2004年1月と2月の「思い」


 「そろそろ書き出したくなってきました」というか、
書かなければいけないのです。落ち込んでばかりではいけません。生きる意味を
問はなくてはいけないのです。生かされて、生きるということかもしれません。
現実は何もかわらなくても自分が変わっていかなくてはいけないのです。
そうでないと、それこそ何も変わりません。まずは自分自身が変わることです。日々
生まれ変わる気持ちで、新たな気持ちで生き抜いていけたらすばらしいいことです。
 正月に実家に帰りました。五年ぶいでした。変わらないものもあれば、変わって
しまったものもありました。私は家(親もと)を出た人間、残った兄とは親(母親)に
対する思いがどこか違うのです。
父親がわりと早く亡くなったせいか?母親の子に対する愛情が深く、私にはそれが重荷
でした。まとわり付く愛情は時にはありがたいのですが、それに甘えていたら自分が
自分で無くなるような違和感をなんとなく感じていました。今回の帰省で母親の感情を
確認することができたような気がしました。
 いま東海テレビで、月曜〜金曜?午後2:05〜3:00まで再放送されている
「僕の生きる道」を店の休憩時間の3時から見ています。話が短絡的な作りで、
いま一つ物足りなさを感じますが、「生きる」という意味を考えさせられる物語です。
私にとってはお涙ちょうだいの泣けるいい番組です。この番組の主題歌がSMAPが
歌っている例の「世界で一つだけの花」です。SMAPの草なぎ剛が抑えた演技で主演
をしています。相手役の矢田亜希子もなかなかいいです。(2004.1.27)

 「僕の生きる道」今日で最終回でした。終わりを少しだけ(店の休憩を早め)、 垣間見ました。生きるとは伝えることかもしれません。そこで何を伝えるかが問われる のかもしれません。二月から家庭で聖書読書会を始めます。私の思いを子に伝えること ができれば幸いです。人に理解されたければ、まず自分が変わることです。 僕の生きる道として、これだというものがやっと私にもみつかりました。それが聖書です。  ホームページの「思い」のコーナの過去の一覧表の表示が乱れています。 Macintoshで書き込んで、ウインドウズでプロバイダーに書類を送るという変則的な 作り方をしているからだと思います。Macintoshの書式とウインドウズの書式が少し 違うからだと思います?Macintoshでは奇麗に表示されているのに、ウインドウズでは ぐちゃぐちゃになってしまうのです。対策はありますが、時間が少しかかりそうです。 しばらくはこのまま放置しておきます。更新だけはしていきたいと思います。(1.28)
 年賀状の返事をまだ終わらせていません。徐々にのんびりと返事をだします。 「盲人は盲人の手引きができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか」 聖書の言葉です。私はさらに「盲人が目の見える人の手引きができようか」と言いたい です。私を含め世の多くの人は「自分は目が見える」と錯覚しているのではないでしょうか。 ここで言う「見える、見えない」は視覚的なことではなくて、魂・霊の問題です。 何もわかっていないのに、わかっているように語る人が多々いらっしゃいます。 「わたしは何も知らない」とCMで言ってらしゃっる某学者は逆説的な意味で、その 典型かもしれません。本当に自分は盲人だと自覚していらっしゃるのなら、「バカの壁」 など書かれないと思います。同じような錯覚をされている方をちらほら見受けますが、 あえて私は何も言いません。私自身、気を付けなくてはいけません。自分の罪に泣き、 神の前に悔い改めて、日々新しく生まれ変わらなくては、人の努力などでは 魂・霊の問題は解決しません。人の努力では不可能なのかもしれません。 私の言っていることは、いたって抽象的で分かりづらいと思います。具体的に言えば わかり易いのですが、そうするとその人に対していたって失礼なこととなり、人間関係 が壊れてしまいます。年配者に対して若輩者が意見するのは(私としては)はばかります。 「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁をみとめないのか。 自分の目にある梁を見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よあなたの目にある ちりを取らせてください。と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのける がよい、そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取り のけることができよう」聖書 ルカによる福音書六章41〜42節。(2004.1.31)
