2002年9月の「思い」  
 明日から9月です。
8月27、28、29日と乗鞍高原に行き、3097mの乗鞍岳に登りました。
息子と二人良い思い出になりました。本格的な登山でもないのですが、体力と気力の
衰えを確認するにはちょうどいい運動量でした。乗鞍高原もすばらしくてこの自然を
いつまでも残しておきたいものです。名古屋は残暑が強くて、気力、体力を消耗して
しまいます。長野の知事選挙が明日です。どうゆう結果がでるか楽しみです。
あと小泉さんが北朝鮮の首相との対談に打って出ました。吉と出るか凶と出るか?
お互い腹の探り合いです。拉致問題をどのような形で解決するのか?
難しい問題です。国家と個人が重なりあった複雑な問題です。元赤軍派メンバーの
単独行動とゆうわけにはいきません。国家が拉致をしていたことを認めるとなると
これまた大問題です。それはありえません。そうなると・・・、関係者の処分と
拉致された人の一部解放?しかし、一部でも事実を認めるとなると他はどうしたんだ
ということになり、全容を追及され・・・。難しい問題です。
「サトルの冒険」の読者からのうれしい言葉をいただきました。はやく校正をして
製本しなくてはいけません。9月半ばを目処に精を出したいと思います。(8.31) 
 小泉さんが打って出たのには、いろいろな憶測ができます。その一つにアメリカ のテロへの報復が本気だということを北朝鮮が察知して政治的変更を余儀なくされている 現実があるのではないかと思います。北朝鮮の政治路線変更のこの機会を小泉さんは 利用して、拉致問題解決の糸口をみつかようとしているのだと思いますが、これは甘い 考えだと思います。 アメリカへの脅威と国内事情の切羽詰まった問題を抱えての北側の都合による路線変更 なのです。北側にとっての都合であって日本のことを考えての対談ではありません。 いかに自分たちの都合のいい条件を引き出すかが主であって、そのために拉致問題を 目の前にぶらさげているだけのような気がします。すべてのことを考慮しての判断だと 思いますが、人権の無いような国家主義に対して拉致という個人の人権を持ち出しても、 平行線をたどるだけだと思います。ただ、経済的救済の餌をちらつかせれば、それに 答える(拉致問題解決)用意は出来ているのかもしれません。(9.1)  バイトの人が「雑草が気になるので、草むしりをしてもいいですか?」と言われました。 そうですよねえ、ぼくぐらいですか?雑草に毎日水をやっているのは・・・。 妻も雑草が気になって、気になってしかたないようでしたが、私が無視して草むしりを しないでいたので、店の回りは雑草が生い茂り、お客さんから見ると小汚い店 と写っているのかもしれません。バイトの提案に一瞬、迷いましたが「そうですね、気に なるようでしたら、やってください」と返事しました。雑草も命ある生き物と思い むしることに抵抗を感じているのですが、客商売でお客さんが汚いと思うようでは・・・ 自分から主義を主張するほどの哲学があるわけでもなく、ただのものぐさの言い訳程度 でしかないのです。人に頼むぐらいなら、自分でやるべきでした。明日、さっそく 胸に痛みを覚えながら草むしりをしたいと思います。(9.1)
 長野県の知事選が終わりました。田中康夫強し!長谷川さんはいま一つインパクトが たらなかったようです。その人が持っているエネルギーの違いでしょうか? 田中さんは生き生きした笑顔が印象的でした。日本を変える意気込がおありのようです。 頑張って知事のお仕事をされますことを期待したいと思います。  乗鞍のキャンプを題材にした話が出来ないものかと思考しています。 エッセイ風のお話ならすぐに書けそうなので書くことにします。(9.2)
