2002年2月の「思い」


 緒方貞子さんが外務大臣を辞退されたので、代りに川口環境大臣が横滑りでなられた
とのことです。誰が成られてもやりにくいと思いますが、このままで外務省は、内閣は
大丈夫なのかと心配になります。緒方さんは断って正解だったと思います。自分の存在
意義をちゃんとわきまえていらっしゃるからだと思います。政権争いの中で出来ること
出来ないこと、かえって個人で動く方がやりやすいこともあると思われます。(2.2)

 昨晩の深夜テレビで宇宙理論の最先端理論「膜宇宙」についてのさわり程度の 番組がありました。車椅子に乗った障害者の有名学者ホーキングの東大での記念講演に ついての番組でした。  宇宙の始まりを法則で証明しようとするとアインシュタインの相対性理論では説明 できなくて、量子論で補わなくていけなく一つの理論で証明出来ないので、科学者が その証明のため考えだしたのが、この「膜宇宙」論だということです。さわり程度なので 深くは探究できません。図書館でこの関係の本を探して後日紹介したいと思います。 いままでの理論で証明できないから、この宇宙の構造自体を疑い、いままでの物理理論で 証明できる宇宙の構造を考え出す。自分の物差しですべてをはかろうとする、科学者の 傲慢さがちらほら見えてきます。目に見えない世界を手探りで証明しようと悪戦苦闘して いる様がよく分かりました。世界のトップレベルの宇宙話ですが私はごく庶民的レベルで この宇宙論を探究していきたいと思います。  舛添要一参院議員が愛知自民県連セミナーで今回のNGO問題にふれバッサリ言い 切っているとの記事が新聞に載っていました。その中で気になることを言われています。 「鈴木さんは(参加拒否)言わなかったんじゃないか。外務省の役人が鈴木さんの気持ち をおもんぱかって、来るなと言ったんだろう」と言われたそうです。他のことについては まあ正論かなと聞き流せますが、この鈴木さんへの発言はおかしいです。 NGOの大西さんが鈴木さんに二度呼び出され、叱られた内容を会見で明言しています。 これを聞くかぎり鈴木さんの関与があっておかしくなく、関与がないと思うほうが おかしいのです。舛添さんを買い被っていたようです。ただの政治屋になってしまった のか、最初からそれだけの人だったのか、わたしの中ではもう話題になることもないと 思います。  今日は久しぶりの雨です。こういう日は書きたくなります。昨日の「膜宇宙」論とは? あのテレビだけではいま一つ理解できませんでした。この目にみえる3次元に時間を 加えた4次元の世界が膜のようになっていてこの世界を抜け出せるのは重力だけで その重力によって影のような別の世界が存在して次元も十何種類かあるというのです。 その証明が理論的にされるのもまじかだとか解説されていました。この宇宙を構成して いる私たちの世界のその外側の世界の話だと思うのですが?証明されるのは何が証明され それがどのように私たちの世界と関わるのかがよく分かりません。空想の世界なら私でも 創造できますが、世界的な科学者が真面目に思考して推論を立てていらっしゃるのを みるとただの空想ではなく、理論的にいっても正しいいのかもしれませんが、それで 何が分かり、何が変わるのか?そこには神なる創造主がいらっしゃるのかどうか? この宇宙は目で見える範囲は数パーセントで暗黒物質が二十数パーセントで後残り 七十パーセントぐらいが真空エネルギーだそうです。ここにも創造主は見当たりません。 何処にいらっしゃるのでしょうか。迷子が生みの親を探し求め悪戦苦闘しています。 (2.3)
