2005年6月の思い

 

 まずは聖書読書会の報告をしなくてはいけません。 飛び入りが二人ほどいましたので、少し新鮮でした。 新約聖書「ルカによる福音書」五月二十二日(日曜)(その九) 三章1節から38節まで。一節の説明はすでに矢内原忠雄全集の資料でいたしました。 当時のローマ帝国の皇帝の名を明記して、ルカのこの書き物が史実に沿ったものである ことを証明するために、あえて皇帝の在位とか当時の領主、大祭司の名を列挙したものと 思われます。四節の言葉は旧約イザヤ書40章からの引用です。メシア(救い主)の 来る前に、エリア(予言者)があらわれるという、旧約からの教えに沿うものだと いうことを言いたいのです。七節ヨハネの群衆への強烈な言葉で始まります。 「まむしの子らよ・・・」バプテスマ(洗礼)を受けにきた群衆にたいして、 心から悔い改めなさい!形式的にバプテスマを受けてもだめですよ。斧が置かれ、 いまにも良い実を結ばない木は切られ、滅ばされますよ、と群衆に警告をするのです。 11節(メール読書会でも書きました)旧約「ルツ記」でボアズの行為の説明のときに 「乞食(こつじき)」をもって説明しました。なぜ「乞食」の例を出したかといえば、 日本人には分かりやすいと思えたからです。仏教精神にキリスト教を接ぎ木してもいいの ではないかという思いも私にはあります。内村鑑三は「武士道にキリスト教を接ぎ木 する」と言いましたが、私は「仏教精神にキリスト教を接ぎ木する」と言いたい気持ち です。まさしくこの11節がこの乞食(こつじき)そのものです。施すことの宗教的な 意味を具体的には諭していませんが、救いに預かるにはどうしたらいいかを分かりやすく 説いています。結果的には仏教のいうところの「施し」と同じことだと思います。 (新約「マタイによる福音書」6章2節から4節参照) あと13、14節と当り前のことを言っています。当時はその当り前のことがなされて いなかったことを意味しているのです。政治も行政も、宗教までもが腐敗して、堕落して いたことを暗示しています。16節「・・・聖霊と火とによって・・・」ヨハネは水を もってバプテスマを授けるが、イエスは聖霊と火をもって授けるのです。聖霊は神の 意思の表われであって、火は裁きです。ヨハネのバプテスマは形式的であって、象徴的 な行為ですが、イエスのバプテスマ(洗礼)は魂の救いと罪の滅びをともなった現実的な ものなのです。17節は9節の斧を振るうのはイエスですよ!ということを別の例で 語られています。ヘロデは異母兄弟ピリポの妻ヘロデヤを奪ったことで、ヨハネに責め られていた。21、22節はマタイ、マルコ、ヨハネの各福音書にも類似の記事が掲載 されています。この出来事がイエスに神の子としての使命を自覚させたのだと思います。 ここからイエスの伝道が始まります。23節にイエスの年が30歳だということとイエスの 系図が始まります。「マタイによる福音書」の最初の系図との違いを比べるとおもしろい かもしれません。マタイではアブラハムから始まり、イエスへの系図で母親の名も所 どころ明記されていて、メール読書会で読んでいる旧約聖書「ルツ記」のルツもボアズと いっしょに記載されています。  メール読書会  旧約聖書「ルツ記」(その八)四章1節から6節まで 6月1日 眼我 真  ボアズはルツに語った通り、実行に移します。当時は城壁に囲まれた中に町があり、 門を通って人々が行き来をしていたものと思われます。「あがない人」としてボアズより も近い親戚に声をかけ、長老十人を招いたと書かれています。「あがない人」を決定する ときにそれが正しくなされたかどうかを判定する立会い人が必要だったと思われます。 彼はいったんは「わたしがあがないましょう」と言いますが、その親戚はボアズとルツの 詳しい事情を知ってはいなかったようです。ルツをも買うことをボアズに指摘され、 彼は自分の財産がルツを迎えることで、減ることを恐れ、辞退します。「ルツを買う」 と明記されています。あがない制度では女性は奴隷のように売買の対象だったようです。 今と違い、この時代は人身売買も普通になされていたのです。(6.1)
