2003年10月の「思い」


「魂・心の平安について」
 
 知人からのメールを読み、いかに病気に苦しんでいる人が世の中に多いいかという
ことを、改めて思い知らされました。いかにして病気と付き合えるか?
イエスは至る所で病気の人を治療されています。
その度に「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われています。
そして「このことは誰にも知らさないように」と付け加えています。
つまり、イエスの奇蹟(治療)は信じる側の信仰心が行わせているのです。信じる心の
強さが奇蹟を起こさせると言ってもいいかいれません。「誰にも知らせないように」は
イエスの本当の目的は医療行為にあるのではなくて、信仰による魂の救いにあったのです。
でも、多くの群衆はイエスによる治療の奇蹟を見たくてあらゆる地方から集まってくる
ことになるのです。そのような時、イエスはただ一人、人気のないところ(山など)へ
行かれて、一人になって祈ります。すでに群衆の思いとイエスの思いには、天と地の
ほどの差が出来ていたのです。イエスは何かあると、人を避け、静かなところで祈られ
ました。人は群衆の中にいては自分自身を知ることは出来ないのです。イエスのように、
一人、孤独の中にいるとき、始めて自分を見つめ、自己の存在意義を問い詰めることが
できるのだと思います。孤独は自己を知るための入り口なのではないかと思います。
ただ、孤独に押し潰されてはいけません。では、どうしたら孤独に打ち勝って、本来の
自分を知り得るかが、問われます。それは自分を信じるこことができるかどうかだと
思います。自分を信じるとはどういうことかというと、いまある自分を素直に認め、
そのいまある自分の存在には、ちゃんと意味があるのだということを認めることが
できるかどうかです。私はすべての生けるものには存在意味があり、必然性があるの
だということを言いたいのです。
統合失調症という病気も必然性があって存在するのだと思います。患者さんにこんな
言い方をすると、お怒りになられるかもしれませんが、病気は人類(個人)にとって
必要なのです。生きる意義を問う機会を与えられるからです。
癌もコウ原病も統合失調症も風邪も花粉症などなども、これらはすべて同じ次元なのだ
と言いたいのです。実に変なことを言っていると思われると思います。
いかに心、魂があるかが大切なのであって、病気の個々の症状はあまり関係ないと
言いたいのです。いたって乱暴な表現ですが、私のいいたいことは
目に見える現象に惑わされて、「魂の平安」を見失わないでほしいということです。
キエルケゴールという哲学者が「死に至る病」という本を書かれています。内容は
はっきり覚えていませんが、ようは魂の救いが一番であって、それは神を信じることが
出来るかどうかだと言っていたのだと記憶しています。彼曰く、最も怖い病気は
「死に至る病」であって、それは神を信じないことだと言っていたと思います。
私はもう一つ見方を変えて「救いに至る病」を語りたいと思います。
病気によって己の弱さを知らされ、生きる価値など無いと、どん底まで落とされた人に
こそ「救い」は来るのだと言いたいのです。健康で自分を信じて歩む人には本当の
「救い」は来なくて、自信が無く苦しんで、苦しんでどん底まで落されたような人に
こそ「救い」が来るのだと言いたいです。ただ、その苦しんでいる人が自己の力に
よりすがっているかぎりは「救い」は無いとも言いたいのです。
今日の書き出しを思い出して下さい。
イエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われています。イエスの教えは
まったくの他力夲願なのです。自分が努力してどうにかなるとか、自分の力で切り開く
とかではありません。まったくの他力夲願なのです。すべてを信じ、すべてをイエスに
委ねられるかどうかなのです。
イエスは「健康な人には医者はいらない、私は病人のためにきたのです」と
言われています。ここでいう病人とは魂の病める人のことです。
昨日イエスの言葉「もっている人はさらに与えられ、もっていない人はもっている
