2004年11〜12月の「思い」  

 やっと書き出すことが出来そうです?逃避もこれまでかも? 生活の疲れが文筆活動の意欲を無くさせ、パソコンから逃げていました。いまだ 家族を守るための生活維持は大変なのですが、疲れは感じなくなりました? 状況は同じでも、気分的に余裕が持てるのは何故か? 一つ一つのいろいろな状況の重なりが生み出すところの精神状態を、自己分析する ことは意味があるようで、無いようなものかもしれません。 時間と知人と自然と運命と神と、あらゆるものが絡み合って、今を生きているのです から、一つを取り出して「これだ!」と決め付けることはかえって、おかしなこと なのです。「これだ!」と断定できるような人は、かえって何もわかっていない証拠 かもしれません。  信じるとは委ねること。その勇気があれば、人生は楽です。委ねる勇気がないから、 あがき苦しみ、求めるのです。そこに人の弱さがあり、不幸も存在するのだと思います。 自然にまかせ、すべてを委ねる勇気を忘れないことです。 それを助けてくれるのが(私の私見を言わせてもらえば)「祈り」なのかもしれません。 自分の弱さをさらけ出し、救けを祈る心に「救い」がもたらされる。 そこに現状は変わらなくても、現実を受け入れる勇気というか、平安が起こるのです。 そこに「安らぎ」があります。 いまの私の精神状況を抽象的な表現で、多少分析してみました。  昨日、知人が私の「サトルの冒険」を読まれ、その感想を聞かせていただきました。 古くからの知人ですが、私の隠れた才能?に改めて驚いたみたいです。 過去の作品群をさっそく送ろうかとも思っています。新作も作らなくてはいけません。 そのために書き込みを再開させられたような気もします。いい刺激になりました。 (11.21)
 ごたごたがあると創作に集中できません。店の件で依然もやもやが残ります。 辞めるべきなのか?続けていくべきなのか?自分で判断出来ない状態です。 「家族は辞めて!」と言ってきます。当分この問題が解決するまでは何もできない かもしれません。世界ではいろいろと起こっていますが、それらの記事を解説? する気力も失せてしまいます。基本をしっかり見極めることが出来れば、問題は 見えてきます。それが自分のことになると、なかなか出来ません。 他者への「祈り」の気持ちを忘れずに、日々を過ごしていけたらいいのですが? (11.27)
2004年12月

 今年もあとわずかになりました。息子は受験にたいして真剣に取り組んでいます。 いましなくてはいけないことをちゃんと踏まえて、受験勉強に勤しんでいます。 頼もしい限りです。結果がどのようなものになろうとも、真剣に取り組んだ姿勢は 評価されるべきで、結果の如何は体して重要ではないような気がしてきます。 努力の種は彼の中に根付き、さらなる目標へと前進することでしょう。努力が報われる ことも必要です。しかし、結果が全ではないことも大切なことです。彼の、今の勢いならば 目標も達成されることと思われてきます。私も負けないように、目標を掲げ、邁進したい ものです。 ニート(学校にも行かず、働きもせず、職業訓練にも参加しない若者)が増えて、社会 問題にも取り上げられるようになってきました。世代の継承が出来なくなってきているのです。 文化、経済、(この続きは後日書き込みます) (12.8)
 店は継続の方向で営業していきます。私の営業努力?が問われるのかもしれません。 ひとまずは峠を越えることが出来そうです。そのうちまた谷間が訪れることと思われ ますが、今回の経験を生かして、ひた向きに前進して行きたいと思います。 人生は経験を積むことで、楽しさが増えてくるのかもしれません。  「横田めぐみ」さんの遺骨とされたものが別人の遺骨ということが、科学的に証明された との報道がありました。嘘の上塗をしても、結局嘘は「うそ」なのです。いかにして この拉致問題を解決させて行くか?北の政権が崩壊しない限り、拉致の解決はありえ ないのかもしれません。北の崩壊をいかにして起こすか? 北と中国、朝鮮との関係もあり、日本国一国では解決できないのです。そのことが 事柄を複雑にしているのです。まずは中国、朝鮮に対して政治的根回しをしていくことが、 早道なのかもしれません。日本国家として国民の総意の現われとしての 意思表示として、経済制裁もしかたのないことだと思います。 実質的な効果は薄いのですが、日本国民の総意としての「経済制裁」は意義があるかも しれません。経済制裁にたいする中国、朝鮮への同調を促すために、拉致問題に対する 日本国家の立場を明確にさせることは必要なことです。(12.9)  
 拉致問題のことで、地村富貴恵さんの証言が新聞に記載されていました。 田口八重子さんもそうですが、横田めぐみさんも大韓航空爆破事件の犯人で元死刑囚の 金賢姫さんと、間接的な繋がりがあったようです。民間機爆破という国家的テロとの 関わりを知っている拉致被害者を証拠隠滅のため全員闇から闇へ抹殺するつもりなの かもしれません。こうなると北の国家転覆しか拉致被害者の救出方法は残されて いないのかもしれません。  先日、「新防衛大網」の内容が新聞に記載されていました。多様な脅威に対応すべく、 特に北と中国に対しての記載が目を引きました。中国はこの記載について抗議の発表 をしました。きな臭い匂いが漂ってきます。アメリカの意向に沿って軍国化することが 本当に国益なのでしょうか?イラクの自衛隊派遣延期も国益になると小泉さんは明言して いましたが、本当なのでしょうか?国益とは何ぞや!です。(12.12)
