2001年12月と 2002年1月の「思い」


以下1月の「思い」
明けまして、新年です。今年も宜しくお願いいたします。 今日は大雪、家族全員部屋の中で過ごしています。昼からちょっと買い物にいき 明日からの仕事に備えたいと思います。NHKテレビで「世界はどこへむかう向かうのか。 新たな秩序への模倣」(21世紀を世界の知性が予測)という番組を見ました。貧困は 経済のグローバル化によってもたされたとの話でした。アメリカの富を増やすための グローバル化、技術の進歩がもたらした貧富の差、技術の進歩を止めることは出来 ないのか? 人の欲望を止めることが出来ないのか?「no!」です。これらの欲望を抑制する ために宗教が必要なのかもしれません。今年も探求心を持って自分の出来ることから やっていきたいと思います。(1.3)

以下12月の「思い」


 またクリスマスの時期がきました。毎年この季節になると私は
「本当のクリスマスは12月25日ではない」と言ってます。
またその説明をするのも面倒です。理由を知りたい人は昨年の私の「思い」を見て下さい。
本当のクリスマスは3月か4月ごろなのです。はっきりした日までは分かっていませんが
聖書学者の間では常識なのです。でもイエスの生まれたことを祝う気持ちは大切だと思います。
なぜ25日が誕生日ではないのに祝うのか?それもアメリカやバチカンなどのキリスト教国が
です。真理よりも世の中の行事が優先されるのです。25日がクリスマスでなかった時代は25日はただの収穫祭だったのです。クリスマスもいっしょに祝いだした時期からいつしか
夲元の収穫祭が忘れられクリスマスが25日を占領してしまったのです。
 テロのあったニューヨークに大きなクイスマスツリーが作られ、その模様がテレビで世界中に
放送されていました。富める国アメリカ、それに対してその日暮しのアフガン難民の方々を
思うとき、世の中の矛盾を感じます。25日のクリスマス商戦は富める国のお祭りです。
信仰よりもこの世の利益を優先する国々にイエス・キリストはどう思われるのでしょうか?
キリスト教国はまずいまの25日をクリスマスではないとして
クリスマスの日を訂正すべきだと私は提言したいです。まあ無理でしょが、キリスト信仰は
商品化?していき、いまのアメリカのように富める者のアクセサリーになって
しまうのではないかと思います。
 「『真理は少数と共にあり』大勢ではないのです。少数なのです。(選民思想が見え
隠れする危険性があります)残れる少数の人々によって人類全体が救われる」
私の恩師がよく話されていました。しかし、いま思うと夢物語り的な話のような
気がしてきます。神が本当ににいるのならばその可能性はあると思いますが・・・。
究極は神というものがいらしゃるのかどうかということです。????。
私はいてほしいのですが・・・。聖書にも明記されています。神の子イエス・キリストと。
(12.1)
 知り合いの女性が趣味で曲でも作ろうかと言い出したので、「じゃー、詩を提供するよ」 ということになり『マリーン・ブルーとOnly girl』という詩を作りました。 さあどうなるのやら?楽しみが増えます。

  マリーン・ブルーとOnly girl 

マリーン・ブルーに憧れて 南の島へ旅立つ 「一人で行くわよ」と 強がってみせた あの時の彼の瞳が寂しそう マリーン・ブルーを見ていたら 素直になれるわたしです   Please don’t say anything. Please don’t say anything. I’m only girl.  I’m only girl.    あなたの瞳で一人泳でいたい  I want to swim in your eyes.     I’m only girl. I’m only girl.   あなたの待つ町へ帰ります このマリーン・ブルーを持って帰ります
 
「遊び、遊びです」と言いながら・・・期待したりして。
  
(12.2)

 人には得意不得意があります。息子は運動があまり得意ではないようですが、 (親馬鹿ですが)変なものに興味をしめします。いま興味をしめしているのが経済学です。 大人が読む経済学入門書を半年ほど前から読んでいて、そのうち飽きるだろうと思って いたらなんのなんの一昨日は妻が経済について息子に教えてもらっていました。 私が質問するとちゃんと答えられました。インフレ、デフレ、デフレスパイラル、 日銀の公定歩合の仕組、特殊法人の改革についてなど私と対等に話ができるのです。 私は新聞などで感覚的に身についた経済知識ですが彼は専門用語を使い理論的に 語ろうと努力しています。どうしたらデフレを無くせるか? 景気を良くするにはどうしたらいいら?「一時的にインフレにして・・・。」 昨日からは新聞の経済欄を読んで小学校に行ってます。 変な子です。まあ当分経済についていっしょに話せます。私も勉強になります。(12.4)  
