2002年12月の「思い」

 師走です。早い、時の進むのが早い。またクリスマスの時期になりました。 毎年同じことを言うのは芸がありません。今年は真面目に聖書を読み、クリスマスの 意義を真面目に考えたいと思います。14日には久しぶりに人前で話さなくては いけません。下書きはできましたが、これだけではただの知識の押し売りでしか ありません。私の思いをもっと全面にだしたいと思います。 絵本が売れるのはいいのですが、また作らなくてはいけません。時間がまた取られ てしまいます。(12.1)
 昨日はナディアパークの出版相談会に参加して、いろいろと出版についての情報 を得ることができ、しかも私の作品について懇切丁寧に評価していただき、感謝の 思いでいっぱいです。「サトルの冒険」が充分出版物として通用することがわかった だけでも大きな収穫でした。また機会があればこのような挑戦をしたいと思います。  (12.3)
「クリスマスについて」(ボーイスカウトでの講話2002年12月14日)  こんにちはいまからクリスマスについてのお話をします。 クリスマスは何の日か知っていますか?  ここに本があります。 この本がクリスマスについて書かれた本です。 この本は聖書といいます。 この聖書を読んだことがありますか? この本を読んだことがある人は手を上げてください。 じゃあ、今話題のハリー・ポッタを読んだことがある人、手を上げてください。 (ハリー・ポッタの方が断然多いですね!) でもいままで世界中で出された本の中で一番多く読まれている本はハリー・ポッタ ではなく、この聖書なのです。それだけ多くの人が読んでいる本なのです。 そして、この聖書はイエス・キリストについて書かれています。 ハリー・ポッタはお話の世界で魔法を使いますが、イエス様は現実の世界でもっと凄い 奇蹟を行ないました。イエス様の奇蹟のお話は今日は時間がないのでしませんが、 今日のクリスマスのお話はもっとすごい神様の奇蹟のお話なのです。 さてどんな奇蹟かよく聞いて下さい。  聖書では、イエス様の誕生の記事を二人の弟子が書いています。 一人はマタイという弟子が書いた記事で 流れ星に導かれて東方からやってきた三人の博士が、宝物を生まれたばかりのイエス様に 捧げる話です。もう一つの話は馬小屋で生まれる話です。 この話はルカという弟子が書いた記事です。 この本の「ルカによる福音書」福音とは「良き訪れ、知らせ」という意味です。 「ルカによって書かれた良き知らせの書き物」ということです。 その第二章にイエス・キリストが生まれたいきさつが書かれています。  その箇所をかいつまんで読みます。 ローマ皇帝の命令による人口調査のため、それぞれ自分の生まれ故郷に帰って行きました。 イエスの父親ヨセフはユダヤのベツレヘムに帰って来ていました。 ヨセフとマリアは人がいっぱいで宿に泊まれなかったので、飼い葉おけの中に生まれた 子を寝かせました。  さて、羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の番をしていたら、 主(神)の御使い(天使)が現われ 「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。 今日あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。 あなたがたは、幼子が布にくるまって飼い葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。 それがあなたがたに与えられるしるし(奇蹟)である」 (ここに奇蹟が出てきました。イエス様が生まれたのは神様が行なった奇蹟なのです) するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現われ、御使いといっしょになって神を賛美 して言った。・・・。  羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見て こようではないか」と、互いに語り合った。 マリアとヨセフそして飼い葉おけに寝かしてある幼子を羊飼いたちは捜しあて、 この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。 羊飼いたちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られた通りであったので、 神をあがめ、また賛美しながら帰って行った。 以上がイエス(神われと共にいます。