 以前七月だったか?中日新聞の文芸欄で詩人・清水信さんが文芸批評の記事で 「蒼生舎通信」がらみで私の文を特に良いと評価してくださいました。その後、私は この記事に勇気をいただき?私の書き物を幾つか清水さんにお送りしたのでした。でも、 その後何も返事がこないので、この件はすっかり忘れていました。今日清水さんから 彼の書き物であるところの「本と雑誌」清水信文学選88 なる書き物が送られてきました。 その中に私のことが1ページつかって書かれていました。私の送った書き物への彼の感想でした。 感謝します。ここのところ店や妻のことで、嫌な思いばかりしていた私でした。その反動?で ろくに書けない日々を過ごし「書けなくてもいい」と開き直って、言い訳を自分でしていました。 情けない自分にやけっぱちでもないのですが、書けないことにたいしても無感覚でいることに 慣れてきたところでした。先日も詩人・堀雅子さんから彼女の新作「いのちの輪舞(ロンド)」 をいただいたばかりでした。彼女も私の書き物を高く評価して下さっている人の一人です。 清水さんも堀さんも先人として尊敬する人達です。清水さんの批評文の最後に「続刊を祈る」と 書かれていました。やらなくてはいけません。私の生きる意味は「そこ」にあるのです。 「そこ」です。(12.15)
 おふくろから電話がありました。店の苦境を察しての援助、私からの依頼を受けての 援助、救いの手を受けるこに感謝と心苦しさを感じるしだいです。寒くなると常連さんも足が 遠のきます。心苦しい日々が続きます。生かされて生きる、でもこのままでいいのかと自問自答 の日々です。精神衛生上よくない?そんな余裕を言っていられるのは、責任放棄を決め付けて いるからなのか?「一家の柱として家族を守らなくてはいけません!」と妻から叱咤される 私です。救け手を当てにしてはいけないのですか?世間一般常識ではいけないことのようです。 ホームページにこんな愚痴を書き込むのはいかがなものかと思いましたが、誰も読まないことを 前提に書いています。もし読まれる方(一部の人)には申し訳ありません。新聞の記事から 中国問題と北への対処について書き込むつもりでしたが、内輪話から入ってしまいました。 いまは何でも書くことからリハビリを始めなくてはいけないと思っています。 何のリハビリかというと、「書くこと」のリハビリです。  今日の新聞から「中国共産党を痛烈批判」という見出しがまず目に止まりました。 北京大助教授・焦国標さんの記事です。中国にいながら中国政府の報道統制を批判するとは、 自殺行為そのものです。彼は覚悟の上でのパフォーマンスを日本メディアに向けて行なったのだと 思われます。多分、政治亡命を前提としての行動なのでしょう。経済社会の急速なグローバル化のもと、 知識人による「言論の自由」を求める気運が高まっているのは確かです。それに対して政府は一層の 引き締めにかかっているみたいです。地方の少数民俗による不満分子が起こした暴動もしかりです。 北京オリンピックあたりで、これらの膿が表に出てくるのではないかと私は推測するのです。  北に対しては対話と圧力、アメとムチ、これらは効果がないのかもしれません。相手側にその 受け皿がないのですから、こちらが求めても返事はかえってきません。 経済制裁以後のシュミレーッションを政府は取りかかる時期だと思います。自民党の一部ではすでに 昨日のニュースではシュミレーションにとりかかったとの報道がありました。イラクには強気な小泉 さんも北には弱腰です。後ろ楯がないからです。丸投げ主義の無責任男・小泉さん国民の総意?を 無視し続ける勇気があなたにはあるのですか?(12.16)
 清水信さんへの返事を書きます。  前略、「清水信文学選」を送っていただきありがとうございます。 いろいろと解決しなくてはいけないことが多々あるのに、問題の先送り (名人・小泉首相のように)をしている自分にたいして反省をしていた矢先に、 清水信さんからの郵便をいただきました。思いがけなくクリスマスプレゼントを いただいたような気分になりました。 さっそく「清水信文学選」10と「本と雑誌」フエミナという軸(清水信文学選88)を 読ませていただきました。「本と雑誌」に私のことを書いていただき大変恐縮した しだいです。「文学」とは無縁な生活環境にあって、一人好きかってに書き連ねた物を 評価の対象にしていただき、ありがたく思います。 「蒼生舎通信」とは思うところがあって、掲載を辞退した後、個人雑誌といっても 自分の店で気の合った常連さんぐらいしか読まない書き物を出しています。 他のところへは一切置いていません。