2005年8月〜10月の「思い」

 メール読書会「創世記」第一章6節〜8節(その五) 8月3日 眼我真  6節、神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。 7節、そのようになった。神はおおぞらをを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの 上の水とを分けられた。 8節、神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、朝となった。第二日である。    神が二日目になされたことは水と水の間の「おおぞら」を天と名付け、下の水と上の水を 分けられたということです。6節は「神はまた言われた」で始まっています。神の言葉が 創造を促しているということです。 (このことは、私たちの日常生活でも言えることです。何事も、ただ思うだけではなく、 言葉に出して「思い」を相手に伝えることが、大切なのです。) 7節は6節の解説です。7節の最初の「そのようになった。」を6節に入れたほうが 話の流れからすると自然な感じです。8節も6節の説明文です。 「下の水」は海を暗示していると推測できますが、「上の水」は何を意味しているのか? 考えさせられます。当時(紀元前500年以上まえの時代において)の人たちは空から降る 雨は天の扉が開いて、雨を降らすと思っていたようです。「おおぞら」の上に水が 蓄えられ、それが扉から落ちてくるという発想です。今の科学からすると、おかしな話ですが、 当時の常識としては、そのように考えられていたということです。伝説、言い伝えの域を 拭えませんが、当時の人たちが説明として考えられる範囲での知識を集約しての表現方法だと 解釈すべきなのです。  第一日もそうですが、この第二日目もそうです。神はまず、「言われた」のです。 一日目は3節「光りあれ」と、二日目は6節「水の間におおぞらがあって、水と水とを 分けよ」と言われました。その後にそれぞれ解説として「光り」を「昼」、「やみ」を 「夜」(5節)と命名されたこと、さらに二日目は「おおぞら」を「天」(8節)と 命名されたことが記載されています。神が言葉を発することで、無から「光り」 「おおぞら」などが創られ、その後からそれらに「昼」、「天」などの名を付けられたと なっています。まず創られて、それからそれらを命名されたということです。 「夕となり、また朝となった」のフレーズがまた使われています。夕方が一日の始まりという’ 説では何か?納得できないものがありましたので、矢内原忠雄の「創世記」を調べましたら、 ユダヤにおいて夕方を一日の始まりとした習慣は紀元前5世紀以降とのことです。よって、 この「創世記」が書かれた時代は、私たちと同じく朝が一日の始まりだったと思われます。 ということは、神は朝から創造を始め、夕方にはその日の仕事を終えられたということです。 だから「夕となり、朝となった」のフレーズで一日を終えているのだと思われます。  先日はインドの創世神話を参考にしましたが、日本にも天地創世神話があります。 私は日本人でありながら、この日本神話にはあまり詳しくありませんん。 反省させられます。後日、図書館かインターネットで調べたいと思います。(8.3)
 しばらくぶりです。絵を描いたり、文章以外のことに時間が取られていました。 メール読書会「創世記」一章9節〜13節 (その六)2005年8月17日 眼我真 日本の創世神話についてのメールをいただきましたが、詳しくは良く分かりません。 インターネットでも調べたのですが、すでに知られているものとして、文章に専門用語が 多く使われていて、知識のない私にはその言葉の意味さえ分かりません。 何が書かれているのやら?現代語訳の解説書を探さなくてはいけません。 神話の類なので、そゆうものと納得するしか、しかたないのかもしれません。  聖書に戻ります。9節から13節までは読めばそのまま、そうなのかと納得できる話です。 神は地と海を分けられたことが書かれています。地を「陸」と命名して、水の集まった所を 「海」と命名しました。ここでも神は「良しとされた」と記載されています。 