2002年4月の「思い」


 昨日は徳林寺(緑区相生山)の「花祭」と映画「ロード・オブ・ザ・リング」に 行きました。  徳林寺では知り合いがあちこちにいて「やあ!」と声をかけながら 話をしてまわりました。絵本作家の伊藤昭さんともゆっくり話ができ、私の童話の感想 も聞かせていただき楽しく過ごせました。「ありがとうございました」 いままでどうり何ものにも囚われず、自由に創作活動を続けていくつもりです。  「ロード・オブ・ザ・リング」内容を知らないで見て、こんな内容だったのかと 思わされました。本を読むつもりはありません!どろどろしたこの世の中を象徴して いるような大人の御伽(おとぎ)話です。3時間は長かったです。息子が疲れからか? 頭が痛くなり「もう映画は見たくない」と悲鳴を上げていました。密室で空気は悪いは 椅子は子供に合わないやら彼には苦痛の3時間だったみたいです。家でレンタルビデオ を見る方が楽です。わが家では当分映画館には行かなくなりそうです。 (4.1)
  昨年、2月1日の書き込みで兵庫県から来られるお客さんのことを 「ひょうひょうとしていて、こういう人に出会うと、世の中捨てたものじゃないです」 と書きました。このお客さんは一年に一度うちの店に知り合いの展覧会を見に 来られます。今年も来られ、ひょうひょうとした雰囲気で作家が来られるのを3時間 待たれました。こちらの連絡ミス?で3時間も待たされました。 「時は金なり」ではなく大切なことは一つなのです。作家に会うために来られたのです。 待ち時間が10分も3時間も会うためには関係ないのかもしれません。 不思議な人です。ひょうひょうと待っていらっしゃいました。後日、わざわざ私に お礼の品を送って来られました。???「美味しいカレーありがとうございました」 と書かれた手紙付きでした。「こちらこそありがとうございました」です。 お返しに私の童話と詩を送りました。かえって迷惑だったりして・・・。  徳林寺で話をした伊藤昭さんが「山尾三省を偲ぶ会」を企画されていました。 先月、山尾さんの訳された「ラマナ・マハリシ」の本を読んだばかりっだたので その話をして、帰りに伊藤昭さんの絵本「ならこのかきのき」を紹介した山尾三省さん の文章(図書新聞1986年12月20日)をコピーしたものをもらって来ていたのを 思い出し、先ほど読んだところです。全文を書くのがいいのですが長いので要約します。  「しっとりした静かな筆で淡々と描きだされている。絵がとても美しく・・・宗教的 な情感をかきたてるほどにすばらしい。しかしながらその美しさすばらしさには、 少しも人為的なところがない。・・・ありのままに悲しいほど真実に描かれている。」  以上が絵本の批評の要約です。文はさらに進みます。伊藤さんの実生活について 書かれています。  「大月山中にシャンティ・クティ(平和の家)と呼ぶ場を開いて、祈りを中心におく 生活を実現されている。夏、家には 三つのカヤが吊ってあるそうです。その一つは 眠るため、次が食事のため、最後が仕事場です。「蚊を殺さないですむから」と 伊藤さんは言う。『ならこのかきのき』には、蚊一匹も殺したくないという伊藤さんの 心が、・・・どこの山村にでもありそうな風景、物語でありながら、他のどこにもない 『ならこのかきのき』として、静かに美しく定着している。・・・」以上。  この文章を読んでもう一度「ならこのかきのき」を読み直してみました。 言われてみるとそのとうりなのです。以前読んだときは淡々としすぎて面白くないと 思っった記憶があります。刺激になれすぎ真実とは何かを忘れていたのかもしれません。 私の童話は伊藤さんの童話に比べると作り過ぎているのかもしれません。 山尾さんの文を読み、反省させられました。  (4.3)
