4月の「思い」

 四月になりました。眼我通信9号はまだ出来ていません。来週あたりになりそうです。 韓国との領有権でもめている「竹島」問題について一言。  国際法を大学で教えていらっしゃる先生にお聞きしたら、「あれは日本の領土です。 1905年に島根県が「竹島」を編入すると告知した時点で日本の領土になったのです」 ということなのだそうです。「韓国側は1905年は日本が朝鮮を植民地化する過程だった から、韓国政府は反論できなかった。日本の領有宣言は無効だという主張ですが」と私が 先生に問うと、「法律というのは、そうゆうものなのです。植民地化の途中などという 状況は関係ないのです。1905年に島根県が告知したという事実が重要なのです。 だから「竹島」は日本の領土なのです」と明言されていました。 某新聞で「竹島」問題で関連記事の年表に1945年のマッカーサー関係の記述で、 日本の領土?の範囲を規定した箇所にこの「竹島」が入っていなかった?と書かれていた ように記憶していたのですが、その辺をお聞きしたら、 「確かにそのようなことはあったが、日本国の主権を 侵害しないという前提があるので、それには効力がない?・・・」もっと深くお聞きした かったのですが、その日は特に忙しい用事があって、ゆっくりと話す時間がありません でした。(4.1)
 花粉症でコンディションがよくありません。今日は少し体調がいいみたいですので、 書き込みもできそうです。テレビ番組の「報道2001」で桜井よしこさんが 竹島問題で私が疑問に思っていたことを、彼女は的確に答えてくれました。多分彼女も その問題について疑問に思っていたから、その筋を調べて準備していたのだと思われます。 サンフランシスコ講和条約で韓国政府がアメリカ側に竹島を韓国領土と明記するように 強く要望した際に、アメリカ政府は「竹島は日本国の領土だから、それは出来ない」と その申込を拒絶しているのです。その経緯が書かれた書類がちゃんと存在することを 桜井さんは明言していました。先日(4.1)、常連の先生に質問した私の疑問点がこれで 解消されました。桜井さんは視点が鋭いです。韓国政府の言い分をみごとに粉砕する資料を 手元に置き、いつでも誰とでも論じる準備をされているのです。  竹島問題は韓国政府の都合による言いがかり的要素を含んでいますが、日本海の油田 問題は中国国家の侵略的行為であって、断固として政府は抗議すべきで、日本の企業にも 採掘権を与え、日本側も採掘すべきです。これらの事も桜井さんはちゃんと指摘して いました。彼女は立派な論客です。  メールによう聖書読書会 旧約聖書 「ルツ記」本文の前に(その一) 2005.4.3 眼我 真  時代背景を知る必要があるので、本文を読む前に多少参考資料として記述します。 聖書の目次を見ると、ルツ記の前が「士師記」(ししき)です。旧約聖書は古い時代から 順番に記載されています。士師は「さばきつかさ」とも呼びます。 意味は救出者、解放者です。古いギリシャ語訳聖書では「ルツ記」はこの士師記の一部に 加えられていたそうです。時代背景がこの士師記の時代だからという理由からだそうです。 研究者によって実際の書かれた時代はさらにかなり新しい時代だということが分かり、 今では士師記から離して、一つの作品として掲載されています。作者は紀元前五世紀後半 の時代の人ではないかと推測されています。それは記述内容からと文法(一部アラミ語 使用箇所)からわかるそうです。士師の時代はモーセの出エジプト(紀元前1230年頃)から ダビデ王の即位(紀元前1010年頃)の間、200年を指しているそうです。 ルツ記物語もこの200年の間の出来事として書かれています。  当時のイスラエルでは常識であっても、現代日本の我々が考えると不思議に思われる 制度があります。それがルツ記に出てくる結婚についての制度です。 イスラエルの古代法には兄弟婚という制度があり、夫が子なくして死ねば、その弟が 兄の寡婦をめとる義務があった。それから産まれる子が兄の家督を相続するのであって、 家族制度の維持のために作られた制度です。 この制度はイエスの時代にもまだ残っていたと思われます。 (新約聖書「マルコによる福音書」12章19節から27節まで参照)(4.3)
