2005年2月の「思い」

 忙しくてゆっくり書き込みができません。書きたいことはあるのですが、時間が ついて来てくれません。先へ、先へと流されているみたいです。まあ、こんな時も有りで、 いいともです。暇になるのを待ちます。とりあえず、先日ラジオを、ちょっと聞いていたら、 東京外語大の教授の方(忙しくて名前を聞くまで、聞いていられませんでした)が、宗教の 話をされていて、一神教の中にも多神教の教えが入り込み、多神教の中に一神教の教えが 入り込んでいて、簡単に一神教だからこうだ!多神教はこうだ!と区別できないものが ある、と発言されていました。最新の宗教学では歴史を科学的に分析して、 お互い(一神教、多神教)の宗教が影響しあった事実をはっきりさせることが 重要視されている、とも述べられていました。 誰かさんのように短絡的に一神教、多神教と別けて考えるのは時代遅れな発想なのです。 誰かさんとはあの「バカの壁」を書かれた人のことです。 「バカの壁」がベストセラーになってた時期に、私は彼の間違いを指摘しました。 2003年7月16日の私のホームページの「思い」を読んでみてください。 そこに明記しています。あの時期に誰も言っていなかったことを、私は公言していたのです。 そのことに重みを感じます。「コロンブスの卵」です。言い出しっペが、重要なのです。 後から言うのはいくらでも言えます。私の発言が正しかったことを、 昨日の外語大の教授が裏付けしてくれたのです。自慢していいと思っています。 証拠として2003年7月16日の書き込みを下記に示します。     最近ベストセラーになっている「バカの壁」著者・養老猛司について。 「バカの壁」読みました。感想は・・、豊富な体験から知り得たところの持論?他者の 意見をうまく利用して、おおざっぱで分かりやすくという特徴がヒットの要因かも しれません。でも、こんな本がベストセラーになること自体、私にとっては驚きです。 いかに体験欠如症候群?の人が多いかということです。言っていることはいたって短絡的、 おおざっぱ、信仰については部外者が建て前論で断裁しているだけです。 「バカの壁を唱えるバカ」という評論本でも書きたくなります。自分で考えることが 出来ないような人たちがこの本を読んで、いかにも自分が体験したかのような錯覚に陥り たくて、この本を買うのでしょうか?それこそ「バカの壁」を読むバカです。 世の中、不思議なことだらけです。だからおもしろいのかもしれません。名誉も地位も 学歴もない私がこんなことを言っても誰も振り向きません。「バカの壁」を指摘する 養老さんも「バカの壁」の中にいるバカも、私を含め、みな同じバカなのだということを 私は言いたいのです。「バカの壁」を知っていたとして、それだからといって、 その人たちをバカ呼ばわりするほど養老さん、あなたは偉い人なのですか? 私に言わせてもらえれば、五十歩百歩です。イエスが二千年前にすでに言っています。 「己を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」この隣人は同じ一神教仲間だけを差している のではありません。養老さん「善きサマリア人」の話を読んだことがありますか? さらにペテロが剣をもって兵を追い払おうとしたときイエスは「剣を持つ者は剣にて滅ぶ」 とも言っています。一神教のなんたるかを深く理解していないあなたが、現状の結果と体験 から推測して二元論、多神教をより賛美されることに、私は反論します。 多神教でも、一神教でも、二元論でもあなた流に表現すればバカは「バカの壁」を作るの です。養老さん、あなたの持論?自体すでに「バカの壁」を作っています。 もっと高みから見てご覧なさい。あなたのバカさかげんが分かりますよ!(2003.7.16) 以上がその全文です。    遅くなりましたが、今店で「ガラムマサラ」という題名の個展(2月7日まで) がなされています。店内は流木作家の山根由士さんの作品で埋め尽くされています。 流木浴と山根さんの人柄に癒されます。自分を知るということは、努力ではなかなか 出来ないことです。無理やり知らされるというか、挫折を通してしか、自分という存在を 知り得ないのではないかと思っています。自分を知っている人しか、他を知る(認める) ことはできないとも思っています。多くの人は自分を知らないでいるのです。 「は?」