実の宇宙は数式で認識できます。思考の中の宇宙は言葉を通して認識できます。
数式と言葉の違いはあるが、似ている。
(そのもの自体は目で見ることは出来ない。)
現実の宇宙を目で見ることが出来る範囲は全体からすると極限られている、
膨張している宇宙の先を見ることは出来ない。
数式の思考の範囲内で納得しているにすぎない。
思考の宇宙も同じく言葉の認識を通してその範囲内で納得しているにすぎない。
何を言わんとしているか、
要は、思考の膨大さは「言葉」という認識を通さないと説明出来ないもので、
「言葉」とはそれだけ重要で、
言葉の表現力が持っている可能性のすばらしさを力説しているつもりです。
(11.18 夜)
「言葉」は膨大な思考の中の一部を具現化したものだと思います。
一部であってすべてではない。しかし、やはりその一部は、
いかに思考しているかの証でもあります。
宮沢さんの膨大な知識と経験があのような「言葉」を生みだし、
童話を生み出したのだと思います。(そうです、経験が大切なのです)
知識、知恵、に経験が加わって思考を生み出す。知識、知恵だけでは思考は生まれない。
経験という培養液がないと思考は成長しない。そうそう、経験は培養液なのです。
昨日から思考、思考と言ってますが、思考は経験という培養液によって生み出された
創造物だと思います。
経験をどのようにに受け止め、どのように克服していったかによって、
思考は違ってくるのだと思います。
(11.19 夜)
「芸術は生きるうえにおいて必要か?」
人が生きるということ自体が芸術という言葉で表わされるのではないでしょうか。
人は生きるために色々な物を考え作り出します。古い時代から現代もそうです。
作り出される物の程度は違っても、作るという行為における芸術的意味においては、
昔も今も同じです。これらの行為は必要に応じて行われています。芸術と意識しない
昔から無意識のうちに行ってきたのです。縄文式土器も今ではりっぱな芸術作品です。
後世の人がそれを芸術と評価するのです。縄文人は芸術作品として意識してなっかたと
思います。文明が確立してから芸術という意識が生まれ、芸術に付加価値を付け普遍性を
求めるようになる。このへんから芸術は選ばれし者の特権になってしまう。
私の描いた絵が数千年後に残っていたら立派な芸術品?
ゴッホの絵と素人の書いた絵の価値の違いは何処にあるか?
上手に描かれているから?生き様が真摯だからか?
物を生み出す喜びに意義を見い出すことが出来れば、それが芸術だと私は思います。
芸術においてその作られた物に付加価値を付けることに何の意義があるのか?
普遍性に価値を見い出すのか?それが作者にとって何の意味があるのか?
生きて行く上に何の意味があるのか?
死んだ後の時代に評価され、それがどうだというのか。生きているうちに評価されたい?
こんな欲望はいけないことなのか?いま一つ考えがまとまりません。
(11.20)
昨日からの続き
とりとめもなく書きながら結論めいたものがでることを祈ります。
バッハが生まれ、あのような作品を作らなければ後の歴史は変わったでしょうか?
バッハのようにすぎれた才能があっても早く死に世に認められなかった人、
そのような人は幾人もいたはずです。バッハが生まれなければ、才能を発揮できなければ
別の歴史があったのです。それが今の歴史とどれだけ違っていたとしても、それはそれで
人類の歴史なのです。他のバッハが生まれていたかもしれません。
ダイナマイトをノーベルトが発見しなくても、必要は発明の母です。
他の誰かが発明していたことでしょう。
科学においては必要に応じて誰かが発明していたと思います。
芸術においてはどうか、同じく似たような人物が出たのではないか?
何を言いたいのかというと、人が何を成したかということは、
大したことではないのではないかと言いたいのです。バッハ、確かにすばらしい音楽家で
す。しかし、同じ時代に生きた名もない人々とどう違うのか、生きるということにおいて、
才能が有る無いは人の存在価値?の上に違いがあるのか?