ものまでも取り上げられる」と書きました。ここで「もっている人」とは自信がる人
のことではなくて、本当は「イエスを受け入れることが出来る人」のことです。
自分に自信が有る、無いとか、権力が有る、無い、ではありません。
要は、砕けた魂をイエスの前にさらけ出し、心から救いを願う人のことです。
砕けた魂とは、挫折などして、どん底で、それまでの生き方を悔い改めた魂のことです。
どん底を経験した人こそ「救い」の資格があるのかもしれません。
「この人(イエス)を見よ!」です。迷える人はイエスの生き様を見なさいと私は
言いたいのです。
取り留めのない文になってしまいました。いいたいことは病気の治療とは
結局は魂の治療なくしては有りえなくて、逆に魂が救いにあれば、病気の症状は
気にならないということを言いたかったのです。
「魂の平安」が最も大切なことであって、「魂が平安」ならば統合失調症もなんのその、
別に怖くないと言いたいのです。たいへん大胆な表現で、言うに安く、行い難くです。
まずは、「魂の平安」を求めるところから始めなくてはいけないのかもしれません。
イエスがいまの時代に生きていれば奇蹟の治療で、すぐに治療していただけるのですが、
・・・キリスト教的にはイエスはいまも生きて「我が内に有り」なのです。
何処に有るのか?それは信じる心の内にいらっしゃるのです。
こんなことを言い出すと聖書の話からしなくてはいけなくなります。
興味のある人は水曜日の午後三時、ガンガーに来てください。読書会でお話します。
(来られる方は前もって電話を下さい。都合で日時の変更があります)
今日の書き込みは魂、心についてです。私は医者ではないので、医療については
語ることができません。
ただ、経験と私の信じる信仰でならいくらでも語れます。その一部を披露しました。
あなたの心に平安が訪れますように、心からお祈り申し上げます。
「福音」とは「善き訪れ」ということです。善き訪れ=平安の訪れとは何か?
次回このへんを書き込みたいと思っています。
(10.2)
 

 先日の書き込みを読み返してみると、第三者(私)が奇麗事を言ってる感じがどうしても 拭えません。文にいま一つ、説得力がありません。私のことを書かなくてはいけないの かもしれません。以前に一度だけ書いているのですが、・・・。又書かなくてはいけない ようです。      (2002年5月8日の書き込みに多少手を加え、以下に記します)  息子が中学に入りクラブ活動を始め、小学校とは違う学校生活になじんでいる みたいなので私としてはこれでいいのではないかと思っているのですが、妻は勉強の ことが心配で私の中学生のころの話を聞きたがります。 「あなたの失敗を息子にさせたくないから・・・」 私は中学の三年間成績は常にトップを走り、三年間の偏差値が50点満点の46という 成績でした。ただ、進学校に進みましたが、一年の二学期の途中から燃え尽き症候群と でもいうのでしょうか、結局不登校になり。二学期の終わりごろ退学して、翌年国立高専 へ新しく入学し直しました。高専でも成績は常にトップでしたが、これまた卒業するころ には別の方向へ進みたくなり、就職しないで卒業しました。その後、文系大学への受験を したのです。この受験に失敗してからは親に迷惑は欠けられないので、働きました。 恩師の紹介で名古屋の某機械製造会社で設計の仕事を二年しましたが、会社でのいろいろな ことから、いつしか未練のある文系大学への夢がむくむくを膨らみ、結局こりずにまた 挑戦するのでした。バイトをしながら受験勉強をしていたら、同じバイト仲間の芸大浪人生と 親しくなり、いつしか芸大を目指すのでした。このころは、まったく行き当たりばったりの 人生でした。芸大受験も失敗に終わり、絵をやるなら大学に行かなくても出来ると自負して、 それからは働きながら、芸術家を目指して、過ごしていました。絵がきっかけで妻と出会えた のですから、それなりの効果?はあったみたいです。いま思うに、高専卒という学業をなぜ 生かせなかったのか?ただ成績だけがよくて、その先の目的がなかったのです。進学高校の 中退もそうです。