2005年12月の「思い」(11月29日30日も含む)


12月のイベントのお知らせです。 12月9日 第6回「うたごえ喫茶」夜7時から9時過ぎまで       司会進行・伴奏 藤村記一郎 ¥1000円(ドリンク付き)   23日 ヒンドゥー&アラビアンナイト        バリダンスとベリーダンス(エジプト)無料       夜7時〜(30分ほど)   30日 塚本裕子(ひろこ)個展イベント       ヒンドゥー影絵       ペルー民族ダンス       ライブ など 無料       夜7時30分〜9時 
12月31日は昼の12時から14時までガンガー・ファン感謝ディーとして ¥600円でカレー、ナン、ライス食べ放題とします。(予約制)
セルフサービスとしますので、皆さんのお越しをお待ちしています。 忘年会を兼ねた新企画です。 大晦日、忙しい人や帰省される方は無理かと思いますが、 暇な人、またはガンガーのカレーが大好きな方々は、ぜひお越しください。 一芸に秀でた方(歌とか演奏など)で、当日ガンガーで披露していただければ、 特別サービスも考えています。大晦日はガンガーのカレーを堪能して、一年の 締めくくりといたしましょう!  「アメイジング・グレイス」についての記事を読みました。 先日亡くなられた本田美奈子さんがよく歌っていた曲です。賛美歌第2編167番。 18世紀に英国の奴隷商人だったジョン・ニュートンが嵐に遭い、神に祈り助かった ことで、「こんあ愚か者をも救ってくださった」と作った歌だということです。 賛美歌だとは思いもしませんでした。第2編の賛美歌はどのような組織の教会が作り 出したのかさえ知りません。私が知っている賛美歌は第1、第2と別れていない、 ただの賛美歌です。 インターネットで賛美歌第2編とはどのような物なのかを調べてみたいと思います。 (11.29)  
 インターネットは情報源としては便利なものです。「アメイジング・グレイス」 ありました。ゴスペルと思われているようですが、元々はイギリスの賛美歌です。 作詞者のジョン・ニュートンは元・奴隷船の船長で、後に改心して39歳で 英国国教会の牧師となります。イギリスのオルニーという小さな町の教会で16年間 牧師をします。16年の勤めの間、詩人ウィリアム・クーパーと二人で書いた賛美歌は 「オルニー賛美歌集」として1779年に出版されました。 「オルニー賛美歌集」には280の彼の詩が収録されていて、「アメイジング・ グレース」は1760年から1770年の間に曲がつけられ、教会の礼拝で歌われて いたようです。この曲は、ゴスペル(黒人霊歌)としてもよく歌われています。 奴隷売買から改心した男の作った詩が、虐げられた黒人を慰める歌として歌い継がれて いる事実は、彼の改心が神の導きによるものであったことを意味しているのかも しれません。  
 メール読書会「創世記」(その12)第二章15節〜24節2005年11月30日 「エデン」の語義については諸説があるそうです。「楽しき」を意味するヘブル語の 語根を有すると解され、「エデンの園」は「楽園」である。 他の一説では「エデン」はバビロン語の「荒野」を意味する語と関係があり、 「エデンの園」は「荒野、砂漠のオアシス」を意味するとも解されています。 15節、「耕させ」「守らせ」神が命令として指示したということです。 何を耕し、何から守ったのか? 言い伝え(伝説)としてこれらのことを理解すべきです。 18節以降の解説は進化論からすると矛盾しています。7節にある人の成形もまた、 進化論からすると、まったく科学的ではありません。ただ、死後人の肉体は土に、 魂は天に帰るということになると、「土から作り、命の息を鼻に吹きいれた」という 人成形の成り立ちには、それなりの意味があると思われます。 当時の人達はこのような思いで神、人を捉えようとしたということです。 16、17節に神の禁止命が出されます。17節「善悪を知る木からは 取って食べてはいけない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」 9節では「命の木と、善悪を知る木」と明記されていますが、禁止されたのは 善悪を知る木だけということです。ここもおかしなところです。3章22節24節の 記述からすると当然「命の木」も取って食べてはいけないと言うはずです。 記述ミスと考えるべきかもしれません。 18節〜20節すべての生き物が土から作られたことになっています。 21節、実際男の肋(あばら)骨は女の肋骨より一本少ないのです。 事実が先にあって、その事実を利用してこのような創造伝説となったのか? 23節24節は結婚式などでよく使われる箇所です。 