生きるという意味において、才能の在る無いは別に大したことではない。ただ、一生懸命
生きる姿に人生の価値が有るのであって、その人が歴史上何も残さなくても意義ある人生
だと思います。価値とはその生きる生き様にあるのであって、結果にあるのではない。
バッハも名もない人も同じ価値です。その人が真摯に人生を生きたとすればその価値は
バッハと同じ価値があると思います。芸術とは科学とは何か、人が生きる上においてより
よい人生を送るための手段であって、それが人生の目的ではない。
才能が世に埋もれたとしても、それはそれでいいのだと思います。
そのこと自体は大したことことではないと私は思います。才能は他と比べて、他と比較し
て有る無いと判断したところで、才能が有るからどうしたというのでしょうか、
優越感に浸って自己満足してどうするのですか。大して意味が無いのではないかと思いま
す。才能の有る人、天才はいます。しかし、それがどうしたというのか、それで寿命が
延びるのか、幸になれるのか、生きるということでは才能の有る無しは問題ではないと
思います。人生とは何か?与えられた命、時間を使って一体何を知り何をどうするのか、
そのことにいかほどの価値があるのか。面白い課題です、私の課題です。(11.21 朝)
「思考と科学」について
本来、科学と文学(思考)は同じ一つの〈もの〉だったが、それぞれ専門化していくうち
に別々に別れ、それぞれさらに細分化して専門化していくうちに、そこに限界が見えて
きた。科学はさらなる進歩?のため文学的要素を加えることでその限界を打ち破ろうと
している。「創造」というものは本来、科学も文学(思考)をも含んで一つの全体的な
〈もの〉だった。それを人は細分化することにより、さらなる真実を発見できると信じ
邁進した結果が20世紀の科学です。根本的に間違っていたのです。ピタゴラス、
レオナレド・ダビンチ、パスカルなどの先人は科学者であり文学者、哲学者なのです。
彼等は自然の中からそれらの新しい〈もの〉を発見(創造)したのです。
創造とは全体的、総合的思考が作り出す〈もの〉だと思います。
細分化からは本当に必要な真理は生まれてこないのだと思います。
自己(人)の欲望を満たすだけの科学となり、かえって人類に害を与えるのだと思います。
今から2000年前後にブッタ、イエス・キリスト、マホメットなどの信仰の開祖やメシア
が生まれた。年数には少し開きがありますが、今から千数百年前です、
偉大な宗教家、思想、哲学家などもその時代か、前後に出ています。
人類の種としての寿命があるはずなのです。そう考えた時、種として思考的に成長した
時期があり、そのまま成長することはなく、その遺産を受け継ぐだけの惰性的時期が続く、
それが今の時代かもしれません。これからどのように種として熟年?さらに老後?を
迎えるえるのか?人の成長と人類としての種としての成長をダブらせて考えてみました。
ただ今のままでは人類が老後を迎える前に人類の体がもたないかもしれません。
その前にこの地球がもたないかもしれません。
(11.26)
「無知(無明、無智)について:シャンカラの説」
(シャンカラ:8世紀前半、印度最大の宗教家、哲学家の一人)
昨日の夜、印度哲学大学院生とシャンカラの説の「無知」について語り合いました。
いろいろ話したのですが、話しの流れからある程度納得出来たと思っていたら、話し終わ
り振り返ると、いったい何を話したのやら?あやふやになってきました。
もう一度整理したいと思います。
私が認識出来たところのシャンカラの説は以下のようなことです。
1、ブラフマンはすべての始まりであり、すべてである。
この世の見える現象はすべて「無知」の現われであって、
無知ということを「知る」ということが大切である。
「知る」ために行為をすることは、そのこと自体が無知である、???。
2、原因があって結果がある。原因の中にすでに結果が含まれている。結果の現象である
この世界は無知である。そうすると原因にはすでに無知が含まれている?
それは違う、原因はすべての始まりであって、すべてである(ブラフマン)。
ではなぜこの世界は無知なのか?
私の持論とシャンカラの思想には共通点がありましたが、
先人の哲学的思考について話しをしていても
自分の尺度でしかシャンカラの思考を理解していなかったということでしょうか?
自分に都合のいいとこだけ覚えていてそれ以外は余り覚えていない・・・。
口から出た言葉の中で、消えていった言葉たちと記憶に残っている言葉たち、
シャンカラについて語った後の消えていった言葉たちを思い出しながら
記憶に残っている言葉とつなぎ合わせ、もう一度自分の思考を再構築したいと思います。
(11.29 夜)
この目で見える世界が無知、幻の現象だとしたら本質(ブラフマン)は何処?
どうしたら分かるのか?
(これから書くことは私の思考です、シャンカラに誘発されて思いついた思考です)
ブラフマンは原因で、元々あった本質。
以前(11.7 夜中の思い)私は常識(世渡りの術)の殻を破らなくてはいけない
と書きました。幼いころの純粋さが成長するに従い世間の垢に包まれ自己防衛する。
このことがシャンカラの「無知」ということにつながるのかもしれません。
自己を開放する、常識という既成の枠を取り外し自己の思考を開放する。
既成の常識を外した後に残る〈もの〉が本質(ブラフマン)であり、
そのことが「知る」ということなのかもしれません。
「知る」とはシャンカラの説を知識として学ぶことではなく、人生において
生きるということを通して知る事に意義があるのだと思います。
この現実の無知と幻の中でどうしたら「知る」を知り得るのか?
院生の話しでは彼女が読んだところにはそのことは書かれていないそうです。
「知る」とは「開放する」ことかもしれません。
そのための行為は意味のないことだとも彼は言ってます。
「101匹の猿」という本があるそうです。
彼女も言ってましたし、他の知り合いの人もその本のことを言ってました。
一つの島で猿が芋を洗い出す、すると他の離れた島の猿が突然芋を洗い出すという話です。
これは実話だそうです。ここに「知る」(開放?)ヒントが在るのかもしれません。
最初の猿はどうして芋を洗い出したのでしょうか?