 あるものを消費するだけではいつか使いきってしまい無くなってします。 創造と消費の違いです。創造によって生み出された物と消費によって生み出された物は 見た目は同じような物でもまったく違う物です。多くの人が芸術という名のもとにそれ ぞれの作品を生み出し発表していますが、それらの作品には創造によって生み出された物 もあれば、その人の才能を消費して作り出された物もあるような気がします。 才能を消費した物には限界があるのではないかと思います。限られた才能という限界です。 でも創造として生み出された物には無限の可能性があります。 作品には大きく分けて、この二極があるような気がしてきました。 旨い、下手とかいった次元ではなく、可能性です。世間でいう下手な作品にも可能性を 感じることがあります。反対に名の有る大家の作品でもただの消費された作品には何の 感動も受けないことが多々有ります。生み出すということは与えられたものを感じられる かということかもしれません。創造を神からの贈り物というような神秘的表現で表わした いとは思いません。でも自分から出るのではなく、ふっと思いつくのです。いかん! 自己分析は難しいです。どうしてもいい風にいい風にとってしまいます。自分を美化した ような作品には拒否反応をしめします。  
 「乗鞍」と言う随筆を書き出しました。最初はちょっとこういうものは書きずらいと 思いながらも、まあ日記のつもりで気軽に書きましょうと思い直して書いていました。 書いているといろいろと思い出し、一人悦に入っています。これから話を童話風にも 小説風にも出来そうな書き物になってきましたが、これはあくまで随筆としてありのまま を書いていくことにします。蒼生舎に掲載していただけるか?太田さんに聞いて みようかと思います。蒼生舎の紙面が限られているので別の形で発表するかもしれません。 (9.5)   「乗鞍」(ある家族の小さな旅行)2002年9月11日 眼我 真    19号線で乗鞍へ、今年は妻も運転が出来るので気が楽です。以前乗っていた自家用車 はクラッチ式でしかもハンドルが重く、妻が運転を嫌っていたのも、いまになって思えば 理解できます。最新の軽自動車は実に優秀です。性能が良くなったので運転も楽になり、 遠出も気になりません。その反面、利便性を追及するあまり何かを忘れてきたような? 環境への配慮という点ではまだまだ開発の余地が残されています。 誰でも自分のことは差し置いて、他のこととなるといろいろと言えるものです。 乗鞍での二泊三日の小さな家族旅行を通じて、自分自身忘れかけているものを再確認する ことが出来ないかと思い、書いてみることにしました。    続きは「小説、童話」のコーナに記載しています。  
 例の9月11日が過ぎ、翌日です。不審船が引き上げられました。北朝鮮への圧力を かけるのに都合がよくなりました。小泉さんの考えではなく、アメリカの意向が働いて いるように思えてなりません。踊らされいるのは小泉さんで操っているのはアメリカです。 戦争したがり屋のアメリカは日本を手先に使い、北を煽るため不審船を引き上げさせたの ではないかと思います。17日が楽しみです。(9.12)  
 最近思うことを書き連ねます。 情報が過剰に流れ、人の考えを自分の考えのように思い違いをして、 評論家のように善し悪しを批評する方が増えています。情報をある程度遮断したほうが いいのではないかと思えてなりません。一人で考えをまとめることの大切さ、一人になる ことの大切さ、オリジナリティはそのようなところから生まれてくるのではないかと 思います。最近、私は他人のホームページをまったく見ません。これからも見ることは ないと思います。メールも必要最低限のメールしか書かないし、読みません。 作品の発表も興味ありません。蒼生舎通信には縁があって発表させていただいていますが、 いまは本心を言うと自発的に発表したいわけでもありません(蒼生舎の関係者には 失礼な言い方かもしれませんが・・・)。公募展などにも出品する気がありません。 ただ、作品だけは作り続けています。作ることが楽しいので、作り続けています。 これからも作り続けたいと思っています。一部の読者と蒼生舎の読者には細々と作った 作品を発表したいと思います。作ることが楽しくて、発表にはまったく興味がなくなり ました。そんな時期もあっていいのではと思っています。 