平成26年〜27年 「思い」


もう何年書き込みを避けてきたやら、26年元旦、別府に帰省しました。今回は目的があり、そのための帰省ともいえます。荒金家の系図を調べるということです。
まずは、母親からの証言?見聞きして記憶している親戚の名前と嫁ぎ関係などを根折羽織、何度も聞きました。あと大きな収穫につながったのは、高専の先輩のお宅にお邪魔して、系図を調べてると話した時、
先輩が奥から一冊の本を持ってこられました。この本が今回の系図探索に大変大きな役を果たすことになりました。「別府今昔」昭和41年、大分合同新聞社発行。
おふくろの証言と「別府今昔」を照らし合わせて検証しました。後日結果発表?(26.1.8)

荒金家について
【全国人数】 およそ4,400人 荒金家は 関東管領家の上杉家重臣にあり、近年、大分県に多数みられる。関連姓は荒氏、安良氏。荒公(任那帰化族)などにもみられる。荒れた土地や新開拓の地の意味。 現兵庫県の日本海側である但馬国の名族にして出石郡安良邑発祥ともいわれる、丹後に同族。ほか平氏宗氏族。 上杉氏について、 藤原北家勧修寺流の流れを汲み、鎌倉時代の中頃まで京都の中級公家の家柄であった、重房の代に至って丹波国何鹿郡上杉荘(うえすぎのしょう、現在の京都府綾部市上杉町周辺)を領して本貫とし、上杉氏を称した。 足利尊氏は当地で産まれたとの伝承が残る。元々は天皇家に仕える公家であったが、鎌倉時代後期、親王の将軍就任に従って鎌倉へ下向して武士となった。後に足利氏の姻戚として勢力を伸ばした。 荒金家の家紋「竹に雀」についての考察 竹に雀でも荒金家の竹は竹輪ではなく、竹を側面から写実的に描いた竹に雀が飛んでいる紋です。 「竹に雀」で有名なのは上杉家です。 上杉氏は藤原北家勧修寺流ですから、勧修寺流の一門は竹輪に飛び雀を家紋として用いました。上杉氏もこの竹に雀を家紋としたがはじまり。 関東管領職にあった 山内上杉氏は功のあった将や配下に賜紋をしたため、竹に雀紋が広まったようです。 上杉憲政は上杉名字と関東管領職を長尾景虎に譲ったとき家紋も同時に譲って、 これが近世米沢藩主となった上杉氏の 定紋で、米沢笹と呼ばれている。仙台藩主伊達氏の家紋としても有名ですがこれは、越後守護の上杉定実が伊達氏から養子を迎えようとしたとき、 竹に雀紋を婿引出物のひとつとして贈って、これがのちに伊達氏の定紋となった仙台笹紋のはじまり。 上記のことから関東管領家の上杉家重臣の荒金氏が賜紋として「竹に雀」を使用してもおかしくはありません。ただ竹輪ではないのが疑問にのこります。 1196年大友能直ともに鎌倉から別府の浜脇海岸に上陸した荒金一族という文献が有ります。 別府の朝見神社も大友氏が鎌倉の鶴岡八幡宮から持ってきたものです。鎌倉幕府の命令で追随したとのことです。大友氏の家臣、上杉氏の家臣、両氏に荒金家が使えていたのか? 朝見神社資料から 八幡朝見神社は、建久七丙辰年(1196)十月九日に、大友能直公により御創建されました。 豊前・豊後の守護職として、この地に赴任された大友能直公は入国するとすぐに、 鎌倉幕府の鎮守、鶴岡八幡宮の御勧請を志しました。家臣能登助国久は朝見の庄民とともに鎌倉に赴き、建久七年十月朔日、神輿を奉じて久光文字の浜に到着いたしました。 能直公は龍ヶ岡に社地を定め十月九日御鎮座申し上げました。現在の乙原の地であり、豊後八幡宮七社の一であります。 鶴岡八幡宮の社家、福田土佐守源高政が神輿の供をして着任すると、 能直公は高政を神主とし、子孫相継ぎます。その後、真応二葵未年(一二二三)、福田をあらためて神(こう)と称し現在にいたっています。守護職大友氏の歴代の尊崇厚く、 この年大友親秀公は朝見庄のうち千三百石を神領に寄進しています。 