自分を知ってくれる人にだけ、読んでもらいたい のです。偏屈な個人雑誌です。私が偏屈なのかもしれません。 「眼我通信」は5号で、今のところ止まっています。書き物も時評ぐらいで、 まあたらしい新作は停止状態です。原因ははっきりしているのですが、いまだ霧の中と いった感じです。ここまで筆が止まったのは4年前に「文」を書き出してから始めての ことです。少し私の文筆歴?みたいなものを紹介させてください。  1988年にそれまで一時的に書き溜めた恋文を、結婚を機に一冊の詩集にしました。 私は文学青年ではありませんでした。ただ、恋しい人には自作の詩をやたら一方的に送る 癖がありました。それで嫌われたこともあり、今の妻とは嫌われる前に結婚してしまった のが良かったのかもしれません。目的を達成したらまったく詩を書かなくなり、思い出に と思って自費出版?したのが「蝉の声」でした。たまたま友人が転写機を持ち合わせて いたので、手作りで100部作ってもらい、知人や店(インド料理と画廊の店ガンガー) のお客さんに「蝉の声」をプレゼントして大いに楽しみました。 それから2000年まで12年間まったく詩も文も書くこと無く、日々店の仕事に追われ る生活をしていました。ところが4年前です。息子の通っている小学校でパソコンの 授業が始まったのです。家にパソコンがなかったので、これを機会にパソコンを買い ました。パソコンには多少縁があったので、ついでにホームページを作ることにしました。 学生時代にコンピュータの基礎を習っていたので、案外簡単にホームページを作ることが できました。店ともう一つ、二つホームページが持てることを知って、さあ何を載せ ようかとなって、唯一の詩集「蝉の声」を掲載することにしたのです。でも、すぐに 読み手が飽きてしまうので、新作を載せなくてはいけないと思い、ホームページを読んで くださる人のために、詩を新しく作ることにしたのです。まったく不純というか、成り 行きで、たまたま詩を書き出すことになったのです。 でも、目標があると私はまっしぐらなのです。一年間で250ほど作り、翌年も200 ぐらい作っていたら、詩が長くなり、これなら童話が書けるのではと思うようになって、 童話になってさらに小説「サトルの冒険」(処女作)と繋がっていくことになります。 童話数点と「サトルの冒険」「なにわともあれ村のアシカレ」は公募展に出品しましたが、いずれも いずれも最終選考で落ちました。以後、現在にいたっています。  文学青年ではありませんでしたが、宗教と哲学書は興味があったので良く読みました。 読書量も偏っていて、読むときは集中して読みますが、読まなくなるとまったく何ヵ月も 読みません。ここ4年ほどで、自己表現の一つとして、書くことへの生き甲斐を見い出し た思いはあります。如何に生きるかが問われ、その結果としての書き物でありたいという 私の思いがそこにあります。店の経営がうまくいっていない現状においては自然と筆が 止まってしまいます。それでいいとも思っているところが私にはあります。 与えられた人生であって、この世を如何に生き抜くかに重きを置く姿勢が私らしさでも あると思っています。その結果としての書き物でありたいのです。 「ゴッキの宇宙」もいまのところ行き止まっています。あらたな展開をしなくてはと 思っていた矢先でした。「本と雑誌」に掲載されたとは良い意味で、励みになります。 「眼我通信」6号もできたら大晦日までには発行したいと思っています 師走の風で、心と体に寒さがしみますが、一生懸命働くことで、暖を取れることを信じて 歩んでいます。 「夕子のために・旧詩帖(抄)」とても読みやすく、す〜と心に入ってきました。    「ここでは」 ここでは 稚いものだけが歌い 清純な心だけが想う   ・   ・   ・ 人は 美しく優しければ 読みとってくれるであろう ここでは・・・    詩の本質はここにあると思いました。いい本をありがとうございました。 これからも体に留意され、お元気に書き続けられますことを、心からお祈り申し上げます。 前回お送りした書き物に対して、何の返事も無かったので、私とは縁が無いものと思い、 他の作品を送るのをちゅうちょしていました。もしよろしければ少しづつ、また送らせて ください。人と人の繋がりがスクラムとなって、私のような弱い者でも、 生きていけるのかもしれません。ありがとうございました。(12.17)
 アジアン雑貨の店先で売られていた「ゴルフするネコ」をガンガーのマスコット猫 として買ってきました。体長1メートルほどの木彫りの猫です。私はこのような買い物を めったにしません。気に入っています。顔や腕などの塗装全面に細かいひび割れが ありますが、これが風格をだしています。透明ニスで補修しておきました。何かいいのです。 ¥2780円だったのがいいのかもしれません。堀だし物を買ったような、お買い得感が あります。ガンガーに福を呼ぶ招き猫となってもらいたいものです。  今日の新聞のコラムの欄に「雪が降ってきた/鉛筆の字が濃くなった」 という少年の書いた詩を作家の井上靖さんが雑誌で読み、深く感じいったという記事が 心に残りました。感じる心が書かせた実話だと思います。雪が降ってきたことへの歓喜を、 字が濃くなったという表現で表わしているのです。稚きときの思い出がよみがえってきます。 今でも、雪が降ってくると何か「そわそわ」としてきます。 歳に関係無く、純真さを失いたくないものです。私の童話「冬ちゃんのふぅわふわ」 を思い出します。(12.18)  