私の熱烈な読者が「誠様 神はあなたです。・・・」といった感動した感想文を送って くれました。うれしい反面、私を神のように崇めたまうことは、よくないことですので 「わたしは平凡なカレー屋のおやじです。平凡であることの大切さを 忘れないようにしています。人の痛みの分かる平凡さがいま問われているのでは ないかと思います。いつまでも平凡でいることを心がけています」といった内容の 返事を書きました。蒼生舎通信の三十号特別集に上に書いた様なことを書き 「蒼生舎通信も初心を忘れづ、名古屋の片隅で平凡な同人誌であり続けることを 期待しています」で結びました。私の気持ちがどのように伝わるかちょっと見物です? 善意に取られることと信じていますが・・・。悪意に取られるとしたら、少し考えなく てはいけません。(9.13)  以前、ゴキブリが秋田とヨーロッパの一部ではかまど虫といわれ、かまどの守り神と して大切に扱われていると書きました。これは事実です。ゴキブリも場所が変われば待遇 もかわるわけです。人の都合で扱われ方が変わる。秋田では貴重なかまど虫様と崇められ、 南へ来ると、片っ端から忌み嫌われ、害虫として殺される。人間の都合なのです。 信仰も同じところがあるのではないでしょうか?宗教の発生はその環境なり人なり の都合で生まれ、信じられてきました?ゴキブリがどう扱われるかに問題があるのでは なく、人がどう思うかに問題があるのです。信仰がどうあつかわれるかに問題があるので はなく、人がどう思うかに問題があるのです。キリスト教、仏教、ユダヤ教などの違いに 問題があるのではなく、信じる人がどう思うかに問題があるのではないかと思います。 ゴキブリは秋田も名古屋も同じなのです。それをどう受け止めるかです。 神と受け止めるか、害虫として受け止めるか。天と地の差があります。宗教も同じかも しれません。宗教自体に良い宗教、悪い宗教があるわけではなく(例外はあります) その宗教をどのように受け止めるかが問題なのかもしれません。信じる人の側に問題が あるのかもしれません。キリスト教も仏教も信じる側の人の思いは同じなのかもしれません。 宗教の違いは問題ではなく、信じる側の人の思いが問題なのかもしれません。 ゴキブリが問題ではなく、ゴキブリをどう思うか、人の思いが問題なのです。 そんなことを考えていたら、目に見えるすべての現象は問題ではなくて、その現象を どう受け取るか、人の側の思いが問題なのかもしれません。なんかインド哲学みたいに なってきました。シャンカラ哲学の「無知、無明」です。(9.13夜)
 今朝は早く(5時)から文を書きました。それも珍しく怒りの文面でした。ただ、 その文はある人に読んでいただきたく思い、そのためにだけ書きました。読み終えたら 破って下さいとお願いしての文章でした。その人は読み終えると私の書いた文をちゃんと 破ってごみ箱に捨ててくれました。私の文に共感していただいたようです。真実を見て 下さる何かがいらっしゃることを信じたいです。怒りの文を書いたせいか、今日は 疲れています。人を批判することは裏をかえせば自己肯定です。その批判に共感して いただいたことは自分を認めてくれたことになります。自己肯定のために書いたのでは ないのですが、結果的にはそういうことになりました。また、「許す」という行為を忘れ ないようにしたいと思います。私の怒りの対象になっている人物を許すことも 忘れてはいけません。私も全能者ではありません。間違いもすれば、嘘もつきます。 いまはできなくてもいつか許すことができることを信じたいと思います。  「石に泳ぐ魚」で柳美里さんの上告棄却がきまりそうです。柳さんは言論の自由を持ち 出して自分の過ち(プライバシの侵害)をごまかそうとしているみたいなのですが・・・。 柳さんは吹っ切れた強さ?をお持ちなので、これをバネにしてさらに作家として前進され ることと思います。 (9.14)   