これも先日私が書いた種の成長(寿命)と人の成長に関係しているのか?
その猿は必然性を感じて芋を洗った、幾多の猿がいてその猿だけ?いえ違うかも、
いままでもそのような猿はいたのかもしれない、ただこれは伝承しなかったのかも
しれません。その猿の生きている間だけの現象なのか?
他の島の猿が誘発されて洗い出す、この誘発もどう説明すべきなのか?
猿の進化の一つとして処理してしまっていいものなのか?
シャンカラのいう「知る」ことなのか?
独りの人がシャンカラの「知る」ことができたら、
他の関係ない人も誘発され「知る」ことが有り得るのか?
ブッタやイエスの時代に多くの優れた宗教人が生まれています。
これも「知る」と「誘発」に関係があるのかもしれません。
(11.30)
シャンカラ自身は先人の書き残したベーダーなどの教えを勉強し、
その中から自己の研究を押し進め「知る」ということを唱えるようになった。
先人の書物の中の言葉(教え)に「誘発」され「知る」ことになった。
「知る」とはこれかもしれません、「言葉」による「誘発」です。
それは思考なのです。言葉という手段?を使って、言葉でなくてもいいのかもしれません。
誘発されればいいのです。
何に?自己の思考の宇宙に本質(ブラフマン)、真理(神)、など
絶対的な価値を見い出し、誘発されればいいのです。
このように考えればこの世の中の現象にこだわる必要がなくなり、
無知でもかまわなくなるのではないでしょうか?
ちょっとこのへんは考える余地があります。
(12.1)
絶対的価値(ブラフマン、神)と共鳴し、誘発される。
なぜ共鳴するのか、なぜ誘発されるのか?
共鳴する人、共鳴しない人がいる。その違いは何処からくるのか?
才能なのか?与えられるものなのか?
違うと言いたい。自己のプライドを無にし、挫折をし、自己の無力さを知らされ
絶対的存在を「知る」とき、自ずと頭を垂れ、無力な自己を知らされ、
自己を無にすることが出来る。
階段を昇りつめて高みを極めつけるのではなく!
挫折して、底を極め、完全に無力にされたとき人は力を与えられる(他力本人?)
その力が「知る」ことかもしれません。
名誉、地位、権力、お金とは対極をなすところに
「知る」が在るのではないでしょうか。
(2000.12.2)
以下2001年の「思い」から
内村鑑三の名言「武士道にキリスト教を接ぎ木する」によせて一言。
「日本仏教にキリスト教を接ぎ木する」ぐらいの覚悟が無いと、日本国は欧米のような
キリスト教国には成りえないのではないかと思います。
さしさわりの無い「武士道」をもってきてお茶を濁しているような気がしないでもありま
せん。「仏教に接ぎ木する」となると大事です。仏教会から総攻撃?です。
現実的には出来ないことかもしれませ。、
よって日本国はキリスト教国にはなりえないと思います。
それでいいのだとも思います。「真理は少数とともに在る」です。
キリスト教の神が真理ならば必ず信仰あるクリスチャンを救われるはずです。
仏教もまたしかりです。真の仏教者なら必ず救われるはずです。しかし、本当の真理と
いうと変ですが、仏教もキリスト教も全ての宗教を超越した真理というか真実が何処かに
在るはずだと思もわれるのですが、こんな考えは不信者の絵空事なのでしょうか?
ちょっと待ってください。真理と宗教的真実は違うのかもしれません。宗教的真実が真理
ではないことも有り得るのです。宗教の成立過程における宗教的真実はその宗教の真理に
基づく経過です。しかし、その真理はその宗教における真理であって、他の宗教では真理
とはみなされないこともあります。真理が違えば成立過程の宗教的真実が真理でなくなる
わけです。こんなことを考えていくと宗教の違いがもたらす矛盾の中に真理が隠されて
いるような気がしてきます。「宗教的真実と真理」ちょっと分かりずらいですが、
後日このことを探究したいと思います。
(2001.6.10)
宗教的真実とは具体的にいうとどういうことなのか、例えば「モーセの十戒」です。
これはキリスト教(ユダヤ教も同じです)では宗教的真実そのものです。
神とユダヤ民族の契約です。
しかし、他の宗教の立場から見た場合、
「モーセの十戒」が本当に起こったことなのかどうか疑うことも出来ます。
キリスト教では疑う余地はありません。宗教的真実であり真理なのです。
「モーセの十戒」が嘘だとなるとキリスト教が成り立たなくなります。
キリスト教にとっての宗教的真実が他の宗教では真理とはみなされないこともありえるの
です。
このようなことはどの宗教でも当てはまります。これは真理が多々あるからだと思います。
真理がなぜ多々あるのか?それは人の側の真理だからだと思います。キリスト教もしかり
です。絶対者?の真理は別にあるのではないかと思います。絶対者の真理とは何か?
