2002年10月の「思い」


 

 今日から10月早いです。もう秋です。
昨晩夜中に目が覚め、いろいろと考えを巡らせていました。
パソコンに書き込もうかと思いながらそのまま寝てしまいました。
さて、何だったのか?信仰についての思考でした。神にはいろいろな神があり、それぞれ
の神にはそれなりの由来があり、信じることで人は救われる。人類は一つでも民族、国家
は多々あり違いがあります。成り立ちの違いや地域性などで違いが出来てくるのだと
思います。神も同じく成り立ちや地域性の違いで差異があるのだと思います。その神々の
元になるものがあり、その元にあたる「ある物」が宇宙に存在するのではないかと思われ
るのです。私にとってその「ある物」が何なのか証明出来ないし、説明も出来ない代物
なのです。その「ある物」を感じ、信じた者にイエス・キリストがいてブッタがいて
マホメット(ムハンマッド)などの先人?がいたのではないかという思いがしてなりません。
その神々の元の「ある物」とは何か???言葉で説明できないような物。
 人は何処かの地に生まれ、国籍を持ち、その国家という組織の一員として生活をします。
何かに属することが義務ずけられているのかもしれません。同じく宗教もその意味では
どれかの宗教に属するように与えられているのかもしれません。ただ、国家と違い
選択の自由があり、自分で選ぶことができます。国家も大人になれば自分で選べる時代に
なりました。選択出来る自由がある反面、選択しない自由もあります。無神論です。
話が大きくなり過ぎるとまとまらなくなってしまいますので、宗教について語ります。
人はどこかの国に属しているものです(例外は別にして)。宗教も同じくどれかの宗教に
属することが先ほどから言っている「ある物」への近道なのかもしれません。ただ、
ある物は元であって、それから発生した神々には違いがあり・・・、同じことの繰り返し
になります。疲れてきました。思考を一時停止します。
 
 下記の文は蒼生舎通信30号に寄せて書いた私の文が記載されなかった理由を
私の側から推測した経緯をかきました。この下記の文章を責任者に送ったところ
責任者から「単なる編集ミスでした」という言葉が帰ってきました。
「けっして2のような意図的削除ではありません」とのことです。来月号にその経緯と
私の文章を記載するとのことです。私の誤解ということになりますが、私がこのような
文を書かなければ次回に乗ることもなく私の文は忘れられていたことでしょう。言って
よかったのですが、意図的に削除したわけではないので下記の文は私の一人勝手な思い
違いということになります。関係者にはご迷惑をおかけしました。
蒼生舎には引き続き私の文章を寄稿させていただくことにします。私の思い違いなので
以下の文を抹殺しようかと思いましたが、私の思いの経緯がよくわかるので
このまま掲載することにします。もし目障りといわれればいつでも抹殺いたしますので、
気にさわる方はお知らせください。
 
 蒼生舎通信30号に寄せて書いた私の言葉が掲載されなかったのは何故か?
原因は二つ考えられます。
1、単なる私のメール発信ミス。
2、内容が掲載にそぐわなかったので、意図的に削除された。
 1、は考えられないのです。いままでも何度か発信ミスをしてますが、それは後から
調べれば発信ミスを確認できます。今回もミスをしたのかと思い受信トレイを調べ
ましたら、それらしき物はまったくありませんでした。
そうすると2、ということになります。私の本心を理解されなかったとなると私の文章の
未熟さなのかもしれません。言葉足らずに書いたので、もしかしたらという懸念はあった
のです。その辺のことは9月13日の「思い」を読んでみてください。
私の悪い予想が当たったことになります。だからどうだということでもありません。
ただ、そうかという感想だけです。私の本心は理解されないのかもしれません。
たぶんそうです。自分でもこんな人は・・・と思っています。怖いもので、文章を読めば
人柄が分かるものです。そういう意味では私の文章を純粋に読んでいただきたかったです。
いまもこれからも平凡であることに固執するつもりです。私を自分の神だと手紙に書いて
こられたファンの方は私が返事で書いた「平凡」の意味を理解されたようで
「これからも一読者として誠様の書き物を楽しみに待っています」と返事をされてきました。
よかった、よかった。ごく一部の人にしか私の書き物を郵送していないのですが、
その方はそのごく一部の人です。ありがたいことです。 
 私のことを神のように慕ってくれる人がいることを書いたことがいけなっかたので
しょうか?私の言いたいことは自慢したいからそのように書いたのではありません。
そのまったく反対で、私もその読者も同じ次元の人間で人として平等なのです。
本当に平等なのです。それは人以外にもあてはまります。ゴキブリも私も同じ次元の平等
な生き物と思うことができるかどうか?