 今日の朝のニュースを見ていたら、北朝鮮との国交正常化を期待するようなことを 解説者が全面的に前に出して話していました。???、いつのまにか国交正常化が一人 歩きしだしているようです。拉致問題を優先すべきではないでしょうか? あまりに多くのことを期待しても、実現出来るのは限られています。東南アジアの平安を 念頭にいれ、どのような内容になるのか?小泉さんの手腕のみせどころです。  昨晩、映画「グリーンマイル」トム・ハンクス主演。途中から見だしたので何故奇蹟を 起こす黒人が死刑囚にされたのか?わかりませんでしたが、大まかな流れは理解できました。 この映画は1999年アカデミー賞の何かの賞?を受賞しています。 私としてはいま一つストーリに不満があります。 奇蹟を起こす黒人が死刑にされるにあたり、理解ある看守たちは、 特に看守ボスのトム・ハンクスは彼を逃がそうか?と思い彼に相談するのですが、彼は 逃げることを拒否して「世の中の日々起こる悲惨さにもう耐え切れないから、自分はこの まま死刑を受ける」という内容のことを言いました。 奇蹟とは?神からの贈り物とボス(トム・ハンクス)は言っていました。神の名を出しな がらその神についての探究はまったくなされていません。自分の中の神であり、自分の中 の世界ですべてを解決しようとしているような、自分とその回りの友人だけの狭い世界で の出来事になってしまっていました。黒人の自己犠牲による奇蹟の行ないにはお涙ちょう だい形式が出来上がっていて、ついう・る・る・んしてしまいました。 悪には死をの形式で悪人二人を始末しますがこれも短絡的で、悪には報復をのいまの アメリカを象徴しているような内容でした。最後にこのボスが黒人から力をもらい寿命が 著しく延びて生き続けている姿で映画は終わるのですが、これも安易な思考でしかありま せん。言わんとすることが一貫していないような、かゆいところに手がとどきそう でいながら的を外しているような、後味がいま一つもの足りませんでした。 脚本がしっかりしていないのだと思います。こんな映画でもアカデミー賞がとれるのです。 黒人の自己犠牲による救いは美しく感動的でしたが、奇蹟で問題を解決させている ところにこの映画の限界を感じました。  奇蹟とは一体なん何でしょうか?奇蹟で有名なのがイエス・キリストです。 神なら奇蹟を起こしても当然なのかもしれませんが、死んだ人を生き返らせたり、病気を 直したり。普通の人が出来ないことをする?さきほどの映画でも死んだネズミを生き返ら せるシーンがありました。死人を生き返らせることはイエス・キリストもしています。 何を意味しているのでしょうか?聖書ではあなたの信仰が命を蘇らせたというようなこと で奇蹟の意味づけをしています。 信じれば神は奇蹟を起こしますよ!というわけでしょうか?遺族の悲しみに答えて、 死人を生き返らせる必要があるのでしょうか? 現実の悲しみを素直に受けとめることの難しさ、でも人にはそれを受け止めるしか できないことが山ほどあります。その悲しみを生き返らせるという奇蹟で簡単に解決して いいのでしょうか?奇蹟とはそんなものなのでしょうか? 奇蹟の意味付けが難しく感じられます。(9.15)
 卓球台がわが家にやってきます。リサイクルショップに勤めている知り合いに お願いしていた卓球台がついに、わが家にやってきます。私の父が作ってくれた鉄板卓球 台ではありませんが、本物の卓球台です。あと二年私が生きると、父の死んだ歳に追い 付きます。卓球台の知らせを聞いてから、なぜか二年後は父の死んだ歳になるのかと 考え深くなってしまいます。(9.17)
 拉致問題の消息が分かりましたが、・・・。八尾恵さん(元赤軍派の妻)が 電話インタビューで「死んだ人たちは北の思想教育に従わなかったために、証拠隠滅の ため殺されたと思います」このようなことを言っていました。 生き残った人たちは従順?に従った人たちということになります。 国家主義において個人の生命などは国家の前では大したことではないこたが改めて 分かりました。八尾さんは金総書記の指示で動いていたから「拉致を私は知らなかった」 という彼の発言は嘘だとも言っていました。国家主義の前では嘘も方便なのです。 そうなるとあの小泉さんとの共同声明も方便の一つでしかないということもいえます。 嘘で塗り固められた平和などいつでも崩壊します。一定距離をおいて付き合うべきです。 国交正常化は先送りすべきかもしれません。拉致問題に対してもっと強く出るべきです。 (9.18)