 韓国が日本の教科書検定で、竹島の記述に対して反論しています。この問題は日本と 韓国の二国間では、いつまでたっても平行線のままです。竹島問題を国際司法裁判所に 付託するように、韓国政府に呼びかけたらどうでしょうか?韓国の言い分と日本の言い分 どちらが正しいかを国際裁判所という第三者機関に委ねるのが一番公平です。以前も 同じように国際裁判所に提訴しませんか?と誘った時、韓国政府はそれを拒否しています。 おかしな国です。自分の言い分しか認めない偏屈な国は、困ったものです。中国も然りです。 1905年は占領下の途中だから、島根県の竹島領有告知は無効という、韓国政府の主張は 意味をなさないのです。何度もいいますが、法律というものはそうゆうものなのだそうです。 他国間の「竹島問題」と類似した領土問題でも、日本のように先に領有告知した方が裁判 では勝ちなのです。韓国政府も裁判になると負けることを知っているから、国際司法 裁判所に提訴しないのです。そのことを韓国政府は知っていながら、自国民にはそのことを 告げずに、歴史認識を曲げて教育して、国民を扇動しています。 正しい歴史認識をすべきなのは韓国民と、同じような問題を掲げている中国の方です。 両国ともおかしな国です。  1905年の島根県の告知は勝者側の理論ですが、法律の世界ではそれが正しい事 なのです。敗者の韓国にとっては悔しいさが残りますが、しかたのないことなのです。 歴史とはそうゆうものなのです。勝者の理論が正論となってしまうのです。 私が危惧していたのは、敗者側に立たされた第二次世界大戦後のサンフラシスコ講和条約 の内容でした。もしかしたら、その時点で、竹島は日本固有の領土から削除されては いないかということなのです。でもそれも取り越し苦労でした。 前日(4.3の「報道2001」)の桜井よしこさんの証言で確証を得ました。 アメリカ側が韓国の要求を退け、竹島を日本国の領土と明言されていることを知ることが できました。もう、はっきりしているのです。竹島は日本の領土です。 おかしいのは韓国政府と韓国民の方です。(4.6)
 米軍の再編問題で東アジアの拠点を日本に置く発想は、アメリカの日本への、期待の 現われだと思われます。一方、韓国の駐在米軍はかなりの減少となり、韓国政府にとって は自衛の軍備に力を入れなくてはなりません。韓国の反米感情、反日感情は国の自衛を 考えた時、大変なマイナス要素です。中国の拡張政策では、朝鮮半島は中国の支配下に 置くことは予定済みのことなのです。韓国政府、国民はそのことを熟慮したことが あるのでしょうか?もし、北朝鮮が崩壊でもしたら、中国が北朝鮮に進出してくることは、 明白なことです。そうなると38度線で中国と韓国の対立が始まります。 そのような時に、韓国にとって救け手となる国は何処なのでしょうか? よ〜く考えてみてください。 日本とアメリカに感情的嫌悪感を抱いている様な情勢ではないと思うのですが、 どうでしょうか?目先の支持率を上げることしか考えていない大統領を持った国は かわいそうです。それに扇動され、反日感情丸出しの国民も哀れです。混沌とした時代は 碁や将棋のように、先の先を読み、あらゆる手を考え、熟慮することが大切です。 小泉さんは口先だけの人ですが、最低限のことは彼なりに努力?しているように 見受けられます。目先の支持率のために、国民を扇動するような愚かな某大統領のよう ではなかったことはまだ、多少小泉さんの方がましかもしれません。(4.7)
 昨晩、流木アーチストの山根さんが来られました。売り上げが落ち込むと即、 身内から閉店の声が上がる現状では、私の精神状態も売り上げ落ち込みと連動して、 辛く落ち込みます。そんな時に山根さんと話しをしていたら、気分的に楽にさせられます。 ガンガーの存在意義を知らされます。出会いの場としてのガンガー、この場を維持する ことは意味のあることなのです。家族には経済的に辛い思いを強いますが、それは意味 あることなのです?自己満足なのかもしれませんが、誇りを持って店の営業に精を出し たいと思います。  先日お知らせした藤村記一郎さんのCD「すうがくソング」のキャンペーンとして ミニ・ライブをガンガーで行なうことが決まりました!  話しはさかのぼりますが、先月のことです。六月に藤村記一郎さんが行なう ミュージカルの広告案内を妻に渡していましたが、売り上げが良くないので、無駄な 経費と却下されるものと思い、広告を諦めていました。すると今朝、どうしてか?妻の方 から藤村記一郎さんのミュージカル「サルサとルルジ」のパンフレットにガンガーの広告を 載せることに賛同してくれました。暗黙のガンガー継続了解なのだと私は思いました。 ありがたいことです。重荷が少し軽くなりました。現実は何も変わっていませんが、昨晩 から変化が起こる予感があったのでしょうか?山根さんに藤村先生の話をしたことから 見えない糸が繋がっていたのです。私もやる気が出てきました。さっそく藤村先生に 電話して、広告の件と「すうがくソング」のライブ案を話すと、即答でOKが出ました。 