私が文章を書くのは有名に成りたいからとか、人より優れているというような思いで
書いているのではありません。平凡なカレー屋のおやじだから書ける、
平凡な中に埋没して忘れられているような何かを書きたいのです。書きたいことがあって
書いているだけです。後その作品を世に問うことにはいまのところ興味がありません。
この書き込みだけを読まれた方は私という人物を片寄った変人と思われるかもしれま
せんが、私本人はいたってバランス感覚を大切にしているつもりです。 
 なぜ30号に掲載されなかったかを探究しているのです。
私の側はこんなとこですが、無視した側にはそれなりの理由があるのだと思われます。
その理由がなんなのか?
あなたも私のように平凡でいなさいと言ったことに違和感を感じられたのかもしれません。
「送料がかさばって大変だ」と言われていたことに対して私は
「じゃあ送るのを止めたらどうですか」と言いたいのです。背伸びして東京などに送る
必要はないと思います。もし希望があれば送料はそちら持ちにしてもらえばいいのです。
一人の人に理解していただければ、他の世界中の人に知られなくてもいいと思っている
私ですから以下のように言ってしまうのかもしれません。
「名古屋の片隅で平凡な同人誌であり続けることを期待します」と私は結びました。
いまも同じ思いです。私の送ったメール全容を記載して終わりとします。
 
 『 三十号に寄せて
私の書き物のファンからいただいた手紙に「誠様 神はあなたです。・・・」
といった感想をいただきました。
返事に「わたしは平凡なカレー屋のおやじです。平凡であることの大切さを
忘れないようにしています。人の痛みの分かる平凡さがいま問われているのでは
ないかと思います。いつまでも平凡でいることを心がけています」と書きました。
蒼生舎通信も初心を忘れず、名古屋の片隅で平凡な同人誌であり続けることを
期待しています。』
 
この書き込みを蒼生舎の関係者が読まれたらどのように思われるか・・・?
以上の書き込みが私の一方的な誤解だったとしたらお知らせください。
訂正と謝罪をいたします。
(蒼生舎の関係者が読まれなければ、それはそれで構わないと考えています。
すべては有るがまま。それが私なのです)2002年10月1日 眼我 真(10.1)


  昨日の書き込み、書いたからといって別に何かが変わるわけでもなく、
ただ嫌われるだけかもしれません。私としては自分の中のわだかまりを消化したかった
だけです。関係者にご迷惑をおかけいたします。よくよく考えるとやはり私は蒼生舎の中
では異端なのかもしれません。
「特集・おたより・・・30号に寄せる」を読んでいたら
「30号おめでとうございます」これらほめ言葉の洪水に違和感を感じます。
私の違和感は何処からくるのか?それは「みんな一緒」という連体感かもしれません。
一緒ではない何かが私に違和感を与えるのです。
一方的に拒絶するつもりはありませんが、他の人との違いを感じるのです。
共有できない何かがある以上、同じ紙面に作品を提供することはおかしなことです。
これからどうしたらいいか、ちょっと考えてみます。
  
 台風が去って秋晴れとなりました。「お客さん来てください!」と声を出して
呼び込みをしなくてはいけません。秋の新メニューもできました。ナス(野菜)カレーに
パラックパニール(インドチーズ入りほうれん草)カレー。勿論、定番カレーもあります。
 「思考の断片」第7号ができました。希望者はガンガーまで買いに来られるか、郵送
いたしますのでお知らせ下さい。 (10.2)
 
 

 蒼生舎との関わりをどうするか考えた結果一応結論がでました。これは筋を通して おかなくてはいけないので、その結果については後日書き込みたいと思います。 責任者にまずは昨日からの私の思いをお伝えしてから私の結論をご通知したいと思います。    夜、店を閉めるとき流しの三角コーナー(生ごみなどを入れる金網物)のゴミをごみ箱 に捨て、そのままの状態でその三角コーナーを外の土の上に置いておきます。 翌朝その三角コーナーを見てみますと、なんと細かい生ゴミがきれいに無くなっているの です。みごとにきれいになっています。蟻、ナメクジ、玉虫などの小さな虫が夜の間に 食べてきれいにしているのです。あの生ゴミのぬめぬめ感もきれいになくなっています。 かれこれ一ヵ月以上前から毎晩この行為をしている私です。人が捨てた余りもののさらに 余り物でも彼等には大切な生きる糧となっているようです。