 常連さんから「この本面白いから、読んでみたら」と一冊の文庫本を渡されました。 いま話題の「模倣犯」の著者・宮部みゆきさんの書かれた「幻色江戸ごよみ」です。 私は小説を読まないのです。何故かというと、ストーリの先が分かるので読んでも おもしろくないのです。この本も同じだと思っていますが、その勧めてくれた人の好意を 思うと、つい「はい、分かりました。全部は無理かもしれませんが、読んでみます」と 返事をしてしまうのです。短編が十二話で一冊になっていました。解説をちょこっと読む と、十話がよかったと解説者は書いていましたので、さっそく十話「神無月」を読みました。 やはり面白くありません。大体予想通りで、さしたる感動もありません。いま売れっ子で いろいろな文学賞をおとりになっていらっしゃるお方ですが、私には興味の対象外です。 なぜそのお客さんはこの本に感動して、他人の私にまで勧めるのでしょうか? そのことのほうが私には興味あります。一話だけで判断してはいけないと思うので、あと 少し読んでみますが、これは面白いから読むのではなく、なんでこんな本が売れ、その お客さんを感動させるのかを調べるためです。第一話の「鬼子母子」を読みました。 ふーっ、死んだ母親が未練を残した髪の毛に火を付け・・・、死んでも魂、怨念は残る ことを前提に書かれた物語です。宮部さんの死生観を問いたい私ですが彼女は幽霊などは 当り前の存在としてとらえていらっしゃるようです。そのへんが私にとって物足りない 理由だと思います。物語自体は取り立てて凄いとかいうことなく、ただの話です。 私にとっては読む意欲をそがれる内容でしかありません。 幽霊、魂、怨念などの認識を確保することなく、当り前のように書き進める彼女の姿勢 はただの大衆小説家でしかありません。やはり私の興味の対象外でした。(9.19)
 拉致問題で遺族の方々が外務省、政府の対応のずさんさに憤りを表わしています。 小泉さん自体、交渉の道具に拉致問題を使ったにすぎないような対応のしかたです。国民 の安全を守るこが国家の大きな責任の一つですが、拉致は過去のことでこれから先の交渉 での優位さを引き出す道具にすぎないと考えているのでしょか? 遺族への誠意が感じられません。  昨日の宮部さんの本について、もう一言。 解説は最初の一ページだけしか読んでなかったので、確認のためその先を読んでみる ことにしました。宮部ワールドの絶賛です。神の創造に比べれば、わざとらしさがみえみえ の作り話でしかありません。こんな本を読むぐらいなら、自然の中で昼寝するほうがまだ ましです。真実の中にある平凡さ、平凡な生活の中にある真実。そのようなものはこんな わざとい作り話では表現しきれていません。しょせん、金儲けの手段にすぎない大衆迎合 主義的小説なのです。本を貸してくれた人には申し訳ありませんが、私の趣味では ありませんでした。でも、好意には感謝しています。これからも気に入った作品があり ましたら今回の件に懲りずに紹介してください。まじめに批評したいと思います。(9.20)
 今朝、家族で朝の散歩をたのしみました。30分でしたが、すがすがしい朝日を浴びなが らの歩きは心を軽快にしました。寒くなりますが、出来るだけ続けたいと思っています。  また、ゲームにはまっています。その反省なのか?夜中目が覚めてしまい、自分の弱さ と生きる使命?みたいなことを床の上に座り考えていたら考えがしだいに広がり、人類の 発生から、現在に至る経緯を「ああでもない、こうでもない」と自問自答、そうしていた ら偶然?妻が目を覚まし「電気も付けずに何しているの?」と声を掛けてきました。 「人類の発生について考えているところ、・・・」それからいろいろと持論を話しました。 ある程度言うと、眠たくなったのでそのまま眠りました。いつかこの持論を書かなくては いけません。今までにも小出しはしていたのですが・・・。  (9.25)