と疑問を持たれる方、あなた本当の自分を知っていますか? 殻を脱ぎ捨て、裸の自分を見つめる勇気を持っていますか? 私の言うことが、何のことか分からない人は自分という存在を知り得ていない人かも しれません。「そこのあなた、顔がありませんよ!」誰かの本に出ていたフレーズです。 山根さんは流木作品を通して、自分を知ろうとしているかのような、おもむきがあります。 私はインド料理店ガンガーという場を通して、自分を知り、さらに他を知ろうとしている のかもしれません。いろいろな人の出会いの場としてガンガーを利用してもらえれば、 私としては幸いです。(2005.2.1)
某テレビ番組の収録がありました。有名なタレントが来られ、料理を食べながら、 会話をするのですが、私の会話といま一つ噛み合わなかった気がします。 まあ、こんなもんかもしれません。放送されても見たいとは、いま一つ思いません。 見るのが、恥ずかしい感じです。やっぱり場違いでした。 客にあわせることが、苦手なのです。それも個性ですから、納得しています。 私の将来への展望は何か? やるべき事のために、今があり、その先にさらなる未来があるはずなのです。 私にはやるべきことがあります。    一月の読書会の報告をしたいと思います。 一月は事情があって、二回読書会をしました。 一度目は19日(水曜日)の夜、いつものメンバーで12月の続きをしました。 二度目は新メンバーのために、「ルカの福音書」の著者ルカの師匠にあたるパウロの 話でした。ルカがどうゆう目的で「ルカの福音書」を書いたかを話すには、 まずパウロがどうして異邦人への伝道を始めたかを語る必要があると思ったからです。    まず、一度目(19日)の読書会は「ルカによる福音書」一章29節〜80節まで。 マリアは自分が住んでいるガリラヤの町から親戚のエリサベツの住んでいるユダの町へと 行きます。マリアの声を聞いたとき、エリサベツの胎内の子は踊って祝ったと 記されています。エリサベツはそこで、マリアに向かって語り出します。 「・・・、主(救い主)の母上がわたしのところに来て下さるとは・・・」 マリアを「救い主の母」と明記していることは、聖霊によって予言させられたと言って いいのかもしれません。後から書くことだから、いくらでも良いように加筆できると 言ってしまえば、それ以上先へ進めなくなってしまいます。 「神を信じることができる女は幸せです」ともエリサベツは語っています。 妊娠という神秘的な出来事を通して、神のご計画を人類へ知らしめようとしているのです。 マリアはこのエリサベツの言葉を聞いて、確信を得たのだと思われます。 続いてマリアによる神への賛美が始まります。46節から55節まで 48節に「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、 わたしをさいわいな女と言うでしょう。」マリアの謙虚さが伝わってきます。 50節からは卑しい者、飢えている者にあわれみをお忘れにならず、イスラエルを救けて くださるという内容の賛美歌です。イスラエルの救いについては明記していますが、 異邦人についての記載はありません。まだ、そこまでの救いではないのです。 同族、イスラエルの民への救いがまず先決といった感じです。 56節にマリアは三か月滞在したと書かれています。出産直前までいたことになります。 57節から一章の最後までは、エリサベツの出産と、子への命名についての出来事です。 エリサベツは月が満ちて、男の子を産みます。八日目に割礼(男根の皮を剥ぐ)の 儀式で、名をどうするかということになります。親族の中から同じ名を付けることが、 常識になっていたイスラエルで、エリサベツは神の使いの知らせ通りに、親族に無い 「ヨハネ」という名を言います。父親のザカリヤにも聞くと、唖(おし)になっていた ザカリヤが「ヨハネ」と板に書くと、ザカリヤの口が開いて、しゃべれるようになった のです。奇蹟は恩恵なのです。ザカリヤは与えられた苦難(唖になる)を感謝した ことでしょう。神の存在を知るきっかけを与えられたのですから、その後にザカリヤの 賛美の歌が始まります。これも先ほどのマリアの時と同じく、予言の賛美歌です。 息子ヨハネの人生を歌った内容です。救い主の先駆けとして、イスラエル民俗の救いを 予言しています。  一月の二度目は新メンバーのために行なった読書会です。 