すべてにおいて分かち合いの 精神を大切にしたいものです。  先日買った卓球台で家族での卓球を楽しんでいます。乗鞍ではいま一つ相性が合わなく 疲れる卓球でした。あれは山に登った後でのことでしたので疲れがあったのかもしれません。 卓球台を広げると部屋いっぱいになり充分動けないのですが、練習としてコンスタントに 打ち合うには支障が無く、三人汗をかきながら練習をしています。何時かどこかで 家族大会でもあれば家族三人で出場したいものです。  私の書き物のよき理解者である友人がいろいろな事情から車を廃車にして、自転車での 通勤にかえたとの噂を聞きました。車の無くなった友にとって私の店はかなりの距離に なると思うので、いままでのように1〜2週間に1度の割りでは来れなくなると思います。 何かの形で私の書き物を彼に伝えたいと思っています。  ゴキブリを主人公にした「ゴッキーの宇宙」を書き進めるにあたり、やはりゴキブリの 研究をしなくてはいけません。明日にでも図書館に行き、ゴキブリ関係の書物を探して みたいと思います。生態系の研究書などがあればいいのですが?一般的でないので あるかどうか心配です。蜜蜂のときはいろいろと研究書があり、参考になりました。 蜜蜂とゴキブリではかなり傾向がちがうのであまりないかもしれません。蜜蜂の研究と ゴキブリの研究ではかなり聞こえが違います。これも素人の偏見だと思っています。 生物の研究としては同じです。あるいはゴキブリのほうがおもしろいかもしれません。  (10.3)  
   「嫌われ者」   嫌われ者が行くところは何処にも無い 何処に行っても嫌われ者は嫌われ者 なじむことなく去っていく この地上がなくなるれば去ることもないのに 地上はどこまでも続く 世の果てまで続く 嫌われ者は嫌われ者の繰り返し 一人たたずみ天を仰ぐは悲しさを隠すため 仰ぐ天には満点の月 風そよぎひとときの安らぎはこの時にあり 信じる物が何も無い世の中にただ一人いる 自分だけは信じたい 嫌う人ありて 認める人無くても信じたい 満点の月は私を照らす あるがまま あるがまま私を照らす 信じる者なくても私は自分を信じたい 満点の月のように あるがまま あるがまま私を照らし  己を信じたい 嫌われ者の私が間違っていないことを 信じたい 地の果てまで続こうとも信じて生きたい   上の詩は感傷的自己肯定埋没型人間の戯言の詩です。 実は私が感傷的にわざと作ってみました。こんな詩は嫌いです。 自分の殻にこもり他人を非難するだけの情けない感覚です。 以前ラジオで言っていたことですが、「悪い人、かわいそうな私」という心理学の 心理ゲームがあるらしいです。「あの人が悪いから私はかわいそうなんです」といった ように自分の現状がみじめなのはあの人が悪いからだと責任を他人のせいにする。 他人を変えるにはまず自分が変わることです。 他人のせいにしているかぎり何も変わらないのです。 さあ前を向き元気に一歩を踏み出しましょう!  常連さんが来られたので「乗鞍」の文章をお見せしました。私の書き物をよく読んで 下さる方で今日は食事のついでに「サトルの冒険」を買いに来られたのでした。 食事をしながら「乗鞍」を読まれ、「来年の富士登山記が楽しみだねえ」といわれました。 そうでした。来年は富士登山です。その方はバイクツーリングをよくされ、山登りも される方です。今日は山の話をして楽しく時間を過ごすことができました。 お客さんからいろいろと情報をいただけるところがこの商売のいいところです。(10.4)
 息子が歯の矯正治療をしていて、寝るときだけつける矯正用金具が1〜2週間前から 行方が分からなくなりました。家中を家族三人で探しましたが出てきません。 しかたないので歯医者さんにもう一度作っていただく話をしたら、1万円しますと言われ ・・・。妻は再度家中を探し回りますが、やはり見つかりません。最後は私の出番です。 私も一応探したのですが、本気?ではなく付き合い程度の協力でした。1万と聞いて本気 がでてきました。息子の行動パターンからしてここしかないところを徹底的に探したら 出てきました。ベットから落ち下にある机と壁のすき間の途中に引っかかっていたのです。 息子が自分の小遣いから1万円を出すと言っていたので、見付け出した私は三千円もらう ことになりました。今度この三千円で三人食事に行くつもりです。 何度か妻も私も息子もそのすき間は見て調べたのですが、重たい机を移動させてまでは 調べなかったのです。やはり1万円が効いたみたいです。これが千円ぐらいだったら 重たい机を引っぱり出すことまではしなかったと思います。 私が重い机を手前に引き出すと妻が歓声を上げて喜びました。ここしかないところに やっぱりありました。1万円徳をした感じはなんなんでしょう。  中山博一著作選集を昨日から読んでいます。私が所属?していたキリスト教(無教会) の大先生です。数年前に96歳で亡くなられ、弟子の先生たちが出版された本です。 後日、読み終えたら感想でも書きたいと思っています。書けれないかもしれません。
