2004年5月の思い


 五月、独り立ちの季節?歳をとってきて、やるべきことというか、出来ること が限られてきた分、目標が定まっていいのかもしれません。 「テレビから恥が降り注ぐ」(拉致事件の一考察)もそこそこいい書き物だと 自負しています。ある人がわざわざ私を尋ねて店まで来られました。 悩みがあるみたいですが、そこまで話が深まる前に昼どきになってしまいました。 聖書を学びたいとのことなので「眼我通信」を毎月お渡しすることにしました。 いままで以上に、まじめに聖書に取り組まなくてはいけません。  「空から恥が降る」著者・藤原新也(文春文庫)(¥762+税)。藤原さんに 興味のある方は買われることをお勧めいたします。P239に私の文が掲載されて います。たぶん今日発売されたはずです。  「愛するとは変わることかもしれません」さきほどの悩める方に差し上げた 「眼我通信」に添えた言葉です。変わる勇気が必要です。それを可能にさせるのが 「愛」の力かもしれません。愛する人のためにあなたは変われますか? (5.1)
 今日の夕方5時からNHKテレビで「イラクの子・二人のアリの悲劇」という 番組が放映されます。私は仕事なので見れませんが、ラジオで聞きます。 番組紹介文にマザー・テレサの言葉が引用されていました。「愛の反対は憎しみ ではなく、無関心だ」その通りかもしれません。爆撃による二人のアリの出来事を 対比させながら、愛とは?無関心とは?どういうことなのかを問いかけているの かもしれません。後で感想を書きます。  アリ・アバス君とアリ・フセイン君二人のアリです。アリ・アバス君はマスコミの 力でイラク戦争での悲劇の少年として世界中に紹介され、一躍有名人になり ました。アバス君の叔父はマスコミに対してお金を要求します。アバス君はいつしか 世界中からの支援に身に委ねます。一方、フセイン君はさらなる医療が必要ですが、 他の子供達といっしょに強制的に故郷のイラク(バクダット)へおくり帰されました。 有名人のアバス君だけは一人そのまま、クエートの病院に残りました。アバス君には 援助の愛が注がれ、他の子供達には関心が注がれなかったのです。マスコミにとって 都合のいい悲劇のヒーロを探していたところに、たまたまアバス君が目にとまったの でした。ヒーロは一人でいいのです。フセイン君を含む、その他の戦争悲劇の子供たちは いつしか忘れ去られていくのでした。アバス君へ注がれる援助は富める国の偽善者達に よる、自己満足の産物なのかもしれません。それを愛といえるのかどうか疑問です。 (このようなテレビ報道番組、視覚で見るものをラジオで聞くのは、内容把握に少し 無理がありました)   今井さんと郡山さんが記者会見をしました。落ち着いて自己の考えをちゃんと 言い、拉致についての説明も的確にされていたと思います。二人はこの経験から得る ものは多かったと思われます。他だ、心配なのが高遠さんです。 彼女は復帰できるのでしょうか?二人の会見でも今井さんから、拉致の間も高遠さんが 泣いていたという言葉を何度か聞かされ、やはり彼女のボランティアは上からの援助 だったのではないかという疑問が起こりました。 愛することによって愛されたいという自己愛のための支援活動だったのではないか? マザー・テレサのように底辺の人達に尽くす、仕える行為からの善意ではなく、 富める者が貧しい者への善意を行なうことで、愛を感じるような、そんな行為の延長上 に高遠さんはいたのではないかということです。彼女の会見がいつになるかわかりませんが、 私の邪推であることを信じたい気持ちです。 (5.2) 
 郡山さんが朝の番組に生出演されていました。三人三様、それぞれの立場が違うので、 統一した意見としては発表出来ないので、会見場ではそんなに率直に言えなかった との主旨を述べられていました。一番の障害というか立場の違いと言えばいいのか、 それは高遠さんかもしれません。今井さんと郡山さんはジャーナリストとしての立場で、 高遠さんはボランティアしかも個人での活動です。昨日、郡山さんがテレビ生出演で 話された後、それを見ていた高遠さん本人から郡山さんへ苦情の電話があったそうです。 その内容は「皆様に謝りなさい!」との苦言だったそうです。 高遠さんの言われるところの一方的な自己責任論批判への謝罪はおかしいのです。 自分の仕事にプライドがあるのなら、自己責任論批判に対しての謝罪は必要ありません。 政府、その他無知な人達の無責任な暴言に対しては、きっぱりと自己正当性を主張すべき なのです。冬山の遭難とは次元が違うのです。人道支援のための災難なのですから、政府 がしたことは自国民に対して当り前のことをしたのであって、恩義背がましく?彼等を 非難することは論点のすり替えでしかありません。