「男から取ったものだから、これを女と名づけよう」 男(ish イシ)より取りたる者なれば、女(ishshah イシシャ)と 名づくべし。学者の研究のよるとイシとイシシャとは語源的には関係がなく、 創世記の記事はイシシャの語源を正確に説明したものというよりも、単なる言葉の 綾であろう。  私の好きな言葉に「欠けたるを補う」という聖書の言葉があります。 男の欠けたるを補うのは女であって、女の欠けたるを補うのは男なのだと思います。 結婚とはその欠けたるものを補う行為なのかもしれません。  パソコンのフロッピー確認が正常に作動しないことがあります。そろそろ寿命かも しれません。このパソコンは製造されてすでに10年以上経過しているはずです。 先週のプロッピー異常もその前兆だと思われます。今日もフロッピー異常が発生 しました。さてどうするか?(11.30)
 パソコンをだまし、だまし使っています。フロッピー異常の原因は分かりませんが、 異常を訂正する操作方法をみつけました。このやり方だと、まだ使えるので、 しばらくこのまま使用することにしました。  遅くなりました。やっと眼我通信14号が出来ました。 14号だけの特種(イエスの誕生日は12月25日ではない!)も記載されています興。 興味のある人はガンガーの店で購読してください。(12.2)

メール読書会「創世記」(その13)第3章1節〜7節 2005.12.7 1節で「・・・ヘビが最も狡猾(こうかつ)であった」 ヘビがなぜ悪の手先のような生き物として描かれているのか? 誰かが女を誘惑しなくては人の歴史は始まらなかった、という発想でみるならば、 同じようにイエスを裏切ったユダも選ばれし使徒だったということができます。 ヘビもユダも神によって与えられた役を忠実に勤めたというふうに解釈できなくも ありません。すべては神の計画?なのかということになりますが、それは違うのでは ないかと思います。最初の条件設定は神がされたのですが、後は人の自由意志に まかされたのだと私は解釈しています。  エデンの園の中央になぜ食べてはいけない二つの木(命の木、善悪の木)を 設けなければいけなかったのか?疑問が幾つか起こってきます。一番の疑問は 「神は何故、自由意志を持った生き物として人を作られたのか?」です。 すべてはここから始まっています。もう一つの疑問を上げるとすると、 人を誘惑する生き物(ヘビ)を神は何故作られたのか?ということです。 温室の中のペットとしてではなく、自分に近い生き物として自由意志を持った人を 作り、この地球を創造した後、すべてを人に任せることを決意されていたから、 このような試練を与えられたと理解すべきなのかもしれません。これらを、作られた 側の人の立場で考えた場合、いまある苦労は人の選択した結果の自己責任であると 考えた方が最も納得しやすいのです。よって、ユダヤ民族を納得させるための 「エデンの園、ヘビ誘惑物語」ということになるのかもしれません。 ヘビがなぜ悪者なのか?この疑問は残ります。 ヘビではなくてカエルでも、イアタチでもよかったのです。ギリシャ神話にヘビの 頭をもった邪悪な女神?が出てきます。砂漠地帯ではヘビは嫌われた生き物だったので、 誘惑の手先として使われたのかもしれません。日本や中国などでは蛇は神だったり します。この辺は地域性が出ているのだと思います。(文が多少入り乱れて、読み ずらいかもしれません。書きながら、整理するのが私の書き方なので、同じような ことを繰り返して書いてしまいます。書き終えた後に推敲すればいいのですが、 案外いいかげんで、書いた物を放置してしまいます。ご了承ください)  ヘビの語り方は巧みです。「・・・ほんとうに言われたのですか?」質問形式で 問いかけます。ヘビが「語る」ことも不思議です。エデンでは動物も人も同じ言葉で 会話していたのでしょうか?それともこのヘビだけが語ることができたのでしょうか? 2節女の返事に「・・園の中央にある木については、これを取ってたべるな、これに 触れるな、死んではいけないからと、・・・」とあります。 2章16、17節の神の言葉と多少違います。17節では「善悪をしる木からは 取って食べてはいけない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」となって います。ここでも疑問が出てきます。 「死」の意味を人は理解していたということです。「死」は善悪の木から実を 取って食べた後、神に見つかりその罰として人に与えられたとなっています。よって、 この時点ではまだ人は「死」の意味されも知らないはずなのです。伝説ということで 矛盾は矛盾として放置していいのかもしれません。