2004年4月の思い


 四月です。私も変わりました?髭をみごとに剃り、十歳は若返ったと回りから言われます? 歳を重ねてくることは、それなりの意味があるのだと思っています。しかし、年の功だけに 頼るのではなく、常に新しいものへの挑戦心を忘れないようにしたいものです。 新緑の息吹に誘われて私も気分を新たに、前へ歩んで行きたいと思います。  とりあえず書きかけで進んでいない物語を書き進めたいと思っています。 藤原騒動もこの辺で、一段落させたいと思います。「印度放浪」と「沈思彷徨」「幻世」 これらの書評は取り立てて送らなくてはいけないような文でもないので、こちらからは 送らないことにします。すべては流れる方へ流れていくのです。クリスチャンとしては 神に祈り、すべてを委ねる思いです。ア〜メン。(4.2)
 名商大の先生(常連さん)といろいろと話をしました。先生とはよく気が合うので、 いつも会話が盛り上がります。国際法律学を専門にされていて、東ティモール、コソボ、 アフガン、パレスチナなど話題はつきません。アメリカ国内の貧富の差がもたらす矛盾点 から、二十歳の芥川賞作家二人の話、また藤原新也さんの「ディングルの入江」など幅広く 語り合いました。情報提供とお客さんからの情報確保、客商売の楽しいところです。(4.3)
 三月に掲載した文を一部訂正して昨日、また藤原さんへメールを入れました。 返事があるかどうかわかりませんが、読んでいただければそれで充分です。   藤原新也著書「印度放浪」についての一考  眼我 真    以前どこかで読んだ文章が出てきました。 以前、この文章を読んだとき、すごい人がいるもんだと驚いた記憶があります。 藤原さんの文章だったのですね。インタビュー形式の箇所で 「藤原さんの写真にはたしかに物は写っていますが、それは自分の目の中の スクリーンと外の世界の被写体とが二重に写っているような感じです。・・・ この世でないものがファインダーの中にどうして写りはじめたのか?」と 相手に質問され、彼がその質問に答えているのですが、これが面白い 「利き目が人各々あり私は左目が利き目だけども、左の方が視力が弱い、父親も 左半身の機能からどんどん衰え始めている。僕はあえて弱い左目で写真を撮って いる。先に死んでいく目で撮っている」こんな答をしています。 今日のこの箇所の感想は「藤原さんは嘘?を言っている」です。 右も左もどちらで撮っても同じはずなのです。先に死んでいく目だろうと、 そんなことは関係ないのではないか?これは彼なりの理屈なのか? 彼のサービス精神から出た彼独特の言い表し方なのではないかと思われます。 ある意味で、藤原さんの藤原さんらしさかもしれません。 相手を納得させるため、彼なりのやさしさ?から、真面目に答えたら、こういう 答になったということだと思います。だからこれは嘘ではないのかもしれません。 以前、この文書を読んだときも同じように感じたのですが、その時は、 そのようなことも有り得るかな?と藤原さんの説に納得したような気がします。 どちらにしても今日の私の感想は目の右、左ではなく。撮る側の視点、問題意識が 写真に反映されるのだと思いました。 この件は是非、藤原さんに聞いてみたいことです。 しかし、この世でないものが写つり出されると感じさせる藤原さんの写真は、 すごいです。人の死、人生、生きるとは? こんな意識を常に持って、対象をとらえないと、そのような写真は撮れません。 彼が印度に渡ったのも自分を確かめたい、日本にいては自分の存在価値が見い出 せない、社会の中に埋没したくない、自分の存在価値を見つけられる場所として、 印度を選んだのかもしれません。自己の存在意義を確認するために、自分のため に、旅を続けたのだと思います。そして旅にその意義を感じられなくなった時、 旅を終えたのだと思います。社会にたいする自分の存在意義は 「自分は変わっていない」ということかもしれません。 そのかわり社会が変化した分、以前より大きく彼の存在価値が出てきた。 本人は以前と同じでも回りが変われば、よりいっそう問題点が見えてくる。 そう彼には見えるのです。その亡霊が、撮れるんです。この世でないものが。  