ついでに、ガンガーで行なう「すうがくソング」ライブのチラシを、六月に行なう ミュージカル「サルサとルルジ」のパンフレットに入れてもらう話も、快く了解していた だけました。六月はこれで多少売り上げが上がることでしょう。 それまで、二か月がんばらなくてはいけません。どなたか売り上げを上げる何か良い案が あれば、ガンガーまでお知らせください。 画廊予約、コンサート予約などでもかまいません。ご一報をお待ちしています。  これで眼我通信9号の制作に弾みがつきます。「ゴッキの宇宙」は今回はお休みと いたします。その変わりに、メール読書会の報告と昨日山根さんと話していたときに 話題になった「アロンの杖」についての一考察?を掲載します。あと「竹島問題の結論」と 「ライブドアの終焉」についての予想を書きます。  まずは「アロンの杖」について、あれは二月のテレビ放送(坂東リサーチ)後の日曜日 だと記憶しています。クリスチャン(なぜクリスチャンと分かるかというと、食前の お祈りをなされていたのです)のお客さん6人が食事をされていたので、「実は私も クリスチャンです」と言うと、その中のおばあちゃんが「やっぱり!トイレのあの杖は アロンの杖ですよ。杖に蔦(つた)が付いていたもの!あれは聖書に出てくるアロンの杖 そのものです!」「はあ、そうですか」アロンの杖ね?口ではおばあちゃんの言い分に 感心しながら、「アロンの杖」に蔦が生えて、水のありかを差し示す箇所?が聖書の何処 だったか?思い出せません。おばあちゃんはそのことを力説していました。たしかに 内のトイレの手洗いの蛇口に流木を立てかけ、しかも以前(二か月前)の個展の時に 作者が忘れていった植物の蔦(つた)の模造品をそのまま流木に掛けたままにしてあった のです。忘れ物を流木に掛けていたのをおばあちゃんは「アロンの杖」と思い込み、 感動されていたのです。さっそくアロンについての箇所を読んでみましたが、蔦の記述 箇所がみあたりません。出エジプト記の17章二節から七節にでてくる有名な箇所に 水と「アロンの杖」の記事がありますが、蔦はでてきません。私も以前何処かで、 読んだ記憶はあるのですが?どの箇所だったかは思い出せません。出エジプト記には 「アロンの杖」がエジプト人への災いを招く箇所でよく出てきますが、蔦はでてきません。 さあ何処でしょう?新約のイエスの言葉の中だったかもしれません? おばあちゃんがまた来られることがあれば、蔦の記述箇所をお聞きしたいと思います。  以前、山根さんにはこの件についてお伝えしてありましたが、昨日も山根さんと その話になり、「不思議ですが、流木でアートをするようになって、人の思いとは別に 意外な出来事に出会うことがあるのです。まず、流木を選ぶのは私なのですが、いいなと 思っても拾わなくて、こんなもん使えないと思いながら拾ってきて、隅にわすれていた ような流木が、あるとき急に役立つような意外な出会いに、驚かされることがあるのです。 それぞれに役立つ時があって、その時が与えられるのを待っているのかもしれません?」 そんなことを山根さんは語られていたと思います。 トイレの「アロンの杖」も杖だけではダメなのです。蔦(つた)がなくてはダメなのです。 また蔦だけでも何も意味しません。蔦と杖が一体になっていないとダメなのです。 先日、私は意図して蔦をテープで杖に固定しました。 それまでは時たま、蔦が下に落ちたり、お客さんに外されたりしていたのです。 別々では意味をなさないことが分かり、固定をしました。これであの杖は確かに 「アロンの杖」になったのです。トイレの蛇口に掛けていたのも偶然ですが、不思議です。(4.8) これまた蛇口でなければ、おばあちゃんはきっと「アロンの杖」とは言われなかったと 思います。さらに私が自分から「クリスチャンです」と言わなければ、おばあちゃんは 自分で一人心の中で思っているだけで、口に出してみんなの前で「あれはアロンの杖です」とは 明言しなかったかもしれません。この「アロンの杖」事件では、すべてが人の思い以外の 何かしらの力が働いて起こった出来事のようにも受け取れます。 クリスチャン的にはそこに「神の業(わざ)」が働いたと言いたいのですが、 いかがなものでしょうか。 偶然の積み重ねですが(大げさですが)奇蹟とは、このようなことかもしれません。 (余談ですが、おばあちゃん達は坂東リサーチの番組を見て店に来られたのでした。) (4.8)