なんのために勉強するのか、勉強を生かす、すべを知らなかったのです。 目的も無くただ、成績争いに精を出していただけでした。 「あなたの失敗を息子にさせたくないから・・」でも、 私は失敗とは決して思っていないのですが、妻のように世間では失敗とみなすのでしょうか。 挫折を経験したことは、善い人生勉強だと思っています。 妻は「その自信は何処からくるの」とよく言います。やれば出来るという意味で、 中学、高専での成績は変な?自信につながっているのかもしれません。 あと私の中学時代に起きた家庭内問題がいまの私に大きく影響を与えているように思われます。 このことは他者のプライバシーに関わるので語ることができません。 私の奥底に潜むある思いは、この辺から生まれたのかもしれません。 あと忘れてはいけないことは、高専で一生の師と仰ぐことができる恩師に出会えたことです。 このことだけでも高専に行った価値があると私は思っています。マイナスをプラス思考に変える のが私の特技?かもしれません。高校での挫折を挫折と考えていないのは、その現われ かもしれません。 恩師は敬虔なクリスチャンで、私の理想の人物です。彼無くして私の信仰は無かったと、 いまもそのように思っています。高校を中退して、高専に入学していなかったら 彼とは出会えなかったのです。しかも国立なのに、クリスチャンの先生が4〜5人 いらっしゃいました。学長自体が敬虔なクリスチャンだったのです。いま思えば、まったく 不思議な学校でした。年一、二度ある記念公演では必ず、有名な聖書学者やクリスチャンの 先生をおよびしての公演でした。学長がかなり文部省に顔がきき、自由に運営ができた みたいなのです。いまの時代では考えられないことです。 このまま話を終わると、ただの自慢話になってしまいそうです。  高校中退、不登校のとき私はどのように考え、行動をとっていたのでしょうか? 原因は成績不振?いや違います。中学の三年生の後半から、受験勉強に嫌気みたいなものが あったのでした。同じことの繰り返しをしているようで、何も楽しくないのです。ただ、 成績が良いという優越感にしたっていただけでした。高校でも同じことの繰り返しでした。 暗記勉強に追われ、勉強する喜びみたいなもの、この勉強がこんなことにいかされ、社会に 反映されちるとか、生きた勉強みたいなものがまったくなく、学校生活自体が 楽しくなかったのでした。そのうち成績も落ちてきて、いやけに拍車をかけました。 朝起きるのが辛くなり、ふとんから出なくなりました。ふとんの中で妄想を抱き、楽しんで いました。昼ごろ、こそこそと食事をすると又布団の中でした。兄のこともあり、親は 心配したと思いますが、私の場合はただ寝ていただけで、他に迷惑をかけることは なかったのでした。病院にも行きませんでした。一、二ヶ月経つと、いいかげん私のほうも、 寝るのに飽きてきたのだと思います。自分から留年して「もう一度一年生をやり直したい」と 親に言ったのでした。すると親も考えていたのでしょう。 「この際だから高専に行ったら」というのです。 受験に疲れての不登校なのだから、また大学受験をし出したら、同じことの繰り返しになると 思ったのでしょう。中学の先生にも相談して、高専に行くことにしました。でも、受験申込み が後、1、2日しかなく、ぎりぎり間に合ったのを覚えています。親が「高専に行ったら」と 言ってくれなかったら、たぶん同じことの繰り返しをしていたと思います。 高専は受験勉強が無く、社会で実践として働ける技術者を育てるところでした。勉強以外に 機械科では溶接、旋盤、鋳型、設計などなど、実技があり。私は鉄工所の息子だったので、 これらが実に楽しかったです。環境を変えたことで心の変化が起こり、不登校からも 抜け出せたのだと思います。ちょっとしたきっかけで人は変われるものなのです。 変わろうと思う心があれば、必ず変われます。悩める人は変われる機会を待っているのです。 家にこもっていたら、布団の中にいては、いつまでたっても変われません。 のんびりと外へ出て、変われる機会を探しましょう。そこ、そこにあるかもしれません。 今日はわたしの自己紹介?みたいな書き込みになりました。 (10.4)