「印度放浪」上を読み終え、下の中ほどまで読みました。感じたことは彼の 観察力の鋭さです。写真のように頭の中に文章を焼き付ける事が出来のでしょう。 三一年前の文章に「東京漂流」「ディングルの入江」にみられる鋭さと、 こまやかな描写力がすでにみうけられます。ただの写真家ではありません。 かといってただの物書きでもありません。生きることの意味を追求して、 生きるということを伝えようとしている者。あるいは、 生まれて死ぬまで一生を通して何かを伝えようとしている表現者・藤原新也と でもいいましょうか。 「生きる」とは「伝える」ことだという定義が許されるのならば、 その「伝える」ことが、表現することを意味しているのではないかと思います。 意識して「伝える」=「表現」することができるかどうかと、 意識して生けるものからその「伝言」を聞き取れるかが、表現者としての認識に つながるのだと思います。表現者・藤原新也を通して、あなた自身が何を 感じられるかが、問われているのかもしれません。 それはあなた自身が彼の本や写真を実際に見て何かを感じることです。 答はその「何か」にあるかもしれません。 あるいは答などないのかもしれません。     久しぶりに「ゴッキの宇宙」の書き込みができました。先が見えないので、まだ 完全復調とはいえませんが、前進させたいと思っています。カマド村に着けば話は 見えてくると思われますが、旅路の描写が難しい!何か出来事に巻き込まれながら 仲間を増やしていく、桃太郎的旅路にすべきなのか?もっとシンプルに旅情風景を 描写出来たら、それはそれでいいのですが、私にはそのような表現力がありません? 前からそれで行き詰まっていたのです。どのようにしてカマド村まで行かせるかが 大問題なのです。  著作権の問題で、インターネット上での作品公開は中止にしようかと思っています。 日記の「思い」だけは日々公開しますが、小説、童話などの作品は非公開にしたいと 思います。後日そのように一部を非公開にしますので、よろしくお願いいたします。 (2004.4.4)
   イラクで邦人三人がテロ集団に拉致され、三日で自衛隊を退去させなければ、 殺害するとの主旨のビデオが放映されました。ついにという感じです。自衛隊への 攻撃も激化するものと予測されます。小泉さん!さあ、どうしますか?このような 自体になることは、充分予想できたはずです。三人を大事の前の小事ということで、 見殺しにするのでしょうか?国際世論と国内世論、それに九月の選挙を考えて、 自民党と小泉さんは自分達の益になる選択肢を選ぶのだと思われます。 当然、三人の命は風前の灯火です。拉致された三人もある程度覚悟して、イラクへ 行かれたのだと思われます。戦闘地区への立ち入りですから、死ということも考えた 上での行動なのだと私は認識しています。第三者としては、三人が無事に帰国できます ことを祈るのみです。最悪の結末になった場合、小泉さんへのこの件にたいする責任 問題を追及しなくてはいけません。その時は野党の皆さん頑張ってください!  今日の読売新聞の「古典に学ぶ21世紀」で、旧約聖書学者・池田裕さんの 記事が掲載されていました。「敵にも優いい人はいる」という題で、 ユダヤ、キリスト、イスラム教の共通の聖典であるところの旧約聖書の簡単な紹介と 「ルツ記」について書き込みがなされていました。「ルツ記」について後日書き込み ます。(4.9)
 邦人三人の解放が実現しそうです。よかったです。藤原さんもホームページで 今回の件について書き込みをされていました。物事を判断するには、判断するための 事実関係の情報源が何処から出ているかで違ってきます。日本のマスコミからの情報 だけでの判断だと、どうしても限界があります。当り前のこととして、みなさん同じような 意見になってしまうのです。それはしかたのないことです。何を言いたいかというと、 現地の情報をいかに的確に確保できるかです。それには現地の言葉に堪能で、しかも 最新の情報を入手できる手段を確保していることです。テレビの解説者で切れる意見を 言われる方は、情報源がちゃんとあり、日本のマスコミも入手していないような情報を ちゃんと得ているのです。