2002年11月の「思い」

 昨日、蒼生舎の方が出来たての蒼生舎通信を店に持ってきてくださいました。 ほとんど毎日四六時中、店から出られない私にとって、尋ねて来ていただける ことほどありがたいことはありません。しかも、店で販売している私の作品をも 買っていただき、この上ない感謝です。先月は「30号に寄せて」の文章について 妄想めいた書き込みを自分のホームページにした私に対して、あっけらかんと 対応していただき、かえってこちらが恐縮してしまいそうでした。 常におおらかでありたいものです。お二人様ありがとうございました。(11.1)
 今日は忙しくて、ゆっくり書き込みができませんでした。さっあて何を書きま しょうか。北の問題にします。日韓国交正常化交渉に対する日本政府のこれまで にない強気の態度はどっからでているのでしょうか?富める国の貧ぼう国への 圧力、優越感、後ろ立てのある強みからの慣れない強行姿勢には少し疑問がなき にしも非ずです。アメリカは交渉決裂でもいいと考えているのではないかと 思われます。長引いてイラク問題解決後に北と日本が決裂したらベストと思って いるのではないでしょうか?そのようになれば日米韓で北を叩けます。北の体制 自体を変えない限り拉致解決、核開発中止などはおこなわれないのではないかと 思います。拉致解決、東南アジアの平和には今のままの体制では困るのです。 体制を変えるにはこのまま援助を長びかせ経済破綻を起こさせ、体制自体を 転覆させればいいと思っているのではないでしょうか? さあ北はどうするでしょうか?起死回生の逆転劇はおこるのでしょうか? 鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギスです。 国家間の駆け引きで泣きをみるのは弱い立場の人達です。貧困で悩む北の貧しい 人達と拉致問題が無事解決することを祈りたいです。(11.2)
 連日昼はお客でにぎわいますが、夜が暇です。暇な夜に創作活動をしたいと 思います。川崎市に住む友人の奥さんが尋ねて来てくださいました。昨晩たまたま 実家(本郷)に電話したところ、たまたま里帰りをされていて私の最近の文筆活動 について話したら、さっそく一歳になる娘(瑞木)さんを連れられて店に来て 下さいました。旦那さんはプロカメラマンで世界中を取材などで飛び回っていて、 いまはハワイへ行かれているそうです。彼は仕事柄出版社との関係があり、もし よければ私の書き物を紹介していただけないかと、頼みました。書き物をまだ読んだ ことがないのでさっそく主だった書き物を奥さんに手渡しました。彼も昔は文学青年 だったので、いろいろと批評されることと思いますが、さて何と言ってくる でしょうか?楽しみです。  忙しいと無口になり、しだいに怒りっぽくなっていきます。許容範囲いっぱい なってきます。この不景気のご時世、しかも客商売なのに忙しくなると無口になる 私は本来サービス業には向かないのかもしれません。自営だから私のように変わった 性格でもやってこれたのです。今日は忙しいです。疲れました。 腰にどっと重みを感じます。  バナラシの音楽家の歌が聞こえてきます。雄大なガンジスのとおとおした流れ を歌いこなします。死者を葬るための町カルカッタ、ガート(沐浴できる岸)のある 町々は火葬場でもあり、死を見つめて生(せい)を生きるこれらの町人たちは死者を 見取る証人なのかもしれません。日本からの観光でのお上りさん的な発想では何も 見つけられないのではないかと思います。そういう私はまだカルカッタに行った ことがないのです。いかにも知ったかぶりに書く私は何様のつもりでしょう。 インドには7回行ってますが、どういうわけかガンガー(ガンジス川)には行って ないのです。店の名前に付けていながら行ってないという変な話です。(11.3)