 兵庫県の女性から童話と詩の感想文をいただきました。 このように素直に喜んでいただくと作者としてこのうえない喜びです。 私はよく人から「その自信は何処からくるの?」と言われます。確かに自信過剰な ところがあるのかもしれません。ただ、何なんでしょう?別に人の評価を気にしてない というか、自分はこうだと思えるからそう言うだけなのです。 一人の人に認めていただければ世の中の大勢が知らなくてもいいと思っているふしが私 にはあります。それが兵庫の女性だったり、高専の恩師だったり、家族、数人の友人 だったりでいいと思っています。兵庫の女性の場合でも彼女が店に来られた時、私は 自分からは作品を見せてはいません。彼女は店に置いてあった「思考の断片」を たまたま目にしていたみたいですが、彼女が「お菓子」を私に送って下さらなければ、 私も童話と詩をお返しに送ることはなかったはずです。作品公開にはいたって消極的です。 それでいいとも思っているのです。すべては神様?にまかせているつもりです? 「?」はどうしてついているのか、自分でも分からないからです。 彼女が詩集「蝉の声」を送ってほしいとのお手紙なので十数年ぶりに詩集を再版する ことにしました。製本に少し時間がかかりますが、来週には出来上がるはずです。 「蝉の声」をパソコンに入力していたら新作の詩も入れたくなりました。最後の数ページ に新作の詩をいれることにしました。ページ数が増えるので製本に時間がかかり そうです。出来上がったら店に置きますので、希望者は見るか買ってください題名も。 多少変更?するかもしれません。「蝉の声・その延長上に」?なんかどうでしょうか。  入力してみるとかなりのページ数になりそうなので、きちんとした製本は今回はやめて、 いつものプリントアウトしてホチキスで止める簡単なものにします。(4.6)
 イスラエルとパレスチナ、ヒトラーがユダヤ人を虐殺したことをシャロン首相は パレルチナ人にやろうとしているのか?欲望以外のなにものでもないです。 宗教ではない欲望が渦巻いているようです。神の選民であるはずのユダヤ人が国家を あげてパレスチナ人撲滅を画策する異常な自体です。ユダヤ人すべてがシャロンと 同じ考えではないと思いますが、国家として国際平和への犯罪行為にかわり ありません。ユダヤの聖職者は何をしているのでしょうか? これも聖書のいう「救いの秩序」なのでしょうか?プランターの花たちは自然の摂理 に従い春を謳歌しています。何故人は傷つけあい、憎しみあうのか? 自然淘汰のため、人類に与えられた試練なのかもしれません。滅び行く人類への警告 なのかもしれません。シャロン首相の本心は何処にあるのか?愛国心からなのか? テロ撲滅と言いながら、その原因は言っている側(イスラエル)にあることを ないがしろにして相手(パレスチナ)を非難する。愚かな行為です。解決策は・・・、 国連がパレスチナを国家として認めることかもしれません。 いじめられっ子を救うにはいじめる子を注意すると共にいじめられっ子自身を強くする 必要があると思います。国際社会がパレスチナを国家として認めることがパレスチナ人 を救うことになるのではないかと思いますが、イスラエルはこれを一番恐れている のだと思います。悪者が一番嫌がることをする。目には目をの発想では同じ事の 繰り返しですが、共存の道を探らなくてはいけません。 創造主、神、仏これらは人類に何も答えられないのでしょうか?所詮人が作り出した ものなのか?イエスは今をどのように見ているのか?答えてくれないのか? 答えられないのか?さもなくば答えているのに我々の方が聞こえないのか???(4.11)
 今日の新聞に「勇気ある撤退を」(「命のビザ」杉原氏遺族)という記事が書かれて いました。その内容に気になるところがありましたので、一言。ナチス・ドイツの迫害 からユダヤ人難民にビザを発給し、6000人の命を救った故・杉原氏の遺族がシャロン 首相に親書を送ったとのことです。そのこと自体は何もいうことはありませんが、内容の 一部が書かれていて「主人の書いたビザはあれで良かったのか、書かなければ良かった のかもしれないなどと悩まざるをえません」とありました。何を言わんやです。 本末転倒です。ご主人は墓場の影でこの言葉にさらなる孤独感を感じていらっしゃること でしょう。人の命の価値など誰にも決められないのです。故・杉原氏は当り前のこと をされただけです。ただ、その当り前が出来ない状況で自己の良心に従いビザを発給 されたのです。尊い行為です。その遺族が命の意味を理解することなく今の状況から 「あのユダヤ難民を救わなかったらよかった」などというのは情けないことです。 故・杉原さんの行為を愚弄する発言です。それを遺族が言われたとは情けないの一言です。 (4.12)
 新作の詩集「蝉の声・その延長上に」(58ページ)が完成しました。 一冊350円で販売しています。ご希望の方は店まできていただくか、お知らせ下さい。 多少の波紋が広がることを期待して作りました。14年前に出したときは手間ひま掛け 友人に手伝っていただいたことを思い出します。今回はあっと言う間に出来ました。 パソコンのお陰です。本当に便利です。印刷屋さんの仕事が無くなる理由が よく分かります。(4.15)