正平三年(一三四八)鶴見山噴火の災いがあり社地等が崩壊したので、現在の朝見の地へと御遷座しました。慶長三年(一五九八)別府湾に震災が起こり、久光島陥没などの変事と共に、御本殿や什宝旧記の多くが壊滅したといわれてます。 寛文十年(一六七〇)に社殿が再興され、元禄九年(一六九六)御神殿と楽堂が新築、同年四月晦日に還宮の祭事が斎行されました。文化十一年(一八一四)には拝殿と回廊が造営されます。 慶応四年(一八六八)、明治新政府の神仏分離令により神仏を分離いたしました。 明治六年(一八七三)村社に列せられ、別府、浜脇の総社となり、大正七年(一九一八)には郷社に、昭和十二年(一九三七)には県社へと社格を進めました。大正十一年(一九二二)には御社殿の大改築が、 昭和二年(一九二七)に斎殿と能楽殿が新築されました。 戦後、温泉神社を合祀して、名実ともに別府温泉の総鎮守となりました。平成八年(一九九六)の御創建八百年を記念し八幡臺(ばはんだい)や三の宮(光の宮、匂の宮、秋の宮)、朝見文庫が新設されました。 八幡朝見神社は、別府市民はもとより全国から訪れる観光客の尊崇の的となっています。 上記の中に朝見神社の神主が「福田」あらためて「神(こう)」と称したとあります。私の祖母がこの神氏一族の娘にあたります。 (26.1.12)
全国地名で荒金の名が付く箇所 1、栃木県足利市荒金 足利(あしかが)の地名から鎌倉幕府と関わりがあったと思われます。 2、鳥取県岩美町にある旧岩美鉱山(通称、荒金銅鉱)は記録上日本最古の鉱山とされており、その歴史は1300年に及びます。和銅年間(710年頃)元明天皇に銅を献上した際に「荒金(あらかね)」と命名されたといわれます。 3、新潟県大和町 ここはまだ関連性が?です。 4、大分県由布院 荒金の地名があったとの記載です。現在は?です。古い地図(江戸か明治)に記載されているものと思われます。 今回の調べで、「荒金」の名が710年頃元明天皇によって命名されたという記事が気になります。荒金地名が先で後から人の苗字に使われたのではないかと推測します。 荒金は「現兵庫県の日本海側である但馬国の名族にして出石郡安良邑発祥ともいわれる」との記載がありました。鳥取県岩美町には城もあり、但馬(たんば)国とは隣接しています。この辺に最初の荒金氏がいて、 「上杉家は古くは藤原北家勧修寺流の流れを汲み、鎌倉時代の中頃まで京都の中級公家の家柄であった、重房の代に至って丹波国何鹿郡上杉荘(うえすぎのしょう、現在の京都府綾部市上杉町周辺)を領して本貫とし、 上杉氏を称した。」
私の推測ですが、荒金銅山から天皇へ銅を献上するため京へ、それを持参したのが荒金一族の人です。荒金氏は上京して皇家に仕える公家の上杉氏と面識を持ちます。 上杉氏が鎌倉時代後期、親王の将軍就任に従って鎌倉へ下向して武士となって行く中で、荒金家の誰かが上杉氏の家来となって追随して鎌倉へ行ったのではないかと思われます。 (26.1.14)
 上杉憲幸 (?〜1543年)  山内上杉憲政の一門。憲政の子と言うが俗説だろう。式部大輔。天文年間初期、山内上杉憲政は武蔵北鎌田に城を領しており、憲幸が城代であったと言う。天文七年、北条家によって上総姉ヶ崎松原家に預けられる。 後に北条家に仕え、鎌倉で里見家と戦い討死した。「妙典寺過去帳」によると「清天院朗忠日杉天文十二年壬子(壬午)十月十四日卒」とあり、憲幸の墓とされる。天文十二年は癸卯であるし、憲政の子供とすれば年齢が合わない。 憲政は大永五年時に三歳であったと伝わり、天文七年では十六歳。この年に憲幸が生まれたとしても、天文十二年に没したとすれば享年は六歳である。憲幸には氏幸という子供がいたと伝わり、憲政の子とするには年齢的に無理がある。 「上杉系図」にも名がないため、上杉一族としてもどのような関係かは不明である。  荒金国貞 (?〜?)  上杉憲幸に仕える。天文七年、弟の貞経と共に北条家との合戦に備え出陣するも、憲政から城を北条家に明け渡すよう命じられた。憲幸は北条家によって上総姉ヶ崎松原家に預けられたという。