私は日本の新聞とテレビからしか情報を得ていません。 切り口だけは斬新でありたいと思っていますが、やはり限界があります。藤原さんの 書き込みにも同じ様な限界を感じました。これは仕方のないことなのかもしれません。 旅人であった時は、藤原さんも最先端の情報(ニュースという意味ではなく、生きると いう意味での情報)を現地で獲得していたのだと思われます。 藤原さん流に言えば、生(なま)の情報と半殺しされた状態の情報の違いは大変な違い なのです。多くの人はこの半殺しされた状態の情報を解して、それなりの解説、判断を 下していらっしゃるのだと思います。それだと、やはり生温(なまぬる)いのです。 日本にいてはどうしても、半殺しされたような情報しか入手できないので、半殺し された情報を、斬新な切り口で切って、視点を変え、いかにしてその情報を再生させ、 情報を本来の生(まな)に近づかせるかが私達に問われているのかもしれません。  面白い話をラジオで聞きました。「ガッツポーズ」という言葉は1974年に ガッツ石松さんがボクシングで世界チャンピョンになられたとき撮られた写真のポーズ から生まれた言葉だということです。これはテレビ番組「トレビアの泉」の「へぇ〜」 に匹敵します。  絵画の批評を、一言。 形と色について。視覚による物の認識はこの形と色だと思います。抽象画には形の無いと いうか、色を重視した作品もあります。絵を形而上学的に分析することに意味があるとは 思いませんが、形と色を軽視したような作品には無知、自己満足による傲慢さを感じます。 ただ感情的に描かれた作品でも、その作品に作者の意図が見受けられ、色のバランスと 形のバランスが心いい作品は好きですが、ただ感情のまま描かれていて、しかも 美しくないものには、興味がわきません。形と色の葛藤が無造作になされているような 作品は好きではありません。文章もそうですが、文の美しさと文の流れが奇麗な作品に 興味が起こります。美しいとは読みやすいということでもあります。 安心して読めるということです。奇抜な言葉使いではなく、普通の言葉、あるいは平凡な 言葉を美しく感じさせるような文の流れ、その組み合わせによって物語が構成されている そんな作品を書きたいと思っています。最終的には作者の心構えとして作品にたいする 「やさしさ」とか「思いやり」といった人間性が問われるのかもしれません。(4.10)
 イラクの拉致問題が複雑化してきました。個人の生命を政治に利用しようとしている テロリストたちは、自分達は正しいことをしているという認識のもとに行動しているの です。彼等には彼等なりの大義名分があるのです。だから解決はいっそう難しくなったと 思われます。拉致という個人の問題から国家という政治の問題へと変化というか、進展 してしまったのです。国家による、ある程度の情報統制がなされてくると思われます。 このような状況の中、小泉さんは自衛隊のさらなる派遣を昨日実行しました。個人の生命 よりも国家の大義名分が優先するのです。  ある人が「今井君は自衛隊派遣に反対していたし、劣化ウラン弾について、アメリカに 抗議する姿勢を明確に示していたから、彼等(イラク人)にとっては味方なのだという ことを主張すべきだ」と言われていました。今回の拉致問題の場合拉致された人がイラク にとって敵、味方は関係ないのだと思われます。アメリカ憎しのただその一点だけなのです。 アメリカを撤退させるにはどうしたらいいか?その結果が今回の日本人拉致問題なの だと思います。アメリカにあまり影響力がないところの韓国や中国の拉致された方々は すぐに釈放されたのがいい例です。自衛隊が人道支援だろうが関係ないのです。ようは アメリカに追随しているところが、彼等にとっては許せないのです。「坊さん憎けりゃ、 袈裟まで憎い」のことわざのように「アメリカ憎けりゃ、日本まで憎い」なのです。 この際、自衛隊の活動内容など関係ないのです。テロリストが直接、拉致された方々の 生命に危害を加えることは考えられませんが、アメリカ軍との戦闘の中で巻添えに合う 可能性は否定できません。日本大使館員二名が射殺された事件もアメリカ軍の誤射という 説が有力なのも分かる気がします。戦争では何が起こるか分からないという、いい例です。 (4.13)