それは真実が真理なのではないかと思います?
人類の歴史しかり、個人の人生しかりです。
生きた証しが絶対者の真理を表わしているのではないかと思います。
個々の人生の生き様が絶対者の真理を表わす?
何となく分かったようで分からないとこが味噌なのかもしれません?
私の言いたいこと、理解出来ますか?
実存主義についてあまり詳しくないので言及できませんが、「我思う故に我在り」です。
しかし、この我も時代の流れの中の我です。歴史の中の我です。
歴史という真実の中に生きる我、そこに存在の価値がある。どんな小さな存在も真実の
中では同じ価値があるのです。存在すること自体に意味があるのです。
絶対者の存在証明を可能にさせることができるのだと思います。「絶対者の存在証明」?
次から次と言葉が生まれますが、それらの言葉にどこまで責任が持てるやら?
私がここに居る、あなたがそこに居る。物理的価値を超えた意味がそこにある。
我々の存在自体が絶対者の存在証明になりえるのか?
存在証明とは他者の認識があって始めて成立するものです?他者の認識とはどういうこと
か?認識とは認めることです。ちょっと待ってください。
他者が認めなくても存在は出来るのです。それが「我思う故に我在り」です。
この我とはどういう存在なのか?自分の存在は自分で認めることができますが、
存在の証明をしてくれるのは我以外の他者です。それは家族であり、社会であり、歴史で
す。ちょっと疲れてきました、この続きは後日に。
(6.11)
自己の存在証明は他者によってなされる、お互いが存在していることを認め合う時、
そこに個々の存在の意味、意義を求め合うようになり、ついには自己の存在に対して
付加価値的理由付けをするため?自分達のために絶対者の存在証明をする。
それが宗教となる?自分達のために絶対者の存在証明をするのではなく、自分達が存在
すること自体が絶対者の存在証明なのです。宗教の以前に絶対者は存在するのです。
じゃあどのようにしてそのことを証明するか?これが難しい。
常識の範囲で証明するには???
この辺は去年から堂々巡りしているところです。ちょっと考えます。(6.12)
目に見えない〈もの〉を言葉で証明することは大変なことです。
やはり今の私には無理なのかもしれません。わたしが奇蹟でも起こせれば、常識では理解
出来ないことが起こりえることが証明でき、尚且つ、そのことが絶対者
(絶対なる〈もの〉)の存在の証拠につながるのだと思います?イエスの奇蹟しかり。
あるいは証明は出来なくていいのかもしれません。「無知の知」知らないということを
知っていることが大切なのかもしれません。絶対なる不可解な〈もの〉が存在することを
知りえることが大切であって、その証明は出来なくてもいいのかもしれません。
証明しようとするところ、あるいは証明出来ると思うところに人の傲慢があるのかも
しれません。要は分からないことは分からないと認め、それでも人は自分は存在する。
そのことに意義を見い出し、絶対なる〈もの〉の存在が自己の存在に内在されていること
を知ることが大切なのかもしれません。その先は個々の人々がそれぞれの自分の人生を
通して、体験と実験で知らされるのかもしれません。このへんで終わりす。(6.13)
テロの悪循環を断ち切るには「己を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」
聖書の有名な言葉を思い出します。「良きサマリア人」の話しも思い出されます。
報復の繰り返しは際限がありません。しかし、これが現実なのも事実です。
アメリカもタリバンも北部同盟もみな泥沼の欲望?に溺れています。
誰かが言わなくてはいけません「あなたは裸(欲望)の王様ですよ!」と。
神を信じる心で祈れば神様が聞き入れてくれるのでしょうか?
「人類をお救い下さい」?人類は救われるのか?それは「分かりません」。
恩師の一人・浅見望先生の告別式の記録を読みなおしてみました。
キリスト信仰は神と人(個人)との関係を問うものですが、その信仰を育むものは信者
同士の交わりです。信仰は人から人へ伝えられていくものだと思いました。
神にすがり必死に神に捕まるのも信仰のひとつの在り方ですが、神に捕まえられるのも
また一つの信仰の在り方です。サウロのちにパウロとなりますが彼などはそのいい例です。
(11.15)
アフガンがあわただしくなりました。オマル師は何を思いながら神へ祈っているので
しょう?先日のテレビでオマル師のラジオメッセージが放送されました。それは神が
何かをするといった内容でした。さあ何をされるのでしょうか?最高指導者の祈りを神は
きかれるのでしょうか?アメリカがこの戦いで勝利を治めたとしても、後のもろもろの
ことを考えたとき力が正義と勘違いするやからが威勢を振るう世の中になるのではないか
と心配です。ウサマビンラディンさんは何を伝えたっかたのでしょう?