 菊の花が店の花器に先週から活けられていますがこの菊が丈夫いのです。 蕾が咲き花をちゃんと付けて生き生きしています。多くの花が蕾みを咲かせることなく 散っていくのにこの菊は長持ちします。農協で妻が買わされたと言っていた菊です。 白い菊は仏壇を連想するので買うつもりがなかったのに生産者のおじいさんがたまたま いて「この菊を買いなさい」と奨めれ断れなくてしかたなく買ってきた菊です。 他の菊よりも長持ちします。他の菊とどう違うのでしょうか?育てられた土、肥料、 もともとの種が違うのか?生産者のおじいさんに聞いてみたいです。 私の感では種が違うんだと思います。もともとの種が丈夫い生命力のある種なのだと思います。 美しいのです。白が生き生きして美しい白です。輝いて見えます。人も同じです。 力強い生命力を持った人は美しく、輝いて見えます。何事も見せかけの美しさは直ぐにメッキが 禿げ汚く映るものです。この菊のように私も力強く輝いていたいものです。この菊の生命力は 何処からくるのでしょう?親の遺伝子がそうさせるのですが、遺伝子だけですべてを片付けると なるとちょっと怖いきがします。あのおじいさんの自信がやはり大きな意味をなすのでは ないでしょうか。遺伝もさることながら育てた人の愛情がこの強さの秘密なのではない でしょうか。そうでないと私たち人類も遺伝子ですべてが決定され、将来優秀な遺伝子をもった 人類しか生存させられないような怖い世界になってしまいます。愛情を受けた遺伝子はその愛情 から強い生命力を受け生き生きと輝くのだと思います。愛情から生まれる生きる希望が人を強く するのだと思います。(12.5)
 「海の上のピアニスト」?だったと思いますが、昨日の深夜テレビ で放映されたのを少しつまみ食い(他のテレビを見ながら)しながら見ました。 一時噂になり見たいと思っていた映画です。実話なのかどうか?実話を元にした映画かも しれません。有りえない話ではなく人生とは何かを問いかける映画でした。 唯一の友人コーンだけに自分が存在していたことを知ってもらえればそれでいいと言い残し、 廃船と共に死を選ぶ1900(主人公の名前)。名声も富みも得ようとすれば出来たのに まったく興味を示さず、ただいまを生きる(楽しむ)ことに精をだす。 生い立ちからくるトラウマ?私達も似たようなものです。規制された中での自由なのです。 ただ彼は極端ですが、主人公は船という限られた空間でピアノという才能を発揮したのです。 その限られた空間(規制)がなかったら才能を発揮できなかったかもしれません。 本人が一番それを知っていたのかもしれません。だから船と共に死を選んだのかもしれません。 人生って何でしょう?ジャズのように即興で一度限りの人生。繰り返しはないのです。 規制の中の即興人生、みんな海の上のピアニストなのかもしれません。 時間の流れの中の限られた人生です。いかに人生というピアノを弾き語るか?それが問題です。  (12.6) 
 アフガン騒動も終焉に向けて進んでいますがオマルさんは最高指導者としてどう責任を 取るのでしょうか?一部報道で身の安全と引き替えに投降するとの密約をかわしたとのこと ですが、多くのタリバン兵が死にアフガンを悲惨な状況に落とし入れた責任はオマルさんに あります。のほほんと身の安全を確保されることを神は許すのでしょうか?徹底抗戦を唱えて いたのに身に危険を感じると密約で身の安全をはかる、何処かの政治家とかわりません。 宗教者としての責任を私は問いたいです。そうでないと宗教が政治と同じ次元で語られること になり、オマルさんにとって宗教者としての無能を意味するのではないでしょうか。 テロで問題を解決しようとした時点ですでにオマルさんは宗教者ではないのかもしれません。 ジハード(聖戦)は何処にいったのでしょう? アメリカもアメリカですがオマルさんもオマルさんです。似たもの同士かもしれません。 ただアメリカの方がずるがしこいだけです。神はこの一連の出来事をどうみるのでしょうか? (12.7)
 先日の党首討論で民主党の鳩山さんは前回と一転して小泉首相を攻撃しましたが 党内の乱れや世論を気にしての発言?は一貫性があるようでありません。 「妥協の産物、談合」と声を張り上げても自分の先見性の無さを暴露するだけです。 小泉さんもここは踏ん張りどこですが???懐刀をちらつかせながら族議員を蹴散らす 英知と策略が出来るか?(12.8)
 クリスマスが25日ではない理由を昨年の12月19日の「思い」に書いています。 気になる方は見てください。25日がクリスマスではないことが一部の聖職者は知っている のに祝う???祝うことに意義があり日が何時かは別にどうでもいいのでしょうか? 多分そうなのでしょう。聖書を読んでいくと矛盾がいたるところに出てきます。 それらはいろいろな理由があるのでしょうが矛盾は矛盾として変に分かったふりをするより 分からないとはっきり言ったほうがいいのです。 羊飼いと羊が12月25日の寒い冬に何故?野宿しているのだろう(ルカ福音書2章8節) ?おかしいよ!と考えることができればイスラエルの12月は暖かいのかなあと思い 地球儀でも地図でも調べて日本との緯度の違いを知る、そうするとそんなに違わない??? おかしいよ!ということになります。イスラエルでは12月の冬には羊はすべて人里に 下りてきて宿舎の中でほし草を食べて飼われているのです。3〜4月ごろから放牧のため山に 連れられて、羊飼いたちと野宿をしながら暮らすのです。 1997年前(マタイ福音の東方の三博士の流れ星とルカ福音の人口調査などから、 イエスは紀元4年の生まれというのが本当らしいのです。西暦もおかしなことになります。 この話をしだすとこれまた長くなりますので、今回はいたしません) イスラエルは暖かったのかとも考えられますがどうもそうではないようです。 すると12月がおかしいということになります。じゃあいつなんだということになります。 西暦もイエス・キリストが生まれた年を0年として考えられた年号です。そのイエスが 紀元4年に生まれている???です。(12.9)