 家庭でする聖書読書会の箇所を何処にするか迷っていましたが、「ルカによる福音書」 に決めました。マルコは水曜日の読書会でしていますので、マタイかヨハネ、ルカの 中から決めることにしていましたが、パウロの弟子のルカによる福音書がいいのでは ないかと思い決めました。パウロは特質した伝道者です。イエスの直弟子ではなくて、 イエスの死後、弟子達を迫害していた人物なのです。生前のイエスを知らず、弟子達を 迫害していたとき、ダマスコ城外でイエスの幻を見てから、180度方向転換して イエスがメシアであることを異邦人(ユダヤ人以外の人)に布教してまわり、ローマで 紀元60年あたりに殉教の死をとげます。彼なくしてイエスの死後の世界宗教としての キリスト教はありえなかったと思います。私の興味のある人物の一人です。その直弟子 のルカによる書き物はやはりパウロ的です。パウロ的とは異邦人向けという意味です。 よって私たち異邦人にとってはこの「ルカによる福音書」は分かりやすいイエス伝に なっていると思われます。(2004.2.1)
 昨日の読書会ではエリコからベタニアにこられ、イエスが子ロバに乗りエルサレムに 入城される箇所を学びました。年に一度の過ぎ越しの祭に集まった多くの群衆にホサナ (救いは今)ホサナと歓迎されながらのエルサレム入り。イエスだけが死を自覚して いて、十二弟子でさえ栄光のメシアを期待している現実。旧約の予言を人の思いで勝手に 解釈している多くの民衆の騒ぎとイエスの苦難の選択を思うとき、悲哀に満ちてきます。 誰がイエスの悲しみを知りえるか?エルサレムに入城することは死を意味しています。 されど、神の御旨ならば・・・、ゲッセマネの祈りを思い出さずにはおれません。 後世の私達が読む聖書のイエス伝(福音書)の解釈と、当時同時進行していたイエスの 言動の解釈、私達は時間と空間のギャップを理解した上での解釈をしなくてはいけないの かもしれません。  (2.5)
 「甥への手紙」  正月にそちらに帰省したおりに、話す機会がなかったので、手紙で語ります。 何から話しましょうか?まあ、叔父の独り言と思って、聞き流す程度に聞いてください。 知っているように、叔父さんも賛太という一人息子がいます。中学二年生です。 そろそろ反抗期?というか親に対して意見をいうようになり。親を見る目が小学校の時と 違い、人間として評価を下すようになってきたみたいです。父親は子と接する時間が母親と 違い、大変短いせいか、子の変化に気付くのが遅いのかもしれません。変化とは精神的成長 と言ってもいいかもしれません。父親はついつい小学生のままの息子を想像してしまうの ですが、それは間違っているようです。  私の趣味の一つにゲームがあります。半年に一度ぐらいのめり込むことがあり、そのせいか 内には昨年の12月までスーパーファミコンとゲームボーイしかありませんでした。 ようはプレステなどを買うと、親の私の方が息子よりもはまってしまうために、家族の掟 みたいな決まり事として他のゲーム機は買わないことにしていたのです。でも、ついに息子 が「プレステ2を買いたい」といいだしたのです。私はこれを待ってましたとばかり、息子 よりも私のほうが喜んだしだいです。クリスマス前に息子は自分のお金で、プレステ2を 買ってきました。ソフトは映画マトリックスのゲーム版でした。アクション物は苦手な私 としては・・・、少しだけして、そのゲームは止めていました。正月そちらに帰った時、 たまたま駅裏のゲーム屋さんで安いロールプレインゲーム(私のするゲームはロールプレイ ンのみです)を買った私は、さっそく名古屋に帰ってきたらそのゲームにはまっていました。 すると、妻が「賛太も中学生になって、親を一個の人間として見るようになってきている から、大人のあなたが子供のようにゲームをやっているのは、よくありません。親として 反省してください、もっといい見本を子に見せてあげてください」と言われました。 確かに言われる通りです。その翌日から私はぴったりとゲームを止めました。子に何を 伝えられるか?親の勤めは子に生きる見本を示すことだと思っています。私と健太君の 父親の兄貴とは、性格も違うし、生活環境も違います。でも、子に対する思いは同じだと 思います。