2004年8月の「思い」


昨日、パソコンの操作ミス?で八月一日の書き込みが消滅してしまいました。
もう一度同じことを書くのは辛いので、似たものを書くことにしました。
 井沢元彦さんについての書き込みです。「逆説の日本史」第一巻が発売されたのが、
1997年の12月です。その二年前に関裕二さんという歴史作家が
「古代神道と天皇家の謎」という本を書かれています。たまたま一昨日図書館で
見つけた本です。この関さんは名の知られた歴史作家のようです。インターネットで
調べましたところ、古代史の著書を沢山出版されていました。
話を元に戻すと、井沢さんが「逆説の日本史」で力説しておられることの怨霊、
出雲大社の存在理由など、彼がオリジナル性を唱えていらっしゃることの多くが
関さんの「古代神道と天皇家の謎」の本に書かれているのです。盗作とは違いますが、
アイデアを借りておきながらそれを伏せて、自己主張されている点は、詐欺師曲がりの
行為です。関さんの本には参考文献(29冊)も、ちゃんと最後に書き込まれていました。
「逆説の日本史」に参考文献として、関さんのこの本が書き込まれているか、
後日調べて見ます。昨日のエラーは結局、フロピーデスクの老朽が原因かもしれません。
一つのフロピーをここ二年ほど使い回していたのです。さっそく新品に交換しました。
 先週から痛かった歯が我慢できなくなったので、しかたなく歯医者さんへ行きました。
四年ぶりです。歯医者のいやなのは、待たされることです。予約制ですが、椅子に座らせ
られてからが長いのです。二〜三分の治療に三十分も待たされることもあります。
虫歯一本と穴が空いている(虫歯)歯と二箇所の治療です。
完治まで、長い時間がかかることでしょう。(8.3)
 昨晩放送された、芸術祭大賞受賞「さとうきび畑の唄」。 明石家さんまさんがユニークなお父さんを熱演されていました。沖縄戦の悲惨さを 一家族の物語を通して、丁寧に語られていました。涙もろい私は泣きながら見ました。 人の人生は家族、子によって語り継がれるのかもしれません。歴史という大きな流れの 中に埋もれてしまう無名の人々の人生は身内、身近な人々によって後世に語り継がれる べきものなのです。中国で行なわれているサッカー・アジア杯での反日感情むき出しの 中国応援団は戦争の冷静なる認識の欠如による感情的行為です。中国の円熟していない 政治体勢が生み出した膿みたいな産物です。これらの思想教育は将来への遺恨を残すのは 明白です。 「さとうきび畑の唄」で明石家さんまさんの家族の次女が米兵に「Do you kill me?」 と語るシーンが思い出されます。戦争の悲惨さは語りつくせないほどの悲しみです。 だからこそ、人は平和を求め、生きる努力をしなくてはいけないのです。イラクでは 今でも、「さとうきび畑の唄」のような悲しい出来事が起こっています。 誰のせいなのか?人の欲望のなせる業なのだと思います。私の中にもあるこの欲望が、 他者を悲しませるのです。キリスト教でいうところの罪です。アダムとイブによって 入ってきた罪が人に死を与え、さらに死をもたらすところの欲望をも人に与えたのです。 これを原罪といいます。生きている間人はこの原罪と戦わなくてはいけません。弱い人は この原罪と戦えません、だから欲望に負け悲しい行為をさせられるのです。 日本国憲法第九条の問題もこの辺から論議をしなくては、ただの感情論に終わって しまいそうです。人格形成「情緒」基礎論の情緒こそがこの欲望をコントロールする 感情なのです。また後日この書き込みの続きをかきたいと思います。  昨日の聖書読書会はめずらしく始めての方がお二人来られ、一時間ほどいっしょに 勉強をされました。私にとっては、よい刺激となりました。「使徒行伝」の書き出し に「テオピオよ」となっていますが、ルカが最初に書かれた「ルカによる福音書」の はしがきには「テオピオ閣下」となっていて、時間の経過によって呼びかけに違いが 出たのだと思われます。「閣下」から「よ」に変わった理由を推測することはいろいろ できると思われます。(8.5昼)  