の意味)キリスト(救い主=メシア。の意味) が生まれた時の状況です。    あなたたちのお父さんとお母さんの一番の宝は何んだと思いますか? それはきっとあなたたちです。同じように神様の一番の宝はイエス様だったのです。 神様はその一番の宝を母マリアと父ヨセフの子として人類(私たち)にお与えにたのです。 プレゼントされたのです。 神様の子を人の子として、しかも貧しい大工の子としてお与えになったのです。 これが神様の起こした奇蹟です。クリスマスは奇蹟なのです。 クリスマスにはサンタ・クロースからのプレゼントが子供たちにあります。 でも一番のクリスマスプレゼントはこのイエス様なのです。 イエス様がお生まれにならなかったら、サンタ・クロースのプレゼントも無かったのです。 先ほどの聖書の箇所で「救い主」とありましたがこれは「人類を救う」ということです。 救い主として人類にプレゼントされたのがイエス様なのです。 人類を救うためにイエス様はお生まれになったのです。 聖書はそのことを証明する唯一の書物なのです。 最後にイエス様の言葉をもって話をおわります。 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」 自分を愛することは誰でもします。それと同じようにあなたの隣りの人を愛しなさい。 隣りの人とは誰のことか、わかりますか? 困っている人だったり、病気の人だったり、嫌いな人だったり、色々な人が隣りの人なのです。 自分の好きな人だけが隣の人ではありません。 イエス様のいいたいことは「みんなを愛しなさい」ということです。 クリスマスは「みんなを愛しなさい」といわれたイエス様の誕生を祝う日なのです。 そして、そのイエス様を私たちにプレゼントしてくださった神様への感謝の日なのです。 (おわり)    クリスマス講話の下書きができました。小学生にはちょっと難しい言葉が出てくる ので、言葉の説明をしながら、分かりやすく話たいと思います。3〜5分ぐらい の時間なのでそんなに詳しくも話せないので、まあこんなものでしょうか? まだ日があるので検討したいと思います。短くてストレートにこちらの言いたいこと を伝えるにはどのようにしたらいいか?伝えたいポイントを一つにしぼり、そのこと をだけは分かってもらえれば後の細かいことは忘れてもいいといった感じで話を しぼるべきだと思います。クリスマスは救い主イエス様の誕生を祝う日なのです。 そのことが一番伝えたいことです。 「救い主」とはどういうことか?この説明も必要です。 (12.5)
 本の新聞広告に「中国」(現代化の落し穴)中国で発禁になり著者も米国へ 亡命した、いわくつきの本です。言論の自由がない国での暴露本は真実を表わして いると思います。著者の経歴からしても信じるに値すると思います。 図書館に入ったら読んでみたいです。(12.6)
 加藤虎之丞・著「エゼキエル書講話」 私がまだ高専の学生時代、2〜3年の間 別府集会で毎週話を伺っていた先生です。先日、別府聖書集会から進呈されたp305 ほどの文字ばかりの分厚い書物。この本は出だしから心打つものがあり、私がここの ところ宗教についての書き込みで行き詰まっていた?壁のようなものを見事ぶち破っ ていただきました。明解な答がp31に有りました。その前のカント哲学の解説文から 書くといいのですが、長くなるので割愛します。実に単純明解なのです。 これは加藤先生の体験からくる答であって、私は私の体験から答を見付け出さなく てはいけません。その結果、同じ答になてもいいのですが、自分の体験から 「これだ!」というものを見つけたいものです。先生の答は答で大変示唆にとんだ ものです。以下本からの抜粋です。  そこで、最後に如何にして神を知るか、今まで色々と言い尽くされていますが、 それらを一口に言えば 「神は信ずることによって知るものであって、理解して知るものではない」 カント哲学をもってしても神の説明は出来ず、理解も出来なかったわけです。 神は信ずることによって解る。  それでは信ずるとは何か。・・・神を知り、信ずることの一番の近道は聖書を学ぶ ことです。何故かというえば聖書は神の言葉ですから、聖書を読むことは神が私に 語りかけること、即ち神とお話しすることだからです。(12.7)