 恩師からいただいた本の批評を恩師に知らせるべきかどうか?娘の書き物を厳しく 批判している私の書き物をご夫妻が読まれたら・・・。私の本意をちゃんと読み取れる だけの度量がおありになるかどうか?疑問です。表面的な言葉をあげつらって、批判の 批判をされるが落かもしれません。全ては、神のみ旨と信じている私としては、どうでも いいことの一つです。娘の本を自慢するおじいちゃんとおばあちゃんに、いやそうでは ないですよ!なんて波風をわざわざ立てる必要がどこにあるというのでしょう。 神のみ旨に従います。アーメン。(6.2)
 ミュージカル「サラサとルルジ」が盛大に、無事終わりました。 藤村先生関連のお知り合いがたくさんガンガーにも来てくださり、土・日曜日と関係者で にぎわいました。ありがたいことです。いつものことですが、忙しくなると何かと サービスの点で行き届かないこともあるかと思いますが、最善を尽くしているつもりです ので、よろしくお願いいたします。今朝の朝日新聞に「数学のプロ、音楽のプロに」と いう見出しで、藤村先生の記事が大きく取り上げられていました。ガンガーでのライブも 掲載されていましたので、朝からライブの問い合わせがありました。効果抜群です。 これらの効果はガンガー存続への残された道を開拓する指針を示されているような気が します。一人よがりの努力では限界があります。多くの人に支えられ、生かされなくては 店も人もダメになってしまうのかもしれません。心を開放しなくてはいけません。 心の開放には音楽、絵、文章、会話、など手段はいくらでもあります。手段と同時に 目的がはっきりしていることが大切なのです。藤村先生は「平和」を音楽や絵を通して 問いかけていらっしゃるようです。  恩師から頂いた本についての私の批評は、まだ自分としては不十分さを感じています。 私の本意が伝わっていないのではないかと推測されます。もう一度丁寧に私の内にある 「思い」を書き連ねてみたいと思います。どこまで私の違和感を読者に伝えられることか? 忠実に再現しながら問題点を検討してみたいと思います。 恩師のお宅を伺うのは一年ぶりほどだと記憶しています。一年前には常々書き物をお持ち して読んでいただいていました。(つづく)(6.7)
 新聞の記事から『人は何歳まで生きられるか?』「地球上の生き物は、激しい環境変化に 対処しながら進化してきた。ある環境に適応した個体が長く生き続けるようになると、 遺伝子の多様性がなくなり、大きな変化がきた時、種全体が絶滅しかねません。個々の 細胞が自ら死ぬことで個体の生命を維持しているように、私たちも限りのある命を生きる ことで、もっと大きな種の連続性を保っているのです。」大きな環境の変化に対して、種 として適応するには寿命が長くてはいけないのです。人でいえば125歳が最長だという ことです。これは種の保存から、長い年月をかけて遺伝子が作りだした摂理なのです。  不思議な感覚です。ここから聖書の話と先ほどの新聞の寿命記事を絡ませて書きます。 アダムとイブが楽園・エデンの園から追放され、人類に死が与えられた。 楽園においては環境の劇的な変化は無く、人は死を知らずに生きていた。ヘビの誘惑に負け、 罪が人に入り、罰として死、労働の苦しみ、出産の苦しみなどが与えられ、楽園を追放され るのです。逆に言えば、環境の変化(楽園からの追放)が結果的に人類に死、労働、出産苦を 与えたと言えなくもありません。環境の変化に対応するために、進化をしてきたとも 言えます。しかし、進化は普遍とは相容れないものです。進化がもたらしたものは、 良いことばかりではなく、諸刃の刃のように、他方として滅亡の危機ももたらしています。  普遍の園・エデンは進化もなければ滅亡も無く、時は止まっていて、すべてが普遍なの です。エデンを追放された人類が生き残る道は、寿命を縮めて、環境に適応していく道 だったのです。