 詩から始まった私の文筆活動ですから、私の原点は「詩」にあるのかもしれません。 忘れかけた詩心?を呼び戻すことから始めましょう。  一昨日の手紙の終の言葉が気に入ってます。    人と人の繋がりがスクラムとなって  私のような弱い者でも  生きていけるのかもしれません  ありがとうございました   素直な気持ちは、そのまま詩になります。  「降り積もる」    交差点に雪と共に降り積もるは  稚きときの懐かしさ    父の面影  タロウの面影  クロ猫の死体    死を悼むは  生を尊ぶ想いから    雪と共に降り積もる    悼む気持ちと  尊ぶ想いの交差点    しんしんと  雪と懐かしさが  交差点に  降り積もる    久しぶりの詩ができました。  報道番組で桜井よしこさんが出演されていました。いつもながらの姿勢には恐れいります。 男女を越えて敬意を払いたくなります。こんな人が総理になられると日本国はもっと 良い国になるのですが、・・・。    ガンガー新年会を来年1月2日の夜6:00〜9:00 行ないます。 会費500円でカレー食べ放題、という特別企画です。 参加希望者は12月31日午後3:00までに予約してください。 連絡先はガンガーまで。宣伝はこの書き込みだけです。(12.19)
 先日の桜井よしこさんの話になりますが、彼女曰く「中国は北との国境に、 今年になってそれまで、3千人?だった国境兵を3万人?に増加させたのは、北に異変があった とき、即対応して治安維持の名目で北へ侵入、そして北を最終的に中国領にしてしまう計画 なんです」さらに「先日の韓国大統領ノムヒョンは北への経済制裁に対して、いたって消極的で、 北が中国に吸収合併されれば、それはそれでよいと思っている節があり、さらに韓国までもが 中国領にされても、ノムヒョン政権だとたいして抵抗しないのではないか?」とまで 言われました。怖い話ですが、彼女が言うと現実みがあります。(12.20)
 毎年今の季節になるとクリスマスは12月25日ではないと私は言っています。 イエスの生まれた日が12月25日ではないことは聖書の記述から明解です。 はっきりしていることを、ただ生まれた日が解らないことから、行事としての誕生日が いつのまにか本当の誕生日と誤解をまねくような風潮になってしまったことに対して、 一言。真実を知って行なう行事とそうではない行事ではいつしかその本質までもが おかしくなっていくのではないでしょうか?日本のクリスマス行事がそのいい例です。 本末転倒の中に、真実が隠されているとしたら・・・・? クリスチャンがイエス・キリストの誕生日を祝うのと、年中行事のお祭りとして騒ぐ クリスマス。二つのクリスマスがあるのかもしれません。さらにクリスチャンの中にも、 真実の誕生日がいつか解っていないことを知らないで、ただ形式的に12月25日を祝う 人達もいると思われます。もう一方で、本当の誕生日が解らないという事実を知って いながら、イエスの誕生を祝うという行為に信仰的意味を持たせる人達もいます。 多くの人が後者の方であってもらいたいものです。 残念ながら、現実は前者が大半のようです。(12.22)  
 昨日は今年最後の読書会をしました。ちょうど「ルカによる福音書」の受胎告知の 箇所でした。それとクリスマスが近いので、二章の有名なイエス誕生の箇所も学びました。 羊飼いに何故天使(ガブリエル)が現われたのか?人が選ぶのではなく神が人を選ぶのです。 そこに「しるし」(奇蹟)が表わされているのです。マリアに起こった奇蹟は羊飼いによって 証明され、人類に伝えられることになったのです。「マタイによる福音書」には東方の三博士の 話が記載されています。  紀元0年ではなく、紀元4年イエス誕生説が本当だといわれています。 人の想い、計画、謀り事と神の摂理との間にはかなりの隔たりがあるみたいです。 イエスの誕生を紀元0年として始まった西暦も誕生年を間違えるというミスを犯し、 人類はそのまま訂正できないでいるのです。 慣習、歴史の流れを変えるのは大変なことなのかもしれません。 みようによっては面白い現象です。(12.23)