自衛隊派遣に対する論議に及ぶことを 恐れる政府は、何が何でも彼等の責任にしたいのです。マスコミもそれに同調していた節 がみえみえなのですが、海外のマスメディアがおかしいと異を唱えだすと、それもそうだ と風見鶏的発想で、コメンテイターもみなそろって「自己責任」論には矛盾があると 言い出すしまつです。もっと早くから世論、政府の言い分はおかしいと言えなかったのか? 情けない実態です。  映画「パッション」を昨日観てきました。イエス・キリストの最後の十二時間を リアルに描いた映画として、いま話題の作品です。 聖書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの共観福音書)から忠実に描き出そうとした結果が あのような映像になっとのだと想像できます。言葉を映像にする難しさを感じました。 確かにあのような衝撃の映像は想像できなくはありません。実際思うに、イエスの死は あのような悲惨な死だったのだと思われます。 でも、やはり監督その他の関係者によるところの想像の域を出ていないのも事実です。 見てもいないのにそれを映像にすることへの戸惑いを決して忘れてはいけないと思いました。 視覚による魔術がそこにあるのです。監督は推敲に推敲を重ね、史実を重視したと 思われますが、悪魔を意図的に映像上に登場させていました。これは聖書には出てきません。 それと、ゴルゴダの丘でのことですが、ローマ軍にとってはイエスも他の二人の囚人も 同じレベルの死刑囚だったと思われます。二人の囚人の死体と対比して、イエスの死体の 悲惨さは、あまりに誇張しすぎていて、かえって不自然に思われました。囚人への虐待が イエスに集中したと言えば、それまでですが。 当時もっとも悲惨な処刑方法が十字架による処刑だったそうですから、イエスも他の二人も 同じように惨い死に様だったのだと思われます。母マリアと娼婦マグダラのマリアの姿にも 涙そそられました。私が上映中に何度も涙したのも事実です。 聖書をよく知っている人には理解出来る映画かもしれませんが、聖書を読んだことのない 人には変な誤解を招く内容かもしれません。一度、聖書を読んだことのない人に感想を 聞いてみないと、その辺はなんとも言えませんが。 監督のメル・ギブソンはこの映画で何を言いたかったのか? すでに聖書を知っている人へのメッセージだとしたら、この映像は少し傲慢かも しれません。イエスの死は孤独で悲惨だったということを表現したかったのならば、 もっと別の方法があったと思われます。映像によって、十字架の死の重さを表現したかった ので、血の赤いイメージを強調されたのかもしれません。肉体への悲惨さを強調 するよりも、弟子や支持者らの無理解、誤解にも関わらず、十字架の道を選ばざるをえな かったメシアとしてのイエスの孤独を、もっと信仰面からとらえるべきだったと私は 言いたいのです。そういう意味では白黒のモノトーンで撮ると血のイメージよりも、もっと 別のものが表現されたかもしれません。メシアの孤独という面からも一応はとらえては いましたが、肉体への悲惨さが誇張されすぎ、その血のイメージが強くて、弟子への愛情の 深さ、弱き者への愛の強さなどが少しぼやけて見えました。批判はいろいろできますが、 問題提起としての映画「パッション」と思えば、これはこれで一つのイエス像だと思います。 でも、これがすべてではないことも真実です。  私、個人にとって、気になることが二つありました。 一つはナン、チャパティの類のパンを「取れ、これは私のからだである」といって 裂いて弟子たちへ差し出すシーンです。うちの店で出すナンをもっとこんがり分厚く 焼いたものでした。このパンを店で出してみたいと思いました。 種なし(発酵させない)パンですから、ふっくらとはしなくて固いパンになると 思われます。あと一つはイエスの言葉で「・・・私を通してでないと、神の国? へは行けない・・・」こんな内容だったと思われます。さっそく聖書で調べてみます。 ヨハネによる福音書 第十四章6節「わたしは道であるり、真理であり、命である。 だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。・・・」 イエスを通さなくては、救いにあずからないということです。これは従来のユダヤ教 では救いは来なくて、イエス自身が自分はメシアだと自己告白している言葉だと そのとき私は思ったのでした。聖書で何度か読んだ箇所ですが、この映画の場面を 観ていたとき「私を通さなくては・・・」という言葉を聞き、はっと思わされました。 私(イエス)という十字架を通さなくては、人は救いに至らないのだということです。 