一月二十三日の日曜日午後3時から行ないました。 これからはメンバーの都合で、曜日に関係無く(月曜日は外して)月一回。 午後3時から4時半までの時間に行なうことにしました。 二月はいまのところ、第三日曜日の午後3時からということになっています。 都合によっては、変更するかもしれません。  一月二十三日の読書会は「使徒行伝」第八章1節から3節までと、九章1節から30節までを 学びました。サウロ(パウロの旧姓)が見たダマスコ城外での幻による奇蹟、 新約聖書の中でも、私としては特に興味のある記述です。 イエスの敵であったサウロが、幻のイエスを見てから改心するまでを書いた記事です。 サウロはイエスの幻を見たことにより、目が見えなくされるのです。ザカリヤが神の言葉を 信じなかったため唖(おし)にされたと同じく、サウロは唖ではなく、盲人にされるのです。 サウロの改心には、イエスの言葉だけでは無理だと思われたのでしょう。神の恩恵による、 盲目体験は180度心を改めるには充分でした。 15、16節の神の言葉が印象的です。「さあ、行きなさい。あの人(サウロ)は、異邦人たち、 王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」 ここで、始めて「異邦人」という言葉が出てきました。サウロだから異邦人という言葉が 出てきたとも言えます。サウロ(パウロ)自身がローマの市民権を持った異邦人であり、 弟子のルカも異邦人(ギリシャ人)です。神がサウロに幻として現われたことは奇蹟ですが、 それ以上にすごいのは、盲人にして彼に悔い改めの機会を与えたとことです。 さらに恩恵として目が見えるようにされたことも神の力のなせる業でした。これなら誰でも 神の信者になります。しかし、選ばれた人にしか神は奇蹟を行ないません。 サウロは選ばれた人だったのです。サウロは後にパウロとなり、ローマで紀元64年ごろに 逆さ十字刑で殉教の死を遂げます。もし、パウロがいなければ、キリスト教はユダヤ地方の 限られた地域での地方宗教となっていて、今のような世界的な規模の大宗教には 発展しなかったのではないかと推測されます。(つづく)    眼我通信7号が出来そうです。「ゴッキの宇宙」も書き進みましたし、読書会の報告も 終わりました。あとは「思い」から時評を選べばいいのです。 詩「祈り」も出来ました。(「平和とは」の詩を推敲したものです)  今日は書き込みが進みます。雪のせいでしょうか?それともテレビの取材の影響なのかも しれません。坂東さんとの変な会話が、刺激になったのかも? 二月二十四日(木曜日)、夜6時55分からのCBC(5チャンネル) 「そこが知りたい、特捜!坂東リサーチ」暇な人は見てください。(2.2)
 ひきこもり関係の本を読んでいたら、ほとんどがすでに私が述べてきたことを 後追いするような文なのです。その本の表紙には「ひきこもり問題のバイブル」とも 書かれていました。全文を読んでないので、結論づけるのは早いかもしれませんが、 拾い読みした限りでは、新聞記者のルポとしては幅広く聞き取りしていて、評価できるの かもしれませんが、著者の意見がいま一つ常識的すぎる?気がします。 バイブルとは思われませんが、悩める人には一つの道を示してくれるかもしれません。 悩める人にはお薦めの本です。ルポ「ひきこもり」心の叫び、家族の絆 埼玉新聞社 ブックレット¥800。   眼我通信7号ができました。今年は出だし好調です。 今年は自己主張を積極的に、全面に出すつもりです。具体的には、 眼我通信も多くの人に読んでもらえるように考慮したいと思っています。 (2.3)
知人への手紙を記載します。  前略、インターネトで検索して同封の本を見つけました。 「全国引きこもり親の会」という組織があるのもインターネットの検索で知りました。 p138に全国の組織案内が載っています。 某君が「引きこもり」なのかどうか?愛知県にいる私では判断できませんが、推測 するに「引きこもり」に近い状態だと思います。コンビニやゲームショップに行くから 「引きこもり」ではないと判断するのは間違いです。不特定多数の人達の中で自分の 居場所を見つけられないというか、他者と交わることが怖い、出来ない人はいつしか 「引きこもり」になっていくのです。高校出てからが、いっそう困難になっていくと 思われます。