今日は妻の手作りクリスマス・ケーキを食べました。 店ではクリスマス・ソングをながして、イエスの誕生を祝っています。人類の救い主と して使命をもって生まれたイエスは、30年あまりの歩みの最後を「十字架と復活」と いう特異な死に方を通して、人類に救いの証を示されました。感謝の意味を込めて、誕生を 祝うのが本来の姿かと思われます。巷のクリスマス商戦は完全に信仰とは別ものです。 一方、私のように静かに聖書を読みながら、クリスマスの夜を過ごされる方もいらっ しゃるはずです。「真理は少数と共にあり」です。多数ではないところが味噌です。 ここのところ少し店が忙しいので、うれしいことです。明日も昼の予約が入り、昼は 忙しくなりそうです。夜は静かに聖書とこの書き込みができればいいのですが、 忙しいことは良いことです。私は根からの仕事好きなのかもしれません。親の後ろ姿を 見てきた者として、私の親ほどの働き者はそうはいなかったと自負しています。その息子 ですから、働くことが嫌いではないのです。これは一般的にはいいことなのですが、 芸術家としては?なのかもしれません。先日の清水信さんへの返事と少し矛盾しますが、 現実と夢の狭間で揺れ動くのが人の常なのかもしれません。その葛藤から生まれてくるものが 芸術(表現)なのかもしれません。(12.24)
 この時期になるといつも暇です。常連がぽつぽつとやってくる程度です。お客さんが 帰られる時に年の瀬の挨拶をして、一年の締めくくりをします。  今日の新聞を拾い読みをしていたら、「地球を読む」というコーナーで、 外交評論家・岡崎久彦さんが米国に追随するのが、日本の繁栄に繋がると、明言されていました。 何という偏見?なのかと反論したくなります。日米同盟が大切で、米国にとって欠かせない国 として日本国が集団的自衛権を行使できるように、憲法改正して軍隊を持ち、国際紛争に たいしても軍隊を派兵すべきだという主旨のような内容でした。何も見えてない、頭でっかちの 論客です。最悪のことを予想して、その事象に対して如何に対処するすべかという、総合的判断の かけらも持ち合わせていない、官僚的発想しかできない、想像力の無い人は困ったものです。 こんな人が外交評論家だとは、お粗末につきます。米国の繁栄の陰には、イラクのような犠牲が 伴っています。アジアの治安のために、捨て石にされるのが日本国としたら岡崎さんどうしますか? 「捨て石はないよ、同盟国なんだから」と岡崎さんは言われることでしょう。利用されることが 「捨て石」と同等と私は思っています。私は「利用される」ことを「捨て石」と言っています。 言い替えれば、米国にとって利用価値があるうちは同盟国なのかもしれません。具体的にこれからの 米国の世界戦略をシュミレーションしてみたくなります。口でいうのはたやすいのですが、文字に すると書いた物は消せません。大晦日までに、アジア情勢の今後を予想して語ることにします。 後日書き込みます。(12.26)
 津波による被害が予想外に大きいので驚いているしだいです。 サマワの自衛隊員を救援部隊として、被害国に派遣したらいいのです。これこそ人道支援と して、被害にあった国から喜ばれることでしょう。  自分を認めてくれる人を探しての旅、生きて存在していること自体に意味があり、私の 存在に興味をもたない人には、何も語らない。自己弁護をしないことに決めました。私の 存在を歓迎してくれる人にのみ、私は語り、心を開くのです。ついに私は偏屈王になって しまったようです。私の「思い」は常に、伝えるべき行為として具体的には書き物として、 あるいはこのホームページの「思い」のように文字として表現しています。これらを読んで くださる人の中には、私という人間をちゃんと理解してくださる人がいることを信じて います。自己満足の世界で「ぬるぬる」と書いているつもりはありません。自己、その他を 常に、第三者の目で客観的にとらえたいと思っています。以前、「乞食(こじき)」の 書き込みで物を乞うことに対しての書き込みをしました。宗教の本質はこの「乞食」にある のかもしれません。何を言わんとしているかというと、「物を乞(こ)う」ということは その物を施す人を救うためにあるということなのです。詭弁に聞こえるかもしれませんが、 「乞う」ことに対する正しい認識を持つべきなのです。 「おれおれ詐欺」とはまったく次元の違う話ですので、誤解のないように。  話は少し変わりますが、自分と違う価値観、意見を持つ人を理解する努力も無しに 一方的に毛嫌いするのは、愚かな行為です。そういう人は他人を裁くことで、実は自分が 裁かれていることに気付いていないのです。話はまた飛びますが、昨日の外交評論家は 「乞(こ)う」という行為をまったく理解していないのかもしれません。 小泉さんも「然り」です。これから国防と「乞う」がいかに関わってくるかを書きたいと 思います。どこまで書けるか分かりませんが、思い付くままに書き連ねてみます。 「乞う」とはある意味、相手の行為に自己を委ねることです。 国防は国民の命を守ることが最大使命です。自国を如何にして敵国の攻撃から守るか? 今の時代、意味もなく他国を攻めてくることは考えられません。それなりの理由があるはず です。このような話は具体的に話さないと、話が見えてきません。ここで国名を具体的に 書くと分かりやすくなります。昨日の話ではアジア情勢についての書き込みとしていましたが、 桜井よしこさんのように、すでにある程度予測されていることを取り上げて持論をぶっても、 あまり面白くありません。私はすでに8月の時点で中国の中華思想からくる将来の展望として、 アメリカの要望による憲法9条改正、さらに中国との海域など諸問題から起こる、軋轢(あつれき)。 