 ある同人誌に「憲法九条について」という一文が掲載されていました。書かれた人を 私は知っていますが、彼の文章を以前から評価していない私としては「またか!」という 感じで読みました。いつ読んでも変わらない文脈です。内容が無いのです。言葉の羅列に すぎなくて、深い洞察がまったく感じられない書き物です。それを編集責任者は評価して いる節が編集後記に記されていました。 私がその同人誌から抜けた理由はこの編集責任者の片寄った評価に失望したからです。 物の価値が分からない人に人を評価する権限を与えるべきではないのです。 憲法九条についての一文を私はこれから書きます。 それをその編集者に送るつもりです。 (いたって過激な表現で、申し訳ありません。人を言葉でこけにするのは本来好きでは ありませんが、少し怒りを感じたのでつい失礼な表現になってしまいました)   「憲法九条改憲についての一考察」  憲法改憲はいったい誰が言っているのか?自民党と民主党の一部が九条の改憲を唱えて います。自民、民主の中にも改憲反対論者はいますが、大勢が改憲に動き出そうとして います。新聞報道によると七月に訪米した自民、民主議員連盟にたいして、アミテージ 国務副長官が「憲法九条は日米同盟の妨げの一つ」と明言したそうです。結論から言えば、 九条の改憲はアメリカがこれから行なうであろう戦争のために日本軍の必要を意味して いるのです。その戦争相手は北朝鮮ではありません。その次ぎに狙っている大国が アメリカにはあるのです。(その国名は明記しませんが、その理由も推測できます。 知りたい方は私までお知らせください。) ミサイル防衛システム導入もそのためです。宇宙開発もその仮想敵国を宇宙から観察と 攻撃のためなのです。日本人宇宙飛行士たちの活躍はこの宇宙戦争への将来的参加を 意味していると私は確信しています。毛利さんが宇宙から地上のさらなる詳細な地図を つくる作業をされていましたが、これも将来の戦略への布石です。平和を唱えながら、 裏で着々と宇宙戦略をアメリカは構築させようとしているのです。毛利さんもうすうす、 そのことは気付いていらっしゃるはずなのですが?子供たちには夢を与えることに勤めて いらっしゃいます。正直者が馬鹿をみる時代なのかもしれません。 アメリカは自国の繁栄のためならば、イラク国民がどうなろうが眼中にないのです。  日本国憲法九条は1928年のパリ不戦条約の条文をそのまま採用したものです。 大戦後の反省から生み出された、当時の世界の英知が集結された条文だったのです。 戦争放棄という人類の夢を託した条文です。その人類の夢を自国の繁栄維持のために、 日本国に破棄させようとしているアメリカは人類の敵に成り下がったのかもしれません。 「九条の会」なる有識者による改憲反対運動が起こってきました。梅原猛、井上ひさし、 大江健三郎その他、九名による会です。 先日の選挙の前にこの会は立ち上がっていたのです。なぜ?選挙の時に、この会は政治と 一体になって行動しなかたのか?有識者の会だから政治とは一線を引きたかったのかも しれませんが、もうそんな悠長なことを言っている場合ではないと思うのです。 もっと全面にでて国民に訴えなくては、成果は伴わないと思います。  戦争が起こるのは、何故なのか?それは人に内在するところの欲望のなせる業なのだと 思います。私の中にもあるこの欲望が、他者を悲しませる戦争を引き起こすのです。 キリスト教的に言えば、原罪がそこに有るのです。生きている間、人はこの原罪と戦わ なくてはいけないのです。弱い人はこの原罪の虜になってしまい、欲望に負けてしまい、 悲しい行為をさせられるのです。その典型が戦争だと思います。 人格形成の基礎は何かというと以前も書きましたが、「情緒」なのです。 この情緒こそが、欲望をコントロールする感情なのです。日本の現状をみると 社会全体が情緒不安定に陥っていると以前書きましたが、このことは世界的にも 同じ状況なのかもしれません。人類全体が陥っている社会現象がこの「情緒不安定」 なのかもしれません。アメリカのテロに対する不安視は、見せかけの恐怖を煽っている にすぎないのです。実はその裏でエレルギー、水など枯渇する資源の将来への確保と 自国の永遠の繁栄を虎視眈々と狙っているのです。  (今日はこれくらいにしておきます。後日さらに推敲したいと思います)(8.5夜)