人類の贖罪(しょくざい)のために自らを子羊として捧げたのです。メシアの成就です。 キリスト教とユダヤ教、イスラム教の一番の違いはこのイエスをメシアとして認めるか どうかです。これら三つの宗教は一神教・三兄弟のように思われがちですが、イエスを メシアとして認めるかどうかで、全然違う宗教なのです。 イエスの愛の教えからすると、いまも戦闘が続いているイラク問題、それにイスラエルと パレスチナ問題などは起こりえなかったはずなのです。  以前(二00四年四月二十日)書き込みで書いた私の一文を引用して終わりとします。 「イスラエルは救いようがありません。シャロンが首相であるかぎり、殺戮は 終わらないと思われます。イエスを殺したヤダヤ教そのものです。それを支持する ブシュはあの裏切り者のユダなのかもしれません」  今日は書くことがいろいろあります。 朝の番組・目覚ましテレビで今朝、矢野詢子?(じゅんこ)なる新人女性がピアノの 弾き語りをしていました。シンガーソングライターの小柄な女性でした。高知の方で 「てろてろ」という自分の歌でした。声が個性的で良かったです。高音がきーんと張って いて、詩も等身大で胸に響ました。小さなライブハウスでバイトをしながらのデビューです。 歌うことが自分の努めだときっぱりと言い切るところに彼女らしさを感じました。 これから注目したいと思いました。(5.4)
 昨晩、仕事を終え、9時少し過ぎでした。 テレビをたまたま26チャンネルに変えたところイギリス映画 「ブラザーサン・シスタームーン」なる映画が放映されたいました。聖フランチェスコの 物語でした。聖フランチェスコがどのような人物なのか、あまり詳しくなかったので、 この映画は私にとってはとても有益でした。日本で言えば「一休さん」みたいな方とでも いえばいいのでしょうか?例えが漠然としてしまいました。二十歳ごろまでは遊び仲間 の人気者で富豪の息子として遊び惚けていました。アッシジを守るため戦いに行き、捕虜 、病気、などを経て信仰へ目覚めていったのでした。仲間といっしょに祈りと貧困の中で 奉仕に専念しながら、伝道に励むのでした。ローマ巡礼の祭、全財産を献金して乞食となって お布施にすがっての生活を体験した彼はそれ以降、世俗の事物への執着を断ち、無一文と なってキリストの生き方を、己の生活の手本として奉仕と托鉢の生活を始めるのでした。 そのあと共鳴した若者達と共にローマに行き、教皇に会う場面が印象的でした。 教皇の高価な服装、教会の装飾品の高価な品々、取り巻きの人達の着飾った出で立ちに 圧倒されながらも、自分の信じるキリストの教えとの余りの違いに、ついに感極まって 彼フランチャスコは教皇の面前でマタイ六章19節〜28節を朗々と唱えるのでした。 キリスト教権威の最高峰の場所で、教皇に説教をしたのでした。普通なら異端の烙印を 押され処罰されてもおかしくないのかもしれませんが、教皇が彼を認め彼の前に ひざまずいて彼の足に口づけをするのです。このとき教皇は一信者として彼の神聖を 認めたのです。貧しい人々に奉仕をし、小鳥に説教した聖フランチェスコはマザー・テレサ に通じるものがあります。施しで生きるということの意味を彼等フランシスコ修道会の 方達は知っていたのです。「生きる」とは「生かされる」ということなのです。 感謝すべきことなのです。人は所詮ものを乞うて生かされているのだということを、体験を 通して知らされたとき、始めて神の存在を認めることができるのかもしれません。(5.7)
 福田官房長官が辞任されました。実にタイミングよく辞められました。管さん、 政治家は時の流れを読む力が問われるのかもしれません。そういう意味では管さん あなたは実に決断力が無さ過ぎます。前回、党の代表を辞任するときも、時期を逸した 感があり、無念さをにじませていたあなたの思いが記憶にあります。決断力の無さは 政治家としての資質が問われるのかもしれません。その点、敵?ながら福田さんは あっぱれです。実に先を読まれています。まあ自分の国民年金未納が議員以前まで さかのぼるという失態の事実を認め、一番いい選択をとられたようです。 管さんは妻まで出てきて「未納だったのは行政のミス、行政が悪い」と言っても、 何の効果もありません。早く辞任して再起?に掛けることです。運も実力の内なのかも しれません。そういう意味では管さんは運が無い人かもしれません。  聖フランチェスコの映画を観て「祈り」の大切さを再認識させられました。心から 悔いての祈りの有り様が、信仰を日々生まれ変わらせる力に繋がるのだと思いました。 聖フランチェスコは素足で歩くことを常としていました。素足で歩くことで、 イエス・キリストの十字架への道を追体験していたのかもしれません。私も素足で歩き たくなります。店の中だけでもしたくなりますが、そんなことをしだすといちいち説明 しないと変人扱いされ、説明しても理解されなくて、いっそう変な店という噂が立ちそう です。でもしたい気持ちです。誰もいないときに、してみます。 ひととよう(漢字が分かりません)さんも歌う時、素足で歌っています。中島美嘉さんも 素足で歌っていました。「素足で歩こう会」という会でも起こしたくなります。 祈りの中から「ゴッキの宇宙」の話が先に進めました。まったくの闇夜だったのが、 うっすらと闇が霧になり、先がおぼろげながら見えてきました。一年以上の闇夜でした。 (5.8)