同封した本・ルポ「ひきこもり」を読んでみてください。 家族全員で、ぜひ読んでください。体験談が書かれています。親が知恵を付けなくては 子を導けません。「引きこもり」関連の本を片っ端から読みあさるぐらいに、全力で 対処しなくてはいけません。図書館に行って本を探したり、本屋で探したり、でも インターネットが一番便利です。インターネットは出来ますか? インターネットカフェーが近くにあればそのようなところでも、検索できると思われます。 情報を持ち、それをふる活用して、対処してください。 後、カウンセリングに相談するのも、いいかもしれません。 ただ、良い先生に当たればいいのですが、中にはいいかげんな先生もいます。 その判断は自分の持ち合わせの知識と知恵で判断するしかありません。 まずは親が本気で「引きこもり」に立ち向かうことです。 「うちの子は違う」という、甘い考え、希望的観測は捨てるべきです。 現実を真正面から見て、対処してください。早々。         (2.4)
 息子の私立高受験が明日です。昨日も朝早くから塾で勉強してきました。 朝9から夜は10過ぎまでの特訓です。今日も特訓をするのかな?と思っていたら、 塾の先生から今日は勉強をしなくて、ゆっくりくつろぎなさいとの助言があったそうです。 さすが受験のプロは受験生の心理を見抜いています。前日にあせって勉強しても、 いい結果がでないとのことだと思われます。いままでの努力の積み重ねの結果の実力 なのです。自分の実力を信じ、平常心であたれば、難関私立高もなんのその、みごと 突破することと思われます。 朝、大きな声で歌を歌っていました。その後、散歩に出かけたみたいです。 私の受験時代とは違って、いたって息子の方が健全的です。 彼の勉強への姿勢は、身に付く(実力が付く)勉強方法です。これには感心させられます。 (2.6)
昨日、お客さんと話をしていたら、実はうちの弟も「引きこもり」なんです。 という話になりました。ニート(就労、勉学をしない若者)が60万人以上と以前 新聞に出ていました。「引きこもり」の数もかなりいると思われます。ニートで 「引きこもり」もいると思われます。これら社会に出て行けない、あるいは出ようと しない人達は表にあらわれない数も入れたら、百人に一人の割合程になっているかも しれません。わたしの身近に何人かいる事実を考えても、この社会現象は蔓延して います。原因はどこにあるか?いままでもいろいろと言ってきました。 情緒基礎論。西洋の言葉文化に対して東洋の「もの」文化、言葉文化に憧れすぎて 「もの」の豊かさを忘れたことからくる情緒不安現象。 居住変化がもたらす精神文化の変容。家庭崩壊、学級崩壊、親子関係の崩壊、うつ病・ 精神病などの増加、自殺者の増加、現象も多岐にわたり、それにともない原因も多岐に わたっていると思われます。一つの原因で起こっている社会現象ではありません。 現実を知り、身近な個々の事実から解決していくしか方法はないのかもしれません。  あるいはまったく逆で原因は案外一つで、現象が多岐にわかれているだけなのかも しれません。義務教育における教育方針の間違いが、大きな要因になっているのでは ないかと推測します。(2.7)
 義務教育において、文部省教育指導要領が与えた子供への間違った指導が、 国家の基礎をゆるがす元凶の一因といえるのか?という問題になります。 今の親が子供だった時代ごろから、学校教育が子供達をおかしな方向へ導いたのでは ないかと言いたいのです。家庭環境の変化も親子の有り様を変えた一因ですが、教育 の変容が最も大きな影響を与えたのではないかと推測します。 結果重視の偏差値教育が、目先の目標だけを目指す教育へと堕落させたのかもしれません。 情緒基礎論(私の造語)の時に語ったように、子供の視線で考える(待つ)教育を ないがしろにしたつけが、学級崩壊さらに、家庭崩壊へと繋がっていったのではないかと 思います。社会全体が価値観の変容をきたしたと言えるかもしれません。それらの弊害が 今の親から、子へと伝染病のように感染していったのだと思います。その結果、さらなる 害へとなって、その影響が大きな社会現象となって、日本全体を危機におとしめて いるのだと思います。ちょっと抽象的過ぎて、漠然としてしまいますが、細かく言い出すと それでけで膨大な時間を要することになります。それら個々の事に対してあまり興味がない 私としてはそれ以上は言及できません。