これらのことは民族の起源を民に知ら示すことによって、民族の団結力を養っていたと 考えることは当り前のことかもしれません。以前「バビロン、フェニキア及び、 エジプトの伝説の影響が見受けられるそうです。1875年ジョージ・スミスがニネベの アシュルバニバル王の図書館の遺跡から発掘した楔形文字の碑文によって、バビロン人の 創造神話の全容がほぼ明らかにせられて以来、それが創世記第一章の記述の有力な母体で あることが認められるに至ったそうです。」と記載しました。聖書のこれらの記述も 種本(ニネベのアシュルバニバル王の遺跡)があり、それらを母体として創られている とのことです。これらの事実から、東西の文化交流が創世神話に影響していると考え られます。特に後からできた宗教や文明はそれ以前の古い文明や宗教に影響を受けて 当り前です。土着の原始宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、などお互い 影響し合っているところが必ずあるはずなのです。文明の交流があればです。 しかし、交流がなくても「101匹の猿」(前回メール)のように突然、必然性からか? 交流無しでも同時発生する事柄もあるとのことです。 これらは「進化?」に関わることなのかもしれません。人類の文明発祥もこれと同じく、 交流無しにそれぞれの箇所でほぼ同時発生したのでしょうか? 中国(揚子江)、インド(インダス川)、メソポタニア(チグリス、ユーフラテス川)、 エジプト(ナイル川)。宗教は文明と同時に発生したのでしょうか? 話が逸れてきました。11節「地は青草と、種を持つ草と、種類にしたがって種のある実を 結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。神が言われたことはその通りに実現することを 信じる者に伝えているようです。「神は見て、良しとされました。」実現したものを見て、 神は善し、悪しを判断されるとのことです。いまのところ「悪し」はでてきませんが、 後から出てくる「バベルの塔」や「ノアの方舟」では「悪しき者」を神は排除しています。 13節「夕となり、また朝となった。第三日である。」 一日は今でいう一日とは時間的感覚が違うものと思われます。24時間を一日と考えて いないのだと思います。仕事の区切りを一日の終わりと解釈しているものと思われます。 (8.17)
 流木作家・山根さんの肖像画ができました。その絵を日進市美術展に出品した後に、 さらに「椅子の森」inオズモールに出品することにしました。一粒で二度おいしい想いを したいと思っています。その後、山根さんにその絵を差し上げる予定です。流木アーチとの 物々交換がこれで実現しました。「よかった、よかった」です。  (8.19)
 お客さんから私の政治批評を聞きたいとのご要望があります。店では口頭で政治批評を していますが、文章では最近書いていません。今日はメール読書会の書き込みをします ので、後日興味が残っていれば政治批評をするかもしれません。 一時期マスコミをにぎわせていた記憶喪失の「ピアノマン」はすべて演技であって (これは事実)、ピアノ自体弾けなかった(これは噂の域)という話です。 情報の怖いところです。真実は何処に?選挙も誰の言うことを信じればいいのか? 狐と狸のだまし合いの様相もみうけられます。  メール読書会「創世記」一章14節から19節(その七)2005年8月24日 眼我真 14節の出だしに「神はまた言われた」とあります。神の言葉が万物を生み出したことを 意味しているのだと思います。「神は思われた」ではなく、「神は言われた」のです。 言葉に出して伝えることに、何かしの意味があるのだと思われます。 私たちも思うだけでは何事も起こらないのかもしれません。 まずは言葉に出して、他者に伝えることから始めなくてはいけません。 神は誰に何を伝えたかったのでしょうか? 推測するに、これらを記述した人たちは先人(メソポタニア)の言い伝えに ユダヤ民族のオリジナリティを盛り込んだものと思われます。  15節の「天のおおざらにあって地を照らす光となれ」の「光」は 三節の「神は『光あれ』と言われた。」の「光」とは違う光なのです。 