 梅村さんの絵本展が終わりました。人柄が知れる展覧会でした。よしよし、と 言いたくなります。何がよしよしなのか?人柄ですね。それにつきます。   「よしよし、と」   よしよし、と言えることもそうなくて よしよし、と言いたくなるは 菊の香る秋 あなただからかもしれません ありがとうの言葉をお返しに あなたの笑顔をいただきます   梅村さんを思い出しながら上の詩を作りました。  連日連夜の忙しさ、体がもちそうにありません。体力には人一倍自信 がありますが、このハードさには常人の域をこえていると確信しています。 よく働きます。こんなに働く人も珍しいぐらいです。 一日17時間働いています。睡眠時間5時間であと食事の時間以外は 働いています。さあ、いつまでもつか・・・。これが案外慣れたりして、 異常なことに平気になるのです。神の試練なのか?与えられたことをこつこつ こなすだけです。(11.4)
 大泉讃さんと大岩智和さんの二人展が始まりました。以前からそうですが讃さん からは多いに刺激を受けます。智和さんは面識がなく讃さんの紹介で今回初めて 展示することになりました。讃さんは「グランド塩物語」の著者講演会にも関わって いて、12月に土岐で行なわれる「ECOもんじゃ元気祭り2002」では実行委員長 をされるとのことです。「サトルの冒険」を買って下さったので、感想が楽しみです。 感想がすぐに返ってくる人とまったく返って来ない人がいらっしゃいます。感想が 返ってこない人はそういう方と認識するしかありません。はずかしくて言えないのか? 読んでいないのか?手紙を添えて郵送した方の中にも何も言ってこられない方が いらっしゃいます。「感想をお願いします」と書いているのに、面白くなければ 面白くなかったと言って頂いた方がこちらとしてはすっきりして、いいのですが。 何も言われないと・・・、申し訳ございませんが、分からない方だと私の方が勝手に 思ってしまってもしかたないことだと思いますが、どうでしょうか?(11.6) 
 私はそういう人にはなりたくないので、できるだけ誠意を尽くして対応したいと 思います。ただ、忙しさにかまけてどうでもいいことは手抜きをするところがあります。 返事の無い方々もその辺は同じなのかもしれません。どうでもいいことなのかも しれません。読んでくださればそれで充分です。  体力消耗が激しいと創作意欲どころではありません。 疲れを癒す時間が宝のように思えてきます。一日が30時間ぐらいあるといいのですが。 そういえば時間泥棒の話がありました。え〜と「モモ」だったと思います。内容は? 読んでないので何とも言えません。ただ、時間泥棒は結局のところ自分自身なのでは ないかと思っています。与えられた時間をどのように使うかは個人の自由です。 またその時間をどのように思うかも個人の問題です。短いと思えば短く思え、同じ時間 を長いと思えれば長いのです。心の持ちようかもしれません。時間泥棒は物理的な泥棒 ではなく、心理的な泥棒かもしれません。「モモ」とは関係なく書いています。 「モモ」を読んでいないので、以上は私の私論です。  アメリカの選挙で共和党が勝ち、ブシュさんはやりやすくなりました。アメリカ国民 の意思がそこにあるのでしょうか?わが身を守るためには戦うことを優先してしまう 人の弱さのあらわれかもしれません。このような時代にこそ、イエスの信仰が必要なの かもしれません。「己を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」環境破壊、人口爆発 など、混沌とした時代です。指針をはっきり示すことが迷える人類には必要なのかも しれません。知人から「だから次世代を担う子供たちへのメッセージとしての絵本、 童話、児童文学がいま大切なのだ!」と言われました。使命を持って取りかからなく てはいけません。よっし!やるぞ。  拉致問題で蓮池さんのお兄さんがやたらテレビに出てメッセンジャーボーイ的な 存在として取り扱われていることに、多少危惧を感じます。 善意からの行為だと思いますが、彼の視点がすべてではないはずです。マスコミが いけないのかもしれませんが、何か聞き出せないかと彼にすりより、彼もそれに応え ようと興味をそそるエピソードを披露する。普通ではない兄弟をあえて演じてみせて いるのでしょうか?弟を思っての行動なのでしょうか? 彼(兄)が全面に出ることに違和感を感じる私です。 詩が二つできました。詩がちょこちょこ出来るようになりました。いい傾向です。 (11.7)