(アダムとイブの話をどのように解釈するかは別にして、聖書の記述に 基づいて話は進めます。)  創世記五章5節にアダムの寿命は930歳と記されています。人の寿命が次第に短く なってきたことは、旧約聖書を読んでいけば分かります。旧約聖書の中程に記されている 「ヨブ記」によると、ヨブ記42章16節にヨブの寿命は140歳となっています。 イエスの時代はもう少し短くなって、現在と同じ寿命感覚だったと思われます。 これは偶然なのか?単なる私のこじつけなのか? 聖書では寿命がアダム930歳、ヨブ140歳と次第にイエスの時代に近づくにしたがい、 寿命が短くなってきています。環境の変化に適応するために、寿命を短くしたという新聞の 記事と不思議と一致しています。何かを象徴、暗示しているのか?推理していくと、 いろいろな物語が生まれてきそうです。このようなことからも、聖書という書物に興味が 湧いてきます。(6.13)
 「自分が変わらなくては、まわりの環境も変わらない。」 以前から私が言い続けていることの一つです。ガンガーの店の危機に対して、私自身が 変われるかどうかです。「変わる」とは、突拍子なく変節することではなく、いままでの 自分が培った経験を生かし、その経験を人に伝えることで、人と人が繋がっていき、その ことで互いに刺激を受けあい、必然的に自分が変わっていくことを意味しています。 一人よがりの自己満足ではなく、まわりの人に生かされ、共に生きていく。繋がって行く ことが、自己を生かすことにもなるのです。私もガンガーも再生のためには、変化の必然性が 不可欠なのかもしれません。そのことを自覚することはとても大切なことのように思われ ます。  山根さんの流木アーチに蔦(つた)性の植物をからませることを計画しています。 流木(自然)の再生です。流木には流木の存在意義があり、それに蔦の植物をからませるのは 私の意図であって、それは再生をテーマにしたものです。流木と生命(植物)の共存を意味 しています。死は終わりではなく、生命の繋がりの延長を現わしている現象にすぎないと 私は解釈したいのです。私に課された使命をこの辺に感じます。「父」の死をいまだ、何故? と問い続ける私がそこにあります。「答」など無いのかもしれませんが、問うことで自己の 存在意義を再確認したいだけかもしれません。このように自問自答のパターンが定期的に 訪れ、進路修正をします。原点を確認するにはいいことかもしれません。  「ゴッキの宇宙」のテーマがぼやけています。最初はテーマがあって、そこへ向かって 書き出したのですが、あまりにのんびり書きすぎた為、目的を見失ってしまいました。 ゴッキの出だしのころは、宇宙の始まりについて、筋萎縮そくさく硬化症の宇宙理論科学者 ?名は・・・そうそうホーキングでした。彼の本を読み、さらに宇宙理論の関連本を読んで いた時期で、ゴキブリの不合理性と宇宙の創造と終焉について、絡ませて「ゴッキの宇宙」を 書き出したつもりでした。それが、いつしか宇宙理論を置き去りにしてしまい、ゴキブリの 不条理を訴える書き物へと変遷してしまっていました。もう一度、宇宙理論の本を読み直し て、テーマを再確立したいと思います。しつこさには自信があります。(6.14)
 メール読書会「ルツ記」(その十)第四章13〜22まで(2005.6.14) 眼我 真 ルツ記も最後なりました。13節「彼女のところにはいった。」とは肉体的に交わった ことを表現しています。子を産まない女性は罪の現われとして、恥としていた時代です。 13節に「主は彼女をみごもらせ」とあります。妊娠は神のなせる業の一つとみなされて いたようです。14、15節に書かれていることはルツの産んだ子がナオミの後継者である ことを意味しています。その子の名をオベデとしたことが記されています。このオベデが 旧約聖書最大の王ダビデのおじいさんにあたるのです。18節からの系図は後世の人が ダビデ王との関わりを明記するために旧約「歴代志・上」二章9節〜15節を転載したものと 言われています。