2005年7月の思い

 

 雨はいろんな雑音を吸収してくれます。あるいは洗い落としてくれるのかもしれません。 不必要なものを洗い落として、必要なものだけが残る。そんな雨が好きです。 心の疲れと身体の疲れを癒すように、「休みなさいよ」という天からの贈り物だと 以前、詩に書きました。自然の営みを感謝して受け入れられる寛大な心を持ちたいものです。 飢饉で飢えている人たちに、自然の営みですから、我慢しなさいとは言えません。ある意味 恵まれ過ぎている自分を反省すべきなのかもしれません。  スポーツ選手たちが、飢饉救済支援のため白いバンドを手にはめる運動が起こっている ことを、今朝のテレビで知りました。 一つ300円で今日から一般向けに販売されるそうです。興味のある方は購入してみて ください。(7.1)
 ホーキング博士の本を読んでいます。宇宙の始まりについての記述は 来週から始まる「創世記」に通じる箇所です。科学の理論と聖書の記述を比較しながら、 どのように聖書を読み取るか?私自身たのしみです。 ゆっくり本を読む時間がないので、ホーキング博士の話をかじり読みしながら、創世記の 天地創造を主に記述を進めたいと思います。   メール読書会 旧約聖書「創世記」(その1)第一章1節 2005.7.6 眼我真  ホーキング博士の本「ホーキング宇宙を語る」から、 (p25)1929年エドウィン・ハッブルがどちらの方向を見ても、遠方の銀河はわれわれから 急速に遠ざかっているという画期的な観測を行ないました。言い替えれば、宇宙は膨張 しつつあるのです。これは、宇宙の初期には天体はびっしり集まっていたことを意味します。 したがって、そのとき宇宙の密度は無限大だった時期があったのです。この発見によって、 宇宙のはじまりの問題が科学的に問われることになるのです。ハッブルの観測は、宇宙が 無限に小さく、無限に濃密だったビックバンと呼ばれる時点があったことを示唆しています。 これによって、ビッグバンの瞬間に神が宇宙を創造したとも考えられます。反対に、宇宙が ビックバン以前に創造されたと想定することはまったく意味をなさないことになります。  以下、私見です。 ビックバンの理論的説明を満足させる科学理論を確立するには、まだ数十年かそれ以上を 要すると思われます。さらに、いつの日か宇宙全体の統一理論ができたとしても、その裏に あるビックバンの必然性などを証明することは誰をもっても、不可能だと思われます。 ビックバンに神の意思が働いたのかどうかなど科学的に証明できないことだからです。  聖書の話へとすすめます。「創世記」の記述は当時の言い伝え、伝説を聖書編集者が神の 創造として、纏めたものです。これはイスラエル人の天地創造伝説ですが、そこには バビロン、フェニキア及び、エジプトの伝説の影響が見受けられるそうです。1875年 ジョージ・スミスがニネベのアシュルバニバル王の図書館の遺跡から発掘した楔形文字の 碑文によって、バビロン人の創造神話の全容がほぼ明らかにせられて以来、それが創世記 第一章の記述の有力な母体であることが認められるに至ったそうです。 (矢内原忠雄・著「創世記」より)  第一章一節「はじめに神は天と地とを創造された。」 「はじめに」とは「時」の始めです。宇宙の歴史の始まりです。天地創造と共にはじまった のが「時」であり、創造の前に「時」があったのではありません。「時」に関する創世記の 記述とホーキング博士の宇宙起源・ビックバン説における「時」の始まりと一致するものと みなせます。(ただ、次の「神」が科学では証明不能なのです。) 「神」と訳された原語「エロヒム」は「エロアー」の複数形で、「尊崇の対象」を意味 します。なぜ複数形なのか?これは多神教を意味しているのではなくて、「最高の尊崇」を ささげられるべき神、換言すれば最強度の意味における「唯一神」を指すそうです。従って その動詞は単数をもって記されているそうです。(矢内原忠雄・著「創世記」より) 「天と地」は二節以下の総括とみるべきだと思われます。 「創造された」とある原語「バーラー」は「切る」「切り取る」の原意で、それから 「形成する」意となっりましたが、人が物を造ることには用いられず、絶対的に新しいもの が奇蹟的に造り出される場合のみに使用された語です。