バブル絶頂の中国経済もあと数年(北京オリンピック後)でバブルは弾(はじけ)ます。 その後、中国国内の不満分子(貧富の差からくる不満、知識階級のグローバル化による 共産主義への反発など)による反乱?などで、中国国内が不安定となります。そのとき中国 政府はこれまでどうりの力による圧政でこの騒動を鎮圧させようとするはずです。その反動で、 これまでの膿がどっと出た形となり、アメリカはこれ見よがしに、治安維持・人権擁護の 名目で今回のイラク戦争のように、有りもしない大量破壊兵器をでっち上げたように、 情報操作で国連その他の反対する国々にたいして、最もらしい理由を捏造するぐらい簡単な ことです。一方的に他国籍軍派兵、その時の中心は日本軍ということになるのだと思います。 この先のさらなる詳細は省きます。 今回の書き込みは純粋な国防論ではなく、「防衛」とは?といった概念の話に変更します。 何故かというと、「乞食」と「防衛」を同じ土俵で語るには、思考の土ならし?というか、 柔軟な考えがないと理解できないと思われるからです。  憲法9条に記載されている、戦争放棄と武力(軍隊)を保持しないということは 人類の夢なのです。大戦の反省から、悔い改めから、作られたこの憲法9条は当時の 日本国民の総意の賜物(たまもの)だったのだと思われます。沖縄玉砕、広島・長崎の被爆、 一億総玉砕の覚悟を強いられた後の英断だったと思われます。私の心情はこれまでも語って きました「悔い改める心に、救いはもたらせる」です。大戦の反省から起こったこの 悔い改めの気持ちの表われとしての9条だったのだと思います。 「物を乞う」ということはこの世のすべてを捨て、心から無欲にならなくてはその行為が 無益になってしまいます。人を救うとは、言い替えれば自分の魂を救うことなのです。 施(ほどこ)す行為によって自己の魂を救うのです。仏教的なことは余り知りません。 (間違っていたらお知らせください) 私の知る範囲では施す行為は自己を救う行為の表われで、施される側(乞う人=乞食)は 「あなたの魂を救うために、乞うてあげますよ」という相関関係になるのだと思います。 施す側も施される側も救いへの道を求めての行為なのだと思います。 ここで「防衛」の話へ視点を向けます。20世紀は侵略戦争の時代でした。「植民地」と いう言葉はもう死語になると思われます。何故ならば、面と向かった侵略戦争はもう起こり えないのです。アメリカのイラク侵略のように、大義名分は別に掲げて、侵略ではありま せんよという伏線をはってはいますが、あれは一種の侵略戦争かもしれません。 日本国においては軍隊を持たない限りはこの侵略戦争に出会うことはないと、私は言いたい のです。続きは後日。(12.27)
「二00四年暮に思ったこと」 二00四年十二月二十九日 眼我 真  詩人・清水信さんの詩集「夕子のために・旧詩帖」の序詩に「ここでは」と いう詩があります。    「ここでは」 ここでは 稚いものだけが歌い 清純な心だけが想う   だからここでは みんなが優しくて 幸福であったあの頃の様に 私は一人の気弱な少年であっても 美しく生きられるであろう   誰とは知れぬ 小さき者に激しい愛のあかしを 人は 美しく優しければ 読みとってくれるであろう ここでは・・・    文字による表現、さらにそれ以外の全ての表現は「ここでは」という条件が ともなわなくては理解されない世界なのかもしれません。 私の処女(童貞?)作の小説「サトルの冒険」で言いたかったことの一つが 「ここでは」なのです。人生とは自分を理解してくれる人を探す旅と定義付け して物語を書いた節があります。人事の様ですが、私は筋書を考えずに、思い付 いたときに、その場でその時の思いをただ書き連ねていっただけなのです。 振り返って読みなおしてみたら、こんな筋書になっていたのかと? 不思議な想いをしたものでした。    自分を認めてくれる人を探しての旅、生きて存在していること自体に意味があり、私の 存在に興味をもたない人には、何も自らは語らない。もう、自己弁護をしないことに決め ました。私の存在を歓迎してくれる人にのみ、私は語り、心を開くのです。ついに私は 偏屈王になってしまったようです。私の「思い」は常に、伝えるべき行為として具体的に は書き物として、あるいはホームページの「思い」のように文字として表現しています。 これらを読んでくださる人の中には、私という人間をちゃんと理解してくださる人がいる ことを信じています。自己満足の世界で「ぬるぬる」と書いているつもりはありません。 自己、その他を常に、第三者の目で客観的にとらえたいと思っています。  以前、「乞食(こじき)」の書き込みで物を乞(こ)うことに対しての書き込みを しました。宗教の本質はこの「乞食」にあるのかもしれません。 何を言わんとしているかというと、「物を乞(こ)う」ということは、その物を施す人を 救うためにあるということなのです。詭弁に聞こえるかもしれませんが、「乞う」ことに 対する正しい認識を持つべきなのです。「おれおれ詐欺」とはまったく次元の違う話 ですので、誤解のないように。