アメリカの傲慢さ、国連の不公平、世界の不公平、それらによってもたらされた
イスラム世界の貧困を訴えたかったのか?彼のメッセージは何度かビデオで放送されて
いますがテロに関してのはっきりした意図は聞きとれませんでした。貿易センタービルへ
の自爆テロで多くの人を道ずれにすることによって、その後アフガンがどうなるか考えた
上でのテロ行為だったのだと思いますが?読みが浅かったのか、読み間違えたのか?
孤立無援の状態での自滅?もし、彼が生き延びたとしたら面白いかもしれません。
不正な世の中へ彼なりの視点でメッセージを伝え続ける・・・。
いまの状況では生き延びることは至難の業だと思いますが・・・。
(11.16)
ブシュ大統領夫人がアフガンのラジオ放送に女性解放宣伝をしたみたいですが何か偽善
ぽい行為です。アメリカの本質は別の所にあり、それらを誤魔化すために夫人を使って
善意の押し売りを平気でする、ずるがしこさが気になります。ラディンさんは「私がテロ
を計画しました」と言って国際裁判?に名乗りでて、公開裁判を受けると面白いのですが・。
当然、有罪で死刑を宣告されると思いますが、彼の主張は世界に伝えられ公の場で
アメリカの片寄った(イスラエル寄りの)正義をも糾弾できるかもしれません。
(11.18)
昨日の筑紫哲也news23で井上ひさしさんの企画?でアフガン支援団体
ペシャワール会代表中村医師の報告会が放映されました。教会で行われたみたいですが私
は全部は見ていません。彼の体験談は貴重だと思います。彼はいまの片寄った
(アメリカより)マスコミの放送状態を危惧していました。しかし、私は彼の体験もある
意味で一部(片寄っている)でしかないような気がします。彼の情報がすべてだとも
思われません。
真理は一つでは無いというのが私のいまの心境です。何度もこの書き込みで書いています
が、タリバンにも北部同盟にもアメリカにもそれぞれの正義があるのだと思います。
それらを客観的に判断するには情報が入り乱れすぎています。限られた情報で判断する
にはその判断する人の価値観(人生観)が問われるのだと思います。
またまたブシュ大統領夫人が(偽善ぽく)テレビ演説をしたみたいです。アフガンの
女性解放を唱える前にやることがあるのでは?アメリカが誤爆して亡くなられた一般市民
への謝罪と救援をすべきです。大統領夫人の演説がタリバンを見下したような態度に見え
るのは私だけでしょうか?
今日の中日新聞朝刊『クリスチャンもアラーの神に祈り』という見出しの記事について
一言。南山教会のインド人神父さんが信者といしょにイスラム教の作法でアラーの神に
世界平和の祈りを捧げたとのことです。それぞれ(イスラムとキリスト)の神が同じ神
なので出来た祈りです。これが他の神々なら在りえない行為です。一神教のキリスト
(イスラム)教信者は創造主以外の神を信じては絶対いけないのです。他の神に祈りを
捧げることじたい大罪なのです。今回は同じ創造主を信じているイスラム教だから出来た
イベントです。キリスト教の寛大さを表現したかったのかもしれませんが、何か匂うの
です。宗教論を言い出すと大変なので私の感じたことを言わせてもらうと
「これはブシュ大統領夫人と同じ感覚なのではないか」ということです。
なぜクリスチャンがイスラム教の作法でアラーの神に祈らなくてはいけないのですか?
私の平和、家族の平和、日本の平和、アフガンの平和、アメリカの平和、
人類の平和、地球の平和。地球の平和を考えたとき一番の害虫は?
人が害虫を駆除する感覚で考えたとき、地球上で一番の害虫は人類です。環境破壊、
オゾン層破壊、地球温暖化、酸性雨、公害、戦争、人類は地球にとって良くないことを
数えきれないほどやってきています。
人より優れた(力のある)ものが地球を守もろうとしたとき、まず駆除するのは
人類でしょう。人はそんなものなのです。反省すべき生き物なのです。自分が宇宙の主と
でも思っているような愚かな生き物なのかもしれません。一部の人々は反省して生き方を
改めようとしています。しかし、いまだ大勢は大量生産、大量消費の繰り返しです。
そういう私もそのシステムの中でぬくぬくと生活しています。「神」というものを信じな
くては人は世の中の矛盾から永遠に抜け出せないのかもしれません。
(11.20)
個々の価値観を尊重すべきです。いろいろな価値観があってお互いが認め合い、
おかしなことは話し合い、間違いは素直に認め、修正していくような生き方をしたいもの
です。おかしなところに気付く視点の鋭さは何処からくるのか、個々が違う人間で価値観
も違うということを身を持って体験していて、感覚として本能的に身についているか
どうか?タリバンの正義はアメリカにとっては正義ではないのです。その逆も真成りです。
アメリカの正義はタリバンにとっては正義ではないのです。
この矛盾を受け入れられるかどうか?