 昨日、久しぶりに古本屋に行き、二冊買いました。「聖書の暗号」コンピュータが 解読する三千年前に封印された予言(新潮社)と「男」柳美里です。聖書の暗号に ついて聞いたことがあり、興味をそそられました。さっそく読んでみました。  ヘブライ語の聖書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、深命記)を立てに並べ、 一定間隔で文字を拾うと、暗号が出てくるとのことです。そのようにして過去の歴史上 の予言がなされているとのことです。未来についても書かれていて、著者は1995年の 「ラビン暗殺」を1年前に予言をして、ラビン首相に警告の手紙を書いたと 明記しています。その他いろいろなことが書かれているみたいですが読んでいてあまり 興味がなくなりました。聖書の存在意義はこんな暗号探しにはないのです。暗号が証明 され間違いなく神が書かせた物だということが証明されたとしても信仰にとっては かえって「つまずきの石」にすぎません。三千年前に予言されていたとしても、 そのことと神を信じる信仰とは関係ないのです。無理に結びつけようとするする ところに過ちがあり、信仰を間違った方向へ導きかねません。 よくある新興宗教(似非信仰)と変わらなくなります。聖書を普通に読みその言葉の もたらす力に導かれて神を「知る」あるいは「認める」ことが出来れば、それにこした ことはないのです。ただ、人は弱く、不信心ですから人生の生き様の中で体験を通して 神を「知り」、「認め」ざるを得なくなるとき「信仰」を得るのだと思います。  妻に図書館で「ホーキングの最新宇宙論」という本を借りてもらいました。ただ、 この本の発行日を見て・・・です。1990年では最新のはいえません。図書館では 一番新しいのかもしれませんが、もう過去の本です。でも一度も彼の本を読んだことが ないのでこれから読んでいくことにしました。後日この本の感想を書きたいと思います。 (2.5) 
 ホーキングの宇宙論 p156まで読みました。さっと読み通したのですが、もう一度 読み直さなくては他の人に説明ができそうにありません。書き込みはもう少し後にします。  「地球がもし100人の村だったら」の本が2ヵ月で100万部のベストセラーに なっているそうです。以前からこの本の出版と内容について酷評していますが、世の中 はそうはみていないということです。自分が幸せであることをしら示してくれるものへの 共感とでもいうのでしょうか、私の「いい人」論(2001年の大晦日の書き込み)的価値観 が多くの人に当てはまるということかもしれません。自分が幸せならそれでいい、 自己防衛的平和論です。自分が「幸せ」ということの確認がほしいだけの平和論。 口先だけで平和を唱える傍観者的平和論。などなど口悪を言うのにことかかない私は ただの偏屈者なのでしょうか・・・。違うんだということを別の方法で表現したいと 思います。(2.6) 
 久しぶりに書き込みます。10日ほどの間にいろいろ世間では起こっています。今は これらの現象を一つ一つ分析することにあまり興味が起こらないので、気が向けばまた 書き込みたいと思います。知り合いから借りた本についての「思い」を書きたいと思います。 「ラマナ・マハリシの教え」山尾三省訳(めるくまーる社) 最初の序文を精神科医ユングが書いています。マハリシに讃美を送っていますが、西洋人 にとっての東洋精神への憧れ的賞賛のように受け取れます。 本文は質問にマハリシが答える形式で書かれています。彼の結論(答)を聞くということ です。彼の答はインド数千年の経緯を経た中での彼の答です。私には興味ないことです。 結果が分かっていることをああでもない、こうでもないといって最後は決まった答(模範 解答?)を出す。私が興味があるのはその結論にいたる過程であり、過程そのものです。 この本では決まった答しか導き出せないようになっています。一つの真理をとして見ること はできても、これが宇宙の普遍?を現わしているかというと、ちょっと疑問を感じます。 彼の宇宙ではこれが真理なのだと思いますが、他の宇宙もあるのです。 私の宇宙では別の真理が存在するのだと思います。 偉そうにこんなことを言っていいのでしょうか?東洋精神の最高峰?を担うマハリシに 対して、名も無いインド料理店の私がと思いなが・・・。  結論は過程の中にすでに含まれているのかもしれません。結論はは結果であり、 目的ではないのです。過程(生きる)ことの中にすでに結論は含まれているのです。 生命を与えられた時にすでに結論は与えられていたのかもしれません。ただ、そのことを 「知る」ことが出来ないのです。与えられているのに分からない結論(答)を探し求める のが「生きる」ことなのかもしれません。だから「生きる」ことの中に答はあるのです。 生きることに意義があり、その中に結論(答)はあるのです。マハリシのようにこれが 答だと言い切る人を私は怪しむ傾向があります。違う答があってもいいんじゃないか? 今日はこのへんで終わります。他にすべきことがいろいろあります。(2.17)