 明日、アメリカとイギリスが共同で国連安保理にイラクへの核査察議定書?を提出 するとのことです。イラクがこれを受け入れないとアメリカ、イギリスなどのイラク 攻撃が現実のものとなります。近い将来において同じようなことが北朝鮮にもおこなわ れるものと思われます。それまでに拉致問題が解決していればいいのですが・・・。  昨日作った詩の訂正をしました。すっきりしない詩はなにかと後を引きます。(11.8)
 寒くなりました。風邪を引かれている方をちょくちょく見受けます。私も気を付け なくてはいけません。健康が唯一の資本です。疲れを溜めない、それには熟睡と ぼ〜とした無駄なような時間が大切なのです。 ぼ〜とした(有意義な)無駄を楽しみたいと思います。今日も詩が二つ出来ました。 何か量産体制に入ったみたいです。(11.9)
 また詩ができました。でも変な詩が続いています。歌うようにできます。内容より 勢いというかリズムというか、おもしろい造語を繰り返してリズムをとり、一気に終わる。 変な詩です。遊びながらの創作です。こんなもんでもいいのでしょうか?人に詩を 見てもらうことがないので独断的傾向で作っています。良い点もあれば欠点もあるかと 思います。成り行きにまかせるしか手だてがありません。これが私なのです。それで 充分かもしれません。(11.10)
今日も詩ができました。ハードスケジュールで体力的に疲れているので、長文が書け ません。家族を養うのも大変ですが、やりがいもあります。健康だけは気を付けたいと 思います。(11.11)
 昨日、久しぶりにゆっくり?テレビを見ました。そういっても1時間程度です。 数年前のアニメ映画「アキラ」です。終わりの1時間ほどゆっくり見れました。 以前見たときはそんなに気にならなかったのですが、今回は気になる内容だと気付か されました。アメリカでも以前上映され話題になって、ヒットしたと記憶しています。 今回気になったのは人類の無限の可能性というか、宇宙のエネルギーを人類が 手に入れることが出来る可能性を未来(すでに?)に託し、それがいかにも輝ける人類の 未来を証明しているかのように表現されていることです。超自然な力を人類が持ち得る ことを暗示しているこの映画は危険な香を漂わせています。誰でもその超自然の力を 持ちえるような錯覚を起こさせるのではないかと危惧します。ゲームもそうですが、 現実との隔離した空想の世界と分かって対応できるのならいいのですが、変な優越感に 浸り、現実世界でも超自然の力を信じ、自己を英雄視してしまわないかと心配させ られます。人類の欲望の表われでしかない、優越感を払拭することの方が今の時代に おいて最も大切な気がします。そういいながら聖書ではイエス・キリストの奇蹟を 称えて?います。イエスの奇蹟とアキラの奇蹟(超自然的力)の違いは何か? 神から出ているか、欲望の表われとしての奇蹟かの違い、こんな簡単に識別していい ものなのかどうか?「アキラ」はしょせんアニメの世界を超えられないただの作り話で しかありません。イエスの奇蹟は信仰の表われであって、神聖な実話?なのです。 ?が付くのはキリストを神の子として信じ得るかどうかです。神の子として信じ得る人 には?は必要ありません。信じ得ない人にはアキラもイエスも同じ次元の話になって しまいます。私はイエスを神の子と信じたいと思っています。そうでないと人類に 希望がなくなります。2000年の歩みもすべて虚になってしまい、あまりに悲しい 歴史になってしまいます。イエスは神の子でなくてはいけないのです。あの十字架が なくては人類の歩みが無駄になってしまいます。イエスが神の子であって人類に救いを もたらした。これが全てです。ただ、このことを信じるかどうかは個人の自由です。 信じるか信じないか、二つに一つなのです。さあ、あなたはどちらを選びますか? 分からないは信じないと同じだと思います。なぜかというと選ぶ権利を放棄するのです から、信じないことを選んだことと同じではないかと思われるのですが? 信じなくても、分からなくても生きていけるのは事実です。それで希望が持てますか? 他の宗教も有り、キリスト教だけがすべてではないのも真実です。(11.12)