 先日「平和とは?」というエッセイ?を某同人誌に掲載しました。ある友人はなかなか よかったよと言っていただき書いてよかったと思っていました。でも日がたつにつれ なんか偉そうに書いたものだと後悔の念が沸き起こってきます。自己主張をすることはいいことだと思っているのですが、いいことでも自慢することではありません。しずかに 思考を深めていくことの方が有意義ではないかと思います。ちょっと反省しています。 クリスマスが12月でなくても12月でもどちらでもいいことなのかもしれません。 信仰にとってはどうでもいいことなのかもしれません。おせっかいなことなのかもしれません。 真面目なクリスチャンでもないのにと反省させられます。何か今日は懺悔の日です。  テレビで長淵剛のライブの模様が放映されていました。熱狂的ファンが総立ちして 手を振り、振り、舞い上がっていました。長淵さんも舞台の上で舞い上がっています。 こういう状況を見ると冷めてしまう私です。「千と千尋の・・」もそうですが作られた 作為的「善?」、トコロテン式に与えられたものをいかにも自分が見付け出したかのように 錯覚してしまう「感動?」。感動に飢えている人がここで感動しなくてはと感動を求めて やってきて、自己陶酔型感動で満足して帰る。おせっかいな私などがその自己陶酔を覚まさせて あげようとすると、おかしいと拒否される。 自己の価値観を否定されると人は怒り出すものです。私もそうですから分かりますが、 他の価値観を認められないと思考が深まらないのではないかと思います。(12.10)
「もしこの地球が100人の村だったら」という平和のeメールが巷を流れています。 平和を訴えるため、このメールをもらった人は次に誰かに送りましょうとメッセージつきの メールです。これも宮崎駿の「千と千尋の・・・」と同じ感覚だと思います。 人の唱えたことを鵜呑み的発想でただ受け入れる。そうすれば自分もその仲間になれるという 発想が人類を滅ぼすのです? 平和運動をけなすつもりではありませんが、多にして錯覚をするのです。平和運動を している自分たちは正しいと思い込むのです。一歩さがって謙虚にならなくてはいけません。 私たちも同じ間違いをしているのだと、私たちの贅沢な暮らしは貧しい人たちからの搾取の 現われなのだと、直接は搾取してないとしても間接的にしているのです。 そこらへんを自分で考えることです。一人で考えるのです。何か見えてくるかもしれません? 昨日、私の「平和とは?」のエッセイについて書きました。 もう一度私の平和論を見てください。
  「平和とは?」 コスモスの花が花器にさされています。 コスモスは人を楽しませるために咲いているわけではありません。 子孫繁栄の為、あのかわいらしい花を咲かせるのです。見る側(人)のことは考えていません。 花粉を受精させてくれる蜂や風さんのことを考えて咲いているのだと思います。 生きる姿が美しい、そんな生き方をしたいものです。人の目を気にすること無く、 コスモスのように自然と見る人をなごませるような生き方をしたいものです。  雑草の中にもきれいな花を咲かせる草があります。 きれいな花を咲かせない雑草もあります。それらの雑草も生きているのです。 むやみに引き抜くことにためらいを感じない人がほとんどです。 奇麗な名の在る花を守るため名も無い雑草を平気で抜き去る人、人、人。 このような人がアフガンの平和を語る。人と雑草は違うとの認識・・・。 突き詰めて考えるときアメリカがアフガンを攻撃するのも、奇麗な花を守るため 名もない雑草を抜き去ることも同じ次元で考えるべきではないかと思います。 極端過ぎるかもしれませんがそこまで掘り下げて考えないと アフガンの問題は解決しないと思います。  夏、蚊が人を刺す。人はためらわず蚊を殺す。テロリストがアメリカ帝国主義を刺す。 アメリカはためらわずテロリストを殺す。 蚊は何故人を刺すか?テロリストは何故アメリカを刺すか?考えるべきです。 蚊もテロリストも命の重みは同じと考えられるかどうか? ほとんどの人は平気で蚊を殺します。 人類は生きるために邪魔なものを殺しているのです。 私もあなたも殺しているのです。 そんなことを考えると偉そうに平和を語ることはできません。 でも語らなくてはいけません。 蚊を殺すとき、雑草を抜くとき、心に痛みを忘れないために平和を語る必要があります。 ('01.11.8の「思い」より)       昨日マンガ喫茶で宮崎駿の「千と千尋の・・・」をマンガで読みました。 「風の谷のナルシカ」も「天空の・・・」も「となりのトトロ」も「もののけ姫」 その他の作品もそうですが子供が主役で、その子供と子供を取り巻く地球環境をテーマにした 作品、そこに彼の主張があるのだと思います。今回の作品も10歳の少女に見てもらいたい と言われていました。説教くさくなく奇麗に爽やかに愛を歌っています。世の中に受け入れ やすい方法で自己主張しています。作品自体はいたって自然でいいと思います。 ただ、消費者を煽るような映画の宣伝をしながら、映画の中では宮崎駿的正義を描く? この手法が気になります。矛盾を感じませんか?私は多いに矛盾を感じます。この矛盾を 突き詰めていくと何かが見えてきて「おかしいよ」と言えると思いますが? (12.11)