もっと違う視点で解釈することも できるかもしれませんが、言い訳をするような解釈ではいけないと思いますので、 解らない事は解らないとして残しておきます。 4節ヘビの言葉が巧みです。まず、「死ぬ」ことはないと明言をします。さらに 食べれば、神のように善悪を知る者となりるでしょうと誘惑します。ここでも矛盾が あります。「善悪」という言葉です。善悪の意味をすでに知っていたということです。 エデンの園の中で、すでに悪が存在したのでしょうか?このヘビの誘惑までは、悪は 存在していないようにみうけられます。どこにもそのような記述はみあたりません。 後世の人が創造しながら言い伝えとしての伝説を作り上げたと考えてもいいと思います。 ただ、そこに神の導きによる「信仰」があっての創造だったということです。 7節「・・・裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に 巻いた。」性に目覚めたということです。エデンの園では子孫を増やす必要が なかったので、神は人にその能力を与えていなかったのです。これから神に罰を受け、 エデンの園から追放される時点で、人は人類としての使命をおび、子孫を増やすこと になるのです。その先駆けとしての性の目覚めなのです。 この辺はよくできた筋書だと思います。(12.8)  
 メール読書会「創世記」(その14)第3章8節〜15節2005.12.14  8節「人とその妻」とあるように園では彼等しか人類は居なかったことになります。 神の足音や顔というように神を人と同じような者として表わしています。 1章27節に 「神は自分のかたちに人を創造された」と記されているこを裏付ける記述です。 3章の方が古い資料なので、これらを読んでいた者が1章27節で敢えて 「神は自分のかたちに人を創造された」明記したのかもしれません。 15節が重要です。「おまえと女とのあいだに」恨みを置く、とはどうゆうことか? 「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」ここが重要です。 そのまま読めば、「彼」とは男のことで、「おまえ」はヘビということになります。 「男はヘビのかしら(頭)を砕き、ヘビは男のかかと(踵)を砕くであろう」と いうことになります。 神は女とヘビの間に恨みを置き、男はそのヘビの頭を砕き(殺し)、 ヘビは男の踵を砕く、ということです。 旧約聖書が編集されたのは紀元前440年ごろということは、研究者の間では 一般的に認められていることです。 紀元前のこの記述がイエス(メシア・救い主)の使命を明記しているのです。 偶然なのか? ここでいう「彼」とはイエス(彼が男ではないことは17節に人=男として 記述されていることから解ります。突然ここで彼が出てくるのです?)、 「おまえ」をサタン(ヘビ)と置き換えてみてください。 「神は女とサタンの間に、恨みを置き、イエスはそのサタンの頭を砕き、 サタンはイエスの踵を砕く」となります。 イエスが十字架に掛けられて刑を受けたとき、当時のローマ帝国による十字架刑では、 罪人の踵を砕くということが普通でした。したがってイエスもハンマで踵の骨を 折られるところでしたが、すでに死んでいたので、折られることはなかったのでした。 (ヨハネによる福音書第19章32節と33節参照) イエスが死んで三日後に復活することで、イエスはサタンの頭を砕いたことに なるのです。「死」を克服されたことで、サタンの企みを砕いたということです。 しかも、神と女の間に置かれた恨みをもこの復活によって、払拭したのではないかと 私は解釈しています。 このように編集から440年後に起きたイエスの十字架上の死に様と、 (死はヘビ=サタンの誘惑によって、禁止されていたことを破ったことへの神の怒り として、人にもたらされたと考えたとき)イエスによる死からの復活で、 サタンへの勝利を暗示しているのです。 この箇所が後世、つまりイエスの死後に誰かによって書き加えられたとは、 到底考えられません。なぜなら、この旧約聖書はユダヤ教の唯一の聖典であって、 イエスを殺したユダヤ教徒たちの書物だからです。イエスをメシア(救世主)と 考えてないユダヤ教徒が旧約のしかも最初の記述箇所である創世記にわざわざ 自分達が殺したイエスの死に様、とくに死後の復活を認めていないのに、それらを 暗示するような表現は決してしないはずです。少し深読みかもしれませんが、 私としては上記のような解釈が最も納得できるのです。 くどいですが、今日のおさらいをします。 「イエスはサタンの頭を砕き、サタンはイエスの踵を砕くであろう。」 「サタンの頭を砕く」とはヘビ(サタン)によってもたらされた死 (次回読むところの19節に「ついに土に帰る」と記されていることから 人に死が与えられたと解釈できます)からの解放を意味します。これはイエスが 十字架上で死んだ後、復活したことで、神の恨みによって与えられた「死」から の解放による「死なない命」が人類に与えられたことを暗示しています。 「死なない命」については時間の余裕があれば次回でも記載したいと思います。 イエスの踵を砕くは、十字架に掛けられることを暗示していると思われます。 しかし、イエスは砕かれることはなかったのです。(ヨハネによる福音書第19章 32、33節)(12.14)