15節で言うところの、大空にあって地上を照らす光とは発光体としての太陽をさして いるものと思われますが、三節の「光」は混沌とした何も無い宇宙空間に創造を もたらすところの「神の意志」を表わしているのだと私は解釈しました。 三節を創造の光(それを神の意志)と解釈したことによって、今日の箇所が 天体としての光(太陽)を造り出したと解釈できました。 16節の「大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、 また星を造られた」は太陽と月と星を創造したことが理解できました。 その前に「しるしのため、季節のため、日のため、年のため・・・」という文が あります。ここでいう「しるし」とは何をさしているのか? 季節、日、年を総称して「しるし」と記したのか? 新約聖書に出てくる「しるし」とは多くが神の奇蹟を意味しています。 神の意志の表われとしての奇蹟なのです。 そうするとここでの「しるし」を同じ意味と解釈すれば、神の意志を表わすために、 季節、日、年を設けたことになります。 農耕の盛んな地域では必ず、作物の収穫が終わると、収穫祭が設けられます。 収穫祭で天地を司るところの神様への感謝を表わします。 今日の箇所は人が造られる前に、季節などの変化を天体を創造することで準備していた ことを暗示しています。そこには神の「しるし」としての四季だったのかもしれません。
 昨日は是々堂のヤフー・メール連絡網でのガンガー情報を見て、常連さんが 来られました。効果を期待していなかったので以外でしたが、嬉しいことです。 是々堂さんありがとうございます。  夜は流木アーチストの山根さんが来られました。私が描いた彼の肖像画を見に 来られたのです。「椅子の森」inオズモール(是々堂企画)で彼の流木と私の描いた 肖像画でコラ・ボレーションすることになりました。    興味のある人は9月24日(土曜)25日(日曜)AM11:00〜PM:500 北区大曽根商店街、オズモールを探索してください。私の絵が何処かに展示されている はずです。山根さんの流木作品とコラボしているはずです。(8.24)
 メール読書会「創世記(その八)第一章20節〜23節 2005年8月31日 眼我真 20節の「鳥」と訳されている言葉は鳥類のみではく、昆虫などすべて空を飛ぶ生き物を 総称する言葉だそうです。21節「「海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物 とを、種類にしたがって創造し、・・・」「大いなる獣」とは原語「タンニニム」といい、 他の箇所では「竜」「龍」と訳されていて、水中の怪物を指しています。 「水に群がるすべての生き物」とは魚や水辺の爬虫類や昆虫も含まれているものと 思われます。「翼のあるすべての鳥」も20節の「鳥」と同じく、空を飛ぶ生き物の総称と 思われます。22節に今までにない言葉が出てきます。「神はこれらを祝福して言われた」 「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」 神が「祝福」として「生めよ、ふえよ」と言われたとのことです。ユダヤの民も神に 「祝福」をうけ「生めよ、ふえよ」と所どころで言われています。 アブラハムが神の命で息子イサクを捧げ物として殺そうとした箇所 (創世記第22章15〜18節)では 「・・・わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやし、 天の星のように、浜べの砂のようにする。・・・」とあります。人類の増加は神の祝福の 現われなのかもしれませんが、64億人は地球にとって脅威かもしれません。(8.31)
2005年9月の「思い」
 