(話は飛びます)  先日の新聞から、外交評論家が語られていたことの抜粋を、 私のホームページの書き込みから引用します。    今日の新聞を拾い読みをしていたら、「地球を読む」というコーナーで、 外交評論家・岡崎久彦さんが米国に追随するのが、日本の繁栄に繋がると、明言されて いました。何という偏見?なのかと反論したくなります。日米同盟が大切で、米国に とって欠かせない国として日本国が集団的自衛権を行使できるように、憲法改正して 軍隊を持ち、国際紛争にたいしても軍隊を派兵すべきだという主旨のような内容でした。 何も見えてない、頭でっかちの論客です。最悪のことを予想して、その事象に対して 如何に対処すべきかという、総合的判断のかけらも持ち合わせていない、官僚的発想しか できない、想像力の無い人は困ったものです。こんな人が外交評論家だとは、お粗末に つきます。米国の繁栄の陰には、イラクのような犠牲が伴っています。アジアの治安の ために、捨て石にされるのが日本国としたら岡崎さんどうしますか? 「捨て石はないよ、同盟国なんだから」と岡崎さんは言われることでしょう。 利用されることが「捨て石」と同等と私は思っています。私は「利用される」ことを 「捨て石」と言っています。言い替えれば、米国にとって利用価値があるうちは同盟国 なのかもしれません。具体的にこれからの米国の世界戦略をシュミレーションしてみたく なります。口でいうのはたやすいのですが、文字にすると書いた物は消せません。 大晦日までに、アジア情勢の今後を予想して語ることにします。後日書き込みます。 (2004.12.26)    これから国防と「乞う」がいかに関わってくるかを書きたいと思います。 どこまで書けるか分かりませんが、思い付くままに書き連ねてみます。 「乞う」とはある意味、相手の行為に自己を委ねることです。 国防は国民の命を守ることが最大使命です。自国を如何にして敵国の攻撃から守るか? 攻撃に対しては防衛となり、それには武力による撃退となります。「乞う」とは背反対の 行為です。ただ、世界の現状をかいま見たとき、意味もなく他国を攻めてくるような 完全なる侵略戦争は考えられません。このような話は具体的に話さないと、話が見えて きません。ここで国名を具体的に書くと分かりやすくなります。昨日の話ではアジア情勢 についての書き込みとしていましたが、桜井よしこさんのように、すでにある程度予測 されていることを取り上げて持論をぶっても、あまり面白くありません。私はすでに 八月の時点で中国の中華思想からくる将来の展望として、アメリカの要望による憲法九条 改正、さらに中国との海域など諸問題から起こる、軋轢(あつれき)。バブル絶頂の中国 経済もあと数年(北京オリンピック後)でバブルは弾(はじけ)ると思われます。 その後、中国国内の不満分子(貧富の差からくる不満、知識階級のグローバル化による 共産主義への反発など)による反乱?などで、中国国内が不安定となります。そのとき 中国政府はこれまでどおりの力による圧政でこの騒動を鎮圧させようとするはずです。 その反動で、これまでの膿がどっと出る形となり、アメリカはこれ見よがしに、 治安維持・人権擁護の名目で今回のイラク戦争のように、有りもしない大量破壊兵器を でっち上げたように、情報操作で国連その他の反対する国々にたいして、最もらしい 理由を捏造するぐらい簡単なことです。一方的に多国籍軍派兵、その時の中心は日本軍と いうことになるのだと思います。この先のさらなる詳細は省きます。  今回の書き込みは純粋な国防論ではなく、「防衛」とは?といった概念の話に変更 します。何故かというと、「乞食」と「防衛」を同じ土俵で語るには、思考の土ならし? というか、柔軟な考えがないと理解できないと思われるからです。  憲法九条に記載されている、戦争放棄と武力(軍隊)を保持しないということは 人類の夢なのです。大戦の反省から、悔い改めから、作られたこの憲法九条は当時の 日本国民の総意の賜物(たまもの)だったのだと思われます。沖縄玉砕、広島・長崎の 被爆、一億総玉砕の覚悟を強いられた後の英断だったと思われます。 私の心情はこれまでも語ってきました。「悔い改める心に、救いはもたらされる」です。 大戦の反省から起こったこの悔い改めの気持ちの表われとしての九条だったのだと 思います。「物を乞う」ということはこの世のすべてを捨て、心から無欲にならなくては その行為が無益になってしまいます。憲法九条に込められた草案者達の想いの中に、この 「乞う」にあたる発想があたのではないかと思われます。戦争放棄と武力を保持しないことは ある意味、国家としての無防備を意味します。世界の人々に「乞う」勇気がなければ、 実現しない憲法です。理想を掲げることの大切さを憲法九条にみる思いがします。 「国破れ、山河あり」です。日本国民の再起にあたり、この「憲法九条」をかかげたのは 「乞う」ことの本質を日本人として知っていたからではないかと思われます。  今度は「乞う」の対象にある「施(ほどこ)す」ことを考えてみます。 