 この宇宙が生まれたのは偶然なのか?それとも何かの意思が働いて起こったのか? 地球の誕生も同じです。偶然なのか?意思が働いたのか?人類の発生も同じです。 すべて偶然ならば神や創造主などは必要なくなります。宗教も意味をなしません。人類の 歴史において宗教は欠かせない事実として信じられています。神や創造主の無い宗教など はありえません。人類の歴史上に確固とした事実として刻まれた宗教の出来事、事件など を考えたとき、宗教を否定することはできません。宗教を否定することは人類の歴史が 間違っていたことを肯定することになります。多くの偉大な先人達の中には真面目な 信仰者が多くいらっしゃいます。これらの人達を間違っていたと誰が言い切れるのですか? 結論的には人類の発生も地球の誕生も宇宙の始まりも、すべて何かの意思の現われだと いうことになります。この考えに無理がありますか?意思が有るか、無いか。 私としては意思が働いたと考えたいのです。そうすれば後の話が進められます。 宇宙の誕生に意思が働いたと考えたとき、それは何故か?という疑問が起こります。 その疑問は個人の誕生にも関係してくるのではないかと私は考えるのです。 宇宙の誕生と個人の誕生が同じ意思の現われ? 話が極端すぎますが、生まれ出る物(宇宙、人)ではなく、その生み出す意思について 語りたいのです。生まれ出る物(宇宙、人)は現象であって目に見える物です。 生み出す意思は物の如何にとはず働いているのかもしれません。草も虫も人も宇宙も 自然のすべてに働いているのではないか?  人は生まれて死ぬという寿命が与えられています。その与えられた時間の中で、 この「意思」を知り得るかどうか?意思を知り得たとき、その人は意思の意味を悟るの かもしれません。その「悟る」ことは頭の中だけで考えられることではなく、実生活に おいての日々の出来事を通して体験し、感じ、知り得るのだと思います。 宗教はそのことを言葉で伝えているのかもしれません。言葉で伝えられることと伝え られないことがあり、そこに言葉の限界があるのかもしれません。言葉では限界が あり、言葉以外の何かが働かないと信じきれない、その何かが先ほどから言っている 「意思」なのではないか?「意思」の現われの一つが宗教なのではないか? この「意思」を知れば宗教の違いを越えて理解し合えるのではないかと思います。 現実に起こっている宗教同士の醜い争いはこの「意思」を無視した、宗教の権威欲争い 以外のなにものでもないのではないかと思います。 ではこの「意思」とは何かということになります。私にはいまだ分かりません。ただ、 感じることはあるのです。真夜中ふと目が覚め、暗闇の中、窓の外を見ながら 自分の「思い」を無限の彼方へ放つ? 「何故人は生まれ、死ぬのか?与えられた時間の間に何をしなさいというのか?」 答のない問答を「ああでも無い、こうでも無い」と思考する自分。 問うこと自体が「意思」の表われの証なのかもしれません?でも、やはり分かりませんん。  いま述べたようなことを何かの形で小説にできないかと思索しています。 「サトルの冒険」の次の小説として考えています。(9.26)
「泣き虫ゴッキの宇宙論」(仮題)次の小説の題名が決まりました。 以前書いたゴキブリのゴッキーを主人公にした童話をさらに押し進めた小説にしようかと 思っています。泣き虫ゴッキーの冒険を通してゴキブリの宇宙論を展開させながら、人類 の愚かさを表現できないかと思っています。 「なにわともあれ村のアシカレ」も書き進めなくてはいけませんし、こりゃああ大変かも と思いながら楽しんでいる私です。(9.26)