イスラム教にとってイエス・キリストはただの予言者、キリスト教にとっては
イエス・キリストは神なのです。
キリスト教にとってムハンマッド(マホメット)は偽予言者?、
イスラム教にとってはムハンマッド(マホメット)は最後で最大の予言者です。
この矛盾を受け入れなくてはキリスト教とイスラム教の共存はありえません。
この矛盾の事実の中に「なぜ人が神を求めるのか?」という疑問への答の糸口が
隠されているような気がします。
人類になぜ信仰が必要なのか?人類の欲望の先にあるころの見えない不安を
取り除くために宗教は存在しているのかもしれません?
宗教は人類の欲望の先の破滅解除のためのリセットボタンなのかもしれません?
宗教の存在価値は人の存在を肯定するために人類に与えられたものなのか???
宗教は人に存在価値を与えるために存在している?人の存在価値は各宗教によって多少
違う?人類が共に仲良く共存するための中和剤的役割を宗教は担っているのかもしれま
せん?人類を救うのは最終的にこれらの宗教なのかもしれません。
哲学は学問、宗教は実験。哲学は理論、宗教は生活の中での体験。哲学では人類は救え
ない、やはり宗教なのかもしれません?とめどもない疑問ばかりが沸き起こります。
(11.21)
昨日NHKスペシャルで宇宙の「真空エネルギー」についての話を聞きました。
宇宙科学の歩はここまできているのかと驚きを覚えました。これらの理論からは神という
言葉は死語に等しいです。先日、「脳」についてのテレビ放送をみました。脳の一部の
損傷で正常な人でも幻覚を見るとのことです。神とはこの脳が生み出すものかもしれま
せん。宇宙などの外界に存在するのではなく、自己の内(脳)に内在するものかもしれ
ません。なぜ神は存在するのか?それは人が霊長類の長たらん欲望が生み出すとこの幻覚
なのか?人類が選ばれていることの証なのか?また堂々巡りです。
その先を行く勇気がないのかもしれません。欲望が生みだすところの幻覚なのか?
選ばれた者の証なのか?神とはいかなるものなのか?まあこんなことを考えながら日々の
生活をこなす。タリバンの最高指導者のオマルさんはいま何を考えているのでしょうか?
アラーの神は祈りに答えてくれたのでしょうか?彼にいまの心境を聞いてみたいものです。
(11.26)
12月です。またクリスマスの時期がきました。毎年この季節になると私は
「本当のクリスマスは12月25日ではない」と言ってます。
またその説明をするのも面倒です。理由を知りたい人は昨年の私の「思い」を見て下さい。
本当のクリスマスは3月か4月ごろなのです。はっきりした日までは分かっていませんが
聖書学者の間では常識なのです。でもイエスの生まれたことを祝う気持ちは大切だと思い
ます。
なぜ25日が誕生日ではないのに祝うのか?それもアメリカやバチカンなどのキリスト
教国がです。真理よりも世の中の行事が優先されるのです。25日がクリスマスで
なかった時代は25日はただの収穫祭だったのです。クリスマスもいっしょに祝いだした
時期からいつしか夲元の収穫祭が忘れられクリスマスが25日を占領してしまったのです。
テロのあったニューヨークに大きなクイスマスツリーが作られ、その模様がテレビで世界
中に放送されていました。富める国アメリカ、それに対してその日暮しのアフガン難民の
方々を思うとき、世の中の矛盾を感じます。25日のクリスマス商戦は富める国のお祭り
です。信仰よりもこの世の利益を優先する国々にキリストはどう思われるのでしょうか?