 眼我通信?というものを始めるつもりです。年末までに創刊号を出したいと 思います。私のホームページの「思い」を一ヵ月ごとに数枚のページにまとめて ガンガーの店だけで無料配布するつもりです。ただ店のイメージを損ねるのではないかとの 心配もあります。おいしいインド料理屋をめざしたいのですが、へんに哲学ぽかったり、 宗教ぽかったりすると、普通のお客が避けていくのではという思いがあります。 私は関係ありませんよといったかんじで店に置くかもしれません。その時は通信の名前も 関わりがないような名前にしなくてはいけません。いらぬ心配をするよりまずは行動です。  年末まで休みがなくなりました。もともと月曜は昼だけ営業していたのですが 月曜の夜にいろいろ予約が入り、夜も仕事になりました。まあ暇な時期なのでこれも いいかと納得しています。体調だけ気を付けなくてはいけません。(12.12)
 眼我通信をただ日記めいたものを羅列しただけのものでいいのかという疑問が起きてきます。 内容をいろいろ考えたり、ちゃんとした編集をするとなると手間がかかり、結局長続き しそうにありません。楽な方法でやるのが一番かなと思います。自己満足でいきます。 もう原稿はできてます。あとはプリントアウトしてホチキスでとめるだけです。 無料と考えましたが、買う意思表示をしていただくことが大切と思い、有料にします。 50円です。  今年も後わずかです。昨日、今年を象徴する漢字は「戦」ということを、 日本漢字能力検定協会が発表しました。そこでわが家の家族一人一人の今年の重大出来事を 考えてみました。妻は植物画教室を始めたこと。息子は経済に興味をもち経済学を勉強 しだしたこと。私は童話、小説と創作の範囲を拡げたこと。平和に過ごせたことに感謝しつつ 平和でない人たちへの神の救いを祈ります。 (12.13) 
 昨日、ウサマビンラディンさんのテロ主犯を証明するビデオをアメリカが公表しました。 その中で彼がテロが成功したのは「アラーの神のおかげ」と言っていました。 タリバン、アルカイダの崩壊もアラーの神のお導きなのでしょうか? オマルさんもこのビンラディンさんも宗教を履き違えているようです。 神の裁きはどう現われるのか?あとイスラエルとパレスチナ問題が大変な状態です。 イスラエルのシャロン首相が就任してからパレスチナとの関係は悪化の一路です。 ブシュさんも弾道弾迎撃ミサイル制限条約から離脱しました。この時期、アメリカも イスラエルも戦争好きな人を国のリーダーに選んだものです。これは偶然とも思えません。 何か見えないものが裏で先導しているような気さえします。ユダヤ人の国イスラエルと ユダヤ人が裏で実権をにぎるアメリカ。共に動きだしているようです。インドが一昨日 核弾頭ミサイルの発射実験をしたら、昨日カシミール過激派がインドの国会で乱射事件を 起こしました。ネパールでは毛沢東共産党ゲリラの爆弾テロが起こっています。 これも中国の覇権主義の表われだと思います。アフガンのどさくさにまぎれて勢力を伸ば したいとの考えがあるのではないかと思われます。何かキナ臭いものが膿を出してきて いるようです。人類のエゴと欲望が渦を巻いて世界を覆っています。神はいるのか? 救いはあるのか?裁かれるのはあなたであり、私です???   「眼我通信」を「思考の断片」という名前に変えます。創刊号が来週あたり出来上がる と思います。興味のある人は店に買いに来てください。内容も日記ではなく、哲学あり 宗教ありのマニアックな読み物になりそうです。  (12.14)
 今日は昨日にまして寒いです。讃さんが今日からヤマジヨシノリさんと内で二人展 されてます。讃さんはいつも原発反対の資料をもってこられるので、今回ももって 来られました。「原子力の技術は未確立」元原発技術者の菊地洋一さんの講演を資料に したものです。これがなかなか信憑性があり、お奨めの読み物です。以前「思い」で 某有名人が原発の安全性のコマーシャルに出ていたことを私が「無知は犯罪です」と いったことを証明する内容です。菊地さんの写真を展示した写譜展も讃さんの窯で されるみたいです。真理というか本当のことを伝える人がいて下さることは救いです。 このような人はなかなかマスコミに取り上げられないのだと思いますが、原発などに 興味があればいつか原発問題で出会える人だと思います。  「思考の断片」という読み物を発行しました。創刊号です。次回は来年の1月下旬の 予定です。以前の書き物を見直すと文章の不明瞭さがよく分かり、勉強になりました。 書いた本人は分かっているつもりでも、相手に伝わらないような迷文になっていたり したところを、意味が通じるように何箇所か書き替えました。以前読まれた方の中 には何をいっているんだと思われた方もいらしゃると思います。文章の未熟さを 痛感いたしました。  (12.16)
