8月の「思い」


 8月です。京都に行ってました。

留守の間にタローが熱中症で倒れました。対策をこうじていたのですが、駄目でした。
京都から一日の夕方帰宅したら、
散歩と餌の世話を頼んで人の貼紙で7月31日の昼過ぎに倒れたことを知りました。
早速、獣医さんの所に行くと、倒れて意識の無い状態のタローに会いました。
覚悟してくださいとのことでした。その晩家に連れて帰り、朝方まで看護?して
いましたが、意識が戻らず、午前3時過ぎに私は床につきました。
午前5時45分ごろ息をしていたのを別府から来ていた母が確認しています。
午前6時ごろ妻が様子をみたら息をしてなかったそうです。
直ぐに起こされタローを見ると、確かに息がありません。
でも暖かく今にも呼吸をしだしそうでした。でも「死」に違いありません。
あっけないと言えばあっけなく、呼吸が終わればそれが肉体的死を意味するのですが、
それが「死」なのか?というと、いや違うのではないか?
朝9時に獣医さんに連絡をとり、裏庭に埋めることにしました。
スッコプで穴を掘り(久しぶりの肉体労働でした)、タローを埋めました。
その最中に感情が高ぶり涙がこぼれそうになりましたが、それも一時的なもので
流れ作業のごとく埋葬をこなしました。
「死」は何を意味するのか? 肉体の終焉は「死」なのか? 死とは何なのか?
私がいままで「死」を身近に感じたことは四回ほどあります。
タローの肉体的死を通して「死」考えてみたいと思います。続きは後日。(8.3) 
人類が60億人ほどこの地上にいます。でも一人の人が死ぬまでに出会える人の数はこの 60億という数から比べれば極々少ない数です。誰が生まれ、誰が死んだのかほとんど 分かりません。タローを知っているひとは数十人です。死を悲しむ人はさらに少なく 数人です。多くの人にとってタローの存在自体知られていないのです。 「死」とはその人との関わりの中での一形態にすぎないのではないか? 肉体の死は物理的生命の終わりを表わしているにすぎず、確かに朽ち果て無くなるのですが 私の記憶には「タロー」のことは死ぬまで思い出として存在するのです。「魂」の問題は? いまの私の理解することの出来る範囲を超えていますので、ここでは省きます。 私とタローの関係において肉体の死は実際あったことですが、「死」が終わりではないことも 現実です。私の中ではタローは思い出として生き続けるのです。私が生きてる間思い出の中で 生き続けるのです。 「思い出時計」という詩を去年の8月作りました。     
    思い出時計   「主人は7月に亡くなりました。」 「そんな、まだ若いのに。」 「はい、51歳です。」 「息子さんは?。」 「長男は主人の後を次いでます。 本人も好きでしたから。」   話しをしながら 私の記憶はご主人の面影をたどる ダンディーなお父さんでした   時は流れているのに あなたは止められてしまった   時を止められた むなしさよ 愛する人と共に歩めなくなった 悲しさよ   時の流れの中を生きている私たち 思い出を胸に歩んで行く その思い出は止まった時計 でも  思い出の中では動いてる時計 いつでも動く思い出時計   彼女の思い出時計には ありし日のご主人がそこにいる
 
 「死」も「生」も定義をうんぬんと語ることは出来るかもしれませんが、
本質は個人的な問題なのではないでしょうか?
自分との関わりの中での『死』であり『生』であるような気がします。
「思い出時計」は個人の時計です。60億人すべて違う時計です。
だからある意味で「死」は定義できないのかもしれません。
物理的定義は出来てもそれは一面であって、すべてではありません。
思考の世界です。精神と肉体、思考と現実。
精神、思考は受け継ぐこと(継続?)が出来ます?肉体、現実は個々の存在で完結?