 管さんの後は小沢一郎さんかもしれません。もし、小沢さんが党首になれば 薮から蛇の例えを地でいくことになります。福田さん辞任が、天敵の小沢さんを呼び出す ことになるとは皮肉なことです。小泉さん大変ですよ、小沢さんが民主党の党首になれば、 小泉さん、あなたはただのお飾りということが、みえみえに露見することと思われます。 残りの国民年金未納閣僚も総辞職となれば、それこそ小泉政権は崩壊状態です。(5.9)
 映画「パション」(受難)の感想を先日書きましたが、書き足りなかったことを 思い出したので、書きます。  イエスが鞭打ちの刑を受けていた(ルカ伝二十三章16節)とき、最初は普通の木のような 鞭でしたが、途中からローマ兵は、さらなる虐待のため金属の爪の付いた鞭を使用しました。 これは監督ネル・ギブソンの創作です。アメリカ映画にありそうな演出なのです。 虐待を誇張することで、イエスの悲惨さを強調したかったのかもしれませんが、ここに この映画の欠点を見つけた思いです。ネル・ギブソンにはまず、目的があったのです。 そのために映像を利用して効果的に目的を引き出すために、聖書以外のオリジナルな加筆を したのだと思います。 私の記憶しているところで、三箇所でした。 一つ目は悪魔を意図的に登場させました。ゲッセマネの園での謎の女(女装?)、 鼻から蛇が少しでていました。 二つ目が、この鞭打ち刑の鞭の交換です。 三つ目が、イエスが十字架を背負って歩いていたとき、唯一母マリアと会話する場面が ありますが、これも創作です。 物語を分かりやすくするための配慮のつもりなのかもしれませんが、それは最初から目的が あっての演出なのです。〈物〉から生まれた生殺しのの言葉を再生させるために、映像という メディアを使って〈物〉へと近づけようとしたのかもしれませんが、そこが違うのです。    藤原さんの著書「幻世」に対する私の書評から引用します。  p123の「ヒトと物の間」に、ヒンドュ教について書かれています。 「ヒンドュ教は〈質・量〉つまり〈物〉の宗教。〈物〉とは自然の流転に乗り、 逆らわずに在るものそれは、在り方の標準を示してものである。その〈物〉から 生活的、官能的に在り方の標準を学ぶのがヒンドュ教だと思う。」 大変わかりずらいところです。さらに「ヒンドュ教を生殺ししたのが仏教だ。 ゴーダマ・ブッタは〈物〉の下を旅し、行為を経て彼の内に一定の標準を築く、 その標準を《言葉》にたくした。言葉は《文字》にたくされ、途上の国々で変容 しながら日本に伝来した。しかし、文字は言葉の生殺し、言葉は〈物〉の生殺し、 本質は官能的なものから認識的なものにすり変えられている。本来、官能的な ヒンドュ教から認識的な仏教にすり変えられている。 だから私は生殺しという言葉で言い表している。」こういう感じで話しは進んで いきます。〈物〉は伝来しない、それはインドにあっての〈物〉なのである、 ヒンドュ教はインドでしか存続できない。バリにもヒンドュ教はあるが、あそこ は伝来した生殺しのヒンドュ教をバリ独特の音楽で宗教を再生している。 「日本の読経にはその背後にブッタという人称を想像させるが、チベットの読経 はブッタを突き通して〈物〉に至っている。ブッタはあくまでメディアである。 メディアを通して〈物〉に至ろうとするのが日本の宗教の根本的な弱さだと思う。 宗教が〈物〉を保護する。西欧的世界観とヒンディズムは違う。ヒンディズムの 宗教的社会の中では、人間対、鉱物、植物、動物の間に人間対人間のように 一定の禁止状況がしかれている。それをタブーというのだと思う。つまり人間 社会を成り立たすということは人間以外のものを成り立たすのであるという、 今日日本人が気付き始めた、自然と人間のモラルがインドでは5000年前から 宗律として守られてきた。モラルとは人間対人間の関係という狭い考えではなく、 本来モラルとは世界的(人、もの、動物、植物などとの関係。)な意味を含んで いる」 以上、「幻世」を簡単にまとめてみました。   ヒンドュ教についての藤原さんの解釈は理解できました。しかし、彼はこの 考えをすべての宗教にあてはめようとしています。