 今日の中日新聞朝刊一面「中日春秋」に聖書の言葉の引用が有りました。 「地の塩」です。イエスの山上の説教(垂訓)で有名なところです。 「あなた達は地の塩である。(世の腐敗をふせぐのが役目である)しかし もし塩が馬鹿になったら、何で(もう一度)塩気をもどすか。外に捨てられて 人に踏まれるほか、もはやなんの役にも立たない。あなた立ちは世の光りである。・・」 (塚本虎二訳) 先日、大泉讃さんの関係した講演会の話も「塩」でした。ただ、こちらは本物の塩の 物語で「グランド塩物語」の著者を招いての講演でした。でもこの「グランド塩物語」 はある意味、「地の塩」を意味しているものと思われます。塩から食、環境といった 問題をテーマに世の腐敗を防ぐ役割を語っているのではないかと思われるのですが、 この講演を聞いていないので確信が持てません。後で讃さんに確認してみます。 偶然私も先日から塚本虎二のイエス伝研究(山上の説教)を読んでいたので、今朝の 新聞を読んで感じるところがあり、さっそく書き込みました。  「地の塩」について塚本虎二さんの結びの言葉をかいつまんで記載してみます。 「キリスト教は自分の安心、幸福のための宗教でなく、徹頭徹尾他人のため、世のため のものである。世に味をつけ、その腐敗を防止し、またその暗黒を照らして光明と 希望とを与えるーここにその存在理由がある」(11.13)
イラクの国連決議の受諾を正直に受け止めていいものかどうか? 査察に入ってみないと何とも言えません。米攻撃の回避を引き伸ばすだけの 妥協のようなきがします。  蓮池さんのお兄さんが週間新潮に特別手記という形で「弟の洗脳をとくまでの 壮絶な闘い」を載せたようです。何かこのお兄さんには煙たいものを感じてしまいます。 兄弟愛ではない自己愛を感じてなりません。イラクの受諾といい、お兄さんの手記といい 建て前と本音が違うのではないかと思われてなりません。偽物と本物、判断を見誤らない ようにしなくてはなりません。  聖書を読んでいると「こんなことできないよ」と言いたくなる箇所があります。以前 なら気に止めなかったのかもしれませんが、いまは気になります。神の子イエスが 言われたのかと思うとついていけないと思えてきます。弱き者として救いに預かりたい 思いはあるのですが、受け入れられるとことそうでないところがあります。 イエス自身の言葉なのか、後世の付け足しなのか?分からないような箇所です。 聖書も疑ってかからなくてはいけないのでしょうか?それとも納得できるとこだけ 受け入れ、分からないことは分からないとして、とっておけばいいのでしょうか? 多分そうでしょうが、分からない箇所を調べなくてはいけないような気もします。 (11.14)
 曽我ひとみさんの北にいらっしゃる家族のインタビューが某週刊誌に写真付きで 掲載されたみたいです。フジテレビの横田めぐみさんの娘さんのインタビューといい 金儲け主義は困ったものです。国家的問題を企業の利益のために偽善ぽっく演出する このてのマスコミは罰する必要があるのではないかと思います。  幽霊が生きていたみたいです。ビンラディンさんが生きているみたいです。声明文の 声紋判定でほぼ本人の声だということです。アメリカのテロ対策が一段と緊迫してくる のではないかと思います。ただ、本物のビンラディンさんかどうか?疑り深い私は彼が 殺される前にバリその他のテロを指示して、その後のメッセイジとしてビデオ取りを していたのではないかと疑ってみています。(11.15)