いま一つまとまりません。後は後日。「追悼」の詩を作りました。(8.4)

 祇園祭の特集をテレビで見ました。1000年続いている京都の伝統的夏祭です。 「人も家も変わるが祇園祭は永久に変わらない」と祇園祭の関係者は語ります。 伝統芸能の継承における人の役割とは?伝統という文化のつながりを人が担うのです。 人があっての文化です。生活環境が変われば人の思考も変わり、 伝統文化の継承は難しくなります。祇園祭の継承も難しくなります。 担う人の思考が変わるのですからしかたのないことです。 形式的な儀式としての伝承になるのかもしれません。 長鉾が疫を払うなど誰が信じますか、しかし祇園祭は今年も盛大に行なわれました。 京都の夏の風物詩です。  (8.5)
 故河島英五(漢字?)の最後の曲「旧友再会」がラジオから流れてきました。 亡くなった父の声に後から娘の声を入れて出来た「旧友再会」 本人の声は生きている時の声で娘は父が死んだ後 父の生前を思い出しながら声を入れる。河島英五の歌い方はいつもの 自由奔放そのまんま、娘さんの方は正反対に神経質な感じを受けました。 父の死を意識しない方がおかしいのです。しかたのないことかもしれませんが ちょっと不自然さを感じました。ただ彼の最後の曲と思うと みんなの声を入れ娘さんがハモルのは彼らしいかもしれません。 (8.7)
 今日(8.8)の中日新聞夕刊の「中部の文芸」で眼我真のことが記載されてました。 知り合いからの一報で知り、さっそく妻と息子に夕刊を買いに行ってもらい見てみると・・・ いろいろな本、同人誌などの評論の最後の最後に3行「眼我真の青春小説『サトルの冒険』 を連載する、手作り雑誌『蒼生舎通信』14号にも期待したい」と書かれていました。 電話のときは「そんな?新聞に取り上げられるなんて」と思い慌てましたが、 よくよく見ると刺身のツマみたいなものです。でもこのツマが私は好きなのです。 これがあんがい美味しいんです。 私の知らないところで「サトルの冒険」を読んでくれている人がいらっしゃるのです。 これからも真面目に取り組みたいと思います。  蒼生舎通信の風見隆吉さんがお知り合いの清水信さんに雑誌を毎回送られているようです。 その清水さんが今回中日新聞の記事を書かれたとのことです。いろいろなつながりがあって の記載なのです。人とのつながりを大切にしていきたいものです。 (8.8)
「サトルの冒険」の推敲をしました。ここのとこいろいろな雑用で忙しく サトルをほったらかしにしていたので、 今回の件でまた最後の詰めに入る勇気が湧いてきました。  家族展が14日から始まります。絵を一点出す予定です。まだ書き始めていませんが、 13日あたりに書きたいと思っています。あと童話と詩をプリントアウトして、額に入れて 展示したいと思います。興味のある方は見に来て下さい。8月14日〜9月9日まで。 ガンガー梅森店で展示しています。ただし15時〜17時は休憩時間で閉店しています。 (8.9)
 13日は息子がいっしょに遊びたい(車でドライブ)というので、店を休みにして 車で出かけることにしました。さあ山にするか海にするか行き先を何処にするか考えています。 人がいないところがいいとのリクエストです。 伊勢で海の幸を食べるか?北の方の山でのんびり過ごすか? 13日に絵を描くつもりでしたが時間が取れそうにないので、今日さっそく描きました。 ユリの仲間のカサブランカ?を描きました。後は詩と童話のプリントアウトです。 これは簡単にできますので、ファミリー展の私の準備はほぼ完了です。一安心。(8.10)
詩は額装しました。後、童話を数点プリントして 自由に読みたい人に読んでいただけるようにしたいと思います。 お暇のある方はぜひ見に来てください。 妻は植物画を10点、息子は油絵を2点出します。 13日は北の方の知り合いを尋ねる予定でしたが、お盆でいらっしゃらないとのことです。 さあ何処に行きましょう?  (8.11)
富士山に行こうと思ったら、妻が遠出するより近場にしないとの意見で 知多半島あたりで遊んで夕方実家に寄ることになりました。 新美南吉記念館に行くのもいいかもさいれません。朝、家族展の展示を終わらせて のんびりドライブしたいと思います。  (8.12)