「神」の意志の働きによってなされた 創造ということを言いたいのだと思われます。宇宙の始まりは「偶然」に起きたのではなく、 「必然」をともなった意志の働きによってビックバンは起こったということを表現している のです。その「意志」とは聖書的には神の意志なのです。  誰でも自分は偶然生まれたとは思いたくありません。必然的にこの世に生を受けたと思い たいものです。思考する動物であるところの人類において、人類の存在に必然性を求める のは当然なのかもしれません。「神」という絶対なる存在によって、選ばれし種族という ことになるのです。 第一章一節「はじめに神は天と地とを創造された。」天と地を創造られたとは 地球を造られたとも解釈できますが、宇宙そのものを誕生させたと解釈したほうが、 自然で「はじめに」が「時」の誕生を意味するという解釈とも合致いたします。  この調子で進めていくと、創世記が終わるのに4〜5年はゆうにかかるものと思われます。 早く、沢山読めば、聖書が分かるのかといえば、そうではありません。 聖書の云わんとしていることはただ一つなのです。73ページを4〜5年かけて読むのも いい経験になると思われます。(つづく)(7.6)  
 「創世記」一章2節 (その2) 「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」   1節も私なりに解釈して「神の意志によって、時の始まりと宇宙形成(ビックバン)の 始まりが同時に創造された。」と書きました。 2節も私なりに解釈します。 「地は形なく」の地は地球をさしていて、地球自体がいまだ混沌とした状態だということを 表わしていて、「むなしく」は空しい、これまた混沌とした状況をさしていると思われます。 「やみが淵のおもてにあり」ここまでが、混沌とした成形状態を表現しています。 次の「神の霊が水のおもてをおおっていた」はそのような混沌とした状況下でも、ちゃんと 神の意志が「水おもて」=地球全体を覆っていて、次の変化を待っている状況だということ を言い表わしているようです。(7.7)
 いま展覧会をされている肇さんのライブが1日と8日に行われました。 報告をしなくてはいけませんが、忙しい限りです。 1日は肇さんとバイオリニストの方と声楽をされていた女性お二人がそれぞれ演奏、歌われ ました。一昨日の8日はギターリストの方々が多く演奏されました。それぞれの方々が 個性豊かで、充実した内容でした。演奏者の方々の詳しい経歴を昨晩初めて肇さんから 聞かされ、あらためて驚かされてしまいました。一人のかたはカリスマ教師的存在の方で、 教育関係の雑誌の編集長もされていて、講演もよくされる方とのことです。妻にそのことを 伝えると「え!あの岡崎さんだったの・・・、梅森台に住んでいらっしゃるとはお聞きして いたけど」と驚いていました。私はまったくその方面にはうとく、始めて聞くお名前でした。 あとワークショップなどのプロの方もいらっしゃって、都市計画推進プロジェクトなどが 本業だそうです。日進市の都市計画推進の代表者的存在でもいらしゃるそうです。 あとビートルズならお任せの市役所職員、以前はプロのミュジシャンを目指していた 福祉施設職員、鼻笛なる得体のしれない楽器演奏者の大学教員、その鼻笛の師匠で ケーナ奏者の方、饒舌なおじさんキャラの天白リバーバンドのメンバーの方、お百姓さんで スローライフ実践者の話好きなギターとケーナ奏者の方、それにガンガーで先月ライブを された藤村記一郎先生(作曲、指揮、合唱団の指導と幅広く活躍されている方)と、一同が いっしょにライブをすること自体珍しい?多分初めての画期的なライブだったのです。 もちろん肇さんの人柄のおかげで、これらの方々を一同に集めることができたのだと 思います。肇さんの初個展を祝って、みなさん忙しい中、お集りになったのです。 ガンガーの店にとっても、実にありがたいことです。 流木作家の山根さんのアーチがとても好評です。そのアーチの下で、それぞれのメンバー の方々が熱演されました。充実した夜でした。1日も素晴しい合唱と演奏でした。 そうそう大切なことを忘れていました。1日と8日の両ライブとも主役の肇さんのギター 演奏と歌は実に味わい深いものがありました。ガンガー店主としてお礼申し上げます。(7.10)