新約聖書「マタイによる福音書」第一章のイエスの系図5節にこのボアズ、 ルツ、その子オベデがちゃんと記載されています。ダビデの家系からメシア(救い主)が 生まれるといわれていたことを証明することが大切なことなのです。  「ルツ記」の登場人物はボアズ、ナオミ、ルツ、それに神なのです。イスラエルの古法 では異邦人の女との結婚を必ずしも非としなかったようですが、バビロン国による捕囚から の帰還後エズラ、ネヘミヤの改革によって厳重に異邦人との結婚は禁止されたようです。 このような排他的な民族主義に対して「ルツ記」はイスラエルの民ボアズが異邦人の女ルツ との結婚を主題とした文学作品となっていて、聖書の中でも異色です。ただ、神への従順な 信仰心にあふれた書き物であることは間違いありません。イエスの系図に異邦人の血が 混じっていることにも興味を覚えます。さらに、「マタイによる福音書」のイエス系図には 二人の娼婦の名も記載されているそうです。決して高貴な家系ではないことが、かえって 真実味を増しているとも言えるかもしれません。以上で「ルツ記」は終わりです。 次回は「エステル記」か旧約の始まりであるところの「創世記」にします。(6.15)
 藤村記一郎先生のライブが無事、盛大に終わりました。2時間、三回とも充実した内容の ライブでした。みんなで声を出して歌った「ぞうれっしゃよはしれ」は店全体が一体感で 包まれ、ほのぼのとした雰囲気になりました。うたごえ喫茶はこんな感じになるのかと胸 踊る想いにさせられました。良い経験をさせてもらえました。みんなが手を取り合って歌う ことの楽しさ、喜びは貴重な体験です。少しでも多くの人にこの一体感を知ってもらう ことが大切なことのように思われます。ライブもそうですが、これは人体表現とでも言えば いいのか?「すうがくソング」は授業しながら聞くのが一番合っています。学生時代に こんな先生に出会えていたら私も違った道を歩んでいたかもしれないと思いました。 蓄積された経験から生まれた曲、歌たちと、ほとばしる輝きのある先生の話と歌声、これらは 自己表現そのものです。わたしも何がしらかの影響を受けたことは間違いありません。 内輪の打ち上げ?をささやかながら店でしましたが、お酒を飲んで話をするなんて何年ぶり か?記憶にないほどです。これも私にとっての変化の一つかもしれません。 必然的に求められ、あるがままに素直に従うことの心良さを覚えます。 みなさん、ありがとうございました。 ガンガー存続のともしびが灯ったような気がしました。(6.19)
忙しいせいか?体調が何かなまぬるく、疲れが抜けきれないで、翌日を迎えているみたい です。季節の変わり目のせいかもしれません。書き込みの余裕もなく、単発の文で終わって しまいます。先日、「思い」の昔のものを読んでいたら、実に善いことを書いているのです。 手前味噌になってしまいますが、次の眼我通信で復刻版として掲載しようかと思っています。 九割はいまでも充分斬新ですが、結論のところが少し短絡的かと反省も込めて、少し手直しを してみるつもりです。眼我通信No.12は来週あたり発行したいと思っていますので、この 復刻版の「思い」も楽しみにしてみてください。メール読書会を一回休みます。次に何処を 読むか、いまだ決まりません。「エステル記」を読むと一度明言しましたが、これの資料が 何処にあるか?調べるのに時間がかかりそうなので、聖書の始まり(創世記)を学ぶことも いいかなと思っています。(6.24)