 落ち葉のカサカサささやく季節になりました。西風が強く寒さも一段と身にしみます。 内にこもるにはいい季節になりました。聖書をここ数日長い時間読んでいます。 「あら、めずらしい。聖書読んでるの」と妻が言います。人目につかないとこでは ちょくちょく拾い読みはしていますが、まとめて長い時間読むのは久しぶりです。 新約の入り口、マタイ伝を読んでいます。イエスの奇蹟と言動に何故という疑問が起こ ります。奇蹟をどのようにう受け止めるべきか?神の子ならあたりまえのことです。 病気を治し、死人を生き返らせる奇蹟これらは神でなくて誰ができますか。そこらの マジックとは違います。死人を蘇らせられる人などいますか、このことを信じられるか どうか。奇蹟をもって信じるのではなくて彼(イエス)の生き様をもって神と信じられ るかどうかです。奇蹟はつまずきの試金石かもしれません。奇蹟は結果であって目的 ではありません。偽予言者はまず、奇蹟(トリックにすぎない)を起こし人を信じ込ま せようと暗示をかけます。イエスは違って、奇蹟を隠し通そうとします。弟子たちの 伝記ではそのことが多くの紙面を占めています。イエスは奇蹟の後必ずそのことは他言 しないようにとの一言を付け加えています。 イエスはなぜ奇蹟を行ったのか? 弟子たちにも伝道にあたり奇蹟を起こす力を授けます。なぜ奇蹟を起こす必要があった のでしょうか?わたしにとって奇蹟は分からない問題の一つです。イエスの場合はその 神聖から溢れ出る力が信じる人の信仰によって奇蹟を行なわせたというふうに理解 しようと思えば理解できないことではありませんが、弟子にいたってはなぜ奇蹟を 起こす力をイエスが授ける必要があったのでしょうか、疑問です。奇蹟をもって人を 導こうとしたのなら、そこらの偽予言者と同じ愚かな行為です。そうではなくて奇蹟は イエスのときと同じく信じる側の信仰の表われを表現していたのかもしれません。 弟子にも自分と同じ(神の)力を与えたのにはなんらかの理由があったのではないかと 思われます。悔い改めなさい神の裁きがすぐ来ますよ!最後の審判が近いと思われて いたようなのです。そのために悔い改めるようにイスラエルの民衆への伝道を急いで いたのかもしれません。奇蹟を起こしたのはあなたの神を信じる信仰のおかげですよ。 あなたの信仰があなたを救ったのですよ。だから神を賛美しなさい。奇蹟は目的では なく信仰の結果なのです。つまり「おまけ」みたいなものです。あればそれにこした ことはありませんが、無ければ無いでかまわないものなのです。要は神を信じて生きて いけることが大切なのであって、おまけ(奇蹟)はたいしたことではないのです。 信仰にとっては奇蹟はつまずきの石(試金石)なのかもしれません。(11.16)
 梅村裕美さんが私の詩と童話に挿絵と表紙を付けてくださるそうです。昨日、その 打ち合わせをしました。こんどの「サル市」に共同作品として売りにだします。希望者 は12月1日にサールナートのサル市に買いに来てください。さあどのような挿絵が 出来上がるかたのしみです。その挿絵に文字を印刷して製本するのが私の仕事です。 いままでとは一味違う作品に仕上がること受け合いです。「サル市」の後はガンガーで 販売したいと思います。売り上げの取り分をどのようにしたらいいか梅村さんと話し 合わないといけません。今回のコンビがうまくいけば懸賞付き絵本公募展に出品という 夢も描けそうです。しかし、なかなか思い通りいかないのが現実です。でも、夢は夢で とっておきたいものです。(11.17)
最近よく「あなたの原稿募集」という広告を見ます。気になっていたのですが いままでは無視していましたが、今日ためしに電話を掛けてみました。来月、名古屋の ナディアパークで出版相談会があるとのことで何事も経験と思い、話にのってみることに しました。まず原稿を東京の会社に送り、原稿を読んでいただいてから出版の話になる とのことです。広告では企画出版だと無料になるとのことですが、なかなかそうまくは いかないと思います。多分、共同出版というかたちか自費出版ではとなり、お金を出さ せるのが先方の魂胆だと思います。企画出版以外は断わります。私の原稿がどのように 判断されるのかが楽しみで、ちょっと話に乗ったまでです。(11.19)