それは違うのではないかと、 私の考えを書きたいと思います。私はクリスチャンの立場から述べたいと思い ます。ヨハネ伝の始めに「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。 言は神であった」 キリスト教では藤原さん白く〈物〉の生殺しの《言葉》がこの〈物〉の上に位置 づけされているのです。彼の宗教感からすると物と言葉の位置関係が逆転して いるのです。ここにキリスト教の性格が如実に表われされています。キリスト教 は神と人との契約の宗教なのです。旧約聖書の創世紀の一節に 「はじめに神は天と地とを創造された」とあります。 三節に「神は『光りあれ』と言われた。すると光りがあった」 絶対神の《言葉》が〈物〉を生み出す。キリスト教では創造主と創造物は同一で はない。ヒンドュ教の始まりはバラモン教です。そのバラモン教のブラフマン (創造主?)とアートマン(創造物?)の関係は最終的には同一であるという 思想、キリスト教と違います。違いは何処からきているか。 それは、それぞれの宗教の発生したところの自然環境の違いと生活様式の違い からきていると思います。 キリスト教は不毛の地、自然に対して対立、征服しなくては生きていけない ような厳しい環境の土地に発生した、狩猟民族の宗教です。一方、ヒンドュ教は 緑ある恵まれた自然環境の地で発生した、農耕民族の宗教です。  この先、西洋宗教と東洋宗教の違いなどを書きたいと思っていましたら、 昼、藤原さんの本「沈思彷徨」を読んでいたら、そのこと 西洋宗教と東洋宗教の違いを書いていました。すでに書かれていることを書いて もしかたないので、止めときます。要は西洋的な宗教、思想、経済は限界に きていて、これからは東洋的な宗教、思想が人類に必要になる。この辺のことは 他の人も言ってます。しかし、彼のすごいとこはそれらを現実の社会現象から 原因を見附だし、その原因を分析して「考える」ところです。そして推測して 予言するのです。その推測も実に鋭い、これほどの人は始めてです。この本は 彼の27年間の「語り」を一冊の本にしたものです。この本のための書き下ろし の文がすごいのです。特に私にとってすごいのです。先日、私は差別用語に ついて書きました。藤原さんもここで差別用語について書いているのです。 あと乞食についても書いてます。乞食について先日私も書いたところです。 後、宗教についても書いてます。すごいでしょう、私がテーマにしていることを 彼も書いているのです。しかもその本を私はまだ読んでいなかった。 嬉しくなります。自慢したくなります。ただ、彼のほうが鋭く対象をつかん でいます。でも、嬉しくなります。 この本の終わりに彼は「『言葉』が重要になってくる。・・・かってのように 自然の中における体験が人の心を育むというような人間と自然との蜜月は 終わっている。言葉や芸術こそがそれの代用として機能する・・・」 と言っています。「言葉」は大切です、しかし、西洋宗教の言葉の教えは神との 契約が成り立っているから成立するのであって、「言葉」だけではいままでと 同じ事の繰り返しになります。契約あるいはそれに等しい規制のような〈物〉が 必要です。それは東洋的な〈物〉です。ヒンドュ教で彼が言っていた、〈物〉に 価値を見い出す必要があるのではないでしょうか?。 これからは《言葉》と〈物〉の関係が問われるのではないでしょうか。(2000年10月)    キリスト教は言葉の宗教なのかもしれません。言葉による神との契約が戒律となり、 契約(戒律)と民族の葛藤を言葉として纏めたものが聖典となり聖書となった。 「バリにもヒンドュ教はあるが、あそこは伝来した生殺しのヒンドュ教を バリ独特の音楽で宗教を再生している」と藤原さんは言われました。 それと同じ様な意味で、ネル・ギブソンは「映像」でキリスト教を再生させようと したのかもしれませんが、本来《言葉》が〈物〉の上にあるキリスト教において 「映像」による再生は不完全だと私は言いたいのです。《言葉》の集大成であるところの 「聖書」という本の中に、やはりすべては集約されていると言いたいのです。 (5.10)
 映画「パッション」の書き込みをまた、藤原さんへ 送りました。「このようなメールは藤原さんにとってご迷惑でしたら、お知らせください」 という一文を添えて、送りました。返事が来るのかどうかわかりませんが、来なければ 来ないで、送ってもいいと私は解釈するつもりです。 返事がないと、ちゃんと読まれているか?ちょっと心配になってくる私です。  蒼生舎の方に、最終原稿を送りました。「長い間お世話になりました」と一言添えて おきました。原稿は書き込みでした映画「パッション」の鑑賞感想を整理した文です。(5.11)