 疲れの原因が分かりました?多分、風邪です。頭痛がして体がだるく、疲れやすく なっています。薬を飲んで休養して、風邪がわが身を通り抜けるのを待つだけです。  知人が自作の詩を送ってきました。「おそらく良い評価は返ってこないと思いつつ、 あえて、ご感想をもとめます。」と明記されていましたので、以下にその批評を記載します。 「神の名において」というフレーズが繰り返されて、詩の中盤は「神の歩いた後」となり、 現在のイラク、パレスチナ、イスラエルの争いの愚かさを「神」をもって強調しています。 後半は「人類よ」というフレーズで希望を語りかけています。 「神」とは何を指して言っているのか、いま一つ不明解です。聖書の神?旧約の神?イエス? 日本で言う八百万(やおよろず)の神を言うのか?多分、中東の争いを意味しているのだと 思いますが、「神」とはいかなるものかを自分なりに探究されているのか?疑問です。 もし、新約聖書を読んでいれば、現在行われている争いなどは決して「神の名において」 なされているのではないことは理解できると思われます。いまの争いは人の欲望に踊らされ、 宗教の名を借りて、自己正当化をしているだけです。あれは聖戦(ジハード)ではありません。 それこそ「神」の名を汚す、愚行です。後半の部分で「人類よ」と呼びかけていますが、 「神」と「人」との関係をどのようにとらえているのか?疑問です。 まず出だしの「神の名において」と神を持ち出すのなら、すでに「神」と「人」の関係も 明確に把握しておくべきです。先ほど「神の名において」の部分で、そうではなくてあれは 人の欲望の現われであるところの争いであって、神とは関係ないところで人が行っている 愚行であると言いました。同じ意味で「人類よ」も人の「欲望」とは何処から来て、人を 何処へ導く?のか、人の愚かさを照らす光りは何処から来るか? 憲法九条にも共通しますが、「平和」とはどうゆうことか、一人一人が己の罪(愚かさ)と 見つめ合わなくては、目標を見誤ります。私は人の愚かさを照らすのが「神」だと思って います。正義をいくら唱えても、先ずは自己の中に真理を探究する謙虚な姿勢がなくては、 他者に共感は得られないと思います。自分の中に正義はあるのか?疑ってみることです。 自分には何も無いことが分かれば、その自分を導き出し、差し示す光りを求めたくなる はずです。私の持論としては人類には希望を差し示す真理としての「神」なる存在が必要 なのだと言いたいのです。もっと厳格に言うと少し違いますが、分かりやすく言えば 人類のためには「神」なる存在が必要だと言いたいのです。 しかし、「神」という漠然とした抽象的言葉を詩に使うことは、私としてはあまり好きでは ありません。言葉自体に現実性がなくなり、抽象的イメージが優先され、詩自体に説得力が なくなってしまいます。「神」とはいかなる存在か?自分自身で探究してください。 私とっての「神」なる存在とは、我が内にある「思い」に内在する混沌としたものを、整理、 して、生きる支えとなる存在です。単純に説明すると、「神」が居るか?居ないか? 賭けをして、私は過去の体験から推測して「居る」方に賭けたのです。私の人生をかけた 賭けです。その賭けを他者に強要するつもりは毛頭ありません。私自身の人生をかけて 「神」なる存在を、私なりに証明したいと思っています。  私見を率直に言わせてもらいました。理解できない箇所があればお知らせください。 どこまで説明できるかわかりませんが、謙虚に受け答えをしたいと思います。 (6.25)
 昨日の詩の作者と2、3度メールのやり取りをしました。お互い素直に思った ことを語り、私としては良い経験をさせていただいたと思って、感謝しています。 問われて、答えることも良い勉強になります。答えることで、自己確認もとれました。 店が忙しく、書き込みなどの時間に余裕が無くなっていますが、それはそれで感謝しています。 ガンガー支援のため、いろいろな人が動いてくださり、店に活気を与えてくれています。 人と人の繋がりがガンガー存続の道と思っています。「ガンガーで繋がりましょう!」なんて キャンペーンをしたらどうかと思いますが、変な新興宗教みたいで、かえって一般の人に 避けられてしまいそうです。ちょっと疲れています。休憩、休憩。(6.26)