 先日、知人の知り合いの娘さんが「うつ病」だというので、9月の書き込みで書いた 「統合失調症とうつ病」についての私の一考をファックスで送りました。 すると知人から手紙と「トマスによる福音書」なるもののコピーを送って下さいました。 手紙はその女性の母親が過保護すぎるために娘さんが病気を成ったようなことが書かれて いました。さて本当にそうなのでしょうか?第三者の私としては判断しかねます。私と直接 関わりがないので、そのことについては差し障りのないような返事をしておきました。 それから「トマスの福音書」については私の感想を率直に語りました。 以下、その返事の一部を記載します。    お手紙ありがとうございました。 S・Kさんが母親から巣立ち、社会に飛び立つことができますように、心からお祈り申し上げます。 同封していただいた「トマスの福音書」についてですが、この書物は 普通の聖書(日本聖書協会の聖書=カトリックとプロテスタントの各派によって 共同訳によってつくられた正規の聖書)には記載されていない書き物です。 「福音」とは善き訪れという意味です。善き訪れとは罪なき神の子・イエスが 罪有る人の子として生まれ、育ち、伝道の後、人類の罪を購う(あがなう)ために 罪なきイエスが十字架にかかり、死んで、その後、復活して、死に打ち勝つ ことで永遠の命を証明して天にあげられ、そのとき最後の審判が行われるとき また再び地上に現われる(再臨)を約束するのです。 善き訪れとはこの十字架のことなのです。つまり、福音の定義はイエスの十字架に あるのです。新約聖書の福音書は四つだけです。あとは弟子たちの手紙(書簡)が 記載されています。聖書の福音書は「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」 「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」です。 それぞれすべてイエスの伝記です。イエスがどこでどんなことをしたかという 物語になっていて、時間の経過がわかるようになっています。そして、 すべてに十字架の死と復活が記載されています。共通の出来事もあればそれぞれの 特殊記事もありますが、すべて物語形式です。トマスは弟子にいますが、この 「トマスによる福音書」は物語ではなくて、イエスと弟子の問答集みたいな形式に なっていて、一番大切な十字架の出来事や、復活の出来事がでてきていません。 これは福音書ではありません。それぞれの福音書からの抜粋による会話集になって います。善き訪れではありません。ただのイエス語録です。だから正規の聖書に記載 されていないのだと思います。聖書外典としての参考書程度だと思います。 キリスト教においてイエスが何故生まれ、十字架に架かって、死んで、復活したかが 一番大切なことなのです。イエスの語録は知識でしかなくて、あまり必要ありません。 かえって真理を見誤りさせるだけかもしれません。林さんは好意からわざわざ送って いただいたのだと思います。その好意にたいしては心から感謝いたします。 その好意に対してこんな返事をして大変申し訳有りません。 私の性格の一端だと思って許してください。 この書き物は「トマスによるイエス語録」とすべきです。 イエスの弟子のトマスが書いたものではなくて、後世の人がトマスの名で書いた、 あるいは同じトマスという別人が後世、聖書の福音書を参考にして書いた書き物では ないかと推測されます。 それにしても何故「福音書」とつけたのか良くわかりません。 キリスト教を良く知らない誰かがコプト語で創作?した書き物かもしれません。 以上のことは私の独断です。これから本格的に「トマスによる福音書」について調べてみます。    1947年 エジプトにてコプト語で書かれた「トマスによる福音書」が発見された そうです。眼我 真(10.5)  