 ラマナの教えがインド哲学の最高峰の一つなのだと思いますが、この本に関して言えば、 私にはもの足りませんん。問題提起をしてくれていますが、彼の結論にはいささか 反論したくなります。答を知っている者(マハリシ)が、質問者に答えるこの形式自体に 疑問を持ちます。彼は答を知っていると思い込んでいるに過ぎないのでは無いかと反論 したくなります。インドの土着の思考で宇宙を論じることに限界を感じていないようです。 彼の世界は限られた世界であり、宇宙全体からすると限られた中の一つの真理でしか ないような気がしてきます。ただ、一つの真理としての価値はあると思いますが、 それ以上でもそれ以下でもないと思います。こと細かく批判すれば切りがありませんが、 p150の寓話について私なりの反論をしたいと思います。以下はその概略です。  10人が浅瀬を渡り、数を確認します。自分を除いて他の人を数えていきます。 すると9人しか確認できません。他の人たちも各々確認しますが同じく自分以外の人しか 数えません。それで結論として一人溺れてしまったと決めつけるのです。そこへ旅の商人 がやってきて、その話を彼等から聞かされます。その人は彼等の間違いにきづき、一人一人 殴るから殴られた人は数を数えるように言います。すると10人いるのです。  この話でおかしなことが二つあります。最初に10人と数えたの誰なのでしょうか? それに10人が浅瀬を渡るのに本文では「10人の愚かな男」と前提されてました。 誰が愚かと決めつけたのでしょうか? ラマナがこの寓話を考え出したのでないとしてもおかしな前提です。 私の言いたいことが分かりますか? 私はこの二箇所の矛盾からラマナの限界?を見たような気がします。 ユングの序文の讃美にも大いに疑問を感じますし、ユング自信にも疑問を持ちます。 彼がどのように評価されているかあまり知りませんが・・・。 なぜこのような本が評価され、多くの人はおかしなことに気付かないのか不思議です。 私一人なのでしょうか?異論を唱える人はいませんか? 愚かな人の中にラマナは入っていないのです。それに10人の人は浅瀬を渡る前も渡った 後も9人としか認識できないはずなのに、最初に10人いたことを認識しているところが おかしいのです。自分を数の中に入れることが出来ない人たちにとって前も後も9人なのです。 一人が溺れたとは思わないのです。しかも、10人いるのに9人と思い込んでいる。 そのことに気付いている旅人は誰のことでしょう? 世の中の「無知」を現わしているのだと思います。思考的には一定の判断基準を提供しているの だと思いますが、自己満足の世界ではないかとの思いも起こります。  彼の言葉よりも彼の生き様の方に「答」があるのだと思います。その言葉は私たちに 理解できるように言い表わされていますが、彼の生き様の方が言葉よりも説得力があります。 彼の生き様には敬意をはらいますが、これがインド精神の最高峰なのかと思うと・・・。  私は傲慢な自信過剰家なのでしょうか?(2.19)
 今日の話題は国会につきるでしょう。田中真紀子議員と鈴木宗男議員の証人喚問、 大事の前の小事と高をくくっていたら、足元からぐらついてきた感じです。 一人の味方(田中真紀子)も守れなくて、日本国を守れるのかといいたくなります。 構造改革より政治改革を先にしなくては駄目なきがしてきました。証人喚問の後 鈴木さんが橋本派の派閥会合に出席したら拍手で迎えられたとのことです。 これまた私の「いい人論」の登場です。 私の「いい人論」では自分に都合のいい人が正義なのです。世の中おかしいです。 (2.20)