 息子の高円宮杯全国中学生英語弁論大会で話す原稿の日本語校正をしました。 なかなか、いい視点を突いている原稿でした。英語に訳すのは自分でしなさい。 多分、彼は自分でするはずです。でも、分からないときは、母親に手伝ってもらいなさい。 私は英語が苦手ですから。 店が忙しいので書き込みのためのエネルギーが残っていません。ウルトラマンの胸の 点滅が身近に感じられます。私にも胸に点滅器があれば、他者が気付いてくれるのですが、 がんばりが効く丈夫な体に感謝しつつも、疲れているのに誰にも分かってもらえない 寂しさもあります。何か感傷的です。風呂に入って早く寝ます。私にとって寝るのが 唯一の息抜きです。(8.8)
 今、展覧会をされている女性が作品を一冊の本に纏められたようです。インドに 留学されていた時に、二年間影響を受けたタイの女流画家との思い出を絵と詩で表現され た作品群です。五十作品を一冊にした手作りの本です。13日のテレビ取材には間に合う とのことです。彼女の手作り本が見られることは、楽しみなことです。  息子が塾からの受験勉強合宿に旅立ちました。目標がある人間は何か生き生きして います。マンネリ化した大人にはない新鮮な輝きが、彼にはあります。 人間として負けないように私も輝き、一途に邁進したいものです。(8.9)
 自分を知るということの大切さを今さらのように、感じる今日この頃です。 ある人から常々書いた物を読んでほしいと言われ、手渡される作品群。 正直に言わせてもらえば、読むに耐えれない作品なのです。いままでも遠回しに 意見を言っているのですが、彼には人の意見に対する認識というか、自分に都合の悪い話 は右から左へ抜けていくようなのです。困ったものです。いかにしたら、現実の自分を 認識することができるようになれるのか?現実の自分を認めることが怖いから、現実を 認めない自己の世界に浸っているのです。認める勇気は何処から来るのでしょうか? 才能の無い自分を認めたくないから、そんな意見には聞く耳を持たない。 才能は与えられるもので、自分の努力では限界があります。才能にも個人差があり、限界 は常にあります。その限界を打ち破るのが「一途な、ひた向きさ」だと以前からの私の 持論です。限界自体も、誰かが作るのではなく、自分で作ってしまう代物だと私は言い たいのです。才能という不特定なものに頼っているような人にはこの「一途なひた向きさ」 は無縁です。彼にこのようなことを言い聞かせても理解できるのか?疑問です。 多分無理でしょう。以前からこのようなことは伝えているつもりです。現実の自分を 素直に認める勇気が彼には無いのです。だから、話はその先に進まないのです。 同じことの繰り返しです。他人が現実のあなたはこうこうですよ!と意見しても、自分が そうは思っていなければ、焼け石に水です。言葉で理解を求めることの難しさを思い知ら されます。私の思いを伝え、それを彼がどのように解釈しようが、それは彼の自己責任 なのかもしれません。現実を認められない彼はかわいそうな人かもしれません。 なぜなら、今の彼にはもう進歩がないからです。  人のことは色々言えますが、自分も同じ穴のむじなかもしれないという認識を、 常に忘れないようにしたいものです。  「ゴッキの宇宙」を書き進めていますが、知らないことが多く、調べなくては いけません。川辺の生き物たちや、植物の生息状態など、知らないことだらけです。 明日、時間があったら図書館にいって調べものをします。(8.10)
 「ルカによる福音書」その5 第1章56節〜80節  マリアはエリサベツの家に三か月も滞在したと書かれています。エリサベツの 妊娠六か月目にマリアが訪れたと読み取れる記事から推測すると、マリアはエリサベツの 出産直前までいたことになります。彼女の身の回りの世話でもしていたのかもしれません。 高齢のエリサベツにとっては出産前三か月は何かと体力的にきつかったと推測できます。 自分の親と同じくらい高齢の妊婦エリサベツを若い妊婦マリアが世話をする姿は、他人には 不思議な光景に映ったかもしれません。奇蹟は第三者には不思議な出来事に見えても、当の 本人にとっては何も不思議な事ではないのです。神を信じることができる人には至って 自然な成り行きなのです。  ユダヤでは誕生から八日目に割礼(かつれい:男児の陽皮を切る儀式)をして、子に名を 付けることになっていた。子の名「ヨハネ」の語義は「神の恩恵」「神の恩恵は深し」 13節で天使によって告げられた名です。