 昨日は「アロンの杖」でした。今日は「ライブドアの終焉」を予測します。 昨日の新聞でニッポン放送株の低下でライブドアは57億円の含み損を出したと書かれて いました。一ヵ月で57億円の損失はライブドアにとっては致命傷に近い損出です。 これから毎月60億近いか、あるいはもっと多くの損出となれば、本丸のライブドアその ものが危なくなってきます。北尾氏はこれを待っていたのです。大人の対応とは彼流に 言えば「堀江さん、撤退しなさいよ!」ということなのです。何が正義かは立場の違いで 変わってきますが、北尾さんは自分が正義と思われている節があります。したたかさは 堀江さん以上だと思われます。村上ファンドの村上さんも今回は北尾さん側に付きそう です。終焉が見えてきました。あとは如何に善い条件を引き出すかに移りますが、北尾さん はしたたかです。下手をすれば、ライブドアそのものを買収してしまい、堀江一派を ライブドアから追い出すかもしれません。堀江さんは勇気ある撤退を、もっと早く やるべきでした。北尾さんが名乗り出たとき、週始めの会談を一方的にキャンセルしたのが、 致命傷だったかもしれません。会っても同じだったかもしれませんが、相手の顔を立てる という意味では意義があったと思われます。「ヘビのように聡く、ハトとように素直に」 欠けたるを補う人が回りにいることが大切なのです。 ソフトバンクの孫さんには北尾さんなのかもしれません。(4.9)
 中国で反日デモが大規模に行なわれたみたいです。マインドコントロールされ安い 国民は暴走しだすと、収まりません。北京オリッピクで不祥事が起こらなければいいがと 思う反面、起これば起こったでそのことを旨く利用できるかもしれないという姑息な 気持ちにならなくもありません。中国の最大の弱点がこの扇動されやすい大衆かも しれません。国家の歯止めが利かなくなった時、何が起こるか?アメリカもそのことを 考慮しているものと思われます。政治的不安定要素を抱えた中国は危険がいっぱいです。  ヨハネ・パウロ2世が死去されましたが、あまり興味がないので書き込みは控えます。 大阪の新興宗教の創始者が少女への性的暴行で逮捕の記事もあまり興味ありません。 ただ、彼は韓国名をもつということを考えた場合、陰謀めいた推理小説が出来そうです。 でもそうではなく、ただ信仰を隠れ蓑にして自己の欲望を満たしていただけの詐欺師 だったということです。常識を持って、彼の話をきけば、おかしいと気付くはずです。 テレビ・ニュースで彼の講演の一部が流れていましたが、おかしなことを平然と言って いました。物事の善し悪しがちゃんと判断出来ない大人がだまされるのです。 信仰問題というよりも、振り込めサギと同じ次元の問題です。(4.10)
おばあちゃんが言っていた「アロンの杖」の記述箇所を見つけました。 民数記第17章1節〜11節に「アロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、 あめんどうの実を結んでいた。」 「アロンのつえを、あかしの箱の前に持ち帰り、そこに保存して、そむく者どもの ために、しるしとしなさい。・・・」さらに 第20章2節〜11節につえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たと記されています。 あのおばあちゃんは17章のあめんどうの実の出来事と、20章の岩を打って水を出した 出来事の二つを指して、店のトイレに立てかけてあったあの杖を「アロンの杖」と 表現したのだと思われます。アロンの杖はそむく者へのいましめのしるしとしての 意味があるようなのです。神の存在を表わす印としての杖なのです。 ガンガーのトイレに置かれた杖にも神の存在を表わす印としての類似性があるのでしょうか? それは多分ないでしょう。偶然が重なっただけのことで、純粋な信仰心から起こった 出来事ではないのですから、でもあのおばあちゃんは自分の信仰心の発露(はつろ)と してあの杖を「アロンの杖」発言をされたのです。おばあちゃんにとっては実に信仰的 な出来事なのかもしれません。私もこの杖を見る度に、神への信仰心、悔い改めの心を 思い起こされるとなれば、それはそれで価値のある杖ということになります。    メール読書会「ルツ記」 第一章1節から22節まで(その二) 眼我 真  本文に入ります。「さばきつかさ」(士師)とは解放者、救出者の意。 ユダのベツレヘムとはイエスが馬小屋?で生まれた土地、あのベツレヘムです。 (余談ですが、馬小屋とは聖書には明記されていません。後世の人が飼い葉桶のある場所 から連想して馬小屋と解釈してしまったと思われます。) モアブは死海(塩分濃度が高い湖)の東側の国、イスラエルの宿敵地、イスラエルからの 亡命者がよく逃げてきた地。ナオミはベツレヘムのエフラタという地方の出身で イスラエル(ユダヤ)人です。