 忙しくなればなるほど、出来ることが限られてきます。自然とシンプルでスローな ライフスタイルにならざるを得ません。何事も考え方次第です。 プラス思考で行きましょう。今の私にできることは何かと考えたとき、それは聖書を読み、 その内容を説くことです。それしかできないということは、考え方によっては幸せな ことなのかもしれません。時間が有り余り、何でもできるとなるとこれまた選択肢が 多くて、かえって何をしたらいいか分からなくなってしまうかもしれません。 無駄なものを削ぎ落とし、最後に残った一つが一番大切な「もの」なのです。  明日はメール読書会の日です。「創世記」の一章2節以降を読み説かなくては いけません。心静かに、二千五百年前に編集されたこの書き物と対話したいと思います。 何を伝えたいのか?言葉の裏に隠れている編集者達の「想い」を読み取りたいと思います。 (7.12)
メール読書会「創世記」(その2)一章2節 眼我真 「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」   1節を解釈して「神の意志によって、時の始まりと宇宙形成(ビックバン)の始まりが 同時に創造された。」と書きました。 2節も私なりに解釈します。 (参考文献・矢内原忠雄・著 岩波書店/聖書講義「創世記」) 「地は形なく」の地は地球をさしていて、地球自体がいまだ混沌とした状態だということを 表わしていて、「むなしく」は空しい、これまた混沌とした状況をさしていると思われます。 「やみが淵のおもてにあり」ここまでが、混沌とした成形状態を表現しています。 次の「神の霊が水のおもてをおおっていた」はそのような混沌とした状況下でも、ちゃんと 神の意志が「水おもて」=地球全体を覆っていて、次の変化を待っている状況だということ を言い表わしているようです。 「形なく」原語「トーフー」は荒廃、空虚、無形体の意味の名詞、「むなしい」の原語 「ボーフー」は鈍重、無意識、無生命を意味する名詞です。「トーフー、ボーフー」とは 無形態で無生命ということを言い表しています。「混沌」そのものです。この原語は 旧約聖書の「イザヤ書34章11節」及び「エレミヤ記4章23節」でも使用され 「トーフー、ボーフー」は終末観的審判の語として用いられています。 新約聖書の終わりに記載されている終末を予言している「ヨハネ黙示録21章1節」に 「先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。」も同様のことを意味していて、 思想的には始まりも終わりも「混沌」としていることを言い表しているようにも解釈 できます。宇宙の始まりを見ていた人は誰もいません。同じくこれから先の宇宙の終焉を 見ることは誰にも出来ません。それを記載していること自体が異様といえば異様です。 二千五百年前に編集されたとき、いえ実際に書かれたのはそのずっと以前ですから、 その時期に宇宙の始まり「ビックバン」説など知る余地もありません。 でも1節で説いたように、「時」の始まりと宇宙の始まりが同時だったことを聖書は 明記しているのです。聖書は実に不思議な書物です。しかも終末論の「ヨハネ黙示録」に 終末は元の「混沌」に戻ることも予言されているのです。 矢内原忠雄・著 岩波書店/聖書講義「ヨハネ黙示録」P547終わり二行からP5487行 の間に「紀元前第一世紀に出たユダや人の黙示文学の中に、・・・最後の審判の後、 天地は創造以前の原始的沈黙に帰る。と記載されている」と明記されています。  2節の後半部分「神の霊が水のおもてをおおっていた」 1節では「はじめに神は・・・」とあり、宇宙の始まりには神なる意志が働いたことを 明記しています。さらに2節では具体的に「神の霊」が「水」のおもてをおおっていたと なっています。水=生命の源であることを紀元前五百年前の著者、編集者たちが知って いたことになります。現在科学での進化論を当時の筆者たちが知っていたとは思えません。 これまた偶然なのか?一節「時」の始まりといい、ビックバン説など無い時代にこのような 発想を生みだしたことじたい奇蹟に等しいことです。(7.13)