 ゲーム疲れで書き込みがおろそかになっています。まずは、「トマスによる福音書」 についての報告をします。図書館に行って、調べれば一番なのですが、時間がありません。 このようなときインターネットは便利です。検索で調べると、出てくるのです。 マニアがいるのですね。私の直感が、ほぼ的を射ていました。林さんへ送ったファックスの 内容が一応当たっていたのです。以下に、一度だけ読んだ資料の覚え書きを記します。  紀元三世紀ごろ、異端(イエスをメシア=救い主と認めない?)のグノーシス派が勢力を 増し、脅威を感じた正統派を自認する各教会は異端(グノーシス派)を排除するため、聖書の 統合をします。それまでいろいろな書き物が教典として各教会にあったものを、一つの聖書と いう形の夲に統一、編集したわけです。そのさい怪しき書き物?は削除されたと思われます。 その削除された書き物の中にこの「トマスによる福音書」が含まれていたのではないかと 思われます。「トマスによる福音書」に十字架や復活の記事が抜けていることに私は疑問を もったのですが、それは正しかったのです。グノーシス派はイエスの復活を認めていないのです。 人間イエスを称えてはいますが、神の子としての十字架の死と復活を認めない宗派だったのです。 これはやはり異端です。ローマの地では排除されたこの異端の教えは東へ西へと伝えられたと 思われます。エジプトで1947年に発掘されたこの「トマスによる福音書」も当時(三世紀)の 中心地ローマを追われて、エジプトへと逃れたのかもしれません。インドにトマスが伝道に来た という伝説が残っているのもこのような背景?があったのかもしれません。中国の景教?が このグノーシス派の流れをくむ教えだったという私の記憶は正しいのかどうか定かでは ありませんが、そんな記憶もよみがえってきます。歴史はおうおうにして、勝者が作ってきました。 敗者は歴史から抹殺されるか、悪者にされるのです。  このことは個人レベルでもなされています。 自分を正当化するために、他者を悪者扱いにする。誰でも多かれ少なかれ、このような ことを無意識あるいは、意識的に行っていると言っていいかもしれません。真理(本心) はなかなか表には出てこなくて、心の奥底に隠されていることが多いのではないかと 思います。無意識のうちに相手の感情を察知して、自己判断を下す。 でも人を判断するということは、そんなに簡単なことではありません。その相手の人生の いかほどを自分は知っているというのでしょうか?人を知るには、第一印象だけではなくて、 まずは話してみることです。話しても分からないかもしれませんし、第一印象が正しい こともあるかもしれません。「サトルの冒険」の最後の締めくくりが「認める」という ことで終わっていたと思います。(私の中ではすでに過去形?です) 「自分を認めてくれるものは人だけではなくて、この地上のいけるものすべてが そうなのです。認められるということは、自分も他のものを認めるということなのです。 すべてを認め(=許す。といってもいいかもしれません)、信じることができるとき、 その人の人生は幸せであり、・・・」 他者を認め(知る)ということは自分を知る(認める)ということかもしれません。 他者を許すことができる人は人生の意味を知っているのかもしれません。 人生の意味?は何か。自分を知り、すべてを受け入れることの難しさを知り、 その先にあるのは・・・。答は自分で探すことです。 私の解答は私だけのものかもしれません。 あなたにはあなたへの答が待っていることでしょう。  (10.13)
 グノーシス異端書には「マリア福音書」「ピリポ福音書」「トマスによる福音書」 などがあるそうです。ここでいうマリアは「ルカによる福音書」に出てくる、 マグダラのマリアといって、イエスによって七つの悪霊を追い出された女性(娼婦)です。 グノーシス主義(イエスを人間としてみる)で、マグダラのマリアが使徒以上の存在 として特別扱いしている理由は、グノーシス神話の女神、ソフィアもまた「娼婦」と 呼ばれていたからかもしれません。 異端はしょせん異端なのです。本物を知れば、自ずと偽物は見分けられるようになると 私は言いたいです。イエスを人としてしか見ない、そんな教えでは救いは永遠に来ま せん。イエスの十字架と復活・・・、ここにキリスト教のすべてがあるのです。 