 ファルージャでのアメリカ民間軍事関係者の殺害とその死体への虐待に対するアメリカの 過激な報復が今回の拉致事件を誘発させていると思われます。私の推測のようにアメリカの 身勝手な正義がテロリストたちの拉致事件を誘発させているのなら、日本人拉致問題を 解決するのは難しくなると思われます。アメリカがイラクから身を引かない限り解決は 不可能かもしれません。小泉さんのアメリカ追随がこんな結果を招いたと言っても過言では ないと思います。丸投げ主義の小泉さんがこのような時期に総理でいらっしゃるのは 日本の悲劇かもしれません。次ぎに狙われるのは自衛隊だと思われます。(4.14) 
   ある人からいただいた詩についての私の感想。 マスメディアによって得られる膨大な情報と自分の浅い実体験、その間に大きなギャップが あることに気付かず。うわついた言葉の羅列、説得力のない言葉たち。自分の体験から にじみ出た生きた言葉を使うべきなのです。その言葉がたどたどしくても体験から得た 言葉ならば、読む側に共感を呼び起こすことでしょう。正直で素直な言葉が大切なのです。 自分に正直でない言葉はうわついて聞こえます。彼は嘘つきなのかもしれません。 それか自分が嘘つきだということさえも、気付いていないのかもしれません。 偽善者とは自分が偽善者だとは思わない人のことを言うのかもしれません。私は自分に 正直でいたいと思っています。正直でいるにはいろいろと不便なこともあります。その 不便さから起こる心の葛藤が生み出すもの、それが詩であったり、文章だったりするの かもしれません。心の葛藤、痛みを大切にしたいものです。ただ、その葛藤なり、痛み なりがいかに純粋かが問われるのかもしれません。自己中心の葛藤?痛みでは何も生まれ ないかもしれません。あるいはその逆で、変に悟った様な物言いをする人をみると 「こいつは何もわかっていない」と断定したくなってしまう私です。(4.15)
 二人が新たに拉致され、すでに拉致されていた三人が解放されました。偶然なのか? ところてん式解放なのか?犯人グループが同じならば、ところてん式解放の可能性が大と いうことになります。新たに拉致された方々の情報がまったく表にでてこないので、 判断できません。(4.16)
 拉致された方々への非難が大勢をしめているこの日本はいったいどうしたんだと、 言いたくなります。言論の自由とメールの発信者の素性が分からないということから、 インターネット上では無責任な暴言がまかり通っているみたいです。私は自分の ホームページ以外は見ないことにしています。先日、たまたま縁?ができた藤原さんの ホームページはときどき覗いていますが、それ以外は興味がないので見ません。 お客さんからの情報ではヤフーの掲示板にはすごいことが連日書かれているとのことです。 日本人のすべてがこのような人達とは思いたくありませんが、ひどい中傷がほとんどを 占めているみたいです。思考することが出来なくなってしまった人々が大勢を占める国に 輝かしい未来はあるのか?否です。イスラエル、アメリカ国家の愚考がいい例です。 アメリカがまだ健全ならば、今度の大統領選挙でブシュを打ち負かさなくてはいけません。 ケリーさんならばイラクから手を引くと思われます。イスラエルは救いようがありません。 シャロンさんが首相であるかぎり、殺戮は終わらないと思われます。イエスを殺したヤダヤ教 そのものです。それを支持するブシュはあの裏切り者のユダなのかもしれません。(4.20)