 腹の立つ事実が判明しました。 息子が尿道結石で診察していただいていたところの「N記念病院」泌尿器科の某 先生の診察が嘘の診察であったことが判明しました。個人名を出してもいいのですが、 その先生と私は面識がないのと、こんないいかげんな先生の診察を許している病院自体 に問題があると思われますので、N記念病院の名前だけの掲載にしておきます。 (ガンガーの近くで記念病院というば、あそこしかありません。) 知人のご主人が三重大学医学部泌尿器科の先生でしたので、記念病院の診察に疑問を持った 私たちはすぐに電話で息子の診察結果をその先生に伝えました。すると、私たちが思って いたように、その先生も記念病院の診察結果に疑問を投げかけました。第二オピニオン なるシステムがあることを知っていたので、さっそく他の病院に変わることをその記念病院 の嘘つき先生に口頭で伝えました。家からだと八事日赤病院が近いので、そちらへの紹介状 を書いていただきました。レントゲンのコピーとカルテも頂きました。嘘つき先生の話では 結石が1cmほどあり、骨盤の下にあるので、骨盤がじゃまして衝撃波が当てれないと 言われました。そこで、局部麻酔を打ち、尿道から針金を入れて、さらに管を入れよう としたのですが、尿道が狭くて管が入らなかったのです。管で石を骨盤よりも上に持ち 上げようとしたのですが出来なかったので、結局衝撃波を当てられませんでしたという 話でした。その嘘つき先生はしかも、残された手段は手術しかありませんというのです。 三重大学の先生は今どき手術などすることはありませんよと言われていました。  今日八事日赤病院に行き、カルテとレントゲンを持って、診察をうけました。すると 石の大きさは8ミリ×4ミリの大きさで、衝撃波も当てることが出来るし、薬で落ちる 可能性もあるとのことです。尿道を広げる薬で、自然と落ちる可能性もあるとのことです。 第一の嘘、石の大きさが1cmほどあり、かなり大きな石だと言われましたが、実際は 8×4ミリで日赤の先生が言われるには、そんなに大きな石ではありませんとのことです。 第二の嘘、石が骨盤の下でも衝撃波が当てられる。 これは三重大学の先生も言ってらっしゃいました。 第三の嘘、薬で落ちるかもしれない。記念病院では「石を取り除くには 手術しか方法はありません。」といわれました。 手術などする必要性はないのです。おいおい、いいかげんにしろよ! 記念病院の嘘つき先生は確かに「手術しか方法はありません」と言われました。 自分達の手術の実績をつむために、嘘の診断を平気でする医者は悪徳医者です。 私が当事者(息子の立場)だったら、記念病院に文句を言いに行くところです。 痛い思いをさせられ(尿道に針金を入れられ、麻酔が切れた後、一日激痛に悩まされた ようです。)結局嘘の診察だったのですから、 N記念病院にはもう二度と行きません。このようなのとは日常茶飯事なのかもしれません。 くれぐれも、医者の言うことを鵜呑みにしないで、疑ってみるべきです。 セカンドさらにサード・オピニオンと納得いくまで、病院と医者を替えることを お進めいたします。(7.15)
第一回「うたごえ喫茶」が無事終わりました。  藤村記一郎先生指導で2時間少々楽しい時間を過ごすことができました。 歌うことなど、ほとんど無い私にとって久しぶりの体験でした。歌うことに自信はありま せんが、みんなといっしょなのは心強いかぎりでした。そのうち、自分の声に少し自信 めいたものを感じ始めました。藤村先生の通る声で導かれると、こっちも自信がついて くるのでしょうか?音程などに自信がないのですが、導かれるままに声を出すことで、 自然となじんでいったといえばいいのか?この調子で毎月「うたごえ喫茶」で歌う練習を していれば、歌うことに抵抗がなくなり、歌うことが好きになるかもしれません。 友人で北海道に住んでいるギター制作者の青木さんが、私にギターをプレゼントしてくれる とのことですから、この際ギターも練習して、ギターの弾き語りも夢ではないかも しれません。一年ほどで、息子もかなり弾けるようになったみたいですから、息子にギター を教わって、50の手習いといきたいものです。ただ、現実として時間が取れるかどうか です。でも、このような条件がそろってきているということは、何かしらの縁があるのかも しれません。自分の詩に曲を付けたいという夢もあるといえばあるのです。自分の歌を 弾きがたる、いいじゃないですか。人生楽しみましょう!(7.16)