その息子嫁のオルパとルツは異邦人(ユダヤ人以外のすべての 人を異邦人と呼びました)のモアブ人でした。イスラエル人とモアブ人は信仰する神が 違っていたのです。11節「あなたがたの夫となる子がまだわたしの胎内にいると 思うのですか。・・・」イスラエルの古代法にある兄弟婚(前回説明)を指しています。 オルパは口づけして去っていきますが、ルツはナオミから離れませんでした。 16節「あなたの神はわたしの神です」モアブ人であるルツはイスラエル人のナオミと 同じ神を信じると明言しています。ここがオルパとの違いだったのです。聖書の中に 「ルツ記」のように個人の女性名を掲げた書き物は他にありません。 聖書の中でルツという女性がいかに重要視されているかということの証です。生まれ 育った国の神を捨て、義理の母親が信じる神をも信じ、どこまでも付いていく決意に ルツという女性の意思の強さを感じると同時に、ナオミという女性の人柄、信仰心が ルツを引きつけさせていたのかもしれません。目に見える幸福を追うのではなく、 信じることによる「しあわせ」と言うものがあるといえばいいのかもしれません。 (4.12)
 今朝の新聞から「杉原千畝(ちうね)」翻訳本「遺族を侮辱」。 第二次大戦時のリトアニアで、6000人に上るユダヤ人難民にビザを発給、ナチスの 迫害から救った外交官杉原千畝の伝記本についての遺族(妻)と出版元との争い事です。 遺族の名誉棄損は認め、50万の罰金がいいわたされましたが、出版差し止めは却下され ました。著者の米ボストン大のヒレル・レビン教授が著わした本「千畝」に 「自分がしった激励したから、夫も正義の側に踏み切れたなど、死者が弁明できない今に なって、事々しく書き立てるのは、あまり奥ゆかしい態度ではない」と、あとがきに 書かれているそうです。二年ほど前でしょうか?私もこの奥さんの新聞発言に違和感を 感じ、死者の行為(千畝さんの行為)に泥を塗るような発言だと、苦言を書いた記憶が あります。あれは多分、イスラエル軍がパレスチナ人を無差別攻撃した出来事に対して、 千畝の奥さんが「大戦でユダヤ人を救ったことは間違いっだったのかもしれない」 このように言われたからです。ユダヤ人を救わなければ、現在のパレスチナ人への殺戮も 起こらなかったという、短絡的発想です。愚かな遺族です。著者のレビン教授の遺族への 指摘は当たっているのです。50万円の罰金は痛いですが、世に遺族の愚かさを問うた ことは意義があったと思います。(4.14)
 日本海のガス田についての新聞記事が目に止まりました。 この問題も竹島と類似しています。国境線を明解にしていないことによる中国の暴挙を 黙って見ていた日本国、いまになってこれは大変とやっと尻を上げ、抗議をし出したの ですが、中国の言い分は竹島問題での韓国政府の言い分と同じレベルのこじつけに すぎません。現在の国連海洋法では根拠がありません。 大陸棚を領海という中国主張は過去(1969年)の国際司法裁判所による海洋法判例 (旧大陸棚条例による)を取り上げているにすぎず、1994年に発効 された新しい国連海洋法条例では、この大陸棚条例は改められたのです。そのため 「大陸棚を主張できるのは排他的経済水域(EEZ)の200カイリまで」という 日本が今主張していることも国際法上根拠が充分あるのです。現に、中国はベトナム との間ではこのEEZを画定した海域が実際あり、その境界線はほぼ両国の中間線で 合意しています。ベトナムとはEEZで合意でき、日本とはEEZで合意できないと いうのは、おかしな話です。ただし、ベトナムは相当粘り強い交渉を行なったようです。 日本政府はベトナム以上に粘り強い交渉を継続していかなくてはいけません。日本とは 過去の苦い戦争体験があるので、中華思想を根底にした中国政府とは話し合っても解決 できないかもしれません。それこそ国際司法裁判所に両国で提訴すればいいのです。 でも、これも多分無理だと思われます。中国側が提訴を拒否することは明白です。 中国と日本の一対一の話し合いでは解決ができないとなると、さあどうするか? それを考えるのが政治家の仕事です。有能な政治家が現われることを期待したいです。  こんな風に言いたいことを書き連ねることは楽なことです。 そんなことよりも、私のやるべき仕事を他にあります。 まずはそれをやらなくてはいけません。重荷がずっしりと心にのしかかってきます。 家族を守ること、ガンガーを守ること、信仰を守ること、文筆活動を守る?などなど です。(4.15)