 先日、知り合いに送った奇蹟についての私のメールを彼の連載している書き物に 掲載したいとの知らせがあったので 「ええ、構いません。他だ、追伸というかたちで、書き加えたいことがあるので よろしいいですか?」と言ったら 「ええ、どうぞかまいません」と言ってくださったので、さっそく追伸を書き加えて メールを送りました。さて彼は私のメールを読んで何と返事をするのやら? 来月の同人誌が楽しみです。送ったメールを以下に記載します。    「奇蹟についての私信」  落ち葉のカサカサささやく季節になりました。西風が強く寒さも一段と身にしみます。 内にこもるにはいい季節になりました。聖書をここ数日長い時間読んでいます。 「あら、めずらしい。聖書読んでるの」と妻が言います。人目につかないとこでは ちょくちょく拾い読みはしていますが、まとめて長い時間読むのは久しぶりです。 新約の入り口、マタイ伝を読んでいます。イエスの奇蹟と言動に何故という疑問が起こ ります。奇蹟をどのようにう受け止めるべきか?神の子ならあたりまえのことです。 病気を治し、死人を生き返らせる奇蹟これらは神でなくて誰ができますか。そこらの マジックとは違います。死人を蘇らせられる人などいますか、このことを信じられるか どうか。奇蹟をもって信じるのではなくて彼(イエス)の生き様をもって神と信じられ るかどうかです。奇蹟はつまずきの試金石かもしれません。奇蹟は結果であって目的 ではありません。偽予言者はまず、奇蹟(トリックにすぎない)を起こし人を信じ込ま せようと暗示をかけます。イエスは違って、奇蹟を隠し通そうとします。弟子たちの 伝記ではそのことが多くの紙面を占めています。イエスは奇蹟の後必ずそのことは他言 しないようにとの一言を付け加えています。 イエスはなぜ奇蹟を行ったのか? 弟子たちにも伝道にあたり奇蹟を起こす力を授けます。なぜ奇蹟を起こす必要があった のでしょうか?わたしにとって奇蹟は分からない問題の一つです。イエスの場合はその 神聖から溢れ出る力が信じる人の信仰によって奇蹟を行なわせたというふうに理解 しようと思えば理解できないことではありませんが、弟子にいたってはなぜ奇蹟を 起こす力をイエスが授ける必要があったのでしょうか、疑問です。奇蹟をもって人を 導こうとしたのなら、そこらの偽予言者と同じ愚かな行為です。そうではなくて奇蹟は イエスのときと同じく信じる側の信仰の表われを表現していたのかもしれません。 弟子にも自分と同じ(神の)力を与えたのにはなんらかの理由があったのではないかと 思われます。悔い改めなさい神の裁きがすぐ来ますよ!最後の審判が近いと思われて いたようなのです。そのために悔い改めるようにイスラエルの民衆への伝道を急いで いたのかもしれません。奇蹟を起こしたのはあなたの神を信じる信仰のおかげですよ。 あなたの信仰があなたを救ったのですよ。だから神を賛美しなさい。奇蹟は目的では なく信仰の結果なのです。つまり「おまけ」みたいなものです。あればそれにこした ことはありませんが、無ければ無いでかまわないものなのです。要は神を信じて生きて いけることが大切なのであって、おまけ(奇蹟)はたいしたことではないのです。 信仰にとっては奇蹟はつまずきの石(試金石)なのかもしれません。 「神がいるかどうか?」の問に対しての私の答は 「人類にとって、いなくてはいけない存在だと思います」 聖書は後世においていろいろと加筆された書き物です。余分なものがかなり書き加えられ 本来の姿ではない書き物なのです。ただ、その意図するところは善意からですが、余分な 加筆もあり、そのへんの余分な枝は打ち落とさなくてはいけません。 イエスの奇蹟についてはイエスそのものを神の子として信じえるかどうかです。 処女降誕、水の上を歩く、パンの奇蹟、 三日目に蘇る(旧約では予言者がこのことを予言しています)これらのことを 人が行なったと思えば、おかしなことですが、神ならば有り得るのです。 三日目に蘇るはキリスト教の根源で、これなくしてキリスト教はありえません。 疑ってかかればいくらでも疑問点は浮かびます。おかしな書物といえば書物です。 信仰は体験だと思っています。内村鑑三は実験だと言っています。聖書のイエスの言葉に 「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。・・・わたしが来たのは、義人を 招くためではなく、罪人を招くためである」とあります。自分は弱くて、罪深いと思える 人にとってはイエスは救い主となりえて、自分は正しいと思っている義人には イエスは必要ないのかもしれません。イエスを信じる信じないは個人の自由です。 信じないからといって不幸になるわけでもないのです。その人の人生観です。  追伸   加藤虎之丞・著「エゼキエル書講話」私がまだ学生時代、2〜3年の間別府集会で 毎週話を伺っていた先生です。先日、別府聖書集会から謹呈されたp305ほどの 文字ばかりの分厚い書物。