 今日の中日新聞朝刊に木村某氏の国際通信が掲載されてました。ときたまこのかたの記事 が載りますが、内容はいつもいま一つ当り前の表面的記事で終わっています。一方欧州駐在 本社客員の熊田氏の記事は毎回納得の記事です。どこが違うのか?表の社会現象の裏に 潜む社会情勢の推測のしかたが鋭いか鈍い?の違い。この鋭さの違いは何処から来るのか? 人柄、価値観、人生観、生き様の違い?与えられた才能の違い、育った環境の違い、など いくらでも羅列はできます。謙虚さも影響しているような気がします。  (12.17)
 このとここ円安が続いていますが、意図的に円安を政府がしているようです。 デフレスパイラル防止のため円安をして物価を上げインフレにもちこみたいようです。 ただ、輸入業界は大変です。内のお客さんに輸入車を扱う人がいて円安は大変ですと 嘆いていました。短期の政策としては正しいのかもしれませんが、根夲的解決策ではない ような気がします。  イスラエルとパレスチナもいよいよおかしくなりました。アラブ民族とイスラエル民族は 旧約聖書によると父親が同じ異母兄弟です。骨肉の争いほど醜いものはありません。世界が この争いに巻き込まれています。いい迷惑ですが、対岸の火事とばかりは言えません。 イスラエルの裏にはアメリカがいて、アメリカの意向で動かされる日本ですから、これから先 軍需では直接関わることはなくても、経済ではいろいろと利用されるのではないかと 思われます。アフガンの元々の原因はここに根差しているのです。2000年以上前からの 骨肉の争いがいまだに解決していないのです。これは人類の存続する限り解決しない問題かも しれません。一神教であるがゆえの悲劇かもしれません。唯一神が人類に与えた難問? 解答はあるのやら? (12.18)
 国際通貨基金(IMF)は日本のデフレ防止のため円安を容認という記事が出ていました。 世界的に日本のデフレが認められたことになります。マネーゲーム?の世界では日本だけの 問題ではなくなっています。日本の不良債権問題は世界の注目です。さあ政治はこれに答えら れるのか?自民系の族議員さん身の回りだけ見てたら、日本は世界から取り残されますよ。 マネーゲームの世界ではやはりユダヤ人が強いのだと思います。金融の世界はユダヤ人の歴史 です。このマネーゲームではアメリカもユダヤの支持なしには勝ち抜いていけません。 軍事のアメリカ、金融のユダヤこの二大勢力が力を合わせ世界を凌駕しようとしているように も見えます。なにか怖い気もしれません。  知り合いが「藤原新也さんがラジオに出てるよ」と知らせてくれたので聞いてみました。 彼の体験談は私には未知のもで興味はありますが、それ以外のことではさほど驚くことは ありません。情報を分析して社会情勢を語ることにおいては私と大差ありません。 同じレベルです。他の人が聞いたら自惚れと言われそうですが、ラジオを聞いて確信しました。 情報をいかに分析するか、人の意見を聞いていたら自己の分析力が育ちません。藤原さんの ホームページを以前3〜4回ほど覗きましたが、あまり面白くなかったので、いまはまったく 見てません。他の人のホームページも同じです。今はほとんど他人のホームページも見ません。 興味がないのです。(12.18)
童話の公募展の主催者から記念品を送ってきました。その中に受賞者の作品をまとめた作品集 が入っていました。読んでびくっり内容が・・・つまらないのです。最優秀が特につまらない、 佳作の一つにいいのもがありましたが、それにしても童話といいながら、みんな作文です。 主催者の意向にそった地味な物語りが賞をとっているようです。これって童話??? 「私の童話の方がいい!」と自信家が独り言を言ってます。まあ世の中こんなものです。 記念品が豪勢なのでまあいいか・・・と一人変に納得しています。  日銀がデフレ対策を次から次と打ち出していますが、時遅しの感が拭えません。もっと前に すべきでした。対処療法でしかなく、根本的解決になりません。やはり政治です。日本国を どうしたいのか力強い指導力が問われます。北朝鮮の拉致疑惑捜査の一方的打ち切りは大変 残念ですし、北朝鮮が自らいいかげんな国であることを世界に知ら示した出来事です。 テロ支援国とみなされてもしかたありません。朝鮮総連への横領?の警察捜査にたいする 嫌がらせ?「アスピリンを持った犬」という童話を書いています。あれから半年そろそろ次の 童話を書きたくなりました。(12.19)