  わたしの回りで多少の変化があるようです。私はそれらに付き合えるほどの時間が あいにくないので、マイペースを決め込んでいます。お客さんとして来ていただく分は、 時間の許す限り、お付き合いいたします。来られるときは前もって、お知らせください。 仕事の都合で、ゆっくり話せないときもありますので。  昨日は英国から帰国されたご夫婦が久しぶりに、食事に来てくださいました。 英国に三年留学されての帰国です。奥様が以前うちの店でアルバイトをされていたので、 旧知?の関係です。ついつい、いつもながらの息子の自慢話になってしまいました。 人の子供の自慢話など、嫌いな人にとっては聞きたくない話です。そのご夫婦はそろって 温厚な人柄なので、私の自慢話に付き合ってくださいました。「ありがとうございました」 妻によく言われます。「親馬鹿もいいところだわ!ああ、はずかしい」と。 ははは、その通りです。わが家にお金の余裕があれば、息子を英国留学させたいのですが、 なんせ金欠なので、公立高校しかやれません。まあ自分の実力で、奨学金なりをもらって、 留学の道を切り開いくことです。子の成長に負けないように、私も成長したいと思って います。(5.13)) 
 藤原さんのサイトだけ、ちょくちょく見ています。彼がいましている写真展は 生前葬のつもりだそうです。五月十二日の彼の書き込みにそのようなことが書かれて いたと思います。サイトの読者にサイン会に来てもらいたいような感じの書き込みだった と記憶しています。一昨年前から自分の過去への思い出をたどるような 写真集(鉄輪など)を出されていたので、自分の整理をされているなとは感じていたのです。 その時、過去を振りかえるようでは藤原さんも表現者として終わりかなと思っていたのです。 生前葬をやるような人はよっぽどの閑人と私は思っています。藤原さんは還暦、還暦と 騒いでいらっしゃるようですが、人生のただの通過点にすぎないのに、はしゃぐことが ないので、こじつけではしゃいでいらっしゃるような気もしないでもありません。 生前葬と聞かされ、興ざめの感が拭えません。藤原さんがなんだか、ただの「おっさん」に 見えてきました。以前もちょっと書きましたが、旅を止めた藤原さんは牙を抜かれた ライオンみたいなものです。野獣の感性が無くなってしまい、ただの「おっさん」です。 それも暇を持て余した「有閑おっさん」です。今日は、アンチ藤原です。 私の文が何故「空から恥が降る」に採用されたか?誰も言ってくれないことを 私が言ってあげたからです。彼は言ってほしかったのです。そういう意味では彼は自分に 都合のいい文を採用したにすぎません。なぜ文壇から評価されないか、それは自分の実力が 無いからではなくて、評価する側(文壇)が色メガネで見ているからだということを、 言ってほしかっとのです。厳しく言わせてもらえば、そんな私の文を採用すること自体が 自分の無能を示しているにすぎません。本物なら、日本の文壇を突切って、海外の文壇で 勝負すればいいのです。勝負に興味が無いと、逃げ口を用意しているみたいですので、 これ以上は言及しません。 日々の生活に追われ、あくせくしている私としては生前葬という閑人のおっさんを見ると、 苦言を言いたくなるのです。これは時間と金を持て余している「有閑おっさん」への、 一種の私の「ひがみ」かもしれません。  イエスの誕生について書かれている箇所はマタイとルカの二つの福音書だけです。 生い立ちよりも、イエスの死と復活の方が、重要なのです。如何に生き、何を伝え、 何を残したかが問われるのだと思います。マリアの処女降誕については、いろいろ 言われてきています。奇蹟を信じるも信じないも、個人の自由です。私が言えることは、 理解したからといって信じられるものではなくて、信じることができれば自然と理解 できるということなのです。処女降誕でつまずくのではなくて、もっと大切なことが ありますよ!イエスの生涯を見つめてみることです。十字架の死と復活が意味するところの ことが分かれば、あとは自然と理解できるようになりると思います。(5.14)
 昨日は言いたいことを言い、すっきりしました。これで当分藤原さんと関わらずに すみそうです?私が彼を気にしなくてすむという意味です。私の道は私が歩むのです。 唯我独尊!新作が完成したら、公募展に出品しようかと思っています。純粋な文学作品として 評価してくれそうな公募展を探してみます。  小沢さんが民主党の代表に就任されるみたいです。彼も学習して大人になられたと思います。 民主党を分裂させることなく、自民を追いやる役目を真っ当されることと思います。  北への小泉さんの訪問。さあ吉と出るのでしょうか?選挙対策と思われてもしかたのない 話題作りです。拉致議連の分裂に繋がる可能性があります。これで政府も幕引きをしたいの かもしれません。まだ、未解決の方々は忘れられていくのでしょうか?(5.16)