 フランスのメディアが苦言を提示しました。小泉さんをはじめとする政府与党、 マスコミの拉致された方達への責任転嫁としか思えないような「自己責任」論を非難して います。人道支援の為に命懸けで行かれた善意を、傍観者でしかない人達が無知な土足で それらの善意を一方的に踏みにじる行為は愚かなことです。内から浄化できないのなら、 外(フランス・メディアなど)から強烈な指摘をしていただけるだけ、まだ日本は救いの 道が残っているのかもしれません。これらの声に対して素直に反省をしてもらいたい ものです。小泉さん自慢げに鼻の下を伸ばしている場合ではありませんよ!  今朝のテレビで拉致されたときのビデオで、拉致グループに脅かされている 緊迫した場面のビデオが放映されていました。あれは私達(一般人)には見せないように、 政府が情報統制をしていたのではないかと思われます。一方、家族には全て見せたのでは ないかと私は憶測するのです?そうだとしたらあの会見場での家族の緊迫した応対が理解 できます。私達には見せなくて、家族と一部の関係者だけ見せたとしたら、そこに命に かかわる恐怖への温度差がかなりできてしかたのないことだったのです。高遠さんの 弟さんが政府への対応に不満をぶっつけ、一部の片寄った見方しかできない方達からの 非難にあう結果になったのもしかたのないことかもしれません。今井さんのお母さんが 「息子が拉致グループのメンバーによって、喉元に刃物を突きつけられた映像を見た ときは・・・」と会見で言われていたのを聞いて、私は「はてな?」と思ったのを思い 出しました。そんな映像見た覚えがなかったのです。24時間テレビを見ているのでは ないので、見逃したのかとそのときは思いました。でもその後のどの番組でもそのような ビデオの場面は見当たりませんでした。いま思うにやはり家族だけにあの場面を見せたの ではないでしょうか?これは一種の情報統制ではないでしょうか。こんなことをするから 家族と一般国民の間に、救出への違和感をもたらしたのだと思います。 政府の責任転嫁的発想の「自己責任」論の伏線がこの当たりに、見え隠れします。 思考停止状態におかれているような人達による世論の大勢が、この政府の策略に踊ら されているのかもしれません。この拉致事件で内閣支持率が上がったこと自体が異常だと 私は言いたいです。 テレビを私よりもよく見る妻にビデオの件を聞いたら、政府の意向ではなく、マスコミ側 が自主的に放映しなかったとの内容がワイドショーで語られていたようです。 どのテレビ局も刺激的な場面を見せないとのことだそうですが、家族に見せて一般人には 見せないでは、拉致に対する感情の共有が出来なくなってしまいます。家族と一般人を 分けて情報提供をしたことが、今回の「自己責任」論の議論の分岐点になったのかも しれません。本来なら同情論が起こってもいいのですが、そうではなく責任論へと話題が それたのは、そこに政府の意向ではないにしろ、何かの圧力なり、意思が働いた結果では ないかと思われてなりません。  脅迫されているビデオを見た妻が「拉致グループに演じるように依頼され三人は恐怖の 演技をしていたとのことです。そのとき今井さんが『no!小泉』と叫んでいた ように聞こえた」と語っていました。もし「no!小泉」が本当ならば面白いことです。 これらのことから政府筋では早い時期から、いろいろと憶測が飛んでいたようです。 解放後の政府関係者の高飛車な態度はこれで理解できました。 情けない日本政府の態度はテレビから恥が降り注ぐ感じです。(4.21)
 昨日、知人が久しぶりに尋ねてくれました。他者と語ることはストレス解消に繋がる のかもしれません。創作活動に何がしかの刺激を与えてくれるような気もします。 お互い刺激し合っていきたいものです。共同作業の「写真と言葉」も私の方が意欲を 無くしてしまい、尻切れとんぼ状態になってしまいました。同人誌への掲載について 疑問を持ちだした時点で、それと関わりのあるものに対して、同じように興味を無くした 私です。自分に素直というと聞こえはいいのですが、多にして無責任を伴うようです。 気を付けなくてはいけません。機会があれば、また何かの形で関わりたいものです。 昨日の話から、やらなくてはいけないある仕事を思い出しました。自分で仕事を背負込む 癖?がるのかもしれません。ある人の為に「ガンガー通信」(仮名)を発行することです。 来週の木曜日までに作らなくてはいけません。原稿は過去の書き込みから間に合うのですが、 コンセプトをどうするか?まったく白紙の状態なので、ちょっと考えなくてはいけません。 以前の月刊誌「思考の断片」はそこそこマニアには受けたのですが、これも尻切れとんぼ 状態で終わりました。もっと一般受けするものも盛り込むようにしたいと思っています。 信仰と童話と連載小説と時事問題など・・・。あまり力を入れると、長続きしないかも しれません。月曜日あたりまでに構成を考えたいと思います。(4.23)