 童話『薬売りのアスピリン』一応完成しました。息子が続きを読みたいというので、 続編を考えています。ものを生み出すのは楽しいことです。創造の喜びと自己満足の充実感。 妻はいつも一言批評します。今回も一言ありましたが好意的な批評なので参考意見として 聞きました。またよさそうな公募展があれば応募しようかなとも思っています。 続編も完成しました。今日は雨が降り出し、寒くなりました。こんな日は店が暇で、 筆(パソコン)が進みます。哀しい物語りにしました(知り合いの女性から小犬の哀しい話を 作ってと頼まれたので、哀しい結末にしました)。(12.21)  
 クリスマスに関わった童話を作りたいのですが・・・。構想を練ってます。 イエス(メシア・救い主)が生まれたときヘロデ王はメシアの誕生を恐れ、ベツレヘムと その周辺の2歳以下の子供を全員殺しました。ヨセフ、マリア、イエスの親子は主の使いに 従いエジプトへ逃れていきます。イエスの誕生で多くの幼子に死が与えられました。 予言者エレミヤは旧約の時代にこのことを予言しています。神の子が生まれたことにより 他の多くの子供たちが殺された事実。殺された子供たちには何の罪もないのに「死」が 一方的に与えられた?大きな神の成せるわざの前には微々たることなのか?神の計り事の前に は人の思いは無力なのかもしれません。ヘロデ王の欲望がなせる犯罪を神は容認する。予言が 成就するため?神とはいかなる方なのか?その答えは聖書の中に書かれていると「ある人」は 言う。素直に耳を澄まし、心の声を聞きましょう。その人は私の恩師、彼の生き方に憧れ、 近づきたいと憧れたとき「神」抜きでは考えられない彼の生き方。何かがあるのです。 神が居なくては彼の存在自体が嘘になります。そこにやはり「神」があるのです。 私にとって「聖書」と「彼(恩師)」の存在が「神」の存在の証かもしれません?(12.22)
 妻は常々私の自信はどっから来るの?と不思議がり、ナルシストの典型と私を 決め付けていたのですが、「薬売りのアスピリン」を読んで???ちょっと変わったみたい です。彼女の好きな童話に浜田広介さんの「泣いた赤鬼」という童話があります。図書館で 借りてきて、私に読むように奨めます。彼の代表作らしいのですが私に「あなたも書き続けれ ばいつか代表作が出来、世に認められれば他の作品も日の目をみるんじゃないの」 というのです。批判的にしかみていなかったのが一応私の可能性を評価してくれたみたいです。 なにか気持ちの悪いようでうれしいことです。私の自信は何処から来るのか?無欲と絶対なる もの(神)への信頼から来るのだと思っています。正直、世に認められなくてもいいと思って いるのです。ただ、一人の人が認めてくれれば他はどうでもいいと思っています。 ただ一人とは誰か?それは・・・あなたです。今日もせっせっせと働いてその合間に童話に なるようないい話でも思いつけば幸せです。(12.23)
「飛べない鳥」という童話を書きました。書き上げ家族に見せていたら、テレビで 五木寛之の特集をしていて「カゴメのジョナサン」と最近の訳した夲で?題名を忘れましたが 鳥の話が出てきました。その夲は飛べなくなった鳥の話です。ちょうど偶然ですが私の童話 とテーマがそっくりなのでみんなで驚いていましたが、こういうことってあるんですね。 私の童話にもどりますが、妻がいつものように一言「分かりづらい、何を言いたいのか 読むがわに伝わってこない」とのことです。一晩寝て朝一番に童話の後半をがらっと変え、 前向きな話に作り直しました。今年の6月は童話を六編作りました。作り出すと次から次と 生まれてきます。今日も出来るかもしれません。店が暇なら・・・。こんなことでいいのかと 反省しながらも創作活動をする私です。店の方も売り上げを出さなくてはいけません。 お客さんほどほどに来てください。商売熱心ではない駄目店主です。反省!!。  昨日の五木寛之さんの話にもどりますがテレビの中で彼は「面受」という 言葉を言ってました。人と人が面して教え(信仰)は伝わるという意味らしいです。 彼も仏教の教え(信仰)をそのようにしてして伝えられたそうです。これはキリスト教 でもいっしょです。私は高専の恩師との「面受」でした。恩師に今日今年書いた書き物の中 から一部を郵便で送りました。(12.24)
 ホームページをケーブルインターネットに変えます。年末から新年にかけて移行します。 新しいアドレスが決まっても、一月の間はいまのアドレスでも見られるようにしています。 一月の間に新しいアドレスを告知しますので、新しいアドレスをひかえていただければ 幸せです。
「イエスの『奇蹟』についての思考」 イエスは奇蹟をいたるところでしています。「奇蹟」をなぜ行ったか? 神の子・メシア(救い主)であることをユダヤ人に示すためか?イエスは「あなたの信じる 信仰が『奇蹟』を起こした」とその信者の信仰を誉めたたえます。その「信じる信仰」とは イエスを救い主として信じることを間接的に言い表しているのかもしれません。 自分を信じさせるためにイエスは「奇蹟」という行為をしたのか? 「奇蹟」を行ってもその信者に他言しないように言い含めるイエス。 「奇蹟」のもたらす誤解を意識したためか?それでもイエスの「奇蹟」はいたるところで 評判になります。病気を治してもらいたい人たちが国中から集まってきます。 「つまずきの石につまずかない人は幸いだ」とも言ってます。「奇蹟」は「つまずきの石」 で信仰を天秤に掛けるものなのかもしれません。