 今年の年末は23日にバリのガムラン音楽コンサートを企画しました。 投げ銭コンサートということで寸志をいただく形式にしたいと思います。演奏者は常連 さんとその師匠ですることになりました。チラシも作らなくてはいけません。仕事と 趣味と多忙です。健康だけは気を付けたいと思います。  梅村さんの絵が出来上がってきました。童話「冬ちゃんのふぅわふわ」の表紙と 挿絵が出来上がりました。感動的です。さっそくその挿絵に文字を張り付けてみました。 出来ます。これで大量生産できます。手作り絵本です。試作で1ページだけですが作る ことができたので、後も同じ要領で出来るはずです。ただ、私の時間が大変です。 睡眠時間をこのためにさらに削らなくてはいけません。まあ頑張るしかありません。 体力を維持できますように、神に祈るだけです。  あと12月23日の土岐市のイベントで私の童話とか小説、詩集、今回の絵本などを 売ることになりました。さあ大変です。パソコン作業の時間を作りださなくては いけません。後一ヵ月あるのでこちらは少し余裕があります。 なにかとあわただしい私です。(11.20)
 昨晩遅くまでかかり絵本を二冊作りました。かわいらしい絵本に仕上がりました。 さっそく梅ちゃんに送ることにしました。彼女の反応が楽しみです。刺激になります。 これからもこのような形で他の人と共同制作というのもいいですね。  先月だったと思いますが、某養蜂場の(意見?)広告に12歳の少女の国連環境 サミットでの演説を掲載されたことを書き込みましたが、覚えていらっしゃりますか? その人が今日本に来て、各地を訪れています。セヴャン・カリス=スズキさん(22歳) です。先日新聞に取り上げられていまいた。「自然とつながり」評論家のような語り口 は以前とさほど変わっていません。ちょっとした知識と知恵があれば誰でも言いそうな ことを言っていました。動く広告塔としては存在理由があるのかもしれませんが、私に はそれ以上も以下でもありません。肩書きを捨て、野に出ることを実践されることを お奨めいたします。(11.21)
 梅ちゃんといっしょに出版社を立ち上げようかと思っています。 名前をなんとするか?梅星出版、満腹出版、ほのぼの出版などいろいろ考えています。 すずなり出版もいいですね。(11.22) 
 ガムランのチラシを作っていたら、ついミスを重ね、思もしないほど時間を とられてしまい、久しぶりにイライラしてしまいました。結局、最初にもどり シンプルにやり直したら一発で出来ました。予想を立て、その予想にしたがって行動 するパターンになれ、ミスをしないでこのところ思い通り?に事が運んでいたので、 こんなことで予想外のミスをしようとは思ってもみませんでした。 いい体験になりました。冷静に物事を判断していると思い込んでいた節があります。 まだまだ甘ちゃんです。しかし、忙しいです。その忙しさにもいくぶん慣れ 逆に楽しんでいる?今日この頃です。 明日あさってでもう一冊絵本を完成させなくてはいけません。 時間の配分を考え制作したいと思います。  眼我 真の個人雑誌をリニューアル?したいのですが、時間があればのことです。 (11.23)  
 図書館でやっとゴキブリの本をみつけました。 「ゴキブリ大全」デヴィッド・ジョージ・ゴートン(松浦俊輔訳)青土社 おもしろそうな本です。まだ読んでません、読み終わったら書き込みたいと思います。 (11.25)
 先日はまたまた他人の批判をしてしまい、お見苦しい文章を書いてしまいました。 不満がぷつぷつ沸き起こるのは自分が平和ではないからかもしれません。疲れが心の 窓を曇らせているのかもしれません。祈りの意味が身に染みて分かる立場に立たされて いるのかもしれません。同窓会名簿の予約の通知がきました。知り合いの所から 募金のお願いが来ました。知り合いのNGOからも募金の通知です。他のNGOからも きてました。出来ることと出来ないことを何処で線を引くか?全てを切り捨てるには しのびないのですが、・・・不景気で余裕がないのも事実です。そういう意味では 辛い年末です。私に力があれば・・・、祈ることが最大の力なのかもしれません。 信仰の立場から言えば「然り、然り。否、否」(聖書の言葉から)です。(11.26)  