 ラマナについて。  ヴェーダへの探究と沈黙の瞑想、これらによって得たものが彼を 今世紀(20世紀)最大の覚者といわしめたのだと思います。迷える人々に指針を示し、 アートマ・ヴィチャーラ(真我の探究)という分かりやすい方法で救いへと導く手助けをする ところのラマナ・マハリシ。ある知人が「真理は一つでその表現方法が違うだけじゃないか?」 と言われました。以前は私もそのように思いましたが、いまは少し違います。  インドで生まれ育ったインド哲学、宗教これらの真理はインド国内で満たされる真理では ないかと思います。だからといってインド国外では価値がないとかいうことではありません。 ラマナの教えはインドの国土があって始めて完結するのだと思います。言葉で理解はできても 覚醒?というか解脱する要素はインドという「場」が必要なのだと思います。哲学として ただ、学問として学ぶのならばこの「場」はいらないのだと思います。どこでも学べると 思いますが、それは解脱には繋がらない自己満足の世界だと思われます。コピー世界では ラマナの言葉である種の満足に満たされ、癒されたと思うかもしれませんが、真理はそんなとこ にはないのだと思います。キリスト教も同じ様なことがいえます。ただキリスト教は言葉の宗教 というとちょっと極端かもしれませんが、「聖書」という神との約束という言葉の真理が あるのです。「ヴェーダ」も同じような聖典かもしれませんが「聖書」とは成り立ちが違い 神との言葉の契約ではないと思います。「聖書」は「場」を必要としないのです。 「ヴェーダ」は「場」を必要とするのです。極端な言い方かもしれませんが分かりやすくする ためにこのように表現してもいいと思います。もっと広げて東洋的宗教は「場」を必要として、 西洋的宗教は「場」を必要としないのかもしれません。このように考えていくと「真理」は 東洋と西洋では違うのではないかと思います。しかし、それは表むきで突き詰めれば同じこと なのかもしれません。その同じことを探究したいのです。「場」を必要とする東洋宗教は西洋人 には神秘的な真新しいものと受け止められ、ユングのように絶賛するのだと思います。しかし、 私は日本という東洋的宗教・環境で育ち、血の中に脈々と「場」の思考方法というか「場」の 宗教を感覚的に理解できるのです。かえって「聖書」のほうが真新しく受け止められます。(2.21) 
 鈴木宗男さん危機一髪です。野党はこのチャンスにどう出るか?田中真紀子さんの動き が政変を呼ぶような気がしますが、さあ動くのか?小泉さんも後が無くなってきました。 いまのキーマンは田中真紀子さんです。 野党なりと手を組めば政変が起こり、小泉自民党は負け組になると思うのですが・・・。 動けばおもしろいです。小泉さんへの恨みをエネルギーに動く気がするのですが、 さあどう出るか?世論の動きと宗男さんの処分によっては・・・、 動くかどうか決めるのではないでしょうか。詰まるところ自民党では改革が出来ないのだと 思います。風が吹くことを期待したいです。(2.23)  
 これまた知り合いから奨められた本についての私見です。 僧侶のかたが体験をもとにつくられた童話集です。これもそうですが先日のラマナ・マハリシの 本もそうです。まず「答」有きで書かれているようなところがあります。 読む前から答が分かっているというか、文章を鑑賞するでもなく、その話の意図を知ることに 重点を置いているような本はあまり興味がわきません。ラマナ・マハリシもこの僧侶も人間と してはすばらしい人だと思います。それで充分だと思います。私にはそれ以上でも以下でも ありません。みな同じ人だと思っています。  「場」について一言。 先日の「場」の問題とも関係するかもしれませんが、先日の「場」は自然環境、生活環境など のことを指して言いました。今回の「場」は本という媒体に信仰という「場」?の規制を 与えていることです。 2.21の「思い」では信仰について「キリスト教は『場』(自然環境・生活環境、国土)を 必要としない、それに対して東洋の信仰は『場』を必要とする」と極端な言い方をしましたが、 これも歴史的な理由があるような気がします。ユダヤ民族の歴史が「聖書」という書物を 作りだしたのだと思います。