「奇蹟」に目を奪われて信仰を見失うこと への警告かもしれません。では何故「奇蹟」をおこなったのか??? 神の子であり人の子でもあるイエスは人の子としての「救い」を示したかった のかもしれません。神の子なら出来ないことは何も無いはずですが人の子としてヨセフと マリアの子として生まれたとこに神の人への救いの秩序というか、選択肢を人の側に預けた というか、選びの自由を人類に与えたのかもしれません。人類が滅びを選ぶか?救いへの道を 選ぶか?の選択肢。人類の自由意思を尊重されたのです。その結果イエスは十字架につかれた。 人類の罪を購うために罪のない神の子が十字架に掛けられる。 神はこれでもかこれでもかと人類を救うために救いの手を差し伸べますが・・・。 人類ではなく、個人の問題でも同じです。イエスは個人への救いの手段として「奇蹟」を 行ったのかもしれません。人の子として?個人を救うため個人的に奇蹟を行った。 (個人的でない奇蹟もおこなっていますが) イエスは弟子たちに「なぜ、しるし(奇蹟)ばかりを求めるのか?」と叱る場面があります。 神の子・イエスとって理解されない孤独感が漂います。 イエスは自分では書き物を残していません。いまの新約聖書はみな弟子たちがイエスの行った 奇蹟や言葉を後世になって書き残したものです。 今の時代は奇蹟の無い時代かもしれません。偽の奇蹟は後をたちませんが何故本当の奇蹟が 行われなくなったのか?実は起こっていても、私たちが気付かないだけなのか? 人類の信仰心が弱くなった所為か? イエスが言われた「あなたの信じる信仰が奇蹟をおこした」 この言葉に真理があるのかもしれません。 目に見えない奇蹟があなたの内に起こっているのかもしれません。 クリスチャンにとっての一番の奇蹟はイエスが生まれたことかもしれません。(12.26)
 昨日、知り合いと忘年会をしました。気心しれた知人たちなので盛り上がり、 11時過ぎまでわいわい言ってました。「思考の断片」も完売して一人喜んでいます。 さっそく朝一番に増版しました。後少しで今年も終わりです。いろいろありました。 来年はどういう年になるのでしょうか?個人的には今の延長上を歩んでいくつもりです。 ただ、もっと真面目に聖書の勉強をしなくてはいけないと思っています。きまぐれに読み 適当に思うことを書き連ねるだけでは底が見えてきます。一本芯の通った勉強をしたいと 思っています。  23日にも少し書きましたが「ただ一人の人に認められればそれでいい」私の素直な 気持ちです。先日書いた「海の上のピアニスト」の主人公も同じようなことを言って いました。最後に唯一の友人コーンに「君さえ私のことを覚えていてくれれば、世界中 の人が私を忘れてもかまわない」こんな内容の話をしていたと思います。 そうなんです!人の存在は「我思う故に我あり」ですが、それでは人は生きていけない のです。ただ一人でも自分を認めて知ってくれる人(第三者)が存在しなくては生きて いけないのです。自己の存在証明をしてくれる第三者が必要なのです。 それは人によって違い、ある人は人でり、またある人は動物であり、またある人は神で あるかもしれません。そういう第三者を持ち得た人は心強いのかもしれません。 (12.27)
ケーブルインターネットのホームページの容量が5Mbしかなく いままでのように詩に絵をつけていたら容量オーバになりそうなので表紙など主な ところ以外は絵を削除します。文章だけだとかなり書き込めると思いますので、 シンプルでスリムなホームページに変更したいと思います。 いままではマッキントッシュでホームページをすべて作っていたのですが、これからは いろいろな都合で制作はマックでして、作った書類はウインドウズで ケーブルインターネットに送るようにするのですが、これが大変!いままでの書類の 多くを一部変更しなくてはいけなくなり、もう大変です。新しく作る書類は問題 なくいいのですが一年半書き連ねた書類が沢山あり、いちいちチェックしなくては いけません。少しづつしかできないので、どこまでやってどこからが手付かずなのか 忘れないようにしないとごちゃごちゃになりそうです。今日は詩のコーナーの修正を しました。当分この雑用に追われそうです。正月休み中に全て完了させ、あたらしい アドレスのホームページにしたいです。ふ〜う!。(12.28) 
 ホームページの一部を変更してみましたが思った以上にやっかいです。イラストの gif表示もMacintoshと違うみたいですし、やはりいろいろとエラーが 出ました。いろいろ悩んだ末、結局、変更することを諦めました。 いままで通りASAHIインターネットも継続して使うことにしました。 ケーブルインターネットは二階の家族専用のウインドウズパソコンにして、 一階の私個人用のMacintoshはいままで通りのASAHIインターネットに します。プロバイダーを二つ持つのは不経済ですがしかたありません。 ウインドウズのHTML表示を勉強し直してウインドウズでホームページを作れる ようになったらASAHIインターネットを止めるのもいいかもしれません。昨晩から あわただしくパソコンをいじっていましたが一様結論が出たので一安心です。(12.29)