 昨日は土曜日で、ライブがありました。火曜日と土曜日は夜遅くまで起きていられる ので(理由は・・・)、9時半に一応ライブは終わりましたが、それから11時半まで 内輪の二次会をして楽しみました。いつもは9時過ぎでわたしは店を閉め、明日の早朝の ために10時には寝ます。そのため演奏者の方々と語らうことがほとんどありません。 残念なことですが、生活のためですからしかたありません。藤村先生の「うたごえ喫茶」 も金曜日なので、終わるとすぐに店を閉め、二次会が出来ないのが残念です。その点 昨日はゆっくりと二次会を楽しめました。私の知られていない創作活動を演奏者の方に 語り、詩集や書き物、絵画などを、お見しました。シンガー・ソングライターのお二人は 私の詩集に興味をしめしてくださいました。ありがたいことです。これでまた繋がりが 少し広まった感じです。  第二回「うたごえ喫茶」の報告をしなくてはいけませんが、なにぶん今は書き込みを したくない気分?なので休筆中です。もう少ししたらまた書き出すものと思われます ので、それまでお待ちください。(9.4) 
 今日の朝、台風が心配なので、店の入り口横にある『すずなりの木』(勝手に命名) の枝打ちをしていたら、野バトが一羽、突然奥の枝から飛び立ちました。良く見ると枝の 合間に鳥の巣がありました。先日から歩道側に枝が重く垂れてきていたので「変だ?」と 思っていたのです。原因はこの巣とハトだったのです。ハトに要らぬ刺激を与えるのは 良くないと思い、枝打ちは早々にやめました。ツバメの巣、スズメの巣と、今度は 野バトの巣です。身近いに自然を感じられる幸せを感謝していました。わが家は鳥の巣の、 お宿なり。ところが・・・、午後あまりの強風に、心配になって大揺れしている木の 枝を見ていたら、その真下の歩道に卵が落ちて割れているのを発見しました。 「ああ・・・、だめだったか・・・。」自然の厳しさを知らされました。卵の割れた箇所に 蟻が群がっていました。こんな細い木の枝ではしょせん無理だったのかもしれません。 他だ、台風さえ来なければ、もしかして無事だったかもしれません。残念ですが、これも 自然なのです。蟻がご馳走に預かっています。(9.6)
 メール読書会「創世記」(その九)第一章24節〜31節 2005年9月6日 眼我真 24節 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、 地の獣とを種類にしたがっていだせ」。 「いだせ」がいままでにない表現方法です。神が直接、家畜、這うもの、獣を創造した のではなくて、地に「いだせ」と命じて、これらの生き物を造らせたということですから、 家畜、這うもの、獣は地から生みだされたことを意味しています。 二章4節後半〜24節では一章1節〜ニ章4節前半のP資料(祭司典)と違うJ資料(エホバ 典)からの記述です。そこでは人が「土のちり」から造られたことが書かれています。 地上の生き物は地から生み出されたことを象徴しているのかもしれません。 P資料とJ資料で記述が違いますが、聖書はそのまま違いを記載しています。矛盾をそのまま 手直ししないで記載しているところに深い意義があると思っています。 大切なことはP資料、J資料どちらが正しい、正しくないではなくて、共に伝えたい ことは神の意志が働いて、この地上に人類が生み出されたということです。表現が細やか 表わされているか、大ざっぱな表現であるかの違いといえばいいのか? 後日、この問題はあらためて考察したいと思います。 25節は24節の説明文です。26節に人の創造が出てきます。神はまた言われた、 「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、・・・」 「神がまた言われた」のフレーズは一日一回しか使われていなかったのに、今回は一日で 二回このフレーズが使われています。24節「地は生き物を種類にしたがっていだせ。」と 26節の人の創造を分けて記載する必要があったからだと思われます。それだけ人の創造が 重大ということです。 27節は26の説明文です。「かたち」は外見を意味しているのか? 注解書では「かたち」は「霊」を指していると書かれています。神は霊的存在であって、 肉体を持たないからというわけです。 27節では「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、 男と女とに創造された。」 この「かたち」の問題も重要な意味が含まれていると思われますので、後日考察したいと 思います。今日は時間が無くなりました。 できたら明日書き残しを書き進めたいと思います。(9.7)
10月
 