キリスト教国はいまの25日をクリスマスではないとしてクリスマスの日を訂正すべき
だと私は提言したいです。まあ無理でしょが、キリスト信仰は商品化?していき、
いまのアメリカのように富める者のアクセサリーになってしまうのではないかと思います。
「『真理は少数と共にあり』大勢ではないのです。少数なのです。(選民思想が見え
隠れする危険性があります)残れる少数の人々によって人類全体が救われる」
私の恩師がよく話されていました。しかし、いま思うと夢物語り的な話のような
気がしてきます。神が本当ににいるのならばその可能性はあると思いますが・・・。
究極は神というものがいらしゃるのかどうかということです。????。
私はいてほしいのですが・・・。聖書にも明記されています。神の子イエス・キリストと。
(12.1)
菊の花が店の花器に先週から活けられていますがこの菊が丈夫いのです。
蕾が咲き花をちゃんと付けて生き生きしています。多くの花が蕾みを咲かせることなく
散っていくのにこの菊は長持ちします。農協で妻が買わされたと言っていた菊です。
白い菊は仏壇を連想するので買うつもりがなかったのに生産者のおじいさんがたまたま
いて「この菊を買いなさい」と奨めれ断れなくてしかたなく買ってきた菊です。
他の菊よりも長持ちします。他の菊とどう違うのでしょうか?育てられた土、肥料、
もともとの種が違うのか?生産者のおじいさんに聞いてみたいです。私の感では
種が違うんだと思います。もともとの種が丈夫い生命力のある種なのだと思います。
美しいのです。白が生き生きして美しい白です。輝いて見えます。人も同じです。
力強い生命力を持った人は美しく、輝いて見えます。何事も見せかけの美しさは直ぐに
メッキが禿げ汚く映るものです。この菊のように私も力強く輝いていたいものです。この
菊の生命力は何処からくるのでしょう?親の遺伝子がそうさせるのですが、遺伝子だけで
すべてを片付けるとなるとちょっと怖いきがします。あのおじいさんの自信がやはり
大きな意味をなすのではないでしょうか。遺伝もさることながら育てた人の愛情がこの
強さの秘密なのではないでしょうか。そうでないと私たち人類も遺伝子ですべてが決定
され、将来優秀な遺伝子をもった人類しか生存させられないような怖い世界になって
しまいます。愛情を受けた遺伝子はその愛情から強い生命力を受け生き生きと輝くのだと
思います。愛情から生まれる生きる希望が人を強くするのだと思います。(12.5)
「海の上のピアニスト」?だったと思いますが、昨日の深夜テレビ
で放映されたのを少しつまみ食い(他のテレビを見ながら)しながら見ました。
一時噂になり見たいと思っていた映画です。実話なのかどうか?実話を元にした映画かも
しれません。有りえない話ではなく人生とは何かを問いかける映画でした。
唯一の友人コーンだけに自分が存在していたことを知ってもらえればそれでいいと言い残
し、廃船と共に死を選ぶ1900(主人公の名前)。名声も富みも得ようとすれば出来た
のにまったく興味を示さず、ただいまを生きる(楽しむ)ことに精をだす。
生い立ちからくるトラウマ?私達も似たようなものです。規制された中での自由なのです。
ただ彼は極端ですが、主人公は船という限られた空間でピアノという才能を発揮したの
です。その限られた空間(規制)がなかったら才能を発揮できなかったかもしれません。
本人が一番それを知っていたのかもしれません。だから船と共に死を選んだのかもしれ
ません。人生って何でしょう?ジャズのように即興で一度限りの人生。繰り返しはない
のです。規制の中の即興人生、みんな海の上のピアニストなのかもしれません。時の流れ
の中の限られた人生です。いかに人生というピアノを弾き語るか?それが問題です。
(12.6)
アフガン騒動も終焉に向けて進んでいますがオマルさんは最高指導者としてどう責任を
取るのでしょうか?一部報道で身の安全と引き替えに投降するとの密約をかわしたとの
ことですが、多くのタリバン兵が死にアフガンを悲惨な状況に落とし入れた責任はオマル
さんにあります。のほほんと身の安全を確保されることを神は許すのでしょうか?
徹底抗戦を唱えていたのに身に危険を感じると密約で身の安全をはかる、何処かの政治家
とかわりません。宗教者としての責任を私は問いたいです。そうでないと宗教が政治と同
じ次元で語られることになり、オマルさんにとって宗教者としての無能を意味するのでは
ないでしょうか。テロで問題を解決しようとした時点ですでにオマルさんは宗教者では
ないのかもしれません。ジハード(聖戦)は何処にいったのでしょう?アメリカも
アメリカですがオマルさんもオマルさんです。似たもの同士かもしれません。ただ
アメリカの方がずるがしこいだけです。神はこの一連の出来事をどうみるのでしょうか?
(12.7)
クリスマスが25日ではない理由を昨年の12月19日の「思い」に書いています。
気になる方は見てください。25日がクリスマスではないことが一部の聖職者は知って
いるのに祝う?祝うことに意義があり、日が何時かは別にどうでもいいのでしょうか?