家族展が始まりました。さっそく知り合いが見に来て下さいました。 私の展示は詩の一部と童話の一部です。 これらだけで私という一人の人間を表現しきれるものではありませんが 何を感じ何を言いたいのかが多少でも分かっていただけるのではないかと思います。 忙しいとゆっくり話しもできません。私と話をしたい方は申し訳ございませんが、 来られるときに出来ましたら暇な時間を見計らって来ていただけませんか? よろしくお願いいたします。  (8.14)
 新美南吉記念館に先日(13日)行ってきました。月曜なので休みだろうと予測して行った ので休館でも別に気になりませんでしたが、休みなのに数人の人が車で来ていました。 あとスケッチをしている子と母親らしき人がいました。地中に作られた古墳のような記念館? 妻が「眼我真の記念館も出来るといいね」と言いました。妻は冗談のつもりだと思いますが、 私はその気があります。別府は観光客が減っているので、私の記念館で全国から 人が集まるといいですね。お盆の幽霊みたいな話です? 信じられますか?(8.15)
 親しい人が来て下さり、作品を評価していただくのは嬉しいです。 知らない始めてのお客さんが詩を読んで「青春時代自分も詩を作っていたけど、 年とともに作らなくなり、マスターの詩を読んでまた作ろうかと思い始めました」 と言われました。嬉しいことです。その方は小学生二人と奥さんを連れていました。  他の人に何かを伝えられれば、そこに「詩」の存在する意味があります。童話も小説も 絵画もおなじです。それと同じようにそれらを作り出す私の存在する意味もそこにあります。 詩や絵画などを作り出さなくても、人(もの)は存在すること自体に意味があるのだと 思います。自分以外の人がいる。その自分以外の人の存在が重要なのだと思います。 他を認めることが出来て始めて人は自分を知り得るのだと思います。 自己確立のためには他者は必要不可欠なのです。 いま世の中でいろいろな問題が起こっていますが、 その多くが他者を認めることの出来ない人たちが問題を起こしているような気がします。  インドの乞食は日本の乞食とはちょっと違います。施しをもらうのはあなたが救われる ために私がもらってあげるのです。だからあなた(施す人)は私(乞食)に感謝しなさい。 乞食は卑しいことではないのです。 あなたの救いのためにわたしが物乞いをしてあげるのですよ。 あなたが救われるために私(乞食)がいるのです。 存在価値の無い人など、この世の中には存在しないのです。 すべての人(もの)は存在すること自体に意義があるのです。 生きる意味もそこにあると思います。 他者のために生きる?自分は自分のために生きるのではなく 自己の存在が他者の生きがいになる、乞食?です。 乞食になれるかどうか?あなたはなれますか? 宗教の救いあるいは悟りはこの乞食の精神?を唱っているのではないでしょうか? (8.17) 
 お客さんから奨めるられて「ゲド戦記」を読むつもりで図書館で借りてきたのですが 数行読んで止めました。興味がわきません。人の書いたものへの抵抗? なんでしょうか?おもしろいと思えません。興味が無いものへの抵抗? 様はどうでもいいのです。興味がないのですから。なんで興味が湧かないのか? 自分で小説「サトルの冒険」を書いているからなのか?よく分かりませんが、 多分、自分の世界を邪魔されたくないのだと思います。  私は決して文学少年でも文学青年でもありませんでした、 いまもほとんど文学的な書物は読んでいません。 哲学、宗教の本は好きでよく読んでいましたが、これは人生とは何か? といったものへの探究であって文学といえるのかどうか分かりません。 ただ、この探究が「詩」になり小説、童話になっているのです。それで共鳴していただける 人がいればそれはそれで文学として成り立つのかもしれません。 これが自分の創作世界なのだと思います。 「千と千尋の神隠し」も「A・I」も「ゲド戦記」もあまり興味ありません。 私の世界ではないのです。 私の世界について少々。