 久しぶりです。このまま書き込みが消滅してしまうのかと?私自信不安に思っていました。 張り詰めた精神が休養を欲した結果の休息と理解していただければ、幸いです。 毎年、一、二回はこの現象が現われます。鬱(ウツ)の時期なのかもしれません。 そろそろ、その期間も終わりそうです。 ラジオの音楽番組を聞いていたら、関口由紀というシンガーソングライタの初アルバムの 紹介がされていました。「隠れ家」という曲を聞きましたが、中島みゆきを思い起こさせる 内容でした。歌唱力も有り、聞く側に訴えてくる音楽力?があります。ただ、中島さんの 後追い的イメージが私の中では起こりました。中島さんとは違う何かが表現されてくる ことを期待したいです。一青窈(ひととよう)さんとこの関口由紀さんは私の中での 注目株です。  一青窈さんの新曲「カザグルマ?」をテレビで拝聴しましたが、ちょっと違うのでは ないかと、いままでの彼女の良さ(日本語発音の新しい解釈というか、いままでにない アクセントがわたしにはとても斬新な印象を与えました。それは、言い替えれば日本語を 大切にしていることなのです。外国育ちだからという一面が、逆に日本語を意識させて いるのだと思います。)が少し外れてきたような気がしました。そのときは曲よりも 彼女の容姿に気をとられて、曲をしっかり聞いていなかったので、なんとも言えないと いえばそうなのですが、・・・。彼女は純和服を着て歌っていました。亡き母親が和服好き だったからかもしれません。これもちょっと違うのではと、私の中では国籍不明だけども、 日本人の心を歌う、謎めいた印象(テレサ・テンさんのような)を持ち続けてほしいのです。 「カザグルマ」の詩の内容を理解していないので、私の推測は外れているかもしれません。 (やっと復帰できました。読書会も継続させていきますので、数日の内に再開します。) (2005.10.9)
 野田聖子衆議院議員が郵政民営化法案に賛成を明言されました。 厚顔無礼な女性(ひと)です。先の民営化法案反対による選挙戦では多少同情していましたが、 所詮(しょせん)自己の保身からの民営化反対運動だったのかと推測してしまいます。 民営化反対で当選されたことをどのように思われているのでしょうか?静岡で片山さつきに 700票差で負けてしまった同じく民営化法案反対を唱えた城内さんを見習いなさい! 城内さんは落選後の私生活で、落ちたことを善い経験にして、さらに「人間力」を強めたい と語っていました。私はその素朴な人柄にひかれました。彼がもし当選していたら、 除名を恐れて野田聖子のような尻尾を振って、許しを乞うよることはしないはずです。 潔く除名せれることでしょう。何が日本のサッチャーですか! あの選挙戦は演技だったのでしょうか?多分そうでしょう。だから、除名怖さに反旗を 撤回したのです。厚顔無礼な女性です。  先日国会討論をラジオで聞いていましたら、竹中国務大臣の答弁が大変要を得ているのに 驚きました。民営化推進の旗頭ですから、次期総理候補者のダークホース的存在として 上げてもいいかもしれません。  昨日はいろいろな方から励ましを受けました。本人はそのことを意識してないかも しれませんが、それらの何気ない言葉が、私には復帰のきっかけになりました。 ありがとうございました。(10.10)
 以前(7月15日)、息子の尿道結石の件で書き込みをしました。 某病院では「すぐに手術をしなくては、石を取り除く方法はありません」と明言され、 おかしなことを言う医者だと思い、セカンド・オピニオンを使って、病院を変わった ことを書き込みでお知らせしました。変わった先の八事日赤病院の医師は「薬で落ちる かもしれませんから、衝撃破の予約順番が来るまで(半年先)薬を飲んでください」と 言われました。すると医者の言われた通りに石は落ちたのでした。9月の半ばごろでした。 息子が「学校でトイレの時に落ちたよ!記念に持って帰ったから」といって5ミリほどの 薄い円形の塊を見せてくれました。薬で落ちたのです。最初の病院が金儲け主義の ヤブ医者だったことがこれで証明されました。みなさまヤブ医者の言うことにはくれぐれも 注意されますように。誰がヤブ医者か?患者側の判断力が問われます。医者に関わらずに 何事も真実を見抜く力を養いたいものです。まずは「なぜ?」という疑問をいだくことです。 