一人前の人間として社会で生き抜く強さを持ってもらいたいと思っていると 思います。人にはそれぞれ長所もあれば、欠点もあります。欠点は欠点として認め、長所を 延ばすことに努力すべきではないかと思っています。長所を延ばしていけば、自然と欠点も 長所がおぎなっていくと叔父さんは思っています。健太君の長所は何処ですか? 誰でも一つはあるはずです。その長所を見つけて、その長所を延ばすにはどうしたらいい か、自分で考えることです。親は子の心の中までは、なかなか見抜けないものです。 自分で見つけることです。学生時代はそのためにあるのかもしれません。社会に出ると、 なかなか見つけられないし、ゆっくり見つける時間も無くなってきます。高校生活も後二年 ありますね、その間にやりたいことが見つかるように自分で探すことです。誰も手伝って くれません。自分で探してみることです。自分から探さなくては誰も教えてくれません。 探すには自分から戸をたたくことです。たたかなくては、返事は返ってきません。 好きなことが見つかれば後はそれに向かって、進むだけです。叔父さんは学生時代は成績が よくて、優越感を持っていましたが、何がやりたいか?目的がなくただ、成績争いをして いただけです。やりたいことが無かったのです。社会に出てから、したいことがありました が、すでに遅かった?みたいです。でも、それもこれもすべては今のためにあったことだと、 すべて肯定的に考えています。高専にいっても就職することなく、卒業したため、社会での 第一歩をまたしても、つまずきましたが、そのつまづきがあったからこそ今があり、賛太も 生まれたのだと考えています。挫折をいかにして、乗り越えて行くかが、その人の後の人生 を創っていくのだと思っています。叔父さんは何を言いたいかというと、学生時代に好きな ことを見つけ、それに向かって前進してほしいということです。また、健太君が自分の長所 を見つけ、その長所を延ばすように努力してほしいということです。親をそのために利用 する分はいっこうにかまわないと思います。子が一人立ちするためなら、苦労をいとは ないのが、親というものです。親に甘えるのではなく、親を利用してください。 「僕はこれがしたい!」と親に言えるようなものを見つけられるとこを、祈っています。 私は親元を出た人間なので、何も親孝行ができずにきました。いまも孝行が出来ないでいる ことが、残念です。私にできることは何か?孫の健太君を励ます?ことぐらいです。 こんな手紙が励ましたことになるかどうか?わかりませんが、何かのきっかけになれれば いいなと思い、つたない手紙を書いています。私の親孝行?のいったんだと思って、読んで ください。(2.7) (続き)  若いうちにいろいろな人と出会うことも大切なことのように思われます。いろんな人と出会う ことです。いつか自分の人生観に影響を与えてくれるような人とも出会えるかもしれません。 私は高専で渡辺先生という尊敬する人物に出会えました。学業はいかせませんでしたが、 いまだに恩師として尊敬しています。別府に帰ると、必ず渡辺先生に会いにいきます。卒業して 28年もたちますが、いまだにあのときのままの先生と生徒です。渡辺先生は三年前に高専を 定年退職され、その年の四月から島根の私立高校の校長をされています。正月とお盆だけ大分の 家に帰ってこられるのです。大分高専の入り口にあるモニュメントに「愛はすべてに打ち勝つ」 とあります。ドイツ哲学、歴史学者のヒルティの言葉です。 聖書という本に「己を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という言葉があります。 イエスという人の言葉です。あなたの隣人とは誰でしょうか?おばあちゃんであり、親であり、 家族なのかもしれません。あるいは嫌な人のことかもしれません。聖書の話をしだすと、切りが ありません。叔父さんはこの本の勉強をしています。毎週水曜日の午後、叔父さんが中心に なって店の休憩時間に知人と読書会を設けています。あと二月から家族でもこの聖書の勉強会を 設けることにしました。賛太に何を伝えたいか?やはり聖書の教えを私としては伝えたいのです。 私に出来る最大の勤めかもしれません。そのためには私自身がもっと聖書を学ばなくてはいけ ないと思い、いつになく真面目に聖書を読んでいます。