 新聞の記事から一言書こうかと思いましたが、事象に追い回されて 自分の使命を忘れてしまいそうです。よって新聞の記事についての進言をしばらく 辞めることにしました。  昨日、古くからの知人が店に来られました。いま店の展示は身内の家族展になって います。妻と息子はいつもの(店で何度も展示した)絵を掲げ、私は常連さんの要望で 未公開作品を数点展示しています。その知人は自分も絵を描く人で、絵の批評においては 私も一目おいている人物です。彼が私の(ガンガーでは)未発表作品を観て、事細かく 誉めていただけました。いままでも他の展覧会で他者に「いい絵だね」とか 「きれいだね」という漠然とした誉め言葉はいただくことはあっても、どこがどうで 善いのかをちゃんと伝えてくれた人はいませんでした。そうなのです。 私の絵は私だけの独特な世界を表現しているのです。文章と同じく、その良さが いま一つ広く世間に知れ渡らないのです。でも、少なくても認めてくれる人がいることは 嬉しいことです。その人達のためにも絵と文章とカレー作りと頑張りたいと思います。  神に祈りながら日々暮らすことのある意味、幸せを感じています。自分のいたらなさを 祈ることで、神に私のいたらなさを改善していただきたいと想うのは、ずる賢い逃避 なのかもしれません。力を与えてください!この世を生き抜く力を与えてください。 自分の弱さを知り、その弱さを祈りで訴えることで幾分かの安らぎになるのなら、 それも一つの「救い」の現われなのかもしれません。(4.16)
 新聞の記事から一言書こうかと思いましたが、事象に追い回されて 自分の使命を忘れてしまいそうです。よって新聞の記事についての進言をしばらく 辞めることにしました。  昨日、古くからの知人が店に来られました。いま店の展示は身内の家族展になって います。妻と息子はいつもの(店で何度も展示した)絵を掲げ、私は常連さんの要望で 未公開作品を数点展示しています。その知人は自分も絵を描く人で、絵の批評においては 私も一目おいている人物です。彼が私の(ガンガーでは)未発表作品を観て、事細かく 誉めていただけました。いままでも他の展覧会で他者に「いい絵だね」とか 「きれいだね」という漠然とした誉め言葉はいただくことはあっても、どこがどうで 善いのかをちゃんと伝えてくれた人はいませんでした。そうなのです。 私の絵は私だけの独特な世界を表現しているのです。文章と同じく、その良さが いま一つ広く世間に知れ渡らないのです。でも、少なくても認めてくれる人がいることは 嬉しいことです。その人達のためにも絵と文章とカレー作りと頑張りたいと思います。  神に祈りながら日々暮らすことのある意味、幸せを感じています。自分のいたらなさを 祈ることで、神に私のいたらなさを改善していただきたいと想うのは、ずる賢い逃避 なのかもしれません。力を与えてください!この世を生き抜く力を与えてください。 自分の弱さを知り、その弱さを祈りで訴えることで幾分かの安らぎになるのなら、 それも一つの「救い」の現われなのかもしれません。(4.16)
 前日(4.14)の杉原千畝さんの伝記本についての控訴事件の書き込みの関連記事です。 2002年四月十二日の書き込みのコピーを以下に記します。  今日の新聞に「勇気ある撤退を」(「命のビザ」杉原氏遺族)という記事が書かれて いました。その内容に気になるところがありましたので、一言。ナチス・ドイツの迫害 からユダヤ人難民にビザを発給し、6000人の命を救った故・杉原氏の遺族がシャロン 首相に親書を送ったとのことです。そのこと自体は何もいうことはありませんが、内容の 一部が書かれていて「主人の書いたビザはあれで良かったのか、書かなければ良かった のかもしれないなどと悩まざるをえません」とありました。何を言わんやです。 本末転倒です。ご主人は墓場の影でこの言葉にさらなる孤独感を感じていらっしゃる ことでしょう。人の命の価値など誰にも決められないのです。故・杉原氏は当り前の ことをされただけです。ただ、その当り前が出来ない状況で自己の良心に従いビザを 発給されたのです。尊い行為です。その遺族が命の意味を理解することなく今の状況 から「あのユダヤ難民を救わなかったらよかった」などというのは情けないことです。 故・杉原さんの行為を愚弄する発言です。 それを遺族が言われたとは情けないの一言です。(2002.4.12)  杉原千畝記念館の初代館長はあの悪名高い?鈴木宗男さんだったと記憶しています。 館長を襲名してすぐにあの汚職?事件が発覚して、館長を辞任されたのは何か因縁めいた 気もします。記念館を建てた意図は何っだたのか?遺族の暴言を思うとき、千畝さんの 想いとは違うところにあるような気がしてなりません。残念な気持ちにさせられます。  