この本は出だしから心打つものがあり、私がここのところ 宗教についての書き込みで行き詰まっていた壁?のようなものを見事にぶち破って いただきました。明解な答がp31に有りました。その前文のカント哲学の解説文から 書くといいのですが、長くなるので割愛します。実に単純明解なのです。 これは加藤先生の体験からくる答であって、私は私の体験から答を見付け出さなく てはいけません。その結果、同じ答になてもいいのですが、自分の体験から 「これだ!」というものを見つけたいものです。 先生の答は答で大変示唆にとんだものです。以下本からの抜粋です。    そこで、最後に如何にして神を知るか、今まで色々と言い尽くされていますが、 それらを一口に言えば 「神は信ずることによって知るものであって、理解して知るものではない」 カント哲学をもってしても神の説明は出来ず、理解も出来なかったわけです。 神は信ずることによって解る。  それでは信ずるとは何か。・・・神を知り、信ずることの一番の近道は聖書を学ぶ ことです。何故かというえば聖書は神の言葉ですから、聖書を読むことは神が私に 語りかけること、即ち神とお話しすることだからです。(12.8)
 聖書の「ルカによる福音書」二章、イエス誕生の記事で、飼い葉おけの中で寝て いるイエス様は何処で生まれたかは書かれていないのです。 宿屋が人でいっぱい(客間には彼等のいる余地がなかった)でと書かれているだけで す。馬小屋とは明記されていません。なぜ馬小屋という先入観をもってしまったのか? いろいろなクリスマスのお話や劇などで、そのような背景を植え付けられてしまって いたのです。太田さんからの電話で「飼い葉おけ」の葉は馬ではないかとの質問で 聖書をもう一度確認したら、馬ではなく葉っぱの葉だったのです。それから馬小屋で はなく牛小屋でも羊小屋でもいいのではないかと思い、聖書に場所を指定する言葉が ないことに気付かされました。なぜ馬小屋なのでしょう?先入観は怖いことです。 以外と気付かされずに思い込まされていることが他にもあるのではないかと思い、 改めて物事を無心に見ることの難しさを知らされました。つい最近も塚本先生の本か 何処かでイエス誕生の記事で「馬小屋」という言葉を見た思いがあるのですが、 ・・・。(12.11)
 忙しいです。「貧乏暇無し」とはよく言ったものです。明日は睡眠時間が三時間 ぐらいしかとれそうにありません。15時からはボーイスカウトでクリスマスの話も しなくてはいけません。健康で無事一日が過ごせますように神様に祈ります。今日は だらだらと過ごすつもりです。明日の睡眠不足を補う意味で今日の昼間はうつらうつら しながら店の椅子にもたれて過ごすつもりです。来週は来週で予定が埋っています。 では、明日のため、いまから休憩モードに入ります。・・・。(12.13)
 今日のハードスケジールも無事こなせました。神様に一日の安全を感謝しなく てはいけません。本当に感謝です。何か困難?を乗り越えられると、何でも許すこと ができそうな気分になってしまいます。嫌なことも許せる気分になってしまいます。 不思議です。昨日、嫌な事に気付いたのですが、今日は許せます。 いつもこんな寛大な気分でありたいものです。使命というものがあるのなら、私の 使命は何でしょうか?物を書くことでしょうか?そうでありたいと思います。 思い込みが必要かもしれません。 祈りと思い込みで、人生を生き抜けたらいいのですが、・・・。  ボーイスカウトのお話も無事終わりました。80点ぐらいのできでした。 また機会を与えられたら聖書の話をしたいものです。 「ガンガー聖書集会」というものをそろそろ企画してもいいかもしれません。 水曜日夜9〜10時。新年からやってみましょうか?(12.14)  
 昨日、お客さんの紹介で若者が自分の書き物を持参されてきました。読んで下さい とのことです。食事をされたので、世間話をしながら、創作についての話をしたの ですが、彼曰く「小さいころから作家になりたくて、書いてきたけど・・・。 いまはまったく書けれないし、本が読めない」とのことです。似たことを知人も 言っていました。その知人も若いころ作家を目指し、書いていたのですが、いつからか 書けなくなって、いまではまったく書いていません。 彼も同じく本が読めないと言っていました。燃え尽き症候群かもしれません。 私の場合はまったく逆です。作家になりたくて書いているはけではなく、書きたい から書いているのです。自分の中でふつふつと沸き起こる物を表現したくて書いて いるのです。書いているものが多くの人の目にとまらないだけであって、一部の 友人、知人などには物書きとして認められていると思っています。本も興味ある 物は読んでいます。ただ、小説類はまったく興味がないので、ほとんど読んでいません。 その若者の書いた物を読んでみました。文章が読みずらいのです。自分の伝えたいこと がちゃんと整理整頓されてない文は読めません。一行読んだだけで先へ進めなくなって しまいます。何で作家になりたいと思ったのでしょうか?きついことは言うつもり はありませんが、まずは日記を書き、文章を書く練習をされることを勧めたいと 思います。(12.15)