   蒼生舎の責任者からメールをいただきました。編集ミスとのことです。メールが沢山 くればミスをしないとは言えません。その通りかもしれませんが・・・、なぜ私だけ抜け 落ちたのか?遅れてきたメールといっしょに来月号に掲載されるそうです。遅れてきた メールと抜け落ちたメール、全然意味あいが違います。偶然が起こしたことですが、 私の存在感の無さが原因の一つに数えられないこともありません。 訂正と謝罪をどのように書けばいいか少し迷います。 今回の蒼生舎関連記事を完全に消し去って、今回の経緯を簡単にかけばいいのか? 一応関連記事の前文として朱字で私の思い違いであったことを書き加えておきました。  (10.5)
 昨晩は常連さんが沢山?来られ、あわただしく立ち振る舞はなくてはいけない状態 で個々の人とゆっくり話すことが出来ませんでした。残念です。遅がけに来られた知人 とはそこそこゆっくり話ができたのでよかったです。こうゆうのは巡り合わせです。 またの機会にゆっくり話せることを期待したいと思います。 今日の昼も別の常連さんが来て下さり、「サトルの冒険」を買っていただきました。 昨日からよく「サトルの冒険」が売れます。宣伝はまったくしていません。私の店に 来られないと買えないし、そんなものが有ること自体内緒にしています。ごくごく親しい 人で店に来られた人にのみお知らせしています。変な販売方法です。(10.6)  
 今日は少しドキドキすることが待ち受けています。私の信仰上、ならびに結婚、 その他でいろいろお世話になった名古屋の恩師に会いにいくことになっているのです。 ここ7年ほどお会いしていません、時たま(一年に一度?)電話での話ぐらいです。 家はそんなに遠くないのですが・・・。「サトルの冒険」と童話を読んでいただくために 行きます。私が文章を書いていることはまったく知らないはずなので、驚かれることと 思われます。なにかと自己ピーアールをしている今日この頃です。私の知人などで私が 物を書いていることを知っている人は極まれです。店の常連さんの方がよく知っていた だいているのが現実です。(10.7)
 詩人の堀雅子様からまた励ましの手紙をいただき、心うれしく思っています。 「誠様は必ず児童文学の作家になっていかれる方です。期待は真実ですよ」と以前も 手紙でプロの児童文学作家として自覚されるように励まされました。焦らず自分の道を 歩んで行きたいと思います。昨日はもう一つうれしい話があります。 私の恩師ご夫妻に久しぶりにお会いでき、楽しい時間を共有できたことを感謝したい 気持ちです。家族のこと仕事のこと世間話をしながら、持参した私の書き物の話になり さっそく奥様は「乗鞍」と「タロウのひまわり」を ご主人は「なにはともあれ村のアシカレ」をその場で読んで下さりました。 喜んでいただけたようで、にこやかに微笑まれながら作品作りについての質問などが ありました。よかったよかった、いろいろとお世話になりっぱなしでなんのお返しもして いない思いがありましたがこれで少しお礼ができたのではないかと一人安堵しています。 また遊びに来るようにご主人から声をかけられ「はい!また作品ができましたら 持ってきます」といって家を後にしました。うれしいことが続けて起こり、感謝感謝です。 (10.8) 
 「小柴氏にノーベル物理学賞」カミオカンデ構築でニュートリノ天文学を開拓。 ニュートリノを世界で最初に観測した功績を評価されての受賞です。 おめでとうございます。会見でのあの笑顔がとても印象的でした。人柄がにじみ出て います。宇宙の起源についての証明などに繋がる研究がさらにすすんで行くことを 期待したいです。もう一人日本人でノーベル化学賞をとった人がいらっしゃるようです。 明日の新聞に大きく取り上げられると思いますのでゆっくり読みたいと思います。 今年は二人も選ばれるとは、すごいことです。  「サトルの冒険」を読み返していたら、間違いをみつけました。p61のシャガム語は シャニム語に最後の方ではなっていました。時間がしばらく立ってきたので、少し 冷静に判断できるようになったかもしれません。読み返すと恥ずかしいような表現? ストーリになっているような気がしてきました。今なら書けないかもしれないような 場面がところどころ出てきます。ああ、はずかし! (10.9)