「上杉憲幸館」(神奈川県神奈川市)についての資料に出てくる荒金国貞、貞経。 上杉憲幸は、室町時代中期より関東管領を世襲した山内上杉氏の一族と考えられる武士である。伝承によれば、上杉憲幸は山内上杉氏の武蔵北鎌田の城の城代を務めていた。後に家臣荒金国貞・貞経兄弟と共に小田原北条氏を迎え撃つため 大師河原に城を堅め、稲田新田殿町に館を構えた。これが上杉憲幸館である。しかし1538年、関東管領上杉憲政の命で城を北条方に明け渡し、憲幸は上総姉ヶ崎の松原氏の元に預けられたと言う。これは、北条氏綱が、第一次国府台合戦で 小弓御所足利義明・里見義堯らの連合軍を破って、武蔵を掌握した時期に当たる。その後、憲幸は本人の願いで北条氏に引き取られ、大師河原近くの藤崎に居館を構えた。その後、安房里見氏が鎌倉に乱入した際、迎え撃って討死にしたと言う。 その子式部大輔氏幸が跡を継ぎ、北条氏は相模六浦の武田氏の息女を娶せた。憲幸・氏幸父子はその貴種性から、北条氏家中において「御牢人」と呼ばれる客分扱いとされ、六郷殿と尊称された。その居館は北鎌田にあったとされる。 1590年に北条氏が滅亡すると氏幸も浪々の身となり、小机領星川に移住したと言う。
鳥取県岩美町にある旧岩美鉱山(通称、荒金銅鉱)は記録上日本最古の鉱山とされており、その歴史は1300年に及びます。和銅年間(710年頃)元明天皇に銅を献上した際に「荒金(あらかね)」と命名されたといわれます。多分全国の 荒金の発祥はこれだと思います。天皇に命名された「荒金」の名を苗字に使えたこと自体、名誉なことです。勝手に天皇が命名した「荒金」を名乗ることはありえないので、許可を得て名乗るようになったはずです。 「荒金」は鉱山に関わる有力者に与えられたのだと思われます。銅は710年ごろは貴重な金属で国家統一?のための武力として、なくてはならないものだったはずです。鳥取県岩美 から丹波(たんば・但馬)を経て、京都へ行く道が当時の 運搬路だったはずです。ここに上杉氏が関わってきます。上杉氏は(藤原北家勧修寺流の流れを汲み、鎌倉時代の中頃まで京都の中級公家の家柄であった、重房の代に至って丹波国何鹿郡上杉荘(うえすぎのしょう、現在の京都府綾部市上杉町周辺)を 領して本貫とし、上杉氏を称した。上杉氏が天皇に仕える公家として丹波国何鹿郡上杉荘を領地として居住していたことから、銅の運搬と関わりがあり、荒金氏とも関わっていたのだと思います。 上杉氏は鎌倉時代後期、親王の将軍就任に従って鎌倉へ下向して武士となって、後に足利氏の姻戚として勢力を伸ばして行ったのです。この将軍就任に従って行った中に家臣として荒金氏がいたのだと思います。 ここから鎌倉が舞台となって武家の荒金氏が登場してきます。 「上杉憲幸」伝承でしか確認できないのが残念ですが、この家臣に荒金国貞、貞経の兄弟がいたという文献が存在していることが手掛かりとしてありがたいことです。大友氏の家臣としての荒金氏が大分に行くことになるのですが、 上杉氏の家臣・荒金国貞兄弟と大友氏の家臣の荒金氏との関わりが今ひとつはっきりしませんが、同じ鎌倉幕府の武将として上杉氏、大友氏に仕えてもおかしくはありません。
1、 鳥取県岩美町の役場、図書館などで荒金鉱山に関わる文献を調べ、荒金に関する資料を集める。 2、神奈川県神奈川市の図書館などで郷土資料から上杉憲幸、荒金国貞についての資料を探す。 3、栃木県足利市荒金で地名の由来を調べる。 上記の3箇所はいつか?実際に行って調べたいです。(26、2、1)