ダイヤモンドなどの鉱物の中に値段の高いものがあります。 それらは希少でありかつ美しいからだと思いますが、もし仮にこれらのものがそこらにごろごろ ころがっていたらきっとぜんぜん高価な値段は付かないと思います。 そうですゴキブリが世界で数匹しかいないとなるとあのオオクワカタの比ではありません。 数百万いやもっとするかもしれません。価値などあてにならないものです。 某テレビ番組で地球が滅ぶ時、最後に食べたい食事を有名人に聞く企画がありました。 内容は見たことがありませんが私はやはりおふくろの手料理です。 どんな高価なフランス料理や高級料亭の味よりおふくろの味です。 私にとってどうかということです。 他の人がいや違うと言うのは自由です。別に反論することもないかと思います。 私にとってどうかということです。このへんが私の世界かもしれません。 小説、詩、童話もこの私の世界と同じです。共鳴していただければ嬉しいの一言です。 (8.18)
 昔(幼いころ)からみんなといっしょにというのがあまり好きではありません。 多くの中だと自分を殺さなくてはいけないところがあり、自分を出さないように? 出せないのかもしれません。ただおとなしくしているだけです。たのしくないのです。 一人遊びが好きで一日中一人で遊んでいました。静かな自分の世界、詩も小説もその 延長上なのかもしれません。静かに自分を見つめ、世界を見つめる、そこから何が生まれ 何をするのか?たのしみが膨らみます。9月5日が新美南吉の公募の締切です。 童話はすでに出来上がっています。あとは清書して送るだけです。 伝えたいものがあり、それを言葉で表現できる喜びを味わっています。(8.19)
 散文に落ちを付けたような詩ができました。こんなものでも詩と言えれるのか? まあ感傷的中年親父の思い出話です。  先日息子がゲームボーイのソフトを買いたいとのことでさっそく 例の古本とゲームソフトの店にいきました。息子のほしいソフトが見つからず、 彼は買いませんでしたが、私は例の癖がむくむく出てしまし、例のごとく 数百円の中古スーパーフャミコンソフトを買ってしまいました。 また息子に白い目で見られました。このソフトが大当たりでした、ほぼ新品で しかも内容がドラクエなみにおもしろいのです。ここのとこ睡眠不足です。 いつものように家族に白い目で見られています。反面教師です。 そのせいか息子はゲームにはまっていません。いいことです。自分はどうかというと ・・・。家族全員納得してます?  雨の降る日は創作が進みます。内に集中出来るせいかもしれません。 この湿った空気が懐かしさをともないます。 昔の私の生まれた家は縁側があり雨の日は雨戸を閉めます。 便所は縁側のはずれに有り、便所の縁側には雨戸がなく横雨のときは縁側の板が濡れ 爪先立って歩いたものです。便所はその縁側の先にあり、夜中や怖いテレビを見た後は 便所に行くのが大変怖かった思い出があります。便所は汲み取り式で雨の降った後はよく おつりがきました。ポチャ〜ンと音がした後、ペッタと尻におつりが付くのです。 このおつりが付かない方法があります。 いつかこのへんの思い出を童話か小説にしたいです。 父が生きてたころの家族を書けたらいいなと思います。  今日はいろいろ書きます。新美南吉の詩集を図書館で借りてきました。 表装も挿絵もていねいに作られていて、それなりに奇麗な本です。 新美南吉のファンの方には申し訳ありませんが、詩は褒められたものではありません。 そこそこのもあるにはありますが全体的に言葉の流れがなく輝くものを感じません。 読むに耐えれないというか・・・腹が立ってきます。 明日、もう一度詩集を読んで、冷静に批評したいと思います。 (8.21)