 今年最後の書き込みです。いろいろ本当にありました。振り返るといい思い出です。 哀しい別れもありましたが、自分の中ではそれも思い出として大切にしていきたいと 思います。何か出来るのではないかという手応えを感じる一年でした。 以前「いい人論」(文末に抜粋)を「思い」のコーナーに書き込みました。そこでの私の 思いは自己肯定をしながら自己の了見の狭さを反省しつつ、なおかつ「許せない」気持ちを 書き表わしました。今年の最後にこの「許す」について思考したいと思います。 「許す」ということは相手を許すという次元のことではなく、自分も同じ間違いをしていて、 それでも生かされている(許されている)ことへの感謝があれば、「許す」「許さない」 の問題ではなくなるのだということです。聖書の物語りの中にある有名な話です。 姦淫の罪で民衆から罵られている女にイエスは「罪なき者はこの女を打ちなさい」 と言われ、民衆は一人二人とその場を去っていく話があります。みな同じ罪人なのです。 誰にたいしての罪ということになります。人に対してではなく神に対する罪です。 キリスト教では原罪を説いています。アダムとイブのエデンの園での出来事から人に罪が 入り込み、それが人に死をもたらした。人と人の間では「許す」「許さない」ということは 多にありますが、人と神との間ではそうではなく一方的に神からの許ししかありません。 罪ある人が神によって許されることの喜びを聖書の中のイエス・キリストは言ってます。 人が人を裁くことの愚かさを知らされます。社会生活の上での法律はまた別です。 「カイサルのことはカイサルに、神のことは神に」です。 (カイサルはローマ帝国の皇帝のことです。ようはこの世のことはこの世のきまりに従い、 信仰については神に従いなさい) 私の「いい人論」はここで言う「カイサルはカイサルに」にあたります。しかし、イエスは それではいけない、日常生活の思考も「神のことは神に」を説くのです。「許す」 「許さない」の問題ではなく同じ罪人として考えた場合、何も反論できなくなります。 私の「いい人論」はイエスの姦淫の女の対処の仕方から考えると私の傲慢さを表わしている かもしれません。この書き込みを理解出来ない人は私に問い合わせて下さい。 私の出来る範囲でご説明いたします。今年最後の書き込みが反省文となりました。 来年も謙虚になおかつ、したたかに世の中を見ていきたいと思います。 以下「いい人論」抜粋  「『いい人』論についての思考」  ある人には良い人でも他の人には良くない人?良い人、良くない人、自分にとって どうかという判断は絶対ではないが人が生きていくうえにおいて大きな影響力があります。 この人のここが良くないと言っても、他の人にはそうではない。その人が人によって無意識 に接し方が違うとしても、それはその人(良くないと思っている人)の問題であって 良い関係の人にはどうでもいいことなのです。正義もこの「いい人」論に似ているのです。 あなたにとっての正義はわたしにとっては正義ではないこともあるのです。 私にとって「いい人」なのにあなたは良くない人とケチをつけるのですかと、多くの人は 価値判断の違いを指摘されると怒り出すのです。こういうことは多にしてあります。 理解しあうことなく自己の正当性を主張するだけの人たち。その人たちにとっての正義は 自分なのです。自分にとって良ければそれでいいのです。 私はそれでは納得出来ない人種なのかもしれません。 自分に甘く他人に厳しいのかもしれませんが納得できないことな出来ません。  (11.27の「思い」より)  昨日の『「いい人」論』理解出来ますか? 私があることで嫌いになったBさんをCさんが「Bさんはいい人ですね」とある事を聞くと 言い出すのです。私はただ黙るだけですが、腹の中では「違うんだ!」と言ってます。 私も偏屈なところがあるのです。Bさんの行為は他の人にとっては許される範囲のこと なのかもしれませんが、私にとっては・・・。Cさんに会ってもBさんの話はしないように しているのですが、つい昨日「何々どうですか?」と聞いてしまいました。するとまた 「Bさんはいい人ですね」と返事をするのです。何を言っているのでしょう?そんなこと 聞いてもいないのに「いい人」論をいいだすのです。変にこっちが勘繰ってしまいます。 たわいのないことかもしれませんが「許す」ということの難しさを実感させられます。 私も自己中心的人間なのです。反省と「いや違う!」私は正しいと心の中で煩悶します。 しかし、あのCさんはなんでBさんは「いい人ですね」を繰り返すのでしょうか??? 私が嫌いなった理由を教えてあげたくなりますが言ったところで第三者にはどうでも いいことですし、また言うべき問題でもありません。プライベートな問題なのです。 しかし、自己肯定をしたいのです。私は「正しい」Bさんは「間違っている」と 言われたいのかもしれません。人は弱い存在だと思わされる出来事です。 (11.28「思い」より) 来年もよろしくお願いいたします。  (12.31) 


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