 43歳のサラリーマン研究員が受賞されました。ユニークというか、ごく普通の人が 思いかけず世界の最高峰を極めてしまったこの不思議。おもしろい兆候です。自分は たいして評価してないのに世界が評価するこの現象はおもしろいです。いいことです。 名は無いが実績は有る人たちにとって大変励みになるのではないかと思います。    「パンケーキの国で」(子どもたちと見たデンマーク)著・伊藤美好 平凡社 先日の恩師の娘さんが書かれた子育て体験記です。登校拒否の子ども三人と母親が 理想の教育を求めデンマークへ。全部を読んだわけではないので批評はできませんが、 ちょっと思ったことを書いてみたいと思います。家族内の問題が登校拒否の原因に大きく 関わっている気がします。たしかに学級崩壊、いじめによる登校拒否は現実問題として あります。ただ、その対応が問題なのだと思います。第三者が評論家のように語ることは たやすいことです。私の体験から言わせてもらえれば、親子の関係が旨くいっていれば この問題は解決するのではないかと思います。ここでいう解決とは決して学校に行くこと ではありません。「学校に行くこと」もフリースクール、通信教育などいろいろな選択肢 の中の一つにしかすがいないと親が思えるかどうかです。生きて行くうえにおいて何が 大切かを親が分かっているかどうかです。自分で考え行動できれば、あとは本人が選択 して生きていけるはずです。何が大切で何がいらないことかを親がまず気付くべきです。 そうすれば別に学校にこだわる必要はなくなるはずです。家庭崩壊、学級崩壊など これらの問題は本質を見失い欲望の渦に巻き込まれているから、解決方法が分からなく なるのです。もっとシンプルに枝葉を削ぎ落して幹をはっきりさせることです。最後は 家庭が根本的な問題なのだと思います。家族の一人一人が人間として自立した考えを 持てるかどうかです。親が小さい子も一人の人間として接して話せるかどうか。 ただ、小さい子は判断できないことが沢山あります。そこは親が導きながら子の人間性を 確立するために手助けをする必要があるかもしれませんが、それも最低限の手助けに すべきです。要は親の人間性の問題です。母親父親が協力して子を自立した人間に育てて いく覚悟がどこまであるかです。偉そうなことを言っていますが、親の後ろ姿をみて子は 育ちます。親がしっかりした考えを持っていなくては・・・。 評論家の様な言い方は嫌です。何か偉そうに言い過ぎました。私の最近作「乗鞍」を 読んでみてください。わが家のことを書いています。ガンガーに置いてます。 本の話が横道にそれました。(10.10) 
 ノーベル賞受賞の田中さんユニークです。まったく平凡な人柄に魅力を感じます。 お金、地位、名誉に無頓着な人柄は私にとっては絶賛に値します。私もこうありたいと 常日頃思っています。自分と比較するのは失礼かもしれませんが、こう有りたいと思って いることを実践されているというよりも、彼にとっては当り前のことなのだと思います。 ただ好きな実験をしたいだけなのです。私もただ好きな文章書きを続けたいだけです。 (10.11)
 ミュージカル「雪ん子十二郎」(いのちはぐくむものー家族・自然ー) 12月22日に日進市民会館で行なわれます。 そのミュージカルで作曲・指揮をされる藤村記一郎さんが数日前うちの店の近くという ことでチラシを持って来られました。昨日、少し話す時間があり、いつものように私は 初対面の方には自己紹介がてら一方的に話してしまいう癖があります。チラシをよく 読んでいなかったもので、ミュージカルのことを聞きそびれました。 チラシの「子ども人権宣言」について?「雪ん子十二郎」についても聞きたいことが あります。朗読「平和へ」の内容についても知りたいところです。今度機会があれば お聞きしたいと思います。 今日は大変忙しくなってきました。ゆくり書き込みというわけにはいきません。 ミュージカルのテーマが偶然ですが、私がこのところ書いてきた童話、小説のテーマと 共通するところがあるみたいです。このへんも藤村さんに聞いてみたいところです。 (10.12)