 メール読書会「創世記」第一章3〜5節、(その3)2005.7.18 眼我真 第一章3節 「神は『光りあれ』と言われた。すると光りがあった。」 宇宙創造の過程をその時代の人はこのように考えていたというこを知るべきです。神なる 存在はすべての存在の前に、すでに存在していたということです。神の言葉ですべては 始まり、創られていったということです。1節の「はじめに・・・」で神は時間と宇宙を 同時に創造して、すべてが始まったのです。そこに神の意志が有り、意志は言葉となって 伝えられ、創られていった。このように当時の人達は考えていたのです。科学的に言えば おかしなことも、当時の知識では不自然ではなかったのです。聖書がいかに現在科学と 矛盾しているか、あるいはその逆でいかに科学的かを証明することのどちらも目的に すべきではないのです。1、2節の解説と違うように思われるかもしれませんが、何を 伝えたいかという視点で聖書をとらえなくてはいけません。すべては神の意志の働きで 始まっているということです。偶然ではなく、全てにおいて必然的意志が働いていると いうことくを伝えたいのです。それと3節以下は神の「言葉」によって創造されていったと いうことです。「言葉」の重要性を感じます。これは聖書という書物のもつ個性だと私は 解釈しています。「言葉」といっても、表面の字面ではなくて「言葉」の裏に隠れている ところの精神的な伝言を読み取ることが大切だと思っています。本当は当時の原語で直接 読むのが一番いいのですが、私にはそのような知識がありませんから、諸先生方の研究書を 参考にさせていただいています。参考にしていますが、解釈はいたって個人的主観を大切に しています。  4節「神はその光りを見て、良しとされた。」神の創られた物の中には、良しとされ なかった物もあったということでしょうか? 「神はその光りとやみとを分けられた。」光りは神が「光りあれ」といわれたから、存在 すること自体理解できますが、「やみ」はここで突然現われます。 光りと闇を知っている者が、「光り」の反対語として「やみ」をもってきたと解釈するのが 自然かもしれません。矛盾とまではいかなくても、あるがままをそのまま記載している ことも、史実を知る上においては貴重なことです。つまり「光りと闇」を知っていた人達が、 このような記述をされたのだと思います。 記載者の意図は「神」なる存在はこのような存在だということを伝えたいのです。  5節「神は光りを昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。 第一日である。」 「夕となり、また朝となった。」ユダヤの一日は夕方から始まるそうです。 だから夕が先で、朝が後なのだと推測します。ここで「夕」と「朝」も突然出てきました。 先ほどの「やみ」と同じく、すでにそれらの言葉を日常的に使っていた人達が、宇宙の 始まりと地上の生活の始まりを神の意志の現われだったということを表現したくて、 このような言い回しになったのだと思われます。 第一日は神の名のもとに「時間」と「宇宙」、さらにこの地上に「光り」を与え、昼と夜を 造られました。創造の大枠を造って、無事一日を終えられたという感じがいたします。
   体調がいま一つはっきりしません?知人の中には病気で入院などされる方がちらほら いらっしゃいます。そんな歳に私もなったということかもしれません。暴飲暴食に気を つけなくてはいけません。中年太りです。「気を付けよう、その甘い誘いが命取り。」 甘い物が好きな私にとっては、血糖値を気にしなくてはいけません。若いときのように、 食べた分を運動なりして、エレルギーを消耗するのならいいのですが、運動不足な昨今、 確実に太ってきています。質素な食生活を心がけ、適度の運動(これがなかなか難しい) をしたいものです。書き込みもおろそかになってきています。 