名付け親は神なのです。父親のザカリアが書板に 「その名はヨハネ」と書くと、唖(おし)になっていたザカリアの口から言葉が出たのです。 そして「神をほめたたえた」と64節に書かれています。さらにザカリアは聖霊に満たされ、 予言をするのです。その賛美の言葉は前半は、神が救主をイスラエルの民のために「救いの角」 救いの栄光(救主)を誕生させられたこと、後半はこの子ヨハネが救主の先駆者となって 「罪」の許しによる救をのべ伝える使命を持っていることを予言した。 80節「イスラエルに現われる日まで」とは伝道者として世に知られるようになるまで、 「荒野にいた」とはヨルダン川西岸の砂漠地帯で修行していた。 これで「ルカによる福音書」1章が終わりました。  高齢で石女のエリサベツに子(ヨハネ)が授かり、処女のマリアが妊娠したこと、エリサベツの 子ヨハネが救主イエスの先駆けとして、使命を帯びて誕生。奇蹟は当事者にとっても驚きの 出来事ですが、神を信じる心があれば、その奇蹟をあるがままに受け入れることができ。 自然に人は信仰というものはどういうことかを実体験することができるのです。 エリサベツとマリアには妊娠、出産という出来事を通して、真の信仰が与えられたのかもしれません。  天使がザカリヤとマリアに現われたとき、「恐れるな、ザカリヤよ!」(13節) 「恐れるな、マリアよ!」(30節)と神の使いは声をかけています。個人の名を出し、人の思いを 察して「恐れるな」と前置きする使いは、神が人を人類全体としてとらえているのではなく、 個人として一人一人を見ていることを表現しているのです。 私も、あなたも神によって見られている立場なのです。(8.17)
 久しぶりです。いろいろありまして、書き込みの余裕がありませんでした。 許すことの難しさを体感している最中です。イエスのように、自分の命を一方的に奪う 人達の罪の許しを神にするようなことが、私にはできません。自分の存在を無視 するような行為にたいして、怒りを禁じえないのは寛容の精神の欠如なのでしょうか? 一度ならず、二度も三度も・・・許せません!己の異常な思い過ごしなのか? これ以上は書きません。忘れるには時間がかかります。  今オリンピックでマスコミ関連は にぎやかですが、平和の祭典の一方でイラクでは爆弾テロが頻繁に起こり、アメリカ軍が テロ一掃作戦を開始しています。ネパールでは毛沢東派ゲリラによるテロが頻繁に起こって いるにも関わらず、マスコミには一つも紹介されることはありません。毛沢東派ゲリラは どのような意図で発生しているのか?隣のチベットはどうして、中国領にされたのか? 平和の祭典に多くの国民が熱狂していますが、一方で大国はお互い暗黙の了解のように 隣国を支配すべく政治的駆け引きでやりたいようにやっているのです。中国、ロシアが しかりです。超大国アメリカは中国やロシアのように隣国ではなく、世界を見渡して直接 利益になることを選んで、政治的駆け引きでやりたいようにやっています。 平和の祭典と戦争を同時進行させることに違和感を感じさせない世の中は絶対に異常です。 (8.26)
 今朝の朝刊に珍しくネパール共産党毛沢東派ゲリラの記事が大きく取り上げられて いました。同じくロシア旅客機の墜落についても大きく取り扱われていました。 チェチェン共和国に対するロシア支配に反対するイスラム過激派もネパール共産党 毛沢東派も同じ様な政治背景があるように思われます。それはロシアによるチェチェン支配と 中国によるネパール支配。アメリカはこれらの覇権主義に対して黙認しています。 隣国への覇権に対して黙認するかわりに、アメリカはエネルギー資源を確保する作戦です。 お互い様という感じで、大国は好き勝手なことをしています。 平和の祭典・オリンピックの最中に悲惨な出来事が起こっているのです。(8.26)