 検証しなくてはいれないことが2、3出てきました。 先日からの書き込みの恩師が昨日送ってくだされた「藤井武とマルクシズム・資料3」の内容 と今朝の新聞に意見広告の形をとりながら、しっかりと自社のイメージアップを意識? した山田養蜂場の全面広告についてと「理解されぬ性差別」(「仏教とジェンダー」再考) この三点について書き込みたいと思います。  まずは書きやすいところから山田養蜂場の意見広告を装う広告についての所見。 前回も同じ様な意見広告を掲載されています。インデアンの酋長がアメリカ大統領に 送った心打つすばらしい手紙を掲載されました。手紙じたいはすばらしくて私も知り合い のお客さんに広告をおみせした記憶が鮮明に残っています。ただ、この山田養蜂場の やり方には苦言を付け加えました。今回は子どものスピーチ(1992年リオで開かれた 国連環境開発会議・地球サミット)で行なわれたものを掲載しています。全文を書き込む といいのですが、時間がないので割愛します。希望者は新聞を読んでください。中日、 朝日、読売、毎日あたりには必ず全面広告で乗っているはずです。私の悪い?癖で人の 揚げ足をとるところがあります。このスピーチに問題を感じました。議会で絶賛さてれた との解説も付いていたようですが、子の立場から大人への批判を述べています。もっと 根源的なところに現在の危機が内在しているというのが私の私見です。環境破壊などの 原因は大人達のエゴイズム(利己主義)だけが生みだしたものではなくて、人類の 存在自体が自然破壊につながるということです。人類がもっと自然に配慮して生きていた としても、やはりなんらかの破壊は行なわれていくのです。人口が60億を超えれば起こ らないはずがありません。その破壊が地球規模で行なわれるか、地域の限られた範囲だけ の問題かの大小はあれど、人類がこのまま増えつづけていけば、いつかは今のような 地球規模の破壊へと続くのです。自然淘汰という言葉があります。飽和状態になればその 先は自然淘汰です。人類もその自然界の原則が当てはまるのだと思います。ただ、人類は 己の種だけでなく地球全体をも淘汰への道ずれにしています。これは人類への最後の メッセージなのかもしれません。誰からの? 私がやらなくてはいけないことは何か?問いかけをしているのですが何も答は見えてきま せん。何かの思いがこのように書かせるのだと思います。小説、童話を書いて何かの思い を伝えたいのですが、その何がわかりません。きれいごとで「環境を守りましょう。 地球を救いましょう」なんて簡単には言えません。 人類の存在自体が地球を破壊へと導いているのですから。環境を考え生活を改めたと しても、人口が65、70、80億と増加していけば食料問題、水の問題などから争いが 起こらないはずがありません。人口が増えればそれだけ環境破壊はさらに進みます。 だからといって何もしないわけにはいきません。さあ、あなたは何をしますか? 人類が生き残るためにではなく、地球が生き残るためには・・・。そんなことを言い出せ ば人類が滅亡することが地球を救うことになりそうです。神なり創造主は何を考え人類を 作り出されたのでしょうか?聞いてみたいのです。なぜ?ですか。なぜですか? 答えてください!私の思いはここに尽きます。何故人類が生まれ、いまがあるのか。 新興宗教ではありませんよ、平凡なカレー屋の独り言です。 先ほどのスピーチした子は大人になったいま何を思って生きているのでしょうか?もう 私達より上の大人がいけないんだとは思ってはいないと思います。自分が大人になって みて子の時(12歳)に言ったことへの返事として彼女は何を思っているか・・・。 彼女は近じか日本にこられるそうです。あれから10年、22歳の大人になって思うこと を聞いてみたいです。  次はキリスト教とマルクスシズムについてです。 「藤井武記念講演会」の資料を送っていただいたので、その資料を読んで感じたことを 書きます。藤井武を知られる方は限られていると思います。無教会(内村鑑三が唱えた キリスト教の一宗派)の方なら知る人ぞ知る厳格なクリスチャンでいらっしゃられた 先人です。岩波書店からも本がでていますので、知らない方は調べてください。彼の 偉業?を称えて毎年名古屋で記念講演が行なわれています。内村の弟子には他にも 矢内原忠雄、塚本虎二、あと名をあげればきりがありません。なぜ藤井武なのか、その辺 はいつか機会があれば書き込みたいと思っています。 今日は講演者・佐藤全弘先生の資料を読んで思ったことを書きます。 明日になると思います。(10.13)