 ある若者を私に紹介された人が来られ、その若者の現状についての詳しい説明 を受けました。それで納得できました。彼の言動から察しはついたのですが・・・。 生真面目な感じを受け、気を使い過ぎて疲れるだろうなとも思いました。 私みたいに、いいかげん?でおまかせ状態の心境になれたら多少気が休まるだろうに、 私が中学時代の家庭を思い出してしまいます。 家族の在り方、親の価値観が問われる問題かもしれません。第三者として何処まで 関わっていいものか?話を聞いて親しくなれれば、それで一つの道が開けるかも しれません。親ごさんの価値観、人生観などが問われていることを親は知るべきだと 思います。彼本人の問題ですが、親の考え方が大きく子に影響していることを 考えに入れ、家族全体の問題としてとらえるべきだと思いました。 ガンガー聖書勉強会に彼を誘っていいものかどうか? (12.16)
 一人よがりの詩を作ってしまいました。神様はそんな人の愚痴を聞くほどの閑人では ありません。加藤先生の「エゼキエル書講話」を読んでいて、つくづく思わされました。 自分の都合で神様に祈っても、その祈りは聞き入れられないことを。 神様の側が選ぶのであって、人が選ぶのではないのです。 加藤先生の言葉は心にすーっと入ってきます。 先生の体験から来る言葉の一つ一つが心を打ちます。 私にとっていま一番必要な物がこの本ではないかと思われてきます。感謝です。 この本を与えて下さった神様に感謝です。ありがとうございます。 別府集会の皆様ありがとうございます。(12.17)
 賛美歌を店で流しています。この時期は賛美歌を流していても時期が時期だけに 別に気にならないので、クリスチャンとしてはたすかります。 でも、インドのヒンズゥ教では別にクリスマスを祝うこともないのです。 これも異文化交流です。(12.18)
 加藤先生の講話は29年前ですが、土地神話の崩壊や農業、老人問題などをいま直面 している諸問題をすでに、29年前に予言していらっしゃいます。 それらの問題に対する疑問が、いま現在の問題解決の在り方を示しています。 大分の片田舎、限られた人にのみ語り、全国的に知られることなく、この世を去った 方ですが、その先見性はすごいものがあります。なぜこのような人が世の先頭に立たれ ないのか?すべては神の摂理なのか?神とお話をして、その中で世の問題点を感じられて 集会の中でその問題点を語られた。神様はそれ以上の働きを求められなかったのです。 使命を感じながらその使命をまっとうされた結果がこの講話なのです。 聞く耳のある者は聞け!です。私の先見性など知れたものという気にさせられます。 ある意味でこの本は凄い本です。神の存在を信じ、真面目に生き抜いた一人の信者の 歩みそのものが神の存在を証明しているのです。エゼキエル書の講話を通し、神の 存在の証を自ら現わしているのです。凄いことです。 でも、なぜ多くの人にこのすばらしい教えあるいは生き方が伝えられなかったのか? すべては神のなされる御業です。「しかり、しかり。否、否」です。 私は感謝の思いで胸がいっぱいにさせられます。神様ありがとうございます。 神は生きて、いまこの場にいらっしゃるということです。聖書を通し、人を通し、 今も私たちに語り掛けているのです。(12.19)
 先週クリスマスの特別号を発信しました。 即、返事のあったのはいつもの「ひょうひょうとした」例の兵庫の人でした。 クリスチャンでもないのに私の思いをしっかり受け止めていただき、感謝です。 神について偉そうに語るつもりはないのですが、何か私が語ると自慢をしているようで 自分自身はずかしくなります。私が送った「奇蹟ついての私信」のメールの返事を 蒼生舎通信33の「わたしのアルカディア25」で太田様が書いていらっしゃいました。 人に意見するほどの真面目なクリスチャンでもないのです。私自身としては大変勉強に なりよかったと思っていますが、私の文を読まれた方々に誤解をまねかないかと、 ちょっと心配です。人に語れるだけのものをまだ持ち合わせていないのではないかと 反省させられます。でも済んだことをごちゃごちゃ言ってもしかたありません。 自分の文には責任を持たなくてはいけないと思い、これから真面目に聖書の勉強をしたい と思います。「ガンガー聖書勉強会」をやはり実行します。一時考え、迷い、やめる つもりでしたが、環境が許すようなので、やはりやります。 水曜日の夜9時から10時まで、誰もこなくても一人でもやるつもりです。 希望者は「インド料理ガンガー」までお知らせ下さい。 (12.23) 