 「甥への手紙」抽象的で話に説得力がありません。どうのように書けば、もっと良い文章が 書けるのでしょうか?勇気を湧き起こすような文書が書けますようにと、祈りたいです。 言葉で人の心を揺り動かしたいと望むことは、ただの自己満足の欲望かもしれません。謙虚に 想いを伝えることがすべてであって、それ以外を望むのは人の欲望の表われそのものかも しれません。神の前に膝まずいて、謙虚に悔い改める。この心境が大切なのかもしれません。  芥川賞の受賞作品「蛇にピアス」「蹴りたい背中」を拾い読みしました。文章が旨い、 無理が無い、でも・・・。テーマが私の好みではありません。現在の若者の無力感、哀愁 そんなものを表現しているようですが、私の好みではありません。小説をほとんど読まない 私にしてみたら、芥川賞に関係無くこの手の書き物には興味がわかないのです。審査委員が 作品の批評を書かれていましたが、そんなもんかという感想しかわきません。  同人誌に文を寄稿していますが、私の作品を発表する場所として、適切かどうか?疑問を 感じています。今の心境は当分人前に文章を発表することを控えたいという考えになって きています。後二〜三回で、その同人誌から完全に身を引くつもりです。  話は前後しますが、文藝春秋の三月号に芥川賞の二作品が掲載されているのを、たまたま 新聞広告で知ったので、妻に買ってきてもらいました。二冊を単行本で買うよりもずっと お徳なのです。するとこれまた思いもかけずに特別企画「仏教入門」というコーナーが あり、例の養老孟司が文を書いているではありませんか、やっぱりです。彼は仏教信仰者 だったのです。宗教は脳のアイドリングが生み出した創造の産物と言っていた人です。 前置きに私は仏教徒ではないが、といいながら仏教を支持しているのです。これも彼独特の 詭弁です。形式的には仏教徒ではないが、心は仏教支持者なのです。「バカの壁」にある 限界はこの辺から起こっているのかもしれません。ユダヤ教キリスト教イスラム教などの 一神教と多神教を冷静に比較することができないでいるのは、仏教への思い入れが 強いからかもしれません。(2.10)
 「ルカによる福音書」 第一回家族読書会 2004年2月16日 ルカ伝一章1〜4節まで。  はしがき(一章1〜4節)イエス・キリストの伝記、万人に救いの幸福な音信を告げる ものであるから、「福音書」と呼んでいる。 著者ルカ、職業は医者であり、彼はパウロの伝道旅行に随行した。「肉体に刺をもつ」と 自ら言っているように、病弱なパウロに医者のルカが随行したのは当然かもしれません。 ルカの著した「使徒行伝」の記事に「我ら」と記されている部分から随行していたことを 証明しています。四福音書の中で。このルカ伝(福音書)が最もパウロ的です。  ルカはギリシャ人であす。四福音書の他のマタイ、マルコ、ヨハネがユダヤ人であった のと異なり、ルカは「異邦人(ユダヤ人以外)」であった。ルカ伝は異邦人によって 書かれた唯一のイエス伝である。  第一章1〜4  手紙の前置きです。宛先人のテオピオ閣下は異邦人(ローマ人)の高官ではないかと 推測されます。パウロが異邦人にむけての伝道をされたことを思うとき、その弟子のルカが やはり、異邦人に対しての伝道の一貫として、このルカ伝を書かれたとみられるからです。 ルカが書いているもう一巻の「使徒行伝」にも最初に「テオピオ」とあります。 (使徒行伝はイエスの死後の弟子達の行動を記録した書き物です) 「わたしたちの間に成就された・・・」 イエスの出来事を既成の事実として知られていることとし、「御言葉に仕え」伝道者 たちが・・・「わたしも・・・」詳しく調べ、順序正しく。 四福音書の中で最も古いのがマルコ伝(紀元64年ごろ)で紀元60年にパウロが殉教死 され、同じころペテロも死に信者の中に不安がつのり、マルコが急いでイエス伝を書き 上げました。急いだせいか、マルコは必要最小限のことしかかきませんでした。その結果、 イエスの誕生や復活後のイエスについての記事が抜けていました。 その後にマタイはユダヤ人に向け、教訓的なマタイ伝を書き、紀元70年ごろ ルカは異邦人に向け、歴史的に時間の流れにそってルカ伝を書きました。  五節のヘロデはヘロデ大王と呼ばれ、イヅミヤ出身のユダヤ人で、紀元前37年より紀元前4年 にいたる間ユダヤを支配した。当時、ユダヤはローマ帝国の主権の下にありましたが、 統治政策上ローマの直轄とはせずに、ユダヤ人のヘロデに命じて支配させていた。 (2.13)