でも、水曜日が近づくと「メール読書会」に備えなくてはいけません。 読者がいると思うと、これが励みになります。ありがたいことです。  メール読書会「創世記」(その4)関連記事から思ったこと。 眼我真 インドに留学されていた読者からインド・ヒンドゥの創世神話をメールで知らせて いただきました。以下、私なりに簡単に纏めてみました。  ブラフマン(創造主・本質)が夢に描いた世界を創りますが、その世界には成長、変化 といったものがなく、退屈になったブラフマンは、サットヤヴラタという賢い男に成長と いうものを体験させる試練を与えます。ヴィシュヌという神がその任を請け負い、 サットヤヴラタに魚になりすましたヴィシュヌが小さな壷から井戸、川、最後は海をも おおい尽くすほどの大きさに育ってしまうのです。サットヤヴラタの成長していく生き物 へのやさしさと思いやりが、神ヴィシュヌの共感をよんだのでした。成長、変化に対応する 賢者サットヤヴラタの選択にいたく満足した神はそれを「良し」と思い、それまでの世界を 無に帰すために、聖書に出てくる「ノアの方舟」と同じ様な、大洪水を起こします。船には 神ヴィシュヌが集めた全ての、動くものと動かないものの種を乗せ、これらを洪水から 守ります。聖書のノアの洪水伝説は古くは、メソポタニア地方の「ギルガメシュ叙事詩」に その源を探ることができます。メソポタニア地方からシルクロードを東に行けば、インド です。逆に西に行けば、イスラエル、エジプトです。イスラエルの聖書やインドの創世神話 に出てくる洪水伝説は、大河に囲まれたメソポタニア地方で最初に発生したと推測しても いいのではないかと思われます。「ギルガメシュ叙事詩」が紀元前何世紀に出来たか調べる 必要があります。私の推測では、インドのこの創世神話やノアの方舟伝説よりも古い時代に 成立しているはずです。話をインドの洪水伝説に戻します。  11日目に海は静まり、ヒマヴァットの山頂に降り立ったサットヤヴラタに神は「この 創造物の中で君だけが古い世界を知る者であり、・・・、大きな違いは全てが育ち、そして 時がきたら死ぬことである。全てが絶対に同じものではないのだ。」 ブラフマンのもとに帰ったヴィシュヌは「さあ、あなたの世界を見なさい。それは完璧では ないけれど、それは物語である。・・・なんとこの世界は全てが育って、死にそしてまた 生まれることか」 ブラフマンは新しい世界を見て幸せになりましたが、ヒマヴァットの山頂で瞑想にふける サットヤヴラタに気付きました。「ヴィシュヌよ!すべてが死ぬのにサットヤヴラタだけが 死なないということなのだろうか?」 「はいそうです。それは完璧な世界ではないのですから。」(以上、終わり)   インド思想に輪廻が入ってくるのは、この辺かもしれません。インドのこの創世神話を 読んでいると、輪廻思想がこの神話から発生したと想像されます。完璧な世界でないから、 創造、破壊、再生を繰り返し、その思想から輪廻への希望を託すようになっていったの かもしれません。一方、聖書では天国という死後の世界が設けられていて、輪廻思想は まったくありません。しかし、聖書とこのインド創世神話との共通点も幾つかあります。 1.神が創造したということ。 2.洪水伝説。 3.出来上がった世界は完璧な世界ではないということ。 あと、不思議な存在がサットヤヴラタです。 ブッタのように悟りをひらけば、生き仏となることをサットヤヴラタという人物で暗示して いるのでしょうか? 聖書では「ノアの方舟」のノアは選ばれた人ですが、死を迎えます。聖書では神と創造物を 完全に分けています。サットヤヴラタのような人物は聖書の世界では存在しないものです。 あえて言えば、イエスかもしれません。しかし、厳密に言えば違います。サットヤヴラタと イエスの違いが、ヒンドゥ教とキリスト教の違いだと言えるかもしれません。 サットヤヴラタは死なない賢者として描かれていますが、創造された人であることには 間違いありません。イエスは人として生まれてきますが、神なのです。 これまた難しい問題です。神であって人なのです。言い替えれば、不完全な世界で、 つじつまを合わせるためにはこのような矛盾を受け入れなくては、理解することができない とも言えます。あるいは理解するのではなく、いつしか納得させられてしまうと言えば いいのかもしれません。納得するために、インド哲学では「無」「空」ということを重要視 するのかもしれません。話は少し飛びますが、以前「思考の断片」なる私の雑誌で インド哲学でいうところの「無知」について書いた物があります。 今日の話と関連があると思われますので、以下に抜粋します。