今回の件でいえば「なぜ手術しか方法は無い」と言うのか?まず疑問を抱いたことから 始まりました。医療に詳しい知人や医師を知っている知人などに質問を聞いてもらう などして情報を得る。あとインターネットや本で関連記事を調べる。おかしな点が はっきりしたら、強い意思を持って、病院、医者を代えることをお勧めいたします。  息子は体質的に石が出来やすいので、予防のための薬を今も飲んでいます。石の種類に よっては弱アルカリ性で溶けるものがあるとのことです。多分そのへんの薬と私は判断 しています。体質を弱アルカリ性にするところの薬ではないかと思っています。飲食物と しては紅茶が良くなくて、梅干しがいいとのことですが、息子はまったくこのへんの ことは無頓着で、夜遅くまで勉強するときは紅茶をよく飲んでいます。???(10.14)
 今朝、一本の電話が掛かってきました。長野の諏訪に住んでいらっしゃる方からです。 「10年ほど前、ガンガーで買った『みんな宝物』という木版画をまた買いたいのですが、 作者を知りませんか?」という突然の電話で、最初何を言われているのか理解できません でした。「10年前の木版画」ということで、うっすらと記憶に残る作者が思い起こせ ました。素人なのですが、あったかい作品で印象に残っている方です。 その方が「みんな宝物」という作品の内容を話されていくうちに、私も確信が持てました。 「その作品を知人に進呈してしまったので、今は手元に無く、忘れなれない作品なので、 もう一度買いたい」とのことでした。 私としては電話をされている方が誰なのかという疑問があったので、彼のことを聞きました。 当時ガンガーの近くの蕎麦屋で働いていて、ガンガーの常連だったとも言われました。 はっは〜、思い出しました。彼のことも鮮明に思い出しました。点と点が繋がって線と なってきました。10年前の記憶がよみがえってきました。 ただ、過去の展覧会の申込書が残っているかどうかです。木版画の作者も個展後1〜2年 ほどして店には来られなくなっていたのです。連絡方法はその申込書に書き込まれている であろうところの連絡先しかないのです。10年は一昔です。残っていることを祈るだけ です。整理整頓がいいかげんな私としては、申し込み書の控えをまとめているファイルを さっそく調べました。6〜7年前のものは有るのですが、10年前は??? 束になっている申込書を調べていくと、有りました。有りました。9年前でした。 「かなだひろつぐ」安城市の方でした。ただ、今もここに住んでいるかどうかです。 さっそく記載されている電話番号に掛けてみました。すると、奥さんが出られ、 「かなだひろつぐ」さんの自宅でした。よかった!事情を説明すると、 「主人の作品に『みんな宝物』という作品があり、子供二人がおもちゃで遊んでいる姿を 表現しています。今は目が悪くなったので。まったく版画は作っていない」とのことでした。 確かに間違い有りません。長野の方が言われた内容と同じものでした。 9年ぶりの再会です。その後すぐに、待ちかねているだろう長野の方に結果の報告を しました。作者に連絡がついたことを彼に知らせると、よほど嬉しかったとみえ、時たま 感極まって涙声になりながら話をされました。よかった、よかった。 昨年9月に父親が亡くなられたとのことです。それで、跡継ぎだった彼は諏訪に帰省 されたとのことです。名古屋での生活の思い出が込められた作品だったのかもしれません。  寒くなると客足が遠のきがちになります。責任が重くのしかかってきます。奇策はない ものと思い、おいしいカレー作りに精を出したいと思います。カレーうどんも考えていますが、 目先を変えるだけで、集客につながるかどうか?疑問です。何もしないで、ずるずると 落ち込むよりはいいかもしれません。お客を増やす良い案でもあれば私までお知らせください。 展覧会やライブで集客を増やす手もありますが、私自身が落ち込んでいて、いま一つ 活力がでてきません。書き込みをしなくなったのと、落ち込みは同時進行だったのかも しれません。まずは書き込み、眼我通信、読書会といままでやってきたことを復活させる ことが、先決なのかもしれません。  小泉さんが靖国参拝に行かれました。