 拉致に対する私の思考過程が解るのが、昨日(4月21日)書いたところの拉致にたいする 一考です。 自分で解説します。私の得た情報は多くの一般の方達と同じものでした。テレビと新聞、 ラジオこの三つでした。まず最初の謎解きの鍵は三人が解放され帰国した後の、 未公開ビデオのあの脅迫されている演技のビデオでした。それとフランスのメディアによる 日本政府、マスコミへの「自己責任」論への苦言のラジオニュースでした。 未公開ビデオで謎解きの糸口が見えました。さらに、フランス・メディアによる苦言 ニュースを聞いて、私見を書く気になったのでした。 未公開ビデオからの謎解きは私だけの「コロンブスの卵」だと思っています。 義理で取っている赤旗日曜版の四月二十五日号に私の指摘したこととほぼ同じような ことを名のある方達が書かれていました。でも誰も未公開ビデオからの矛盾の指摘を されている方はいませんでした。私の私見もこれらの名のある解説者の私見とほぼ同じ 次元に達していますが、ビデオからの解説は私のオリジナルだと思っています。 もし私のこの書き込みが、自慢話に聞こえたらお許しください。  「眼我通信」創刊号の内容がほぼ決まりました。 1、時評「テレビから恥が降り注ぐ」 2、連載小説「ゴッキの宇宙」 3、聖書「ルカによる福音書」について (4.24)
 昨日、義理の父親の写真展を見に、大須まで行きました。義理の父親に 藤原新也さんについて聞きましたら「写真家はたくさんいるから、そんな人は知らんと」 そっけなく言われました。話がいま一つかみ合わないのは歳の差なのか?八十四歳です から、こちらは「はい、はい」と聞くばかりでした。藤原さんは写真家とか文筆家とか、 そんな狭い枠に囚われない個性をお持ちなので、かえってその筋の方達からは嫌われて いるのかもしれません。どのジャンルにも属さない一匹狼は日本という土地では孤高な 存在なのかもしれません。知人が義理の父親に自分の写真の批評をしていただきました。 「先生」とは先に生まれたと書きます。自分より先に生まれた方はみな「先生」なのです。 医者や議員などの職業によって「先生」なのではありません。だてに八十四歳生きては いませんでした。なかなかの批評でした。  聖書に「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、 みんなに仕える者とならねばならない」というイエスの言葉があります。 (マルコによる福音書九章35節)マザー・テレサはこの言葉に従い、ベナレスの地で貧しく、 しかも死を待つ人々に仕えたのでした。上からの善意ではなく、寝起きを共にして、 彼等に仕えたのです。その行動に感動があるのです。底辺の人に仕える勇気は何処から くるのか?信仰のなせる業としか説明できません。人の努力では、限界があります。 魂の底からの悔い改めが、この奇蹟を呼ぶのです。誰にも出来ることではありません。 あなたは自分より卑しいと思う人達に仕えることができますか?この卑しいは見かけの 汚さかもしれません。見かけは卑しくても、魂は輝いているのかもしれません。テレサは その魂の輝きに救いを見たから、死ぬまで奉仕活動に生き甲斐を感じたのだと思います。 その崇高さの前では芸術は色あせて見えるかもしれません。魂を救うとは医療を越えた 行為です。芸術で他者の魂を救えるか?「NO!」です。芸術は自己の欲望を満たす ことはできても、他者の魂までは救えません。感動を与えることは可能だとは思いますが、 魂までは・・・。芸術は所詮、自己満足のオナニーなのかもしれません。だから芸術は 不必要だと断定しているわけではありません。芸術では迷える魂の根本的な「救い」が できなくても、その迷える魂の導き手に成りえる可能性はあります。 まずは生きるということを真正面から考えることです。「生きる」ことが「伝える」こと、 それがひいては「表現」(芸術)へと繋がるのだと思っています。 