多分そうなのでしょう。聖書を読んでいくと矛盾がいたるところに出てきます。それらは
いろいろな理由があるのでしょうが矛盾は矛盾として変に分かったふりをするより
分からないとはっきり言ったほうがいいのです。羊飼いと羊が12月25日の寒い冬に
何故?野宿しているのだろう(ルカ福音書2章8節)?おかしいよ!と考えることが
できればイスラエルの12月は暖かいのかなあと思い地球儀でも地図でも調べて日本との
緯度の違いを知る、そうするとそんなに違わない?おかしいよ!ということになります。
イスラエルでは12月の冬には羊はすべて人里に下りてきて宿舎の中でほし草を食べて
飼われているのです。3〜4月ごろから放牧のため山に連れられて、羊飼いたちと野宿を
しながら暮らすのです。1997年前(マタイ福音の東方の三博士の流れ星とルカ福音の
人口調査などから、イエスは紀元4年の生まれというのが本当らしいのです。西暦も
おかしなことになります)イスラエルは暖かったのかとも考えられますがどうもそうでは
ないようです。すると12月がおかしいということになります。じゃあいつなんだという
ことになります。西暦もイエス・キリストが生まれた年を0年として考えられた年号です。
そのイエスが紀元4年に生まれている???です。(12.9)
先日「平和とは?」というエッセイ?を某同人誌に掲載しました。ある友人はなかなか
よかったよと言っていただき書いてよかったと思っていました。でも日がたつにつれ
なんか偉そうに書いたものだと後悔の念が沸き起こってきます。自己主張をすることは
いいことだと思っているのですが、いいことでも自慢することではありません。しずかに
思考を深めていくことの方が有意義ではないかと思います。ちょっと反省しています。
クリスマスが12月でなくても12月でもどちらでもいいことなのかもしれません。
信仰にとってはどうでもいいことなのかもしれません。おせっかいなことなのかもしれま
せん。真面目なクリスチャンでもないのにと反省させられます。何か今日は懺悔の日です。
テレビで長淵剛のライブの模様が放映されていました。熱狂的ファンが総立ちして
手を振り、振り、舞い上がっていました。長淵さんも舞台の上で舞い上がっています。
こういう状況を見ると冷めてしまう私です。「千と千尋の・・」もそうですが作られた
作為的「善?」、トコロテン式に与えられたものをいかにも自分が見付け出したかのよう
に錯覚してしまう「感動?」。感動に飢えている人がここで感動しなくてはと感動を求め
てやってきて、自己陶酔型感動で満足して帰る。おせっかいな私などがその自己陶酔を
覚まさせてあげようとすると、おかしいと拒否される。
自己の価値観を否定されると人は怒り出すものです。私もそうですから分かりますが、
他の価値観を認められないと思考が深まらないのではないかと思います。(12.10)
「もしこの地球が100人の村だったら」という平和のeメールが巷を流れています。
平和を訴えるため、このメールをもらった人は次に誰かに送りましょうとメッセージつき
のメールです。これも宮崎駿の「千と千尋の・・・」と同じ感覚だと思います。
人の唱えたことを鵜呑み的発想でただ受け入れる。そうすれば自分もその仲間になれると
いう発想が人類を滅ぼすのです?平和運動をけなすつもりではありませんが、多にして
錯覚をするのです。平和運動をしている自分たちは正しいと思い込むのです。
一歩さがって謙虚にならなくてはいけません。私たちも同じ間違いをしているのだと、
私たちの贅沢な暮らしは貧しい人たちからの搾取の現われなのだと、直接は搾取してない
としても間接的にしているのです。そこらへんを自分で考えることです。
一人で考えるのです。何か見えてくるかもしれません?昨日、私は「平和とは?」という
エッセイを書きました。もう一度私の平和論を読んでください。
「平和とは?」
コスモスの花が花器にさされています。
コスモスは人を楽しませるために咲いているわけではありません。
子孫繁栄の為、あのかわいらしい花を咲かせるのです。見る側(人)のことは考えていません。
花粉を受精させてくれる蜂や風さんのことを考えて咲いているのだと思います。
生きる姿が美しい、そんな生き方をしたいものです。人の目を気にすること無く、
コスモスのように自然と見る人をなごませるような生き方をしたいものです。
雑草の中にもきれいな花を咲かせる草があります。
きれいな花を咲かせない雑草もあります。それらの雑草も生きているのです。
むやみに引き抜くことにためらいを感じない人がほとんどです。
奇麗な名の在る花を守るため名も無い雑草を平気で抜き去る人、人、人。
このような人がアフガンの平和を語る。人と雑草は違うとの認識・・・。
突き詰めて考えるときアメリカがアフガンを攻撃するのも、奇麗な花を守るため
名もない雑草を抜き去ることも同じ次元で考えるべきではないかと思います。
極端過ぎるかもしれませんがそこまで掘り下げて考えないと
アフガンの問題は解決しないと思います。
夏、蚊が人を刺す。人はためらわず蚊を殺す。テロリストがアメリカ帝国主義を刺す。
アメリカはためらわずテロリストを殺す。
蚊は何故人を刺すか?テロリストは何故アメリカを刺すか?考えるべきです。
蚊もテロリストも命の重みは同じと考えられるかどうか?
ほとんどの人は平気で蚊を殺します。
人類は生きるために邪魔なものを殺しているのです。
私もあなたも殺しているのです。
そんなことを考えると偉そうに平和を語ることはできません。
でも語らなくてはいけません。
蚊を殺すとき、雑草を抜くとき、心に痛みを忘れないために平和を語る必要があります。
(2001.11.8の「思い」より)
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