 昨日は第一回の家族読書会を設けることができました。毎週月曜日夕方、家族で聖書の 読書会が持てますようにと、祈る思いで一週間を過ごしたいと思っています。  今日は「甥への手紙」その2を書きます。  心理学の用語に「悪い人ゲーム」というものがあるそうです。 今、自分が不幸なのはあの人のせいだ!と自分の不幸の原因を他人のせいにしてしまう人の 心理状態を言い表したものです。他人を悪者にすることで、自分を正当化するのです。 このような人はいつまでたってもこの悪循環のゲームから抜け出せないで、現実が見えなく なってしまうのです。今、不幸なのは誰のせいでもなく、社会あるいは他者に対して 自分が変わろうとしない自分自身のせいなのです。周りの環境なりを変えたいのなら、 まず自分が変わることです。自分が変われば、周りの見る目も変わります。自然と環境も 変わってきます。他者のせいにしている限り、その人は永遠に変わることなく、他人の 悪口を言っては自分を慰め、自分の殻の中で小さくなっていくのです。 誰でも他人の欠点はよく目に付きますが、自分の欠点に気付くことはなかなかむづかしい ことです。他者から指摘され始めて気付くこともあります。指摘を感謝して、受け入れる ことができるかどうかで、その後のその人の人生が変わるのかもしれません。 叔父さんの最近のモットウーは「人はいつでも変われる」ということです。歳の問題では なく、本人が変わる勇気さえ持ち合わせていれば、何才からでも変われるのです。 叔父さんはいままでの自分をすべて否定するのではなくて、反省すべきところは反省して、 何かを他者に伝えられるような人に成りたいと思って、自分から変わろうとしています。 息子に影響され苦手な英会話も始めました。息子はいい意味でのライバルです。叔父さん は人前だと上がり性の癖があり、そのせいか学生時代から英会話が苦手でした。学生時代 はペーパーテストで点を稼ぎ、会話などでは・・・。自信が出来たら英語検定試験を受け ようかと思っています。まだまだ先の話ですが、自分の身に付けられるものは歳に関係なく 身に付けたいと思っています。それには地道な努力も必要です。 「棚からぼた餅」のようには旨くいかないのも世の中です。でも、目標をもって努力を すれば、必ず達成されることを信じて前進したいものです。今日が叔父さんの49歳の 誕生日です。健太君のおじいさんが亡くなった歳が49歳でした。父親の亡くなった歳に なってみて、おやじは早死だったとあらためて思わされます。もっとやりたいことがあったと 思います。人生一度きりのものです。やりたいことを見つけ、それに向かって歩むことが できることは幸せなことかもしれません。人に言われて歩むのではなく、自分の意志で 自分の道を切り開いて下さい。叔父さんは失敗もしてきましたが、常に自分に問いかけ ながら自分で考え、反省をして、自分で判断して行動してきたつもりです。息子にも 自己責任で、自分の人生を歩むようにと、しつけてきたつもりです。誰にでも可能性は 無限にあります。その可能性を自分のものにするのも、失うのも、自分自身の問題です。 自分で考え、行動することで、多くのことを学ぶことができます。挫折も勉強です。 すべてを生きる肥やしと思えるかどうかです。説教臭くなってきました。  叔父さんの趣味の一つに「まんが」があります。漫画本の早読みには自信があります。 こんなことは自慢になりませんが、漫画の本は買ったことがありませんでした。たいてい 立ち読みですませるか、喫茶店で片っ端から読みあさるかでした。最近は立ち読みができ なくなってきたので、もっぱら「まんが喫茶」でしたが、ここ一年ほど「まんが喫茶」に もいってません。店の景気が良くないので、無駄な出費はさけなくてはいけないと思い 「まんが喫茶」通いも止めました。以前は週一の割で行っていました。行くと一心不乱に 読みあさっていたものです。小学生から中学生ごろは貸本屋というものが近くにあって、 よく利用したものでした。いまでも読んでいる唯一の漫画が「少年ジャンプ」です。 健太君も読んでいるそうですね。ジャンプは息子の賛太が唯一読んでいる漫画本です。 これは毎週月曜日に私が買って来て息子といっしょに読んでいます。賛太の好きな漫画は 「ピューと吹く!ジャガー!」と「ボボボーボ・ボーボボ」だそうです。 叔父さんは「ハンター*ハンター」「ナルト」「ごっちゃんです」「BLACH」 新シリーズの「スティール・ボール・ラン」です。すべきことをちゃんとしていれば、 余暇としての時間に好きなことをする分は構わないと思っています。賛太もゲームをしま すが、一日一定時間以上はしないことを自分で決めているようです。親が注意することは ありません。勉強しなさいとも言いません。すべて自己責任です。勉強すれば成りたい 職業に付け、しなければ成りたい職業につけないのです。賛太は以前は学者になりたいと か建築家とか言っていましたが、今は飛行機を作る仕事につきたいみたいです。あるいは パイロットかもしれません。そのためには、まずは勉強です。無理をせずに自分にあった 勉強をすることができるかどうかです。健太君も成りたい職業を見つけられるといいですね、 望美おねえちゃんは美容師を目指して、頑張っているみたいですね。可能性を無限に広げ て、その中から好きなことを見つけて下さい。(2.17)