「生きる」ことと「魂の救い」は私の中では同意語なのです。 「生きる」=「魂の救い」その継続が「伝える」ということになり、 それが表現者なのではないかと思っています。テレサもある種の表現者なのだと思います。 (この持論にはいま一つ無理があるかもしれません。あとで推敲してみます) まずは「生きる」ということを探究すべきなのです。それには自立した一個人としての 自覚が必要なのです。社会で己として、自立しているかどうか?まずは考えてみてください。    週間ポストにあの養老さんが対談形式で出ていました。先日?「死の壁」という本を 出されたみたいですから、その宣伝も兼ねているのだと思われます。対談の内容は 「バカの壁」のごとく至って短絡的です。柳の下に二匹めのどじょうがいるのでしょうか? 彼はいま以上に思考が深まることはもうないのではないかと推測されます。なぜなら 私からすると彼はすでに自己の持論に満足していらっしゃるように見受けられるからです。 それでは表現者としては終わりです。人を断定的に断罪することは良くないことです。 誰にでも変貌の可能性はあるのですから、言い過ぎはご了承ください。 私のひがみが多少入っているかもしれません。(4.27)  
 眼我通信、創刊号を無事に発売できました。一部三十円での販売です。 無料でもいいのですが、無料だと読まずに捨てられる可能性もあるので、 読みたいという意思表示をしていただきたいので、有料としました。 継続して発行できるようにしたいと思っています。月刊誌です。ガンガー以外の 場所に置くつもりはありません。大変閉鎖的な販売方法ですが、 それでいいと思っています。私との関わりの中での販売にしたいのです。 購読者は限られてきますが、それでいいのかもしれません。自分でいいと思って いるので、これでいいのです。送料を払っていただけるのでしたら「眼我通信」を 無料でお送りいたします。その旨をガンガーまで一報下さい。  「空から恥が降る」(著者・藤原新也)が文芸春秋出版から送られてきました。そこには 私の書評に藤原さんが答えているのですが、私の指摘が的中、大当りでした。 でもこの藤原さんの返信は私の書評を無断で送られた誰かが四年前にすでに受けていたのです。 その方は藤原さんからこのようなメールを受けてどう思われたのでしょうか? 私を無視して勝手に送る行為はやはり失礼この上ありません!この本を通して四年目にして 私は始めて私の書評の返事を藤原さんから間接的にいただいたことになります。 でも、考え方を変えればその誰かが私の書評を送ってくださらなければ、今回の掲載事件には いたらなかったのです。それを思うと「縁」とは不思議なものです。 これから「空から恥が降る」をゆっくり読んでいきたいと思います。(4.29)
 文春文庫「空から恥が降る」藤原さんの批判集です。藤原さんを知るにはいい本だと 思います。出来事に対する彼の視点がよく解るのですが、ある意味私と類似点があるのだと 思います。そのせいか?私には新鮮味があまり感じられません。 昨日、藤原さんの新しいホームページ書き込み(4月27日)を読みました。言ってることは いままでの延長上ですが、彼の感情むき出しの文には迫力を感じました。 嫌がらせのメールにたいする彼の対処のしかたも、彼らしくてなかなか良いです。 くっすっと笑えてきます。彼は実に反骨精神お旺盛な人だということが分かりました。 生きる為に必要なエレルギーが実にパワフルなのです。このエレルギーがある限り 彼は表現者でいられると思います。生きる強さは何処から来るのでしょうか? 才能があっても、このエレルギーがないと表現者としては不十分かもしれません。逆に、 才能は後から付いてくるものかもしれません?まずは生きる強さが必要なのかもしれません。 生きる強さとは「生命力」と言ってもいいかもしれません。それは遺伝子の中に組み込まれて いるものなのかもしれません。種の保存とも関係する「生命力」、自然淘汰的弱肉強食 の世界を生き抜くには藤原さんのような強い精神力が必要なのです。(4.30)
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