 いまスティーヴン・ホーキングの宇宙論を読んでいます。まだ書き込むほど読みこな していないので、後日書き込みたいと思います。昨晩、知り合いのご夫婦が食事に 来られ、名古屋科学館・館長の宇宙論を聞きに行った時の話から、未消化のホーキング 宇宙論の話へとなり、さらに私の私論?へと話の花を咲かせることが出来ました。 友人が言った「動物と人の違いは『なぜ?』という疑問を持つことだ」という言葉には 同感です。ホーキングさんたち科学者はイメージから仮説を立て、それを数学で証明し て、観測して(運がよければ)正しことが実証される。イメージした仮説をいかにして 証明するかに科学者としてのほこりがあるように見受けられます。それはそれで素人に 分かりやすく言っていただければ理解でき私達も楽しむことができます。 ホーキングさんのすばらしいところは素人にも分かる言葉で語っているところです。 病気をして語彙が限られてしまったことも影響しているのかもしれませんが、やはり 彼のやさしさからくるのだと思います。そのやさしさはあるいは病気がもたらしたの かもしれません。弱者の立場に立って考えられる科学者なのかもしれません。 あと幾年生きられるか分かりませんが、長生きしてほしい人です。筋萎縮性側索硬化 症を発病して41年もの長い闘病生活をしながら、数々の業績を残されていることは 奇蹟に等しいかもしれません。  ホーキングが唱える「無境界仮説」では始まりも終わりもなく、宇宙は自己完結的 な一つの全体であるということになります。地球の表面は有限ですが、地上を歩く限り 無限に続いています。地球には北極点があります。北へ向かって進み、そこより北は 進めない点(北極点)がありますが、そこは終わりではないのです。いくらでも先へ 進めます。時間も似たような形をとり、虚時間(数学上の時間)では始まりも終わりも ないことになります。 さらに宇宙において人類は傍観者ではなく当事者なのです。参加して選択 しているのです。その自己完結型の宇宙の中で、いかに選択肢を選ぶかでその答えが 変わってくる。そこには神というものは必要なく、神が宇宙を創造しなくても 自己完結で宇宙は生まれ終わり、さらに生まれる? こんなことがホーキングの本に書かれていました。  神はこのホーキングなどの宇宙論では宇宙の創造に必要無い存在なのですが、私の 持論では人の存在には神が必要なのです。「なぜ?」という疑問の中に神は存在して いるのだと思います。最新のホーキングはさらに複雑に「膜宇宙論」なるものを唱え、 いままで四次元だといわれていた次元の数が十数あり、重力だけがこの膜宇宙から 抜け出せるというのです。最新の説を説明した本が本屋に売り出されていましたが、 私にはちょっと高価だったので図書館に入荷するのを待つことにしました。(4.16)
 目が覚めたので寝起きの思考を書き連ねます。 ホーキングさんは宇宙の始まり、終わり、構造などの未知なるものを解明すべく 思考を働かせています。一人の思いではなく世界の科学者とともに議論を繰り返し 思考を確実なものへとしています。私の立場はかれら科学者と違い宇宙の構造では なく、神の存在の方に興味があります。神の存在は科学では説明できないのだと 思えてきました。「なぜ?」という疑問はどこからくるかを考える時、これを科学者 の唱える数式で証明することはできません。心理学、哲学の問題なのかもしれません。 心理学のことはまったくの素人なので、何も答えられませんが 「宗教がなぜ起きたのか」という問題を心理学では研究されているのでしょうか? 後日、図書館で調べてみることにします。あと故・山尾三省の人物像も調べてみたいと 思っています。(4.18)