 小沢さんが代表を辞退されました。彼の政治倫理からすると辞退というこになるので しょう。小泉降ろしの援護射撃のつもりなのでしょうか?憶測はいろいろできますが、 筋を通す彼の気質からすれば、もっともな行動かもしれません。 小泉さんは記者に意見を求められて「理解できません」と答えていました。筋を通さない 小泉さんには理解できない行為に映ったのでしょう。 彼(小泉)の軽薄さがよく分かる反応でした。   昨日は昼過ぎから休みの日だったので、ごろごろテレビを見ていました。 26チャンネルで「パッション」の監督、スタッフ、役者たちが、制作秘話を 語っていました。それぞれ満足した自信作と自負していました。 誰もおかしい?と異を唱える人はいませんでした。それもそうです。じゃなきゃ関わって いないでしょう。彼等は映画としてのパッション(受難)を語っているだけなのです。 聖書のいうところの受難を語っているわけではありません。信仰の話なのに信仰として 語らなくて、信仰を借りて自己ピーアールしているように見受けられました。 何故?むち打ちの刑の途中で、普通の鞭から金属の鞭に変えたのか、誰も聞きもしなければ、 気にもとめていませんでした。世界のはしっこで、異を唱えるのは私だけなのでしょうか? (5.18)
 息子がギターを買って、一人教則本で練習しています。私も時間があれば 練習しようかと思っています。英会話も息子の影響ですし、今回もその影響です。 他だ、時間がないのです。やることばかり増え、私の自由になる時間はごくわずかなのです。 老後まで待たないと、この時間は手にはいらないかもしれません。(5.19)
 眼我通信のNo.2(六月)号をそろそろ作らなくてはいけません。 書き出しの言葉を思いつくまま書き連ねてみます。  梅雨入りを思わせる雨の日です。雨が嫌いでない私としては落ち着いて創作に打ち込め ます。月初めに(五月)、映画「パッション」(受難)を 映画館で観ました。その後に 聖フランチェスコの「ブラザーサン・シスタームーン」の映画版放送をたまたまテレビで 見ました。先月の創刊号でマザー・テレサのことを少し書きました。テレサの教会と多少 関わったことがあるので、彼女の存在は気になるところです。死後、彼女の教会の シスターが「マザーは奇蹟をしていないので、聖人には成れないでしょう」と言われた そうです。でも、奇蹟は行なっていたのです?マザーが行なった奇蹟の証言人が現われ、 それを証明した結果、教皇の調査が行なわれました。昨年、マザー・テレサは福者 (聖人の一つ前の地位)として認定されました。普通これらの調査、認定は半世紀ほど かかるそうですが、今回は異例の早さだそうです。 認定の対象となる「奇蹟」とはいかなることを言うのでしょうか? 生けるものすべてが奇蹟の賜と思えば、この世のものすべては奇蹟の現われです。 私が思うに聖人の認定は、おかしな行為だと言いたいのです。 死者のことは死者にまかせればいいのです。 死者の地位まで教会が権威付けするのは、おかしなことだと思いました。 そのうち聖マザー・テレサ物語という映画が作られることでしょう。「パッション」の ように作為的誇張?がないように祈りたいものです。(5.20)
 「愛するとは変わること」  愛するにもいろいろな愛があり、抽象的といえばそうかもしれません。ここでいう「愛」は 人を愛する場合というふうに限定すれば、もう少し分かりやすいかもしれません。 人を愛するとは、その人のために自分が変われるかということです。 見かけの変容ではなく、内面的変容です。変容にもいろいろありますが、相手に合わせるという 打算?ではなく、真実を貫く変容とでも言えばいいのでしょうか。具体的に言わなくては 抽象的すぎて理解できないかもしれません。「世界の中心で愛を叫ぶ」のように 具体的な物語として表現するほうが、読み手には分かりやすいかもしれません。 ただ、小説となると結論を語るまでに膨大な時間がかかりそうです。 今回はそんな時間がありません。(私は時間泥棒に時間を盗まれているのかもしれません?) 愛の現われの象徴的なものに自己犠牲があります。思い当たる一番の自己犠牲は イエスの十字架です。人(人類)を愛するがゆえに、十字架へと歩まれたイエス・キリストの 行為は「愛」の象徴と言っていいと思います。「いちばん先になりたいのならば、いちばん後に なり、仕える者(奉仕する者)となりなさい」と言われたイエス。 十字架に架けられる直前に「どうかこの十字架に架けないで下さい」と神に祈り、それでも 「神のみ旨ならば、私はそれに従います」と祈ったイエス。自分のプライドも名誉も才能も 神の前では何の価値もありません。すべての人に仕える勇気は何処からくるのか、この人を 見よ!です。(続く)(5.25)