 マラソンの野口みずきさんが帰国後の記者会見で「高橋尚子さんと走ってみたい」と 語っていました。自分より早いかもしれないという思いがあるからだと思われます。 アテネで走ったマラソン女子日本選手の坂本さんはゴール直後に 「良い経験になりました。次ぎの北京オリンピックに向かって、いい経験ができました」 とのような発言をしていました。 彼女の中では今回は試運転で本番は北京という考えが最初からあったのだとしたら、 多分彼女は北京でもたいした活躍はできないと思います。完全燃焼できない人は いつになっても同じく、不完全燃焼しかできないのです。 卓球の愛ちゃんは記者会見で「オリンピックでは、まぐれで勝つことはできない ことを学びました。四年後のことは分かりませんが、一試合、一試合、経験して、 怪我とかしないように、がんばります」十五歳の愛ちゃんの方が現実的で、しっかり 自分を見つめている感じでした。坂本さんあなたの代わりに高橋尚子さんが出ていたら、 もっと感動的なレース展開になっていたと私は推測します。あなたの発言を聞いて いたら、あなたは今回のアテネに出るべきではなくて、高橋尚子さんが出るべきだった と言いたくなります。あと女子レスリング72L級の浜口京子さんの発言が心に残り ました。気立ての良い娘さんだと感心させられました。足柄山の金太郎さんみたいな 人です。熱い親子関係にも感動しました。 (8.28)
 アメリカが次ぎに標的にしている国について、その理由を以下に書き込みます。 1.12億人の市場。 2.アメリカが嫌いな共産主義をいまだに唱えている。 3.アメリカ中心主義に対する中華思想への嫌悪感。 4.国内に反政府思想が温存されている。 5.この国の高度成長が欧米の不景気の一因となっている。 6.膨大な国土に内在する資源。 7.テロ支援国北朝鮮との親密な関係。  アメリカは自分からは決して、戦争をしかけることはしません。資本主義導入による 経済急成長、その後に必ずやってくるバブル崩壊による経済不安、そのとき我慢をしいられて いた貧困層の反発、?輪法など抑圧された不満分子の反発。それと共産主義という言論、思想の 自由がない国家統制の間に大きな亀裂が生じたとき、その時がアメリカの出番です。 裏で不満分子への経済的支援などしながら、内乱が起こるのを待ちます。北朝鮮の問題が この時点でどのように解決されているかによっても、時期や手法に変化があると推測されます。 ネパールの毛沢東主義派のテロもいまは世界のマスコミからは無視されていますが、これらも 時期がくれば中国政府の陰謀説を掲げ、世界に問うようなことも考えられます。内から外から 中国政府を揺さぶり、いろいろな要素を絡ませて、アメリカはしたたかに待ちます。 いざ条件がそろえば、イラクのときのように有りもしない大量破壊兵器なるものを 持ち出して、攻撃理由をでっち上げることなど平気でします。そして、治安維持の名目で 多国籍軍の派遣となります。その先駆けがアジアのもう一つの大国日本の軍隊出陣です。 その時、アメリカは自国の兵隊を使うことはできるだけ避けようとします。なぜならイラクで 懲りているからです。今回死んでもらうのは日本の軍隊です。 そのために今のうちに憲法九条を改憲させる必要がアメリカにはあるのです。    「華氏911」を昨日観てきました。先日、私が書いた「憲法九条改憲についての一考察」を マイケル・ムーアが読んだのではないかというぐらい、私と同じ次元で同じ視点で物事をみて いると思いました。私はいままで、彼の書き物、映画などは一切読んだことも見たことも ありませんでした。なのに同じ視点で捕えていたことに、少し驚きました。今回は感想という よりも、自分の分身が作った映画を観たような変な錯覚に陥りました。でも彼は戦争の原因を 人類の尊厳問題として追求するところまでは至っていませんでした。 人間の根源を表現し尽くしてはいませんでした。 どうしたら戦争は無くなるのか?そこまでは追求していません。 戦争のもたらす悲劇とそれによって潤う人々の対比によって、現実の今を表現しているだけです。 ムーアの欠けているところを埋めるのが私のなすことなのかもしれません。 誰かに「偉そうな事を言うな!」と言われそうです。 でも、そのように思われたのは事実なのです。 人類の原罪は何か?神とは何か?ムーアさんには興味のない問題かもしれません。 私は大いに興味があります。というかその探究こそが人生の「意味」なのだと思われるのです。か 「神死求十位置」(かしきゅうじゅういち)「華氏9・11」をまねました。 神とは死を知ること、求めるものは十字架にあり、信仰の基準がそこに位置しているのです。  明日から九月です。毎日を真剣に歩んでいきたいものです。(8.30)
「思い」の表紙へ