 ホーキングさんたちが唱える無境界仮説は時間に虚数を加えた虚時間を使うと 空間のように時間も縦、横、高さをもち時間と空間が対等であるような時空を作りだし そのことをユクリット的といいます。このユクリット的空間において特異点を有するか どうかで、二通りの宇宙が考えられます。特異点を持つということは始まりがあると 考えることですが、これだと現在の科学法則では証明できないのです。特異点が無いと なるとこれが無境界仮説ですがこれならいまある科学法則でどうにか説明できるのです。 この説が将来観測結果と合わないとなると宇宙は無境界状態ではないというだけです。 ホーキングさんたちはいまある科学法則で説明できるから無境界仮説を選んだだけなの です。この無境界仮説は時間を地球のような球体と考えたとき北極点を宇宙誕生・ ビックバンで南極点を宇宙消滅・ビッククランチとすると表面の緯度を時間に対応させ ると、表面は北極点で始まることになります。しかし、北極点はただの普通の点です。 とりたてて特別なことは何もなく、北極点においても表面の他の点と同じ法則が成り 立ちます。宇宙の始まりも同じです。終わりも同じです。ただし、これは虚時間に おける宇宙の始まりと終わりです。私達が生きている実時間ではこの始まりと終わりは 違ってきます。さらに話は続きます。あと「超ひも理論」というものがあります。 これは現段階では不確定要素を多く含んでいるそうです。この関係の本も最近よく 話題になっています。この次はこの関係の本を読んでみるつもりです。(4.18夜)
 「脳とビックバン」100億年の旅3(著・立花隆)2000年に出版された本です。一時 噂になった本です。宇宙のビックバンについて日本の教授の中には世界の最先端を 走っていらっしゃる人がいるのです。ホーキングよりもというと語弊がありますが、 彼とは違った分野で先んじている人です。東大の佐藤勝彦教授です。ビックバンが 起こる前の宇宙の生成過程をインフレーション理論で解説しています。ホーキングさん の本は分かりやすくするために数字や科学的な表現をあえて使わないように意識的に 書かれているみたいですが、かえって文学的で実感がわきません。立花さんのこの本の 方が図式とイラスト、コンピュータグラフィックを使い、私としては理解しやすく なっているように思われました。ビックバンのことは大体理解できたつもりです。 あと「脳」について書かれている後半をこれから読んでみたいと思います。  本の先を読み進みましたが、「脳」科学の最先端を読んで「あ、あ」そうなのかと 納得しても自分の実際の生活に直接反映してこないので、いま一つ面白くありません。 宇宙もそうです。実際自分で感じられないことはただの知識でしかなく知らなくても 生きていけます。知識欲を満足させられたとしてもそれが・・・と言いたくなります。 ただ、ホーキングさんのように病魔に犯されながらも研究を続ける生き様には感動 させられます。(4.20)
 著・町田康「きれぎれ」。一昨年、直木賞か芥川賞を取ったはずです。文体が新鮮 というか独特の持ち味がいいと評価されたように記憶しています。図書館でたまたま 目に止まったので、借りてきました。読んでみて・・?独特の言葉使い、細切れの 連続からのぞく欲望、ギラギラ?というか私には疲れる文体です。  今年の日本アカデミー賞の賞を独占した映画「GO」も彼の原作ではないかと思い ます(確信がありませんがそんな気がします)?主演が今売れている窪塚さんで、 お父さん役の?名前が喉まできているの・・・ そうそう山崎努さんでした。最優秀主演男優と最優秀助演男優賞も取り、後幾つか 賞を取ったはずです。柳美里さんとも親しくされていて同じ在日の方だと記憶して います。最近、特に在日の方々が活躍されているように思われます。平々凡々と ぬかるみに浸っている日本人に比べると、差別的なまなざしでみられる日本にいて、 在日という不確定な国籍を背負い生きている彼等はある種のコンプレックスを エネルギーに変換しているのだと思います。エネルギー源を持っている分、いまの 平々凡々とした日本人より力強いかもしれません。ただ、柳美里さんもそうですが どこかギラギラしていて私には少し刺激が強すぎます。(4.20夜)
 今日の朝のテレビでナノテクノロジーについての特集をしていました。最近よく 聞く言葉です。ナノはミリの100万分の1の単位、原子の世界です。サルモレラ菌の べん毛の動きを研究されている科学者の最新情報です。べん毛はタンパク質のモーター を持っていて、6つのべん毛を動かし推進します。そのタンパク質のモーターの仕組 が分かり、べん毛の先端のキャップといわれる組織がこのべん毛を作るのに大きな働き をしているそうです。このキャップの働きを見つけることができたことは大きな 研究成果だと自慢されていました。世界中の科学者がこれら最先端の研究をされて 生命の根源、あるいは宇宙の根源を探ろうとしています。 「なぜ?」