 新美南吉の某詩集を最初から最後まで目を通しました。結論から言います。 編集者が未熟なのだと思います。詩自体はいいものもちらほらありますが、 つまらない?と思われるものまで取り上げているのです。彼が残した詩・童謡271篇、 短歌36首、俳句393句の中から厳選して詩・童謡38篇、短歌2首、俳句7句を 選んだと書かれていました。選者の力量が無いのです。それにしてもあとがきの 言葉が気になります。名のしれた人の褒め言葉と編集者(選者)の最後の言葉 「しかし、まだ定評とはいえない。南吉の詩作品の評価は、読者のひとりひとりが これからするのである。私は南吉の詩は、ときには童話をぬくほどの文学だと、 確信している。・・・」 自分の仕事への自己賛美の余り、心眼が澱んでいるとしか言いようがありません。 中にはいい詩もありましたが、さほどのものでもありません。何なんでしょう? 人のふんどしで、すもうでもとってるのでしょうか? 大変口が悪くなります。ご了承下さい。以上の私の意見にご批判があればご連絡下さい。 具体的に面白くない詩を取り上げてどこがどうおもしろくないか批評いたします。 (8.22)
 息子が4泊5日の合宿に出かけました。ボーイスカウトの合同キャンプです。 豊橋の自衛隊敷地内でテントを張って愛知県全体のボーイスカウトが合同合宿します。 自衛隊予備軍のような気がしないでもないのですが・・・? 最初は行くのをいやがっていたそうですが「千と千尋の神隠し」を 見てから行くと決めたようです。千から勇気をもらったのかもしれません?(8.23)
 また悪口?を言わねばなりません。「生と死の歳時記」著者・瀬戸内寂聴・斎藤慎爾 (発行所・法研)。妻が図書館で借りてきた本です。わたしなら借らなかったと思います。 斎藤さんは俳句で知られている人らしいです。瀬戸内さんは作家の尼さんです。 本の表装がまずおかしい!本の表紙と裏の絵がキリスト教の受胎告知を書いた絵を使って いるのです。大変有名な絵です。作者の名を忘れてしまいました。 瀬戸内さんは尼さんです。斎藤さんがクリスチャンなのかと思ったらそうではありません。 ???なぜキリスト教の受胎告知なのか?仏像のほうがお似合いなのに・・・? 表紙の題名の脇に小さな字で「美しく生きるためのヒント」と書かれていました。 美しく生きるとは?ちょっと気になる文句です。 本の内容はというと、テーマごとに俳句を数句載せ瀬戸内尼さんと斎藤さんが そのテーマについて思うことを書いていらしゃいます。美しく生きるためのヒントが そこにあるのでしょうか?私はきれいな言葉の裏に潜む瀬戸内さんの欲望を感じました。 生きること自体が美しいのであって、生きることに差別をつけるべきではないのです。 「生きるためのヒント」なら分かりますが「美しく」は必要ありません。 二人の著者はこの表紙(受胎告知)も題名の脇の小さな文字も認識して出版されたのだと 思います。これらのことを思うとき二人の著者は何も分かってないということです。 ただの知識の羅列でしかなく人生の本当の意味を分かっていないのです。 逆に神父さんが本を出版するときにあえて仏画を表紙に使いますか?内容はキリスト教的 視点で書かれている内容なのに・・。こんな矛盾を平気のへいでしてしまう尼さんを 尼といえますか?宗教のお面で世間をたぶらかしているにすぎません。本質は別にあり 世間もあるいはご自身も宗教家と思いこんでらしゃるのではないでしょうか? 似非宗教家は他にも山ほどいらしゃいますがそれらと同じレベルだと思います。 個人攻撃になってしまいました。不愉快に思われた方には申し訳ございません。 またまた攻撃的な批評をしてしまいました。ご批判があればお知らせ下さい。 私の批評に間違いがあれば素直に訂正したいと思います。(8.24) 追伸:受胎告知の絵の作者の名が書かれていました。The Annunciation, c.1438−45 by Angelico,
 息子がボーイスカウトの合同キャンプに行っているため 今日からはじまる某電気店の会員特別セールに行けません。彼が買いたいものを 私が代わりに買って来ることになってます(行列が出来るかもしれません)。 その際、私も便乗して何か買い物をする予定です?また寝不足になりかも・・・? (8.25)
 ちょっとゲームにはまっています。飽きるのにもう少し時間がかかりそうです。 それまで書き込みは出来ないかもしれませんので御了承下さい。 創作活動の小休憩です。(8.28)

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