 「検証・戦争責任 5」某新聞の今朝の記事から。 「皮相な帝国外交、世界の潮流見誤る」という見出しの右端に歴史学者 北岡伸一さん のインタビュー記事が載っていました。「洞察力を欠き責任も分散」という題名で、 その最後に戦争責任の問題はどう考えたらいいか。という問いに、彼は「負ける戦争を する決断をした人間に最も責任がある。外交では、いかに賢く振る舞うかが重要な基準だ。 当時の日本は軍国主義ですらなかった。本当に軍国主義なら、もう少し軍事的に勝て そうな判断をしただろう。国際政治は生き馬の目を抜くようなところで、相手が悪いと いっても始まらない。だまされないようにすることが大切だ。」 意味が理解できないのは「軍国主義なら、もう少し軍事的に勝てそうな判断をしただろう」 というところです。「勝てそうな判断」?これは間違いで「勝てるかどうかを判断」 が正しいところだと思います。言っていることは当り前のことです。ただ、最後の 「国際政治は生き馬の目を抜くようなところで、相手が悪いといっても始まらない。」 の記事を読んで、意を得たりといった思いです。桜井よしこがやたら米国側の非を 論じていますが、戦争に踏み出した当国が負けたからといって、戦争に踏み出さざるには おれないような環境を作ったと言って相手国(米国)を非難するのは、おかしな論理だと 思いました。一時、桜井さんを支持していましたが、柔軟性がみられない論理に 多少反論したくなります。あと新聞の記事の中に「ハル・ノートには中国からの撤退と 書かれていたが、満州国をも手放すようには明記されていなかった」米国の玉虫色記載は 譲歩の余地を残していたのではないかというような書き方をしていました。要は米国との 外交の駆け引きをすることなく、戦争へと突き進んだ政治的無策を非難していました。    一昨日のメール読書会で、紀元前440年にイエスの出現を予言していたという ことを書きましたが、あれはイエスというよりはメシア(救世主)が現われることを 表現していたと言うべきでした。神の怒りの中に救いの予言(メシアの出現)がなされ ていたと言うべきでした。 クリスチャンはイエスをメシアと信じ、ユダヤ教徒はメシアと信じていないのです。 イエスがメシアである裏付けの一つに、この「踵を砕く」があるのです。 ローマ帝国における十字架刑は、十字架上で罪人の脇腹あたりに槍を刺し、すぐに 死なないように、苦しみながら、長時間かけて出血させ、弱らせて殺すという、当時 最も残酷な処刑方法だったのです。数時間経って、意識を無くした罪人の死を確認する 方法として、ハンマーで足の骨を折って、罪人が確実に死んだかどうかを確かめていた のです。イエスの場合は6時間?ほど出血し続けていて、最後に一言語られ、 首をたれて息を引き取られました。これらの一切を見ていた兵卒たちは、死んだ者の 骨を砕く必要はないとのことで、イエスの足の骨(踵)を折らなかったのです。左右に 掛けられていた罪人は折られたと「ヨハネによる福音書」に明記されています。 メシアが十字架上で死を迎えることを予言して「踵を砕く」と書かれていると、 解釈するのがイエスをメシアと信じるキリスト教側の主張の一つなのです。 (旧約聖書が編集された紀元前440年にはローマ帝国の十字架刑は存在して いません。) なぜメシアかといえば、「ヘビの頭を砕く」とあるからです。前回、すでに説明して いますので、この説明は省きます。(12.16)   