「幸せなとき」 2005.6.28 眼我 真 いつもは忙しい時間帯、でもポカ〜と空いた今日は暇なとき。 急に与えられても、時間貧乏人にとっては戸惑いもの。 ハハ〜ン、時間王の気紛れか? この貧乏人をからかって、楽しもうというのか? この前は戸惑って、うろたえ、ヘマをしたが、 今回はそんな作為には動じねえ! もらったものはこっちのものさ、へへ!面白く使わせていただくとするか。 こんな言葉を連ねられるのも、王様の気紛れのおかげか、ありがてえことよ。 まてよ、ハハ〜ン、見えてきた。 おれにこれをさせたいわけだ! 貧乏人にちょっと時間を与えて、感謝されたいわけだ! そうか、王様として貧乏人に感謝されたいのか。 そんな子供だましみたいな手に乗ると思っているのか、でもよ、ここは考えどころだぜ。 おべっかをつくのも方便てものか? 貧乏人はせこくないと貧乏人らしくねえよな。 でもよ、せこいのは貧乏人だけじゃないぜ、王様だってせこいぜ! 時間をちょっと与えたぐらいで、 貧乏人のおれ様から感謝されたいなって思っているなんてな、ハハハ。 まあいいか、感謝しています。 この貧乏人によくぞ気前良く、大切な時間を与えれくれました。 ありがてえ、ありがてえ。なんてね、ハハハ。 今日は時間がある、愉快、愉快。 王様はこれを見て、わしはなんと徳深い人格者なのかと、いたくご満悦なされたとか。 王様は時間を持て余し、退屈していらっしゃるのでした。(おわり)
「私望郷」   眼我 真 詩「旗降り」(2005.6.29)   生と死の交差点で旗降り、整理をしている私。 己の生と死を見送るために、旗降り、整理。 これはいつから始まったのか? それはあの日からだと記憶する。 父の葬儀の朝、家の裏で野良猫が死んでいた。 父の葬儀のあと、タロウは食事をしなくなって、衰弱していった。 母は耐えられず、保健所に電話をした。 タロウはその日から僕の世界から消えた。 父が亡くなるまでの一年間はこの旗降りの練習をしていた。 哲学書、宗教の本、「死」とは何なんだ? わからなかった。 自分への答が見つからないまま、父の死を迎えた。 それからずーっと、旗を降っている、整理整頓、 自分の生と死の整理整頓、父の死の整理整頓、 今日も旗降りをしている。 あれから約30年、聖書という不思議な本に出会って、 旗降りに意味があることを知ったいま、旗降りの私は元気がいい。 この旗を降っていれば、いつか?答が見つかると信じられるから、 旗降りも苦にならない。 今日も生と死の交差点で旗降り、整理している私。    今日は筆が進みます。雨降りのせいかもしれません。 「メール読書会」 創世紀にしました。膨大な資料を読みこなして、独断にはまらないように気をつけたいと 思います。  創世紀、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、古来これらはモーセ五書と言われ ています。ヨシュア記を含め六書とも言われています。これらは多くの資料から特に四つの 資料を合わせたり、個別に使ったりして編集したものです。 その代表的資料はエホバ典(J)エロヒム典(E)申命記典(D)祭司典(P)です。 創世紀の内容は天地創造からヨセフの死に至るまでのイスラエル民族史が書かれています。 史実というよりは伝説的要素が多く見られます。創世紀の解釈には伝説解釈の一般的原則を 応用する必要があります。事実はあったのですが、描写としては部分的には誇張もあり、 後世の加筆もあったと思われますが、先ほど書いたJ、E、D、P資料は原形を保ったまま 編集された経緯がそのまま残されています。資料相互間の矛盾、不一致をそのまま無頓着に 掲載されているのです。これにより伝説に含まれた真実が曲げられずに保存されているとも 言えます。古代人の思想、生活を考慮しながら、当時の発想でこれらの文献を解釈していく 必要があります。二千四百年以上前に編集されたことを考慮して、当時の社会をかいま 見なくてはいけません。来週から本文に入りたいと思います。 (6.29)

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