 「お帰り」の言葉に「ただいま」と応えるたわいない会話が空気のように自然な ものが家族という形態を表わしているのかもしれません。あって当り前、無くなる ことは考えられないのが今の状態です。そのうち誰かが欠けてくると家族の存在を あらためて知らされるのかもしれません。今は幸せな一つの家族もいつかわ分かれて いくのです。ゴキブリも家族単位で群れをなしているようです。子供のゴキブリは 必ず親や兄弟といっしょです。欠ける悲しさをわすれるかのように増殖するゴキブリ は有史以来地球上最大の生命力を持った生物です。三億四千万年以前から生存する生き 物それがゴキブリです。ゴキブリが住めなくなったら地球は終わりです。人類の身近に いて嫌われ役をいってに引受ける凄い奴です。  「たそがれ清兵衛」という映画が中高年の男性に受けているそうです。幕末末期の 下級武士である清兵衛の家族、友人、他人への愛情が見る人の涙を誘うとのことです。 山田洋二監督作品です。見てませんがテレビなどの情報で内容が推測できます。外来 の映画が猛威をふるっている中で頑張っていると思います。人生について考えさせられる 映画もいいものです。娯楽に走りやすい作品よりは私の好みですが、・・・多分見ない と思います。(11.27)
 息子が昨日から試験です。一学期と二学期すでに二回試験をこなしています。 そこそこの成績で本人もまあこんなものかと思っているようです。育つ環境は自分では 選べないものがあります。運命と言えばいいのでしょうか、私とはやはり違うのです。 同じ遺伝子をもちあわせていても違うのです。試験にたいする意気込みがまったく違い ます。のんびりとそこそこに勉強しています。成績もそこそこいいのですが、すごいと いうところまではいかないのです。上の中ぐらいです。上のトップを取れる能力がある のにそこまでは意欲的ではないのです。それもこれも環境から来るのだと思います。 それはそれで長所もあれば短所もあり、彼の人生なのです。私とは違って当然なのです。 苦難が人を育てるのは事実だと思います。その苦難は与えられるもので自分で選べない のが苦難だと思います。自分から選べる苦労はたいして苦難ではないのかもしれません。 選べない苦しみを体験できることは感謝なのかもしれません。逆説的ですがそのことが その人の人格を一倍にも二倍にも大きく育てるのだと思います。信仰も同じです。 与えられるものなのです。苦難を感謝と思える様な人は信仰も感謝として受け止める ことができるのだと思います。息子はこの苦難をいまだ経験していません。幸せといえ ば幸せなのかもしれませんが、苦難を感謝することを知らない人生は弱いものかも しれません。これから苦難に合うことがきっとあるはずです。そのときその苦難を乗り 越えることができますように祈るだけです。信仰もそれまでは得ることはないでしょう。 苦難の中でしか信仰は光りを放たないものなのかもしれません。苦難の中でその光りを 感じ、その光りに捕えられたとき真の神を知り得るのです。知識だけの信仰と生きるため の信仰の違いはこの捕えられるかどうかの違いです。  クリスマスの話を100人ほどの前で話さなくてはいけなくなりました。 小学生を対象にする程度の内容で3〜5分ほどのクリスマスのお話です。聖書を元に 話をしたいと思います。その原稿の下書きをいまからします。  「クリスマスについて」  こんにちはいまからクリスマスについてのお話をします。 クリスマスは何の日か知っていますか? ここに本があります。この本がクリスマスに ついて書かれた本です。この本は聖書といいます。 前半は古い約束の話でイエス・キリストが生まれることを約束しています。 後半は新しい約束でイエス・キリストが生まれたことを書いています。 約束は誰との約束かわかりますか? 神様と私達との約束なのです。 この本はイエス・キリストについて書かれた本なのです。  イエスの誕生の記事は二人の弟子が書いています。 