 13日の書き込みの続きを書こうかと思っていたのですが、余り興味がなくなったので、 止めます。宗教を肯定するか否定するかの問題です。あと宗教の中の性差別についての 記事です。女性が仏教の中でも差別を受けていることへの、女性側からの問題提起です。 気紛れな書き込みで申し訳ありません。(10.15)
 連日連夜、拉致家族の話題がテレビから流れてきます。家族も本人も大変な思いを されているのではないかと思います。苦しいかった時を振り返り、心から笑える時が来ら れるのでしょうか?人の運命は誰が決めるのでしょうか?私に与えられた使命みたいな ものがあるとすれば、その使命を果たす覚悟はできています。さあその使命は? いまは文章を書くことで何かを表現できないかと思うしだいです。これが私の使命なの でしょうか?祈りながら書き続けたいと思います。謙虚に信じることを表わして行きたい と思います。書きたいことが次から次と沸き起こります。ただ、書きかけの物を完成させ なくては次ぎへは進めません。とりあえず連載物の「なにわともあれ村のアシカレ」と 「ゴッキの宇宙」を書き進めることに専念したいと思います。 少しづつですが、私の書き物のフアンが増えています。うれしいことです。 蒼生舎での連載も影響があると思われます。地道に歩むうれしさを感じる今日この頃です。 蒼生舎とは30号の記事で少しギクシャクしましたが、蒼生舎の方々にも連載させて いただいているお礼を言わなくてはいけません。(10.17)
 北のいいかげんさがまたアメリカの提示で明らかになりました。 核開発を凍結しますと1994年に約束していながら開発を続けていたのです。 正義の無い国では嘘も方便ですまされるようです。こんな国との国家交渉はどこまで 信じていいのか難しくなります。北はすべてアメリカが掌握していることを察知しての 拉致問題への対応なのです。アメリカを恐れての日本との交渉なのです。情報獲得が いかに交渉上優位にさせるかということの典型です。古里での涙涙の会見を見ていると 拉致という国家犯罪へのおぞましさを覚えます。これらの問題は北の国家体制が変わら ないかぎり解決しないのではないかと思われます。言論、信仰の自由がないところでは 正義も真理もありえません。いかにして体制を変えるか、難しい問題です。(10.18)
 昨日は詩と短歌ができました。詩の方は久しぶりにスムーズにできました。 いま展覧会をしてくださっている梅村裕美さんの絵本「つちのうえ」を読んで浮かんだ 詩です。誘発されるものがあると自然と生まれます。自然に生まれた詩は素直に心に 入ってきます。詩は他の物に誘発されて生まれ、文章は自分から意識して生みださなく てはいけないのかもしれません。文章を意識して生み出していると、つい自然の誘発に 対して鈍感になり、詩が生まれにくくなるのかもしれません。 長文と詩を作りだすときの感覚がいまだよく分からない私です。 詩は突然ひらめく感じで生まれ、童話、小説は頭の中で練って練って練り上げて 爆発するまでためて、発火点に達したとき一気に書き上げる感じです。  昨日「タロウのひまわり」を絵本にできないかと思い、下絵を書いてみました。 しばらく挑戦してみたいと思います。絵はここ何年か真面目に描いていません。 出来上がったら出版社に送る覚悟で描いてみようかと思います。ただ、おもしろければ いい感覚で、楽しみながら描けたらいいと思っています。描く本人が楽しくなければ 見る人も楽しくないと思います。さあどんな絵本が出来上がるか楽しみです。  知り合いの絵本の店に以前から蒼生舎通信を置いているのを知っていたので、 久しぶりに電話をして店主に私の作品の感想を聞いてみたら・・・ 「蒼生舎?ああ、あれ、読んでいないので・・・」との返事でした。そんなものなのです。 まずは読んでくださいとお願いしときました。彼には私の作品を読んでいただくために 多少の作品を送ろうかなと思っています。迷惑でなければいいのですが・・・。 他の知り合いでも私が文章を書いていることをまったく知らない人がかなりいるのでは ないかと思われます。少しづつ読者の和が広がることを期待したいと思います。(10.19)