 「泣き虫ゴッキの宇宙論」(仮題)次の小説の題名が決まりました。 以前書いたゴキブリのゴッキを主人公にした童話をさらに押し進めて一つの小説に しようかと思っています。泣き虫ゴッキの冒険を通してゴキブリの宇宙・信仰論を展開 させながら、それらは結局人類の愚かさを表現することに繋がるのではないかと思って います。「なにわともあれ村のアシカレ」も書き進めなくてはいけませんし、こりゃああ 大変かもと思いながら一人楽しんでいる私です。(9.27)
 題名を少し変えました。「ゴッキの宇宙」ストレートにしたほうがインパクトが あるのではないかと思い題名を変えてみました。 (9.28)
 今日の朝刊から二点ほど、「曜変天目 再現」瀬戸の若手陶芸家がついに 完成させました。私にとって、凄いことです。何が凄いかというと価値観の変化という 意味で面白い材料になるので興味があるのです。 世界に三点しか存在しない曜変を意図的に作り出すことに成功したとのことです。 科学力を駆使しての完成です。800年前は偶然にしかできなかった物を科学の力で 分析、研究の結果、意図的に作りだすことに成功したのです。 これからはいくらでも作り出せるようになると・・・、 曜変天目の価値は低くなるのでしょうか? もし、ダイヤモンドがその辺にごろごろと石ころのように落ちていて、一方石ころが 世界に三つしか存在しなかったら、その石ころはどれほどの価値をつけられることやら。・。 物の価値は人の都合で変わるのです。私にとって曜変天目は別に大した価値はありません。 その辺の陶芸家の作品と同じ価値観でしか見ていません。世界に一ついう意味では同じ 価値感です。誰も出来なかったことを成し遂げた努力には敬意をはらいますが、それ以上 でもそれ以下でもありません。  もい一点「白いタヌキ」長野・高遠五匹目撃、という記事です。 先日の「乗鞍」のエッセイに出てきた白い聖なる生き物「乗鞍ノッシー」はこのような 突然変異による白い生き物だったのかもしれません。白い兎ということもできますが・・・。 (9.29)
 摩訶不思議?「お月見泥棒」について知らせてほしいと知らない人からのメールを いたただきました。何で?妻に聞いてみましたら 「ホームページに書き込んであるんじゃないの?言葉で検索出来るから」と言うでは ないですか。そんな文中の言葉で検索ができるなんて、そんな馬鹿なと思い 「お月見泥棒」で検索してみましたら、何と出てくるではないですか。私の古い詩の中 に一度だけ使った言葉でした。コンピュータの恐ろしさを知らされた思いです。 ついでに私のペンネーム「眼我 真」で検索してみました。すると数件出てきました。 その中に私の知らないホームページに二箇所出ていました。 一つは藤原新也のホームページでした?さっそくその箇所を調べてみました。なんと 私がホームページの中で藤原新也について書いた言葉が私の名前入でそこに記載されて いるではないですか。どうして?私は送った記憶はありません。しかも、ご丁寧にその 私の言葉に藤原さんが返答をしているのです。これは誰かが私のホームページを見て その内容を私の名前で送ったとしか考えられません。善意から?でもこれって著作権の 侵害ですよねえ。一言私に了解を得るべきです。「送っていいですか?」とね。 誰か知りませんが、でもホームページ自体無防備な媒体なのかもしれません。 何処の誰が見て、どう思っているかなどまったく分からないのです。そんなものだと心 してこちらも対処するしかありません。一応著作権のことはホームページの表紙に 「このホームページの著作権は眼我真に有ります」と明記してあります。 また「禁無断転載」とも書いています。今回は善意からの行為だと思われるので、これは これで良しとしておきます。これからのことを考えたら、作品の盗作などが起こらない ような対策も考えなくてはいけません。  さっそくホームページの一部をリフォームしました。連載中の物語以外の 童話関係は読めないようにしました。ようは童話以外はいままで通り読めるということ ですので、そんなに不便をおかけすることもないと思われます。(9.30)
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