但馬守 初代 藤原魚名について 父:藤原房前 母:片野朝臣の娘 妻:藤原宇合の娘 男子:藤原鷹取(?-784) 男子:藤原鷲取(?-?) 三男:藤原末茂(?-?) 妻:津守氏 五男:藤原藤成(776-822) 妻:不明 男子:藤原真鷹(あるいは直鷹) 女子:藤原小黒麻呂室 女子:藤原長道室 子孫[編集] 平安時代に入ると魚名の後裔は地方官などを歴任する中級貴族となり、長らく公卿に列せられる者はなかったが、末茂の末裔である藤原顕季やその息子たちが院政期に院近臣となって急速に勢力を伸ばし、再び公卿の地位を占めるようになった。 顕季の子孫は善勝寺流とも称され、嫡流の四条家を始めとして多数の堂上家を輩出した。 鷲取の子孫からは鎌倉時代の有力御家人で秋田城介を世襲した安達氏や戦国大名として有名な伊達氏等、多数の有力武家を輩出した。また、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は藤成の子孫(魚名 - 藤成 - 豊澤 - 村雄 - 秀郷)を称し、こちらもその子孫からは 奥州藤原氏や結城氏・大友氏等、多数の有力武家を輩出した。
但馬の藤原魚名の子孫藤原鷲取から戦国武将伊達氏、藤成の子孫から大友氏と繋がりました。鎌倉幕府設立で新王将軍就任に従ったのは上杉氏の家臣として?それとも大友氏(藤原藤成の子孫にあたる)の家臣としての荒金氏だったのか? 大友氏の家臣として鎌倉に従って行った。このほうが大分へのつながりが自然となります。上杉憲幸氏の家臣・荒金国貞も存在したはずです。荒金家の家紋がここでヒントになるのか?荒金家の「竹に雀」と上杉氏の「竹に雀」(勧修寺笹をルーツ)とは 絵柄が違うのです。勧修寺笹をルーツとしない竹に雀の紋(鳥居笹)が荒金家の家紋です。
上杉憲幸 (?〜1543年)  山内上杉憲政の一門。憲政の子と言うが俗説だろう。式部大輔。天文年間初期、山内上杉憲政は武蔵北鎌田に城を領しており、憲幸が城代であったと言う。天文七年、北条家によって上総姉ヶ崎松原家に預けられる 後に北条家に仕え、鎌倉で里見家と戦い討死した。「妙典寺過去帳」によると「清天院朗忠日杉天文十二年壬子(壬午)十月十四日卒」とあり、憲幸の墓とされる。天文十二年は癸卯であるし、憲政の子供とすれば年齢が合わない。 憲政は大永五年時に三歳であったと伝わり、天文七年では十六歳。この年に憲幸が生まれたとしても、天文十二年に没したとすれば享年は六歳である。憲幸には氏幸という子供がいたと伝わり、憲政の子とするには年齢的に無理がある。 「上杉系図」にも名がないため、上杉一族としてもどのような関係かは不明である。 上杉氏幸 (?〜?)  上杉憲幸の子。式部大輔。「氏」の文字は北条氏康から与えられたものだろうか。父の死後、北条家の斡旋で相模六浦武田氏の娘を娶る。「小田原衆所領役帳」に「六郷殿」の名があり、憲幸の子氏幸と同一人物とされる。 同書によると六郷殿の知行は百十五貫三百六十四文である。氏幸は「御牢人」と記されるが、これは合戦に敗れ北条家に属した者で、客将の扱いを意味したという。そのことにあまり触れないよう、名前ではなく敬称で記されたとされる。 北条家滅亡後は浪人となり、旧領武蔵小机郷星河に隠棲という。    荒金国貞 (?〜?)  上杉憲幸に仕える。天文七年、弟の貞経と共に北条家との合戦に備え出陣するも、憲政から城を北条家に明け渡すよう命じられた。憲幸は北条家によって上総姉ヶ崎松原家に預けられたという。