「無知(無明、無智)について:シャンカラの説」(2000年12月2日) 眼我真  (シャンカラ:8世紀前半、印度最大の宗教家、哲学家の一人)  昨日の夜、某大学印度哲学科大学院生とシャンカラの説の「無知」について語り合い ました。いろいろ話したのですが、話しの流れからある程度納得出来たと思っていたら、 話し終わり振り返ると、いったい何を話したのやら?あやふやになってきました。 もう一度整理したいと思います。 私が認識出来たところのシャンカラの説は以下のようなことです。 1、ブラフマンはすべての始まりであり、すべてである。 この世の見える現象はすべて「無知」の現われであって、 無知ということを「知る」ということが大切である。 「知る」ために行為をすることは、そのこと自体が無知である、???。 2、原因があって結果がある。原因の中にすでに結果が含まれている。結果の現象である この世界は無知である。そうすると原因にはすでに無知が含まれている? それは違う、原因はすべての始まりであって、すべてである(ブラフマン)。 ではなぜこの世界は無知なのか?   私の持論とシャンカラの思想には共通点がありましたが、 先人の哲学的思考について話しをしていても 自分の尺度でしかシャンカラの思考を理解していなかったということでしょうか? 自分に都合のいいとこだけ覚えていてそれ以外は余り覚えていない・・・。 口から出た言葉の中で、消えていった言葉たちと記憶に残っている言葉たち、 シャンカラについて語った後の消えていった言葉たちを思い出しながら 記憶に残っている言葉とつなぎ合わせ、もう一度自分の思考を再構築したいと思います。    (11.29 夜) この目で見える世界が無知、幻の現象だとしたら本質(ブラフマン)は何処(どこ)? どうしたら本質を分かるのか? ブラフマンは原因で、元々あった本質。 以前、私は常識(世渡りの術)の殻を破らなくてはいけないと書きました。 幼いころの純粋さが成長するに従い世間の垢に包まれ自己防衛する。 このことがシャンカラの「無知」ということにつながるのかもしれません。 自己を開放する、常識という既成の枠を取り外し自己の思考を開放する。 既成の常識を外した後に残る〈もの〉が本質(ブラフマン)であり、 そのことが「知る」ということなのかもしれません。 「知る」とはシャンカラの説を知識として学ぶことではなく、人生において 生きるということを通して知る事に意義があるのだと思います。 この現実の無知と幻の中でどうしたら「知る」を知り得るのか? 「知る」とは「開放する」ことかもしれません。 そのための行為は意味のないことだとも彼(シャンカラ)は言ってます。   「101匹の猿」という本があるそうです。  一つの島で猿が芋を洗い出す、すると他の離れた島の猿が突然、芋を洗い出すという話 です。これは実話だそうです。ここに「知る」ヒントが在るのかもしれません。 最初の猿はどうして芋を洗い出したのでしょうか? その猿は必然性を感じて芋を洗った、幾多の猿がいてその猿だけなのか?その島では 学習され他の猿たちも、洗う習慣を身につけるのです。その時期に偶然? 他の島の猿が見もしないのに、自然と誘発?されて洗い出す。そのことが不思議なのです。 見もしないのに洗い出すのです。これが誘発ということなのだと思います。 この誘発をどのように説明すればいいのか?不思議です。   独りの人がシャンカラのいうところの「無知」を「知る」ことができたら、 他の関係ない人も誘発されて「知る」ことが出来るのかということです。 ブッタやイエスの時代に多くの優れた宗教人が生まれています。 これも「知る」と「誘発」に関係があるのかもしれません。     (2000.11.30) シャンカラ自身は先人の書き残したベーダーなどの教えを勉強し、 その中から自己の研究を押し進め「知る」ということを唱えるようになった。 