私の興味は他にあり、そのことからの言及ならば できるかもしれません。  私の興味の対象は何かということになります。以前から言っていると思いますが、 宗教の問題、神の存在とはいかなる意味をもつのか? 信者としての疑問でもあり、またそうではない普通の人としての存在への疑問。 こんなことを書き出すと、みんな身を引いてしまいます。ああでもない、こうでもないと、 独り思い巡らすことが、楽しいのです。その思いを、ちょろちょろと事象にからめて、 あるいは物語として、小出しにすれば、興味のある人は共感してくれるのかもしれません。 私の脳の中に、膨大な宇宙が存在していて、それは脳内宇宙とでも言えばいいのかも しれません。その宇宙の解明と言うか、自分で納得できる何がしのものを私は望んでいるの かもしれません。自分の内面を探ること、自己探究が結局は他を知ることに繋がって いくのだとも思っています。脳内宇宙を探究すれば、外の宇宙をも探究することに繋がって いくのだと言いたいのかもしれません?この辺は不確かなものです。 漠然とした直感でしかありません。今日の書き込みは、いつもと違って、何を語っているか 理解していただけないような内容となってしまったかもしれません。 このような混沌とした思いを、例えば今書いている「ゴッキの宇宙」のような小説を通して、 語りたいのです。小説「サトルの冒険」「なにわともあれ村のアシカレ」、 その他の童話もそうです。書きたいことがあることが、まず大切なのかもしれません。さらに、 それを他者に対して、どのように表現として表わすかが、表現者として問われる問題 かもしれません。表現者は伝道者だというようなことを以前書いたと思います。 自己の思いをいかにして他者に伝えるか?伝えたいものが無いのに、表現はできません。 伝えたいものがあるから表現者なのです。私は伝えたいものがあります。だから書いているのです。 これ以上書くと、同じことの繰り返しになってきますので、今日はこれで終わります。 「ゴッキの宇宙」の書き込みに精を出したいと思っています。(2.8)
 ホームページ上の小説「ゴッキの宇宙」を非公開としました。眼我通信での発表を 重視したいという思いからです。もし、継続して読みたいと言われる方がいらっしゃれば、 お知らせください。個人的にお知らせする手段を講じますので、よろしくお願い いたします。眼我通信で毎回、「ゴッキの宇宙」を掲載していきますので、 そちらで楽しんでください。 (2.9)
 店にフリーペーパの雑誌が三種類ほど置れています。私の「眼我通信」を 入れると、四種類です。でも、私の「眼我通信」は他の三種類とは明らかに違います。 筆者が一人ということもありますが、それよりも内容がまったく違います。他の雑誌は 情報提供が目的の情報誌的色彩が強い物です。一種類同人誌が入っていますが、これも 発行人が強固な宣伝意識を持ちあわせた(私に言わせてもらえば)変な雑誌です。 それら三種類は、いろいろなお店に置いてもらっているのですが、私の個人誌 「眼我通信」はガンガーにしか置いていません。 「読みたい方はガンガーに来てください」といった考えが私にはあり、 「そんなに宣伝するものではない」という変な思いもあります。 縁があれば、読んでください。縁が無ければ、それはそれでいいのだとも思っています。 かといって、まったく宣伝しないわけでもないのです。店に来られたお客さんの中で、 興味がありそうな方にのみ宣伝しています。そうです、すべての人ではないのです。 おかしな話ですが、何というか?直感的に読んでくれそうな人にだけ宣伝するのです。 そうではない人にはまったく宣伝しません。自分の意思以外の、何かを私は信じている ふしがあります。信仰的には神ということになりますが、信じる信じないに関わらず、 神的なものが存在することを認めていて、それに委ねることで安心を得ているのです。 だから自分から宣伝しないことにも、別にこだわっていません。 「縁があればいいし、無ければないでいい」といった感覚です。 ですからかえって、宣伝重視の書き物などを見ると、違和感を感じるのかもしれません。 (2.10)