という疑問を持つ人類が探究する先には何があるのでしょうか? そこには「答」が待ち受けているのでしょうか? そこには「神」という言葉が死語としてではなく、生きて残っているのでしょうか?  スキャンダルだらけの日本の国会、パレスチナとイスラエルの争い、平和を唱える 人々と戦争をしたい人々、これらの混沌とした中で生きる私達。 生きていることに喜びを感じられないような世界にはしたくないものです。 雨降る日は内にこもり思索することができます。外のことに囚われ過ぎないようにと 思いながら書き込みをしています。私に出来ることは何か?と思いながら日々の生活 をしています。自己を無にして静かに静かに内なる声を聞きます。 何も聞こえないときは眠りにつきます。そのまま聞こえなければそれもそれでいいと いう思いでいます。私は普通の一人です。特別な人ではなく、ただの人です。 そのことが大事なことなのではないかと思います。普通の人が普通に思うことが 大切なことなのではないかと思います。選ばれたと思うところに落し穴があるような 気がします。平凡に生き、平凡に死ぬ。「時」は当り前のように自然に流れ、 悠々の歴史の一こまにすぎない今を刻む。幾人かの友人と家族が私を知り、そして いつしか忘れられていく。それでいいのだと思います。神がいるのならそれも良しです。 いなければそれも良しです。さあ生きた証は何処にという思いが起こります。 生きた証は私が残すこれらの言葉かもしれません。言葉は残ります。 以上、今日の思考の一部でした。お付き合いしていただいた人がいてくださったと したら「ありがとう」のお礼を言いたいです。  「思考の断片」4月号の最後に「人間は肉体的喜びだけではなく精神的喜びも追求 するのです。その精神的喜びが宗教に関係しているのだと思います」と書いて結んで います。精神的喜びとはどういうことか考えたとき、ユダヤ教の「選民思想」です。 神から選ばれた民(選民)としてのユダヤ民族、他の民族とは違う優れた神の民 これが旧約の世界です。いまもユダヤ教徒はこの旧約の世界で生きています。だから いまのパレスチナ問題が起こっているのです。この優越感がもたらす喜びが宗教には あります。どの宗教にも多少の違いはあれ必ず有ります。「救い」自体がこの喜び からきているような気がします。救いを約束しない神はいません。啓示をして救いを 説き、守れない己の罪を説き、それでもあなたは信じれば救われますよと言う。 ありがたやありがたやと信じることで喜びに浸る。選ばれた者の喜び。これがすべて ではありませんが、こんなやりとりがあるのも事実です。 さあ、宗教とは何物なのでしょう?心を無にして静かに聞こえる声を待ちます。(4.21)
 詩集をお送りした兵庫の方からまたまた感動のお手紙をいただき、こちらこそ 感謝の気持ちにさせられます。喜んでいただければこの上ない作者冥利(みょうり)に つきます。彼女が私の詩で来年のカレンダーを作りたいとのことです。出来上がりが たのしみです。店にも詩集を置いていますが、彼女ほど感動をあらわにされる方も めずらしいです。彼女の天性なのでしょう、素直に感動できる心を持ち合わせて いらしゃるのです。ある種の才能かもしれません。 感動する才能、すばらしいことです。  知り合いが本を二冊わたしに進呈してくださいました。 「ホーキング、宇宙を語る」早川書房と「ホーキング宇宙論の大ウソ」徳間書店 前者は問題ないのですが、後の「・・・の大ウソ」の方は問題ありです。 ホーキングさんはいまある科学方程式で証明できる最善をなされているのであって、 将来、観測結果が違った答をだせば自分の理論が間違っていたというだけのことだと 本の中で明言されています。仮説をたて証明するこの行為に対して、ホーキングさんの 本に出てくる文章の言葉尻を取り上げて、自己の文学的宇宙論を肯定するこの本の 著者は何を考えているのでしょうか?他(ホーキングの説)を理解できない自己の 無能さをさしおいて、相手(ホーキング)の間違いと断罪して、自己の世界に浸って のほほんとしていらっしゃる愚かさは断片的思考の極みです。分からないことを語ら ない今の科学者に対して、自分はそのことを知っているから語れると明言され、その 内容はといったらいたって文学的でなんの科学的証明の努力のかけらも見られない しろものです。人の唱えた説を寄せ鍋のごとくごちゃ混ぜにして、いいところを取り 出して持論にしているだけです。評論家の域をでていません。自分で証明の努力を することなく人の説を借りて持論のごとく豪言する不貞のやからです。 何もそこからは生まれることはないと思います。やたら攻撃をしています。 謙虚さのかけれも見受けられない人には攻撃的になってしまいます。 お見苦しい文章をお許しください。(4.23)