「わたしのアルカディア25」を読まさせていただきました。  忙しい最中、いろいろな本を読まれ、太田様の探求心には敬服させられます。 私のような若輩者が語ることではないのですが、思いついたことがありますので また書かさせていただきます。何とぞご了承下さい。  「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 これは旧約聖書の詩篇22篇(p764)の出だしです。 イエスはこの詩を最後まで唱えるつもりで、語り出したのですが、 すぐに力尽きてしまうのです。 もしよければ最後までこの詩を読んでみていただけますか。 神への信頼をうたった詩なのです。 八節の「彼は主に身をゆだねた、・・・主に彼を救わせよ」 十八節「彼らは互いにわたしの衣服を分け、・・・くじ引きにする」 イエスの死の場面に同じ様な箇所があります。 二十五節から神への賛美となります。 繰り返しますが、イエスは神を賛美するために、この詩を朗読したかったのです。 ただ、最後まで唱える体力が彼には残っていなかったのです。 最後の節は弟子(信者)たちのその後を予言しているようです。  イエスは敬虔なユダヤ教徒でした。生まれたときと十二歳のときが記事として 聖書に書かれていて、それ以外はわかりません。 三十歳ごろから短くて一年、長くて三年ほどの伝道で十字架に架けられます。 三十歳までのイエスは大工の息子として普通に生きていたと思われます。 イエスはユダヤ教徒として旧約(キリスト教にとって、新約に対して旧約といいますが、 ユダヤ教にとっては聖書は旧約だけです)に精通していたので、イエスの言葉には 多くの旧約の引用があります。旧約はイエス・キリスト(メシア)が生まれることを 予言するために書かれたイスラエルの歴史書と言っていいと思います。 新約はイエスの誕生と十字架の死と復活、そしてもう一度裁きにくるという再臨を 語っています。わたしは敬虔なクリスチャンではないので、聖書も聞き覚えと多少の 読書ぐらいで、たいして聖書知識があるわけでもありません。 今回このよな形で少しでもキリストについて語ることができましたことを感謝いたします。 これを機会に、これから真面目に聖書の勉強をしようと思いを新たにしているところです。 私の詩を二篇 
「メリー・クリスマス」   あなたへの想いが雪のように 降り積もり 雪崩を起こしそう クリスマスの夜 あなたのその優しい一言で わたしの積もり積もった想いが 雪崩のようにあなたを襲う あなたは優しく私を抱きとめ 受け入れる あなたと私は一つになる 一つの想いで一つ この世の終わりが来ようとも 一つの想いで一つ メリー・クリスマス メリー・クリスマス あなたと一つになれた日 メリー・クリスマス   
                   「アーメン」
疑っても疑っても 我が心の内に 残れるもの有り   その残れしものは 闇の中で薄き輝きを放ち 我が心をいざなう   「主よ、います。確かに我が心の内にいます」     疑っても疑っても 残れるもの有り   雨上がりの静寂の中 残れるものを感じられるひととき 今日のような日は幸せです いつもこのような日でありますように アーメン


 今日はクリスマス・イヴです。

 世間の慌ただしさとは違った静寂さを求めたい気分です。今年は暮れに近づくにつれ
聖的な思いが深まってきている気がします。私の始まりは別府からで、高専での出会い
があって、いまがあるのだと思います。別府聖書集会からの贈り物(エゼキエル書講話)
が私を信仰へのさらなる導き手となりました。
この聖的な気分を失うことなく来年も神様からの与えられた使命を真面目に
果たすことができますように、日々祈りたいと思います。
 別府聖書集会からクリスマス・カードが届きました。会を離れて26年も経つのに
感謝でいっぱいになります。毎年毎年、返事も出さないこともある不信仰な私に
欠かさず届くクリスマス・カード、会のメンバーのサインが語り掛けてきます。
「主は忘れませんよ。信仰は永遠です。エクレシアも永遠です」と語り掛けてきます。