先人の書物の中の言葉(教え)に「誘発」され「知る」ことになった。 「知る」とはこれかもしれません。「言葉」による「誘発」?、 それは思考なのです。言葉という手段を使って、言葉でなくてもいいのかもしれません。 手段はいくらでもあり、最終的には思考することで、誘発されればいいのです。 目的は「無知」を「知る」ことなのです。 自己の思考内宇宙に本質(ブラフマン)、真理(神)、などの絶対的な価値を見い出し、 そのことによって「無知」を知ることを誘発されればいいのです。 このように考えればこの世の中の現象にこだわる必要がなくなり、 「無知」でもかまわなくなるのではないでしょうか? このへんはまだ考える余地があります。 (2000.12.2 終わり)
 ここでいう「無知」を「知る」とはブラフマンがインド創世神話の最後で言っていた 「この世は完璧な世界ではないのです」ということを理解することと同じかもしれません。 「この世は完璧な世界ではない(無知)」ということを「知る」ということを 私たちに説いているのです。2000年12月2日の「無知」についての書き込みで、 最初の書き出しで、私が認識できたことの2で書いたこと 2、原因があって結果がある。原因の中にすでに結果が含まれている。結果の現象である この世界は無知である。そうすると原因にはすでに無知が含まれている? それは違う、原因はすべての始まりであって、すべてである(ブラフマン)。 ではなぜこの世界は無知なのか? の答はこれです。「この世は完璧な世界ではない」ということです。ブラフマンの創った 世界が未完成だったからです。原因の中に結果が含まれていたのです。 だから「無知」なのです。完璧な世界は何処にもなく、ブラフマンや神の住む世界にしか 存在しないということかもしれません。でも、聖書はいま生きているこの世界の内に その完璧な世界が存在するとも語っています。それはイエスの十字架による「死」と 「復活」によってもたらされた信仰を受け入れることが、生きて神の国にいることと 同じだと説いているのです。話が「創世記」から離れてきました。取り止めがなくなって きましたので、長いメールになりましたが、この辺で終わります。次回は聖書の 「創世記」についての書き込みにします。  五年前の文章を引っぱりだしましたが、それなりに話は繋がっています。不思議な気も します。先月の「創世記」を始める前後から、たまたま?五年前の文が気になっていたの です。先月の「眼我通信12号」で「『思い』の復刻版を掲載するつもりでしたが、整理が つかなかったので、今回はやめることにしました。」と明記しています。その箇所は今日の 書き込み「無知について、シャンカラの説」(2000年12月2日)についてでした。 ヒンドゥの創世神話についてのメールをいただかなかったら、こんなに早い時期に今回の ようなまとまった書き物にならなかったかもしれません。 「この世は完璧ではない」そのことを、ブラフマンは認識していたということです。だから 賢者サットヤヴラタのような人物を存在させたのです。これが一つの答です。 なんども同じことを書きますが、「この世は完璧ではない(無知)」ということです。 聖書でも。アダムとイブが楽園から追い出された後、神は和解策を検討していたものと 思われます。それが一つは「ノアの方舟」であり、モーセ通して結んだユダヤ民族との 契約なのかもしれません。最終的にはイエスをもって、この未完成の世界を完成させる おつもりなのです。これらは少ない資料からの私なりの推測ですから、かなりの独断が あるかもしれません。おかしな箇所なり、理解できない箇所があれば、お知らせください。 私が説明できることでしたら、快く説明させていただきます。(2005.7.27)  
 「眼我通信」の発行時期になりました。明日13号が出来上がります。 今回は「わたしの時評」がいたって少なく、紙面のほとんどがメール読書会の報告書に なってしまいそうです。    コスモスの  首垂れたるは  さびしかや    俳句です。(7.28)

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