バビロン捕囚など国土が無くなることを体験した民族にとって 「場」を越えた、あるいは「場」をも含んだ「もの」(聖書)を必要としたのだと思います。 それが「聖書」です。神の教えそのものなのです。これさえあれば世界の果てでも信仰は生き 続けるということかもしれません。世界を放浪させられた民族ならばの必然性かもしれません。 ただ、信仰となるとこれだけでは不十分です。ここに「教会」という「場」がでてきます。 これは建物です。国土ではありません。 この教会が信仰を伝えれための「場」の役目をしています。旧約ではこの聖なる「場」の規定が こと細かく書かれています。「場」(国土)は必要ないといいましたが、信仰の伝授のための 「場」(教会)は必要なようです。ただ、この教会(建物)さえも否定する宗派があります。 それが私が属している「無教会」です。内村鑑三が唱えた原始キリスト教会の有り様を基本に した、「聖書」だけを信じ教会という目に見える建物を無くした宗派とでも言えば いいのでしょうか、究極の教えなのかもしれません。 「聖書」だけを信じ、学ぶ姿を重視しています。このようなキリスト教もあります。 話が脱線してきました。ラマナ・マハリシの本と知り合いに紹介された童話集とこの聖書の 違いを書きたいと思います。「場」の問題だと思えるのです。ただ、ここでいう「場」は国土、 教会でもありません。真理を探究する「場」とでも言えばいいのでしょうか? 聖書にはこの「場」が存在するのですが、ラマナとこの童話集には「場」がないのです。 抽象的表現ですが詳しく書くことができるかどうか少し迷います。 この「場」とは読む側の思考の自由さが許されているというか、思考を養う栄養素があると 言えばいいのか・・・、表現に困ります。 具体的に言えば「聖書」は読む時々によって受ける印象が違うことがあるのですが、 ラマナと童話集はいつ読んでも答が決まっているような気がします。つまり選択の余地がなく ずばり一つの「答」のために書かれているのです。それでいいのではないかと言われれば それまでですが、私にはもの足りないというか「いや違うんではないか」と言いたくなるのです。 「聖書」も答(神を信じなさい)のために書かれているのですが、答を強要していなくて 「こうこう、こういうことがありました」というこのなのです。 ちょっと違います。うまく表現できません。答を探さなくてはいけなくて、 答は隠されているのです。こう言えば分かりやすいかもしれません。 そうです、「聖書」には答が隠されているのです。答を探さなくてはいけないのです。 何か消化不良です。「場」の概念があやふやです。ある時は「国土」で有り。ある時は 「教会」で有り。ある時は真理探しの「場」であったり。 私の言うところの「場」とは一体なん何でしょう? また次回この問題を探究したいと思います。これらの答が他の人の書かれた書物に明記されて いるとしても、私には興味ありません。自分で探究するところに楽しみがあるのです。 たとえ答が違っていても、同じでもそのこと自体にはさほど興味がありまでん。 思考の過程が大切なのです。そして、その過程に生きる意義あるのだと思います。 コピー社会、ダイジェスト版で知ったかぶりするより、手探りで転びながら生きる方がずっと 価値があると思います。(2.24)
 やらなくてはいけないことが、いろいろあるのですが何かやる気が起こりません。 連絡もとらなくてはいけないことも二、三あるのですが・・・。自分から動くことを ためらっています。まあ春先、花粉も飛んで来ますし、何かとだるい季節です。こういうときは じっと動かないで待ちます。「何も起こらないでいいのだ」と言い聞かせながら自分の無気力さ を肯定しています。先日のラマナ・マハリシの本をわざわざ貸して下さった知り合いに 先日からの書き込みを見せるべきかどうか迷っています。 独断と偏見の感想を聞かせていいものかどうか・・・。  「鬼の節分」完成しました。この童話で絵本を作る計画があります。さあどうなるやら? 国会が面白くなり、当分目が離せません。(2.27)
「思い」表紙へ戻る