上杉憲幸の出生に疑問があるとしても、存在自体は疑いなく。その憲幸に仕えた荒金国貞の存在も間違いありません。憲幸の子・氏幸も存在した人物です。憲幸の「妙典寺過去帳」に天文一二年(1543年?)没とあるので 国貞が生存した年代は1500年前後以降ということになるのでは、このころすでに大友氏(荒金氏)は豊後に赴任していました。上杉氏、大友氏両家に荒金一族が仕えていたことなります。 上杉氏に仕えた荒金氏は滅び、豊後に行った武家としての荒金氏は大友氏の家臣として石垣原合戦で黒田官兵衛に敗れるまで存続していました。  石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日に豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で行なわれた黒田如水(孝高)軍と大友義統(吉統)軍の合戦である。
次に荒金が歴史に名を残すのは大商人「たばこ屋」荒金家です。「別府今昔」昭和41年、大分合同新聞社発行による資料から。 久しぶり過ぎて、更新の作業方法を確認しなくてはいけない状態です。  大友氏と関わりの深いお寺が私が卒業した朝見中学校の近くにあります。宝満寺(718年建立、鎌倉時代大友氏から土地を寄進され栄える)代々荒金家の菩提寺だったのですが、山の中腹にあり不便ということで近年?中学校の横にあるお寺に 移転?しまた。この宝満寺住職が親戚筋ということです。我が家は祖母が朝見神社の神主の血筋で、父方に宝満寺の住職がいたという家系です。戦前戦中は「系図祭り」が一年一回実家で行なわれていたということです。母は祖母から 「系図祭り」の?話は聞いていたが、嫁いでからは戦後のごたごたした時代とともに行われなくなったと言っていました。また朝見中学校自体が大友家の別荘兼砦として作られた高台にあります。お城のような高い石垣で囲まれていて、 中学時代は当たり前で気にもしませんでした。 「別府今昔」の記載では黒田軍との石垣原合戦のさい、この大友浜脇館を焼き払って出陣したとのことです。石垣だけが当時の面影を残しています。関ヶ原のさい徳川に敵対したということで残党狩りを逃れるため、大友の家臣だった 荒金家は名を隠し歴史上から消えます。歴史に名が出るのは江戸中期から大商人「たばこ屋」荒金家です。別府市のほとんどが荒金家の私有地だったというぐらい、さらには自分の船で頻繁に大阪、京都へ行き、芸者遊びにふけっていたとか、 「荒金たばこ屋およびもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われていたとのことです。
3月の「コブマル」イベントで久しぶりに歌いました。それから縁が有って行われたガンガーでの「わっぱんカレーライブ」?でも歌いました。歌い出すと止まらなくなります。ほぼ毎晩店で一人、歌っています。歌は良いですね。 一番新しいCD「明日へ」はきにいっているのですが、初期に作ったCDの中には歌もギターも下手すぎて聞くに耐えないものがあります。それらCDはいつか?再録音したいと思います。自分で作った歌でいまだ歌いこなせない歌が、 まだたくさんあります。まずは自分の歌を歌いこなせるように練習しています。(27.3.29)
5月18日カレーライブを行います。夜7時からカレー付きで600円です。演奏者は今のところ私以外に2名ほどです。人数が多くなると私が大変(カレー作り)なので、少人数限定です。まだ2名位は余裕があります。 この記事を読まれた方で興味のある人は連絡下さい。6月にもカレーライブを行います。曜日は未定です。6月12日御器所の「なんや」でライブがあります。詳細は後日。(5.11)