 昨日のフリーペーパについて、書き足りなさが残っています。情報誌としては 情報を提供することが使命であって、それはそれでいいのかもしれませんが、私見を 言わせてもらえば、あまりに無駄な情報が溢れているのではないかということを 言いたいのです。選ぶのは読者ですが、私はいらない情報までも、押してけられて いるような気がしてなりません。だから私はあまり読みません。でも、必要としている 人もいるのも事実だと思います。そのような人は読めばいいのかもしれません。 でも、もっと読むべきものは他にあるのではないかとも言いたいのです。作り手の視点が 問われるのかもしれません。  読書会での質問で、私がはっきりと答えられなかった問への返事が見つかりました。 矢内原忠雄・著「聖書講義」(ルカ伝補遺)P748に記載されていました。 神と天使、聖霊、人の関係です。聖霊は神の霊そのもの、これは三身一体論(神と聖霊と イエスは一体である)から聖霊と神は同一です。天使と人は神の被創造物であって、天使は 霊体をもって肉体をもたない、人は霊体ではなく、霊をやどす肉体をもっている。イエスは 神の子であって、神そのものなのです。一つの物が三つの形態をとることは、常識的には 理解し難いことです。神と聖霊とイエスは一つで、三体を意味するのです? 天使が聖書の記事に現われるのはバビロン捕囚以後であり、紀元前二世紀のころから天使に 関する観念が発達し、経外聖書(聖書に載せるには疑わしい記述書)には天使の記事が多い。 新約聖書では聖霊が主であって、天使は付随的であす。変に天使を重要視する書き物は 怪しんで読む必要があります。  息子の私立高の合格通知が来ています。難関の東海高校もほぼ間違いなく 合格です。手元に速達の封筒がありますが、開封できません。息子が自分で開けるので、 決して先に開封しないように、念を押されています。A4サイズの厚みのある封筒です。 妻に言わせると、落ちている場合は紙切れ一枚だから、薄っぺらくて、分厚いのは合格 しているから、いろいろな書類や振込用紙などで分厚くなっているとの推測です。 これには私も同感です。よって東海高校合格ということになります。やった! あとは公立高校の難関・旭丘高校です。でも、受験すべてに合格する可能性が濃厚に なってきました。これは私の勘です。  息子が帰ってきたので、さっそく開封しました。 やりました。東海高校合格していました!一つの目標は達成です。 あとは難関・旭丘高校です。息子はなぜか?内申で体育が2なのです。 オール5の人達が受験する高校で、内申が劣るのは、かなりのハンディなのですが、 これも実力で突破することでしょう。  来週、私の誕生日があります。プレゼントは何がいいか?聞かれたので、
一青窈(ひととよう)の「ハナミズキ」と賛美歌のCDを希望しました。質素なものですが、 謙虚に喜びたいと思います。(2.11)
 精神に病んでいると思われる知人の芸術家について書きます。 彼は内でも3回ほど個展をされています。いい作品を作るので、内の店でもファンがいます。 値段も手ごろで、買いやすいということもあります。最近連絡がとれないので、彼の家の 近くに住んでいて、彼の理解者の一人でもある陶芸関係の作家に電話をしてみました。 なにか辛くなります。一人の人間の人格崩壊を書かなくてはいけなくなることが・・・。 もう少し、時間を置きます。今聞いて、すぐに書くには、哀しい話になってしまいそうです。 ガンガーの店に入ってすぐ左下を見てください。彼の今となっては貴重なオブジェが 置かれています。何かを叫んでいるような、哀愁の漂う小作品です。親子関係の崩壊が 今の彼を形成したのだと断言できます。父親の一方的な押し付けと、母親の責任放棄? 才能はあっても生きる行き方を知らない子供のまま大人になってしまった悲劇です。 哀しくなってきます。救いの手を差しのべたいのですが、第三者がどこまで関われるか? 一番効果があるのが親による救いですが、彼の場合それは皆無のようです。 父親からは勘当され、母親は彼と関わりたくないようです。身近にいるおじいちゃんも すでにあきらめているようです。唯一関わっている人達は社会からドロップアップした 変な集団といえばいいのか?似た者同士で傷を舐め合っているだけのようです。 作品さえ作っていれば、店で売ってあげられるのですが、作品作りもいまは していないようです。生きていく目標も無く、ただ屍のような人生を送ることに なるのでしょうか?(2.12) 