 第二回 家族読書会の書き込みをします。2月23日 「ルカによる福音書」 第一章5節〜25節 五節のヘロデはヘロデ大王と呼ばれ、イヅミヤ出身のユダヤ人で、紀元前37年より紀元前4年 にいたる間ユダヤを支配した。当時、ユダヤはローマ帝国の主権の下にありましたが、 統治政策上ローマの直轄とはせずに、ユダヤ人のヘロデに命じて支配させていた。 ヘロデの在位からイエスの誕生が紀元前4年以降ということはありえないことがわかり ます。イエスの誕生の前にヨハネの誕生を記しているのは、当時キリストがメシアとして 来られる時は、まずエリヤが現われるというのが常識になっていたのです。(旧約のマラキ 書三章1、四章5)ヨハネがエリヤの役目をしたとの認識からイエスの誕生の前にヨハネの ことを記しているのだと思われます。当時祭司は24組に分かれ、一週間交代で神殿に 奉仕した、アビヤの組はその8番目にあたる(歴代志上24章10)アロンの後裔(こうえい) は祭司の家柄であったから、ザカリヤとエリサベツは共に祭司の家柄だったのです。 ヨハネとは「エホバの賜」「エホバは恵深し」の意です。 ガブリエルはミカエルとならんで有力な天使です。ミカエルが戦闘の天使で、ガブリエル は神の善き音信を人に告知する天使です(ダニエル書8章16)。 旧約におけるアブラハムとサラの話がこの記事と類似しているのは偶然なのか? 創世記18章1〜14。常識的には不可能と思われることでも、神の恩恵があれば不可能も 可能にしてしまうのです。このように人生の歓喜は人から生まれるのではなくて、恩恵として 一方的に与えられるものなのかもしれません。神は年老いた石女(うまずめ)の胎(はら) を選んで約束の子を生ませられたのです。  アブラハムの子イサクからイスラエル人はイスラエル民族を形成したように、 ザカリア夫婦の子ヨハネから新しい時代(イエス)の幕開けとなったのは偶然ではなくて、 両者の類似は旧約が新約を準備し、アブラハムは遠くザカリヤを準備したのではないかとも 考えられる。すべては神の御旨なのかもしれません。 人が神を選ぶのではなくて、神が人を選ぶのです。
 「甥への手紙」その3  「過保護とも思えるような戦闘育成法はキルアにたいする過剰な愛から来ている・・・ いびつで利己的な、ゆがんだ愛」その呪縛からキルアは抜け出せるのか? 自己防衛は成長期においては、かえって成長をさまたげる危険性があります。 ゴンのようにがむしゃらに立ち向かうことで得られる体験は血となり肉となり、 ゴンをさらに成長させます。しかし、キルアのようにまず自分の身の安全を考えての行動 は人を消極的にしてしまいます。成長すべきときに成長できないで、うちにこもる エネルギーはときにして、いびつな負(マイナス)の思考となり、その人の精神状態を おかしくしてしまいます。親を子は選べません。親の間違った愛情によって育てられた キルア。これからは自分でその親から与えられた呪縛の殻から自力で抜け出さなくては いけません。大変なことです。並大抵なことでは抜け出せないと思われます。これを 助けるのが友情なのかもしれません。自己犠牲をも気にしないゴンの真直ぐな友情が 最終的にキルアを救うのかもしれません?(少年ジャンプの話から)  小学校から中学は多くの子がそのまま浜脇中学に進むので、友達もそのまま同じ状態で 中学生活にも違和感なく、なじんでいけたと思います。高校になると友達もばらばらになり、 新たな人間関係を築かなくてはいけなくなります。ここでキルア的な性格では新しい友達が 生まれにくいのかもしれません。ゴンのように開放的な性格の子はどんな環境でも自分を 発揮でき、すぐに周りの人と打ち解けて、なじんでしまうのかもしれません。 キルアのように自己防衛が強すぎる人はどうしたらいいのでしょうか? 自分から変わろうという強い意志をもたなくては、自己防衛の殻から抜け出せないのかも しれません。それでは変わろうという強い意志はどうしたら生まれるのでしょうか? 