十字架の死の後の、復活を信じない教えはキリスト教ではありません。 異端のグノーシス派をいくら学んでも、そこにイエスの真の姿はありません。 カトリックの始祖ペテロを軽視する記事が記載されているのは、異端とされた グノーシス派のカトリック批判かもしれません。「トマスによる福音書」に、トマスを 他の使徒よりもイエスが愛されていた記事が記載されていました。これも聖書に無い 記事で、トマス信仰からくる異端?の表われかもしれません。 聖書自体、イエスの死後200年ぐらいの間に後世によって加筆されたのではないかと 疑われるところがあります。紀元60年ごろに最初にできた「マルコによる福音書」の 原点を探ることが必要かもしれません。それは信じる心で読み、祈る想いで調べれば 自ずと解決されるのではないかと思っています。(10.15)
 以前、ヨーロッパ大陸において、血液中の血小板が人類の平均値よりもかなり多い人種が、 数%存在する話を書き込みでしました。狩猟民族の時代においては怪我が致命的でした。 怪我(出血)をしても、すぐに止まる体質が英雄の条件の一つだったのです。ところが、 狩猟時代から農耕時代になり、現代にいたっては、血小板が多い体質は動脈硬化につながる ため、悪い体質と言われるようになったのです。古代においては英雄の条件だったことが、 現代社会では嫌われる体質になってしまったのです。 同じことが統合失調症でもいわれるとのことです。 たまたま読んでいた夲に以下のようなことが書かれていました。  精神医学者中井久夫著「分裂病と人類」参照。  未開とよばれる社会には、一時的な精神錯乱はあっても、慢性化したり再発したりする 精神病はみられない。西欧の文明と接触する地点から、始めて病気としての妄想や幻覚など、 分裂病に似た精神反応があらわれる。これは社会の有り様そのものが、分裂病の源泉に なっているのです。分裂病になる可能性は全人類がもっているだろうと仮定し、その重い 失調状態が他の人よりも分裂病に成りやすい「分裂病親和者」(S親和者)を考えたとき、 その人は他の人よりも、わざわいに対して最も遠くから、最も早く、最も強烈に感じ、 あたかもその事態を察知してしまうタイプの人間なのかもしれません。 人類史は狩猟採集文化から農耕文化へ、という大きな流れでとらえらた時。 はるか古代の狩猟採集段階では、S親和型の「兆候性の優位」が魅力的な力をもっていたのです。 現代の狩猟採集民・ブシュマンは三日前に通ったカモシカの足跡を見つけ、かすかな草の乱れ や風の運ぶかすかな香から、獲物の存在を見つけられます。彼等の社会では兆候的なものに 敏感であることが優位を保証するのです。つまり「S親和者」は先ほどの血小板の話と同じく、 古代(未開地)では英雄の条件の一つに数えられるのです。ところが、「S親和者」はこれまた 血小板の話と同じく、農耕文化への移行とともに、優位性の大半を失うのです。かえって 少数者=負(マイナス)性をおびた存在として、とらえられるようになるのです。農耕社会は、 整理整頓、清潔、清めの儀式、整序された世界の裏で起こる権力と支配の世界。近代社会は いまだ、強迫的な農耕社会の延長上にあるのです。この強迫的な世界ではS親和者はたえず 分裂病という失調状態へ落ち込む危険にさらされているのです。 社会との折り合いの困難さによって生じるS親和者が人類の相当数を占めるようになることが、 いま必要なのかもしれません。 兆候性にすぐれた、孤独なS親和者だけが、現代人による盲目的勤勉のはてのレミング的悲劇 (レミングというネズミ科の小動物は、時々大増殖して死の大行進をする)を回避しうるから である。精神科医の中井さんはこのように語っているそうです。 これは失調症の一つのとらえ方として面白いかもしれませんが、病気に悩んでいる人には 説得力に欠けます。  発展途上国からの留学生が都会で生活していたらノイローゼになることが往々にあるそう です。そのようなときは、自然の中で一週間ほど過ごすと、元へ戻るそうです。 自然の中での狩猟採集的生活が、悩める人を元の健康状態に復元させるのです。 都会にいても、できるだけ自然に接するように心掛けたいものです。  