 また起こりました。後を断ちません。次から次と少年による犯罪が起こってきます。 「引きこもり」の少年による、殺人事件。小学校に恨みがあったのか? 「こんな自分にしたのはおまえ達だ!」という責任転嫁。 先日、学校教育について書きました。教育の間違いが、今の社会で起きている陰湿な犯罪 の温床になっているというような論点で書きました。ニュースによると犯行の一時間前 に校門のインターホンで小学校時代に担任だった先生の名前を出し、尋ねたとのこと です。その先生に恨みがあったのかもしれません。たまたま、その先生は外出して いなかったそうです。事件後、その先生はその少年の名を聞いても、何も思い出せない と答えているそうです。そんなものかもしれません。正常?な人は気にもしないことを 異常行動をとる人は何気ないことでも気にするのです。何が正常かという問題も ありますが、ここでは常識に照らし合わせてとしておきます。 病んだ心は常識では理解できない行動をとらせるのかもしれません。このように病んで しまった心を癒すには、どのよういしたらいいのでしょうか?何度も何度もいいますが、 最終的には親の愛でしか癒せないのではないかと思います。  ゲーム少年だったそうですが、親のしつけが問題です。四人兄弟の末っ子だそうです。 小学校低学年でのゲームへの没頭は、いろいろな面において良くないことは親として 分かっていそうですが、放置していたのだと思います。親の言い訳など聞きたくもないと いった感じです。こんな親が蔓延しているから、このような犯罪が後を断たないのです。 親だけの問題ではないと言う方もいるかもしれませんが、違います。親の問題です。 学校や社会が間違っていても、親がしっかりとした価値観を持ち、子を育てれば必ずや 良い人間に育つはずです。親が回りに振り回されて、自分を見失っているのが、 現状だと思います。親の再教育から始めなくてはいけないのかもしれません。 私も一人の親として、子に恥じないような、常に輝いていられる人間でいたいと 思っています。「少年よ、大志を抱け!この私のように」(2.15)
 昨日の書き込みで、「常に輝いていられる人間・・・」と書きましたが、誤解の無いように 説明を加えます。「輝く」とは派手に目立つといった意味ではありません。与えられた 人生を、仕事をこつこつと真面目にこなしていくことも、りっぱに輝いていることなの です。自分を知り、「足れり」を知ることが「輝く」ことなのだと思っています。 「足れり」を知るとは自分を知りえた人の「幸せ」を意味しています。足りないことへの 不満を語るのではなく、「これで充分です」という自分の器を知ることが幸せに繋がる のだと思います。多くの人はこの「足れり」が理解できないのです。これは人生経験を 通してしか、理解できない領域だと思っています。挫折を経験させられ、その挫折から 逃げることなく、乗り越えられた人、あるいは耐え忍んで生き抜いた人だけが分かる 領域だと思います。「謙遜」や「足れり」、今の社会に一番欠けているものかも しれません。「謙遜」「足れり」はゲームの世界では知ることのできない貴重なものです。 これらは人との交わりの中で、つちかわれる経験から会得されるものであって、教えて 頭で理解されるものではありません。今は親が「謙遜」や「足れり」を経験から、 会得していない時代なのだと思います。これは大変な時代になってきたと思います。 (2.16) 
 知人から誕生日プレゼンとをいただき、驚きと感謝です。 さっそく彼女の誕生日プレゼントを考えてしまいました。   風が鳴る 心のひだを震わせ 想いの風が鳴る   あれから幾年   春を告げる風が 今も鳴っています   彼女の詩をヒントに連詩?を作ってみました。変な意味は含んでいませんので、 誤解のないように。  息子が公立高入試の終わった後、一人旅をするとのことです。試験の終わる日の翌日 三月十五日から合格発表のある前日二十二日までの間に、何日間で、何処に行くかは まだ具体的には決めてないようです。二十三日の発表がある日から入学式までの間に、 今度は妻と二人で瀬戸内の小島に行く計画もあります。自分で決めて、実行することは いいことだと思います。私はというと、毎日一生懸命働くことです。 父親の役目を全うすることが、子への一番の合格プレゼントです。(2.17) 

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