マタイという弟子が書いた記事は 流れ星に導かれて東方からやってきた三人の博士が宝物を生まれたばかりのイエス様に 捧げる話です。もう一つの話はよく聞く、馬小屋で生まれる話です。 この話はルカという人が書いた記事です。 この本の「ルカによる福音書」福音とは「良き訪れ」という意味です。 「ルカによって書かれた幸せがやってくる書き物」ということです。 その第二章にイエス・キリストが生まれたいきさつが書かれています。 ローマ皇帝の命令による人口調査のため、それぞれ自分の生まれ故郷に帰って行きました。 イエスの父親ヨセフはユダヤのベツレヘムに帰ってきていました。ヨセフとマリアは人が いっぱいで宿に泊まれなかったので、飼い葉おけの中に生まれた子を寝かせました。  さて、羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の番をしていたら、主の御使いが現われ 「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。今日 あなただたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。 あなたはたは幼子が布にくるまって飼い葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。 それがあなたがたに与えられるしるしである」 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現われ、御使いといっしょになって神を賛美して 言った。 「いと高きところでは、神に栄光があるように、 地の上では、み心にかなう人々に平和がありますように」  羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこよう ではないか」と、互いに語り合った。マリアとヨセフ、飼い葉おけに寝かしてある幼子を捜し あてた。彼等に会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。 マリアはこれらの事をことごとく心に留めた。羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たち に語られた通りであったので、神をあがめ、また賛美しながら帰って行った。 以上がイエス(神われと共にいます)が生まれた状況です。  イエスの言葉から 「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。・・・わたしが来たのは、義人を 招くためではなく、罪人を招くためである」とあります。自分は弱くて、罪深いと思える 人にとってはイエスは救い主となりえて、自分は正しいと思っている義人には イエスは必要ないのかもしれません。(つづく)(11.29) 
 忙しい忙しい、故郷の別府聖書集会から分厚い本が送られてきました。加藤虎之丞 先生の講義(エゼキエル書)を本にしたものです。24年かけての編集、頭が下がる思い です。月曜日エンゼルパークでの出版相談に行くついでに、絵本専門店に手作り絵本を 持って尋ねてみようかと思います。プロの目で見てどのように映るか楽しみです。絵本を 沢山生産しなくてはいけないのですが、なにせ時間がありません。睡眠と創作時間を減ら さなくては間に合いません。ぼーと、ゆっくりできるのはいつのことやら?(11.30) 
   ガンガー投げ銭コンサート 「ガムランの聖夜」(無料)  12月25日午後8時 聖夜ににあなたもサンタさん 投げ銭はいかかが?   インド料理を食べながらバリのガムランを聞く コラボレーションの世界をお楽しみ下さい。   演奏者・松井克宏   バリ島にてガムランの勉強に励む、   グンデルワヤンの巨匠イ ワヤン ロチェン師を師事。   バリ島長期滞在後、帰国様々な場で活躍中。 日時・12月25日 午後8時開始〜9時過ぎ 場所・インド料理ガンガー    日進市梅森町上松661ー6    (052)806ー5570
「思い」表紙へ戻る