話を私の論で進めてみます。自然淘汰という言葉があります。人類も自然淘汰の原理に 従っているのです。進化論でいう自然淘汰。人類が精神的に病んできていることは身近な出来事 からでも言えます。家庭崩壊、学級崩壊、自殺者の増加、などなどいくらでも列挙できます。 人類への警告なのかもしれません。レミング的人類の死への大行進にたいする警鐘がこれら 悩める人々の声なのです。悩める人々の声が警鐘そのものなのです。だからみなさん他人事の ように知らぬ振りをするのではなくて、身じかに声を聞きましょう! 痛みを分かち合うところから、すべて始まるのかもしれません。まずは語ることからです。 痛みの原因がどこかにあるはずなのです。今はやりの「癒し」という言葉を私はあまり 好きではありません。痛みの元を探って、嫌な想いをしなくては刺は抜けません。 見かけの「癒し」は、その場かぎりの、まやかし?でしかありません。痛みを和らげる癒しは 対処療法であって、根本の治療ではありません。本当の治療は痛みを覚悟して痛い刺を抜く ことです。その刺が何処にあるのか?それが大問題なのです。 個人個人違うので、この先は断定などできません。自分で刺を見つけられれば、もう病気では ないのかもしれません。あとは時間の問題かもしれません。抽象的な表現で申し訳ありません。 後、何かあれば個人的に話をしましょう。私のような者でよければのことですが。(10.18)
 「唯脳論」なる夲を、あの養老猛司さんが書かれていました。唯脳論という言葉があること 自体、私は始めて知りました。唯心論、唯物論ならば哲学用語として知っていましたが、 唯脳論はいつから使われだしたのでしょうか?唯心論を唯物論で解明したものかもしれません? まだよく理解していないので、断定はできませんが、唯物論を生理学的解釈で表現したもの かもしれません?さっそく「唯脳論」を読み始めましたが、始めに答ありの書き方はいたって 不愉快なのです。結論が先にあっての問題解釈は、実におかしな表現方法だと思います。 学者という職業の書き物は退屈(窮屈)?なのです。彼等は、まず持論があるのです。 その説明をこじつけがましく書き並べた書き物は説得力にいま一つ欠けます。なぜか? そこに葛藤なり、苦しみなり、迷いなりの過程が抜けているのです。理の整然とした書き物に 魅力を感じないというか、かえって反発して粗探しをしてしまう私です。唯脳論の出だしを 読んで、同じく養老さんの書かれた「バカの壁」なる夲を思い出しました。 今年一番のベストセラー夲を、以前私はけなしました。今回はこの「唯脳論」を批判したいと 思います。後日書き込みたいと思います。(10.19)   
 「唯脳論」の「はじめに」の文を読んで。 彼は自分の領域内で論を押し進めるため、まず「現代とは、要するに脳の時代である」と 結論づけています。愚かな書き出しです。何処にそんな「脳の時代」だという結論が あるのですか?自分とその取り巻き連中にしか、通用しない仮定を一般論のように結論づけて いるのです。「バカの壁」そのものです。あと粗を探せばきりがありません。独断と偏見? を払拭すべく、専門分野の脳をもってすべてを語り尽くそうとしています。先日テレビの CMにこの養老さんが出ていました。私にはおろかなピエロに見えましたが、本人は そうでもないようです。彼の論に対して、すべてを否定するわけではありませんが、根本が 違うのです。なんなんでしょうか?自分は正しいと自負している人(養老さん)をみている と、「そうですか?」と反論したくなるのです。読み進める度に、こいつ(養老)は 「バカか!」と言いっている自分に気付かされます。悪口しか出てこないのでこの先は 書かないことにします。百年後、こんな本は消滅していることでしょう。(10.20)
先日の新聞に小さく「マザー・テレサ福者になる」という記事が出ていました。 福者とは、聖人になる前の段階のカトリック教会聖職者につけられる名称だったと記憶して います。「聖人」も聖書からみると理解できないものがあります。 「ローマ法皇」自体、聖書からみるとおかしな存在です。法皇も聖人もカトリック教会という 組織を維持するために発生した作為的副産物のような気がしてなりません。 マザー・テレサ自体はすばらしい信仰者だと思いますが、神のように崇めたてる聖人として 信仰の対象?にするのは、いかがなものかと思います。(10.22)  