 昨日の書き込みは、実にうわ滑りな文章でした。抽象的に書こうとするところに 無理があったのかもしれません。具体的に書けば一番わかりやすいのですが、・・・。 プライバシーの問題もあり、難しい問題です。 眼我通信の編集後記に来月号で「愛は変わること」について明記すると宣言しました。 ははは、自分で追い込むやり方は私の性格かもしれません。一ヵ月かけてこのテーマを 考えたいと思います。花火だけ上げて、尻切れとんぼにならないように努力するつもりです。 (5.26)
 「愛するとは変わること」についての考察より。  マタイによる福音書六章31節から33節 「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・ まず神の国と義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる であろう」私なりに言い直すと、 「神の国と義を求めなさい。そうすれば、何を食べようか、飲もうか、着ようかと言って 思い煩うことなく、それらはすべて神によって添え、与えられるだろう」ということです。 思い煩うな、すべての苦労は、その日一日だけで足れり!です。以前「乞食」についての 書き込みをしましたが、神を信じて生きるということは、この「乞食」になるということ かもしれません。神の施(ほどこ)しを受けて生かされているということを自覚して、 人生に対する価値観の転換が信仰者には迫られるのかもしれません。それは現実の生活に おいても、施(ほどこ)しで生かされているという認識を持ち、しかも自立した信仰者と しての自覚も持たねばなりません。何か矛盾する言い回しです。施しで生き、しかも 自立した信仰者たれ!です。 「施し」と「自立」という一見矛盾にみえるこの二つの言葉について考察してみます。 聖書的にはすべての物は神によって創られた創造物です。 「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。 それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、 はるかにすぐれた者ではないか。・・・野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。 働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンで さえ、この花の一つほども着飾っていなかった」(マタイ六章26節〜) つづく(5.27) 
 完全なる他力本願によるところの無欲、その無欲がもたらすところの存在が独立した 自己を形成したとき、社会において自活した一個人として、しかも信仰者として生き抜けるの かもしれません。抽象的言葉の羅列で理解しずらいと思われます。神からの施しを受けながら、 信仰を持って信仰者として生き抜くとき、人は信仰(神)の言わんとする真理を知り得るのかも しれませ。「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほども着飾って いなかった」です。聖フランチェスコが着飾った教皇の前で、ろうろうと語った箇所です。 貧困と奉仕、托鉢での生活、神によって生かされているという体感は、聖フランチェスコような 無欲、無防備から始めて生まれてくるものなのかもしれません。 あなたは幼子のように、他に対して無欲、無防備になれますか? これは人の努力では成し得ないことなのかもしれません。マザー・テレサも同じく、無欲、無防備 な方だったのだと思います。神の愛は、その愛を受けた人をも変えるのです。 テーマ「愛するとは変わること」に近づいてきました。 マタイ六章19節〜20節 「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびつき、また、盗人らが押し入って盗み出す ような地上に、宝をたくわえてはいけない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、 また盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」 この言葉の意味するところを考えてみてください。(つづく)(5.28)   

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