不景気の影響か?店の経営も大変です。人はパンのみで生きているわけではないのですが パンもなくては生きていけません。まずはパンを稼がなくてはいけないのかもしれません。 聖書のいうように神にすべてを委ねて生きていけたらいいのですが・・・。現実は・・・。 さてパンを稼ぐにはどうしたらいいのか?働け、働けなのでしょうか?自営業はお客さん 相手です。お客さんに支持されなくなったら終わりかもしれません。わたしのキャラクター では役不足かもしれません、といって他の仕事があるのかといわれたら・・・? 冬はインド料理店にとって厳しい季節です。冬眠して来年暖かくなったら開店したい 気持ちです。(10.20) 
趣味のもの書きが生計に少しでも役立てられないかと、甘い考えが横切ります。 好きなことをして食べていければそれにこしたことはありませんが、人生そんなに甘く ありません。生計のため作品を売りこむことを考える私です。世に知られなくてもいいと 明言しながら、生計という言い訳を付けて売り込みを考える私の矛盾をお許しください。 書き始めて一、二年の分際でありながら、生意気なことを言うな!とお叱りを受け そうです。もっと作品を作り溜めなくてはいけませんし、内容ももっと充実させねば いけません。本気で本物を生み出したいです。(10.21)
 島根県のキリスト教高校で校長をされている高専時代の恩師に先週 私の作品(五月以降の作品)を送りました。昨年の暮れに始めて送り、喜んでいただけた のでまた送りました。あと絵本の店の知り合いにも昨日送りました。返事が楽しみです。  筆(パソコン)が進まないときは一人ごとを書き連ねると案外書けるようになることも あります。少ない経験から言えることです。つまらないことを書き連ねてみます。 堀様からの手紙に息子さんのことが書かれていました。「宝島の推理小説に応募して、 今年始めて一次まで残り、落ちてしまったけど、それでも本人は満足していて、これで 先の先にかすかにオアシスを見た思いがして、何時か自分の作品を見てくれる編集者が 表われる気がしてきたとの感想です。20歳で作家を志、いま36歳だということです。 16年もの間、書き続けているわけです。もの書きの道も険しいものです。 その堀様がある意味で私を認めて下さっていることは本当に心強い限りです。堀様の 知り合いで内の店の古くからのお客さんが先日来られたので、その話をしたら 「堀さんには娘さんもいて、その子は童話作家を目指して頑張っていると聞いている」 と言われました。私にはその話はまだされていません。その知り合いの方は娘さんの 話は知っていたが、息子さんも作家を目指していたとは初耳だと言ってらっしゃいました。 母親がもの書きなので子供たちも影響されているのですね、ということになりました。 世の中多くの人がそれぞれ夢を目指して頑張っているのです。ただ、認められる人は極 まれな一握りの人だけです。これも現実です。自分を信じて書きたいものを書くことです。 人と比較するのではなくて自分を出し切ることができるかどうか? それは個性ということかもしれません。私のオリジナリティを信じて書きたいと思います。 与えられた時間は限られています。その時間内に出し切れるかどうか? 真剣に自己を見つめたいと思います。最後は己の中に何を見るかです。夢、希望、絶望、 嫉妬、神、死、愛、家族、欲望などなど。さあ、あなたは何を見つけますか?  苦しくなるとやたら神に祈りを捧げます。都合のいい自称・隠れクリスチャンです。 人は弱くなると神などに救いを求めます。元気のいいときはまったく忘れて自己中心の 生活をしていながら、都合が悪くなると神に助けをもとめる。なんていいかげんな 私でしょうか?反省させられます。タンドールチキンの匂が店中に漂っています。 さきほど焼いたので当然ですが、同じようにいつも神の香を漂わせられるような人柄に なりたいものです。隠れクリスチャンでは無理かもしれません。高専の恩師に「将来の夢 としてバニアンのような『天路歴程』を書きたい」と手紙に書きました。信仰なくしては このような書物は描ききれません。しかし、夢は夢として持ち続けたいです。 少年よ、大志を抱け!四十半ばにして我いまだ少年なり。(10.22) 
 久しぶりに連載物の書き込みが進みました。詩も一つできました。少し爽快です。 私の書き物を送らなくてはいけないところがあと二箇所あります。私の実家と 妻の実家です。妻の実家にはまったく知らせていないので驚かされることと思います。 私の実家にはすでに昨年一度送っていますので、またかいなといった程度でしょうが これも親孝行?のつもりです。(10.23)  
 
10月「思い」続きへ