 今日の読書会は「マルコによる福音書」第八章一節から十三節までやるつもりです。 一節から十節まではパンの奇蹟です。六章で行った奇蹟と同じような奇蹟です。重複なのか? どうかということではなくて、別の同じ様な奇蹟と捉えていいと思います。 六章では弟子達からイエスへの問いかけから、パンの奇蹟を行ったのに対して、 今回はイエスから自発的に奇蹟を行っています。ここが以前と違うところです。後はほぼ同じ 行程で終わり、奇蹟を奇蹟として伝えることなく、すぐに群衆がいるその場を立ち去るのです。 このへんはまったく同じです。奇蹟を公にしないのがイエスなのです。何故か?イエスの目的は 奇蹟にあったのではなくて、魂の救いにあったのです。奇蹟は相手にたいする愛情ある行為に すぎなくて、そのことはイエスの思いやり以外のなにものでもありません。 十一節から十三節は奇蹟(しるし)というものを、イエスがどのようにとらえていたかを 言い表している箇所です。噂を聞きつけて 「パリサイ人がイエスを試みようとして議論をけしかけ、天からのしるしを求めました」 ヨハネのバプテスマを受けたあとの、荒野でのサタンの試練(マタイ四章一節〜十一節)と 同じようなことを、このパリサイ人は言うのです。パリサイ人はサタンと同じということです。 信仰がないところでは、決して奇蹟を行わないのがイエスなのです。生まれ故郷で奇蹟を 行わなかった(六章一節〜六節)のと同じです。 相手の信仰心がイエスの奇蹟を呼ぶのであって、興味本位の試みで奇蹟を求めても、イエスは 答えません。ただ去って行くのです。  興味本位の期待や希望に対して、私たちも無意識のうちに、そのようなことには拒絶して いるところがあるのではないかと思います?本心が何処にあるかで、返ってくる答が違って きてあたりまえなのです。幼子のように素直になれれば、相手も素直に対応してくれます。 そうでない場合もありますが・・・。こちらが構えて相対すると相手も構えてしまいます。 無心になることの難しさをしらされます。無心、無防備になれれば怖いもの知らずかもしれま せん。(10.22)


  蒼生舎通信の原稿(写真は12月号を見てください)

      「居場所」(写真と言葉)   放課後の 電線遊び 夕陽雲 ぽつりボートは 置き去りに  
大空に電線と雲、そこに置き去りのボート。
放課後の運動場のような大空に
雲と電線が自由に遊んでいるのにたいして、
ボートだけがぽつりと寂しそうに夕陽に照らされている。
場違いな場所にあることの寂しさを感じる写真です。
ボートの本来の居場所は水のある、海、川、湖などです。
場違いな場所に置き去りにされた寂しさが夕陽の照り返しと
あいまって、一層寂しさを増しています。
あなたは場違いな場所にいることの寂しさを感じたことはありませんか?
誰でも、自分の居場所を探しているのかもしれません。
 
(写真:太田義之 言葉:眼我 真)

2003.10.23


 やっと次ぎの連載小説「ゴッキの宇宙」に取りかかれました。やっと吹っ切れました。
専念しなくてはいけません。ゴキブリ物語です。価値観の転換を訴えるつもりです。
ゴキブリもクワカタ虫と同じ虫です。ゴキブリが世界に数匹しかいなかったら、数千万円の
価値を付けられることでしょう。一方クワカタ虫がどこの家庭の台所でも、ウジョウジョ
繁殖していたら、きっといまのゴキブリのように嫌われものになっていたでしょう。
人の都合で価値は決められるのです。おかしなことだと私は思います。「神」というものも、
人の都合で決められてしまっているところがあるような気がします。ゴキブリ・ゴッキを
通して「価値」とは何か?「神」とは何か?を思考したいと思います。(10.24)
 

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