昨日、事件が起こりました。抽象的に表現をすれば表現の自由に対する冒涜?とでもいうのか。差別とは他者を見下すことで、自己の優越感を満足させる自己保全でしかない愚かな行為。 なぜ彼はあのような言動を平気な顔をして行えたのか?私が指摘をしなければ気付かない鈍感さ、日頃の彼の言動からは真逆なことを、平気な顔をして聴衆の面前で言う。仮面が剥がれた瞬間を垣間見えたことは 私にとっては良かったのかもしれません。傲慢さが無意識のうちに人の心を曇らせ、愚かな差別的ことを言わせる。以前もライブでこのような事がありました。理解できないものを廃絶する差別。理解とは何か? 他者との違いを認め、お互いを尊重しあうことからしか出来ない行為。他者を認められない己自身の傲慢さに気付かない人の愚かさ。偽善者であることに気付かないで、平和主義を口にする愚かさ。 自己の罪に涙することなく、他者の罪には敏感な人。 私も気をつけなくてはいけません。他者を責めて、自己の愚かさに鈍感にならないようにしなくてはいけません。 昨晩は怒りのため眠られず、寝不足のままハードな造園の仕事を一日こなしました。昨晩の事件?についてはもっと検証すべきだと思っています。(5.24)
「レオポルド・ブルームへの手紙」の楽譜を紛失してしまいました。歌声で怒り心頭中に楽譜ケースに挟んだ記憶があるのですが?怒りで注意散漫になっていたようです。音源があるのでもう一度 楽譜に書きなおせばいいのですが、それが私には難しいところです。コード自体を覚えていないし・・・。まあ今日が休みなので挑戦してみます。(5.26)
昨日、レオポルドをCDから詩を拾い、コードを付けました。紛失した楽譜を再現できないので、新しくコードをシンプルに付けました。以前のはちゃんとそれなりに録音から一音づつ私なりに拾い、それに合ったコードを 付けるという、それなりに丁寧な作りでしたが、ちゃんと音を拾えない私としてはCDの音をもう一度拾い直すには根気がありません。既成の決められたコード進行をただ機械的に付け、それに合うように歌ってみました。 やはり同じような歌ですが微妙に違います。以前の複雑なコードが懐かしいです。もう一度一音づつ丁寧に拾うべきでしょうか?絶対音感がない私が音を忠実に拾う事は不可能なのです。不可能なことと知りながら、それでも 挑戦するそこが私らしさなのかもしれません。絶対音感が有る人からしてみれば、むちゃくちゃな楽譜なのですが、歌う私はそれを私の歌として歌いこなす。他の人が歌うと違う歌になる、そんな異様な楽譜?いや楽譜という 概念ではなく、暗号としての記号なのです。私しか再現できない記号なのです。  今は夜中?の3時前、こんなに蛙の音がするとは思いもしませんでした。人が寝ている間にも自然は忙しく動いているのです。 蛙の声がガラガチャ、ガラガチャうるさい声がガラガチャ、ガラガチャ夜中の3時 人が寝ている合間に、ガラガチャ、ガラガチャ。ウへへへ、ウへへへ。時たま、違う声がウへへへ、ウへへへ。大合唱、蛙の大合唱。(5,27)
<昨日11月16日、カレーライブを行いました。「なんや」ご夫妻が来られ、サックスも演奏して頂きました。店では初めて?の管楽器の音色。澄み切った空気が伝わってくる演奏でした。良かったよかった。 休みが急きょ変更になり、夜な夜なカレーを作りだめして冷凍していました。カレーがおいしく出来たのも良かったです。私のカレーも音楽も発展途上中、先はまだまだ、それなりに進化していきたいものです。 毎月、気長にカレーライブに付き合って、応援してくださる方々に感謝です。 (27.11.19)
<またまた久しぶりです。5月7日「なんや」でのライブはいつもながら盛り上がりました。良い演奏者たちと共演できて幸せです。5月連休は息子が働いている日光東照宮に妻と行きました。東照宮の修復作業の職に就職でき 一生懸命働いているようで、親として安堵しています。(28.511)
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