今朝の早朝たまたまテレビを観ていたら、イスラエルの現地で旧約時代の幕屋 (まくや)を再現した建物を使って、日本人観光客を引き連れた祭司が解説していました。 縦横100キュビット、44キュビット(44m、22m)の幕屋敷地内にはイスラエル人 しか入れず、聖所には祭司だけ、その奥の至聖所には大祭司だけが年に一度だけ入ります。 幕屋の外の壁は黒山羊の皮で作られていて、湿度に反応して黒山羊の皮が膨張、収縮を 繰り返すそうです。自然の知恵をいかしています。幕屋の中には、明り用の七つの首を 持つロウソク立て、12個(イスラエルの部族数)のパンを置くテーブル。ヨハネ伝を 引用して「わたしは世を照らす、光です」「わたしは血であり、肉である」?・・・。 これらはイエスの型なのです。型とは原形とでも言えばいいのでしょうか? (時間が無くなったので、続きは明日。)(2005.4.17)
 パソコンのプリンターがおかしくなりました。修理するよりも買ったほうがお徳です と言われましたが、すぐに買うのに先立つものが?ちょっと時間をおいてから対処 したいと思います。誰か?いらなくなったプリンターをお持ちの方はいませんか? お安く譲ってください。藤村先生のライブと展覧会の案内をそろそろ作らなくては いけません。プリンターがないと・・・。  メール読書会 旧約聖書「ルツ記」 (その三) 眼我 真 二章 参考資料 イスラエルの古代法では、収穫の際には、貧しき者と異邦人のために落ちこぼれた稲(落穗) を残しておくべきことが定められて居た(レビ記19の9参照)。 有名なミレーの描いた絵画「落穗拾い」はこのことを題材にしています。  麦刈は四月に、男の奴隷が先ず刈り進み、その後から女の奴隷が束ねていく。 従ってルツは女の奴隷の束ね落ちた穗を拾っていたわけです。  ナオミの亡くなった夫エリメレクの一族で、とても裕福な親戚ボアズが出てきます。 (ユダヤの言い伝えによると当時ボアズはすでに80歳、ルツは40歳であったとも 言われています。真偽のほどはわかりませんが、かなりの年齢差があったのは確か かもしれません。)今日はいろいろとあり、充分な時間がとれませんでした。後日 もっと書き込みたいと思います。(4.20)
 プリンターを買いました。以前のプリンターに比べると驚くべき進化です。印刷時の 音が格段に静かで、しかも早くてきれい、しかも安い、もう言うことありません。  書き込みたいネタは沢山あるのですが、新聞記事を私なりに解釈して、斬新な切り込みを することは別に難しい事ではなくて、安易な方法なのです。そんなことよりも新しい物を 産み出すことの方が重要だと思われますので、創作活動に専念します。使命をもって、 根気よく創作を続けることは意義のあることです。自信を持ち、強い意志で自己主張を していきたいと思います。そこに神の導きがありますように、祈りながら創作していき たいと思います。  蒼生舎通信の読者で吉田さんという方が先日から店に来られるようになりました。 以前から、私の書き物のファンだそうです。嬉しい限りです。「サトルの冒険」その後の 「なにわともあれ村のアシカレ」と毎回楽しみにしていらっしゃったそうです。 嬉しい限りです。饒舌な方なので、話だすと時間があっという間に過ぎてしまいます。 吉田さんのことはこれから、少しづつ書いていきたいと思います。息子の高校の先輩に あたるとのことです。雑誌関係の仕事をされていたみたいです。明日はメール読書会の 日です。明日、新たに「ルツ記」を読み、感想を発信したいと思います。新鮮な気分で、 日々新たに産まれ変わるつもりで何事もこなしていきたいものです。私の好きなテレビ 番組「こんな恋のはなし」の再放送が今日終わりました。何時観ても泣けます。 真田広之さんの演技が光っています。いつかこのビデオを手にいれたいと、物欲のあまり 無い?私が思うほどのいい話なのです。あと一青窈の新曲「影踏み」も手に入れたいと 思っています。案外、無い無いと言う人にかぎって、かえって物欲があるのかも しれません?要注意です。(4.26)