いままでと違い、参拝方法を私的なものとして 中国、韓国からの批判を少しでも和らげるようとしていることは理解できますが、 A級戦犯合祀の問題が解決されていない現状をかいま見たとき、言い訳をいくら言っても、 相手国(中国、韓国)に理解されないのはしかたのないことです。改革、改革と言いながら 靖国問題の改革?をしないで、中国・韓国政府の発言に対して「理解に苦しむ」という 彼の言い方は、一種の詭弁(きべん)にすぎません。彼の得意業(わざ)です。 郵政民営化の時もそうでした。法案の内容を問うのではなくて、民営化という言葉の持つ イメージで是非を問うという詭弁で、法案の内容を消し去さりました。 この小泉マジック(詭弁)で選挙に大勝しました。靖国問題ではこの詭弁は通じません。 開き直るのなら、ストレートに「中国・韓国政府の発言は内政干渉」という方がまだ 分かりやすいです。(10.19)
 ダイエットすることをここに宣言いたします。 中年太りのせいか知りませんが、体調が何か?いま一つおかしいのです。体は中年に なっているのに食欲は以前と同じく、旺盛なのです。これが体のバランスを崩している のではないかと自己判断いたしました。先ずは5キロ減らすことにいたします。 今年中に達成させたいと思っています。第一にやることは、間食を止めて、腹筋運動と 適度の体操を毎日繰り返すことにします。常連の知人は糖尿病を発生させてから、 食生活の節制と運動で見事に病気を克服しています。以前は85キロ程あった体重を 72キロまで絞り込み、お腹が割れてきた(筋肉質になったということです)と 自慢しています。毎週日曜日は自転車で1時間程かけてガンガーに来ては、チキンカレー の普通盛りを食べて帰っていきます。以前は大盛りにナンを追加する大食漢でしたが、 体が引き締まってくると、かえって大食もなくなってきたとのことです。 彼を見習って、私も割れたお腹を目指したいと思います。(10.20) 
 昨日は、古い知り合いと、以前展覧会をされた古いお客さん(19日書き込みの版画 作者)が続けて来店されました。古い知り合いとは12〜13年前瑞穂の店でバイト されていた女性です。結婚され子供さんが二人も出来ていました。ご主人とは結婚される 前(9〜10年前)に一度来られたきりではないかと記憶しています。昔話に花?が 咲きました。版画作者とは諏訪からの電話についの話(19日の書き込みをお読みください) となりました。「制作を止めていましたが、彼の電話に刺激され、また作ろうかと 勇気をいただいた」というような話をされていました。私も勇気をいただいた思いです。 ガンガーの店を閉店することなくやってこれたからこそ、このような話に出会えたわけ です。今年の6月はいろいろな事情から、一時閉店も考えましたが、いろいろな方の 励ましと援助で、現在もどうにか継続できていることに感謝いたします。 継続は力なり、マンネリという負の要素も付きまといますが、プラス思考で前進したい ものです。  息子の誕生日が24日です。誕生日祝いというわけではないかもしれませんが、今日 新しいエレキ・ギターを買いに大須へ行きました。常連のお客さんでギターに詳しい方が 息子といっしょに、お値うちで、良いギターを探してくださるので、親としても安心です。 自分のお金5万円と親からの誕生日プレゼントとしての1万円、計6万円で中古のギター を探しに行きました。良いギターが見つかることを期待しています。息子のお下がりで そろそろギターの練習でも始めようかと思っています。(10.23)
先週から古いお客さんがよく来られます。昨日は6年ぶりのお客さんでした。 一目で分かったので、お客さんの方が「よく覚えてるね〜!」と感心していました。 瑞穂の店からの常連さんでしたが、こちらに移転してからは6年前に一度来られた きりでした。今日も昼に12〜13年前、瑞穂の大谷高校生の時に食事に来たという 男性が、お腹の大きな奥さんといっしょに来られました。一体これは何でしょうか? 「頑張れ!」という神様の励ましなのでしょうか? 六日の間に四人の懐かしいお客さんが来店されました(一人は電話でしたが)。(10.25)

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