 連日のようにパレスチナ人自爆テロの記事が新聞に載っています。 悲惨な状態です。救いの手は誰が差し伸べるのでしょうか? イスラエルを止められるのは誰なのか?救いようがありません。情けない現実です。  ここのところホーキングの本を読みあさっています。宇宙の謎について興味をそそら れますが、科学で説き明かされることは、所詮人類は自分の枠を越えられないのでは ないかというとこです。自分の枠とは何かということになりますが、イスラエルを 止められない、パレスチナ人を救えない、人類は総て欲望の虜です。この欲望が枠なの かもしれません。今日の新聞にアメリカのカトリック司祭による少年少女への性的虐待 の記事が載っていました。聖職者が性的虐待をするこの現実に何を見るか? 話はあちらこちらに飛びます。ホーキングさんらの唱えるところの最先端の宇宙論では 「神」は存在の必要性がありません。宇宙はそれ自体で自己完結するのです?しかし、 人類には「神」なり「仏」、「アラー」なりの「救い主」が必要なのだと思います。 科学の宇宙創造と信仰上の宇宙創造には違いがありますが、だからといって信仰、神は 間違っているという結論にはならないと思います。人にとっての神であり神の啓示は人に 対してのものです。伝えたいことの本質が大切なのであってその表現の細部において 科学との食い違いが出たとしてもそれは根本的な問題においてはたいしたことではない のではないかと思います。今日は信仰を擁護しています。信仰を疑って疑って最後に 残った一かけらの真実が人類に救いをもたらすのではないかと考えています。 イエスという人が現われ人類に救いをもたらしたということをどう見るか、疑って疑って もその後に残るものは何か?神に選ばれた民、ユダヤ人・イスラエルのしていることは神の 御旨なのか?分からないことだらけです。(4.28)
 ホーキングさんの「ホーキング、宇宙を語る」を読んでいて感じたことを書き連ねます。 彼は一個人としては神なるものを否定しているわけではないようです。かえって至って 彼は謙虚です。何処かの人のように「・・・の大ウソ」などといった傲慢さは微塵もあり ません。神秘なるものへの探究する「思い」の中に人類の生き残る可能性を見つけだそう とでもしているかのようです。3次元と時間を加え4次元という次元は人が存在するには 最適の条件なのです。3次元よりも少なくても、また今、脚光を浴びている 「超ひも理論」の多次元でも、人類には不向きな世界なのです。理論上の話としては 面白い可能性を含んでいるみたいですが・・・。人類の側から見ての世界、宇宙が現実の 世界なのです。神なる存在も人の側から見たときの「神」が問われるのであって、人類が 存在しないときの神なり宇宙なりを問うても意味がないのかもしれません。人類の創造を 考えたとき、偶然なのかあるいは必然的に神の意思が働いて人類が生まれたのか? 話は少しそれますが、私個人が生まれた事を考えるとき母は私を生むために性行為を 行なったのか?ということになります。生みたいという意思はあったと思いますが選んで 私を生み落としたわけではありません。神が性行為をしたなどと言う気はもうとうありま せん。それこそ変な新興宗教になりそうです。神の意思があったにしても人類が成長する 過程において神は人類によって形作られてきたのではないかと思います。目にしない生み の母を瞼に思い浮かべるように。そこに神の側の啓示が有ったのか無かったのか? それぞれの宗教は有ったと主張しています。神といってますが神はいかなるものか? これまた謎です。聖書では明記されていますが・・・。次元の問題と同じです。 人類にとって都合のいい次元に生存しているのです。神の問題も同じかもしれません。 人の側の都合のいい定義を当てはめて考えるしか人類には手だてがないのです。    「思考の断片」第5号が出来ました。 ご希望の方はご足労ですが、ガンガーまでお越しください。(4.30)
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