メール聖書読書会「ルツ記」その三 眼我 真  二章1節から13節まで。    男手のないナオミにとって嫁ルツの稼ぎだけが生活の糧だったのです。 2節のルツの言葉に「だれか親切な人が見当たれば、わたしはその方のあとについて 落ち穗を拾います。」とあります。すべての地主が落ち穗拾いを許可していたわけでは ないようです。親切な地主がいれば、落ち穗拾いができたのです。イスラエルの古代法 にある「落ち穗拾い」には強制力はなく、地主の判断に委ねられていたのだと思われます。 ルツは偶然?ナオミの亡き夫の一族で、とても裕福な親戚ボアズの畑で落ち穗拾いを することになるのです。「偶然?」だったのか、信仰的には神のお導きだったと 言いたい気分です。ルツが落ち穗を拾っていたとき、たまたま地主ボアズ の目に止まり、ルツはボアズから声を掛けられるのでした。その前に、ボアズは現場監督 にルツのことを聞き出していました。監督者は「・・・彼女は朝早くきて、今まで働いて、 少しのあいだも休みませんでした」とボアズに告げます。彼女のひた向きな真面目さが 8節からのボアズの言葉を引き出したのだと思います。何事も、ひた向きな真面目さ というものは大切なことです。10節にこのボアズの配慮ある言葉に対してルツは地に 伏して、拝しながら見ず知らずの地主ボアズに言います。「どうしてあなたは、 わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。ボアズは答えて 「(噂で聞いていたこと語る)、どうぞ主があなたのしたことに報いられるように。 どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身をよせようとしてきた 主からじゅうぶんの報いを得られるように」噂が本当だとルツの働きぶりから推測した ものと思われます。ルツは言った「わが主よ、まことにありがとうございます。 わたしはあなたのはしため(奴隷)ひとりにも及ばないのに、あなたはこんなにも わたしを慰め、はしため(奴隷)にねんごろに語られました」 謙虚な言葉使いからもルツの性格の一面が伺え知ることができます。 これらのルツの語る言葉の節々から溢れ出る信仰心が、ボアズの心を打ったのだと 思われます。ボアズの言葉に「・・・あなたがその翼の下に身をよせ・・・」と あります。昔、恩師から頂いた本に「御翼の下に」という題名が付いていたことを 思い出しました。神の翼の下に身を寄せることが、信者の非難所なのかもしれません。 ルツは親戚の富豪ボアズの翼に守られながら、落ち穗を拾うことができることで、 自分とナオミの身の安全を確信したことと思われます。ひた向きに生きる姿は見る人が 見れば、見る側に感動を与えるのです。ルツの姑ナオミへの孝行がボアズに熱い感動を 与えたのだと思われます。私たちも結果を気にすることなく、信じるところの思いに 従って、ひた向きに生きていきたいと思います。(4.27)
 今日は妻の誕生日です。息子はジョンレノンのCDを祝いとしてプレゼントしました。 私の誕生日プレゼントは息子に任せました。息子が今朝から学校行事の一貫として 京都の知恩院に一泊二日の研修?旅行に行くので、ついでに京都で誕生日プレゼントを 買うようにお金を少し渡しました。さあ何を買ってくるやら?(4.28)
 今朝の早朝テレビ番組から。映画の題名は分かりませんが、主人公の名前はサイモン、 その友人がジョーです。成長が止まった(小人)少年サイモンの出来事を、友人のジョー との友情を絡ませた感動の作品です。途中から見たのですが、泣けます。 自分は「神の道具」と確信を持ちながら、現実とのギャップに戸惑いを感じていたと 思われますが、神に問いかける信仰心あふれるサイモンの健気(けなげ)な生き様に 共感をおぼえました。使命を持っていることを感じながら、その使命とはいかなる 使命なのか?神に問うこと、信じることの大切さをサイモンの最後の出来事を通して 表現していたと思われます。ジョーが大人になって、自分の息子に亡き友人サイモンの 名を付けていたことを知らされ、救われた思いでした。人の「死」は終わりではなく、 「継続」の始まりなのかもしれません。以前私が作った詩に「不死のスクラム」という 詩があります。私の小説「サトルの冒険」の原点にあたる詩です。 この「不死のスクラム」は過去、現在、未来が継続していること、「死」もその継続の 一つであることを表わしているつもりです。  同じく今朝のテレビ番組で一青窈さんが生で新曲「影踏み」を歌われました。さっそく’ ビデオに録画しました。「やった!」。作詞はいつものようにご自分でされたようです。 亡き母親を思い出しながらの作詞です。この歌も過去、現在、未来の継続を歌っている ようです。亡き人を想うとき、決して終わってはいないのです。私の内にも亡き父が 生き続け、いつも父に、そして神に問いかけます。その問の答えは、目に見えない形で 私に返ってきていることを、私は確信しています。 一青窈、サイモン、これら純粋な魂は人に感動を与えます。私も純粋な生き様、作品を 残して行きたいと思いました。(4.29)

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