今の自分を真正面から見る勇気を持ち、自分の現状をしっかりと把握できるかどうかです。 私の好きな言葉に「悔い改め」という言葉があります。 挫折を経験した人がその挫折から抜け出すためにはどうしたらいいか? 私の経験から言えば、反省と後悔を徹底的にすることです。悔いて、間違いを改めることです。 挫折を真正面から受け止め、悔い改め、挫折を乗り越えたとき、その人は一回りも二回りも 大きく成長するのだと思います。挫折は人が成長するためには必要なことなのです。 挫折に負けてはいけません。成長が止まってしまいます。健太君、いまある自分をしっかり 認識してください。時間は充分あります、あわてず、ゆっくり自分の歩むべき道を探して 下さい。親の呪縛から抜け出せますように、心からお祈り申し上げます。  多分、お父さんとお母さんは健太君の現状を見て、心配していると思います。 健太君に変わってもらいたいのなら、まず親が少し反省して、変わるべきです。 昨日そのような手紙を兄貴と恵子さんに書きました。 兄貴も恵子さんも仕事が忙しくて大変だと思いますが、健太君の自立のためにはどうしたら いいか?親子で最善策を考えるべきではないかと、いらぬおせっかいを叔父さんはしています。 親子の会話が出来ないようでは、他者にたいして善い関係を築くことはなおさら むずかしいのではないかと思っています。一方的な叔父さんの話は的をはずしているかも しれませんが、善意からの行為です。善意の押し売りもこまったものですが、変な叔父さんと 思って、聞き流してください。(2.26)  
 甥への手紙と実家への手紙と、このところ手紙を書き続けています。私に出来るところの 最善をしたいという思いからです。効果のほどは?です。何かのきっかけになればという 程度の気持ちで書いています。  第三回家族読書会 三月一日の準備  「ルカによる福音書」一章26〜38  この箇所は有名なマリアの受胎告知の記事です。26節に「六か月目に、」とあります。 マリアの記事なのにエリサベツの妊娠からの時間で出来事を表わしています。当時は今と違って 時の概念が確立していなくて、抽象的に時間を表現できなかったのかもしれません。それとも マリアの出来事もエリサベツの出来事も同一の出来事(神の摂理)として表現したかったの かもしれません。多分そうなんでしょう。マリアの「処女」を明記することで何を言い表した かったのか?これも神の恩恵による、神からの一方的な愛の現われを表現したかったのだと 思います。
 昨日は家族で「ロード・オブ・ザリング」第三 王の帰還 をみてきました。 フロド、サムらポビットの勇気と友情、ゴンドールの王の末裔とエリフの姫との愛などが 語られた作品でした。コンピュータを駆使した視覚による迫力は凄まじいものがあり、 映像のリアルさが、いやおおなしに臨調感を盛り上げます。サムがいたからこそリングを 火口に捨てられたのですが、選ばれしフロドなくしてこの物語は成り立ちません。サムは この出来事の後、幸せな家庭を持ち、多分幸せに歳を重ねていったことと思われます。 フロドはエリフやガンダルフと共に、西の未知なる地へと旅立ちました。彼にはこの 出来事が死ぬまで暗い重荷となるのかもしれません。選ばれたフロトと他の戦士たちとは、 やはり違いがあるのかもしれません。重荷を背負わされる者とそうではない人、どちらが 良いとか悪いとかの問題ではありません。運命、定(さだめ)なのかもしれません。 人が神を選ぶのではなく、神が人を選ぶのです。選ばれた人にはそれなりの使命があり、 重荷をも覚悟しなくてはいけないのかもしれません。聖書のイエスの母マリアしかり、 バプテスマのヨセフもしかりです。選びは神の方から一方的にやってくるのかも しれません。人はただただ「然り、然(しか)り」(はい、わかりました)と言うのみ なのかもしれません。(3.2)
   
生徒募集!     植物画クラブ「アトリエ花」    植物画をいっしょに描きましょう。       日時:月曜日午後2〜4時30。月2回      入会金:2000円 月謝2000円    場所:ガンガー梅森店  日進市梅森町上松661ー6  TEL(052)806ー5547又は          806ー5570  講師:荒金たえこ。京都市立芸術大学日本画卒、国費留学生としてインドの           バローダ大学でインドミニアチュール(細密画)を学ぶ。  
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