涙がながれ落ち、泣けました。「神はここにいます」と深く確信できました。(12.24)

 昨晩のコンサートは大成功でした。予定の倍ちかくのお客さんが来られ、店に入られ ない状態になってしまいました。50人ちかく来られたのではないかと思います。 中には入り口で帰ってしまわれた常連さんがいらっしゃいました。二日に分けるか、 予約をとるべきでした。来年は考えなくてはいけません。シタール(インド楽器)の 練習をされている人が来年の暮れあたりにコンサートをお願いしたいと言われました。 一年さきですが、予定に入れたいと思いました。  太田様に「ガンガー聖書勉強会」のことを伝えました。 公にしたからは実行しなくてはいけません。来年一月八日の水曜日から始めます。 希望者はガンガーまでお知らせください。表だった宣伝はしません。内輪で小さな会に したいと思っています。二、三の人に声を掛けようかと思っています。(12.26)  
 妻と息子が仲良く、奈良へ一泊旅行に出かけました。私は仕事です。 「大黒柱がいて家は成り立つのです。私が大黒柱なのです。だから働らかなくては いけないのです」と自分に言い聞かせながら働く私です。  恩師の渡辺先生に電話をしました。先生にはこのところよく手紙を書いているのですが、 一番最後の手紙で、内容の訂正をしなくてはいけないことがあったので、それと先生の声 もお聞きしたかったので、ちょっとためらいもありましたが、勇気を出して電話をして みました。私からの手紙を心よく読んでいただいたようで、ありがたく思いました。 一月に「ガンガー聖書勉強会」を起こすこと、あと息子が豊田高専への進学希望をもって いることを伝えました。三年前の正月別府に帰省した折りに家族で先生のお宅に伺った さい、息子の手作り電子工作をお見せしたことを思い出されたようで、先生も息子の 高専への進学希望を喜んでくださいました。(12.27)
 今年もあと二日と少しで終わります。やることがはっきりしてきました。 来年ははっきりしたものへ邁進していきたいと思います。 「思考の断片」を「ガンガー通信」と名を変えて発行したいと思います。正月休み中 に創刊号を出す予定です。ガンガー聖書勉強会、思考の断片、詩、連載小説などを 掲載する予定です。聖書勉強会はルカ伝をやる予定です。「ガンガー通信」を地方の 知人、友人などにも送るかもしれません。また仕事が増えてしまいます。創作時間が なくなってしまいそうです。仕事、睡眠、食事、風呂以外の時間はすべてこれら (ガンガー通信と創作)のために使うだけです。 時間が足りません。絶対的に足りません。でもやるしかありません。 神の導きが唯一の案内です。すべてを委ねて生きたいと思います。  クローン人間の製造に成功したとの報道をテレビで見ましたが、新興宗教の組織が 行なった一連のクローン人間製造はどろどろした欲望の現われ以外のなにものでも ありません。この新興宗教はいかなる組織なのか知りたい気もしますが、愚かな 教えしかないと思われます。このような団体が現われること自体が異常です。 まだ実験段階にすぎない技術を欲望にまかせて人にするとは・・・、希望する人も する人です。人間の愚かさの象徴的出来事です。技術的に完成すれば許されるかというと これまた、問題です。それでなくても人口爆発による食料、水などが不足している 現状でクローン人間をつくってどうするのですか。 臓器提供のため?優秀な人類だけを選別して、人類生き残り計画でも作るつもりですか? (12.29)
 今年は後半いろいろなことがあり充実した年でした。梅村さんと共同で絵本も 作れましたし、「サトルの冒険」も完結しました。乗鞍にも登りました。でも、 一番の収穫というか、変貌は信仰に目覚めたことです。 「エゼキエル書講話」(加藤虎之丞)を別府集会から謹呈されたことが一番の出来事でした。 自称・隠れクリスチャンから真面目なクリスチャンに変貌?しました。 これで人生の目標が定まりました。すべてはここへ集結です。創作活動も聖書勉強会も すべては神への繋がりとなるのです。自然な成り行きでこのようになってきました。 「然り、然り。否、否」(聖書の言葉)です。すべてはあなたの御旨ですよねえ、神様。 (12.30

「ガンガー聖書勉強会」   毎週水曜日夜9〜10時  聖書をみんなで読んでその箇所を話し合う。 進行方法については参加者の意見を聞きながら行なう。 参加希望者は荒金までご連絡下さい。   場所・インド料理ガンガー    日進市梅森町上松661ー6    (052)806ー5570   
「思い」表紙へ戻る