「施す」ことによって「乞う」人を救うとは、言い替えれば「施す」側の魂を救う ことなのです。施(ほどこ)す行為によって自己の魂を救うのです。 仏教的なことは余り知りません。(間違っていたらお知らせください) 私の知る範囲では施す行為は自己を救う行為の表われで、施される側(乞う人=乞食)は 「あなたの魂を救うために、乞うてあげますよ」という相関関係になるのだと思います。 施す側も施される側(乞食)も救いへの道を求めての行為なのだと思います。 憲法九条を保持することは、「世界の平和」のためなのです。 日本国民が「乞う」精神の尊さを見失わなければ、いつか「人類」は「施す」意味を 知るのではないかと思います。    ここで「防衛」の話へ視点を向けます。二十世紀は侵略戦争の時代でした。「植民地」と いう言葉はもう死語になると思われます。何故ならば、面と向かった侵略戦争はもう起こり えないのです。今回のアメリカのイラク攻撃は新たな侵略戦争といえるかもしれません。 大義名分は別に掲げて、侵略ではありませんよという伏線を張ってはいますが、大義名分が 間違っていたのですから、あれは新手の侵略戦争と言ってもいいかもしれません。 アメリカは侵略戦争と言われないように、イラク国民による公平な選挙を実施するために、 アメリカは必死?になっています。ある種のカモフラージュです。親米政権樹立のために 行なわれた反米勢力の拠点・ファルージャへの集中攻撃では、民間人が何人巻添えに なったことか、それでもアメリカは異に解さないのです。日本国がアメリカに追随して、 現在の憲法九条を破棄して、軍隊を保持していたら、必ずこの手の新型侵略戦争に巻き 込まれることでしょう。アメリカが新型侵略戦争をするのは自国の保持のためです。 保持と言っても、それは自国の繁栄をともなったものです。富みを別け与えるという、 共存共栄の意識は薄いと思われます。中国の中華思想に対する、アメリカの一国主義です。  二十一世紀はエレルギー問題、人工増加問題、食料問題、温暖化問題と大きな問題が 山積みですが、一番はエレルギー問題だと私は思っています。 両国の将来への最も大きな不安も、このエレルギー問題です。 枯渇するエレルギー(石油)を最大限に確保した国が、最終的に勝利を治めるといった 発想だと思います。中国とアメリカの争いの真ん中に位置するのが、日本国なのです。 アメリカ追随思考を捨てきれないかぎり、いつかはアメリカの意向のもと(すでに日本と 中国の間では諸問題で争いの種が芽吹いています。これらはアメリカの思う壷なのです)、 中国との争いに日本国が全面に立たされ、巧みな情報操作、世論操作で戦争へと日本国は 追い立たされる羽目になるのではないかと危惧しています。 そのときに、憲法九条を日本国民が堅持していれば、アメリカの戦略に巻き込まれること なく、中立の立場で意見がいえるはずなのですが、・・・。 ここで「乞う」が出てきます。何に乞うかということになります。信仰の問題として とらえればはっきり言えるのですが、そうではない立場で「防衛」に対するところの 「乞う」を語るとしたら「世界の常識」という、いたって不安定な、漠然とした抽象的な ものへの乞うになってしまいます。「世界の常識」というよりは「世界の平和」と 言ったほうが、いいかもしれません。「平和」を考えたとき、一国主義でも、中華思想でも ない別の基準?が必要になってきます。富める国の平和論ではなく、貧困にあえいでいる 国々の唱える「平和論」を考えなくてはいけないのです。「平和」とは何かを考えるとき、 先ほど語ったように、施す側と施される(乞う)側の相互の信頼関係、相関関係が大切に なってくるのだと思われます。 最初に書いた「ここでは」の詩は施す側と乞う側の信頼関係が「平和」という共通項で 保たれているような世界のことだと思います。「ここでは」が「すべての場」で言える ようになれば、幸せな世界が開かれるのではないかと思います。 (「ここでは」が「すべての場」でかなえられるようにれば、文学などの表現はつまらない ものになってしまうのかもしれません。人間の矛盾がそこに内在しているのです。 だから宗教が生まれ、バランスを保っているのかもしれません)  来年も自分の世界をさらに深めて行きたいと思っています。「乞う」ことを忘れずに、 「生きる」とは「施(ほどこ)す」「施される」ことを学ぶためにあるのかもしれません。 その先にあるのは個人の幸せ、さらには人類の幸せ、なのだと信じたいです。   「国防」と「乞う」の関係がぼやけてしまいました。一人一人に「乞う」気持ちが あれば、「施す」感覚も理解でき、しいては国家間の争いも無くなり、そうなると 自然と戦争は起こりえなくなるのではないかと思います。(終わり)
 「二00四年暮に思ったこと」は今日、多少手直しをしました。 今日30日の手直しで完結です。 29日に読まれた方は今日また読み直してください。 以前よりも分かりやすくなっていると思われます。(12.30)  

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