 ユダヤ教徒にとって、イエスは偽メシアであって、いまだこの創世記に書かれて いるところの「サタンの頭を砕き、踵を砕かれる」ところのメシアの出現を待ち 望んでいるのが現状です。  今はまっているテレビ番組があります。NHKで放映されている韓国ドラマ 「チャングムの誓い」(大長今)です。毎週土曜日夜11時からの再放送(一時間番組) を見ています。ただ、先週?あたりから年末アンコール番組としてNHK衛星第2 放送で総集編として放送されていました。たまたまその総集編を見たのが、毎週土曜日 に見ていた二週先からだったのです。ようは二週先から、その先を毎日二週分づつ 見たことになります。ただ、アンコールの放送時間は夜8時から10時までなので、 私は9時からの一回分しか見ていません。一回一回、抜け落ちた放送を見ていることに なります。それでもストーリは理解できるので、それなりに楽しんでいます。 土、日はそのアンコール番組がないので、今日の夜(土曜日)は毎週見ていた再放送に 逆戻りになります。分かりますか? アンコール放送でずっと先を一回抜きで見て、土曜日の夜は再放送の毎週分を一週間 ごとに、一回分を見るということです。変な鑑賞方法ですが、しかたありません。 誰かビデオに録画していたら、お貸しください。結末はハッピーエンドだと思って いますが、悪役の方々がどのような終わり方をするかが、興味あります。陰謀策略の 宮中で自己の存在意義を忍耐強く、可憐に表現していくチャングムに感動を受けます。 「冬のソナタ」は見たこともありませんが、「チャングムの誓い」とは異質ではないかと 自己判断しています。  毎週土曜日の夜NHKで放映されている「チャングムの誓い」は衛星放送で放映完了 したものの再放送だと思います。私はNHKの再放送を見ていたら、衛星放送で総集編 を放映していることに気付き、たまたま再放送の二回分先の放送から総集編を集中して 見てしまったことになります。それも一回ごとに抜け落ちた番組を見て、感動している という変な鑑賞のしかたをしています。今日の書き込み理解できましたか?(12.17)  
 映画鑑賞が趣味というお客さんが来られたので、もしかと思って、韓国ドラマ 「チャングムの誓い」の話を向けたら、すでに衛星放送で見終わったという返事が 帰ってきました。「やった!」。総集編の前編が終了したころに、特番でパネリスト らによる前半の鑑賞会みたいなものが企画せれていました。私はたまたまそれを見て いたので、すでにこのドラマは完了していることをそのときに知りました。ただ、 これから後編が放映されるので、後半の具体的な話はでてきませんでしたが、会話の 合間から洩れてくる情報を分析して、私はある程度の推測を立てていました。悪役の 終わり方がどのようなものか?いま一つはっきりしなかったので、すでに見終わって いるお客さんに二、三の質問をしました。はあ、はあ〜ん・・・。読めました。 ただ、この物語が実話であることは知りませんでした。多少、誇張されているかも しれませんが、実話とは驚かされました。 権力闘争による陰謀に巻き込まれ、奴碑(ぬひ)という最下層の身分に落とされた 女性が復讐、汚名を晴らすために医女になって宮中に戻り、すべてを成し遂げた後、 得た権力や地位などに惑わされることなく、宮中を去り、愛する人と結ばれ、 一女性としての平凡な幸せをつかむ(子供をもうける)。人の本当の幸せとは何かを 問うドラマだと思います。衛星放送が見ることができない人は、NHKで土曜日夜 11時10分から毎週放映されていますから、時間のある人は見られることを お薦めいたします。前半の終わりあたりからの鑑賞になるかもしれませんが、 いまからでも十分楽しめます。  もう一つ今話題になっている韓国での大事件は「ES細胞ねつ造」です。 ソウル大の黄禹(ファン ウ)ソク教授の研究成果ねつ造疑惑。事実が判明するにつけ 歴史に残るねつ造となる可能性が大です。国の威信をかけた黄教授の世界的成果が 地に落ち、国家を上げての片寄った教育熱がもたらした落し穴とも言えるかもしれません。 「チャングムの誓い」で、旧勢力であるチェ一族の没落は陰謀、策略による陰湿な 権力維持にあったのだと思います。真実を追い求めるのではなく、結果のみを追い 求めたことによる堕落が一族の没落を招いたのです。黄教授も結果のみを追い求め、 引くに引けなくなって、弱い自分に負け(強度疑惑の姉歯元建築士の言い訳)、 ねつ造したのだと思います。黄教授はアメリカに行かれていたので、 「チャングムの誓い」を見ていないのかもしれません。 祖国の良き先人であるチャングムを見習うべきでした。(12.19)
メール読書会「創世記」(その15)第3章15節 2005.12.25 (クリスマスの日) 前回の読書会で、紀元前440年にイエスの出現を予言していたということを 書きましたが、あれはイエスというよりはメシア(救世主)が現われることを表現して いたと言うべきでした。神の怒りの中に救いの予言(メシアの出現)がなされていたと 言うべきでした。 クリスチャンはイエスをメシアと信じ、ユダヤ教徒はメシアと信じていないのです。 イエスがメシアである裏付けの一つに、この「踵を砕く」(創世記3章15節)が あるのです。ローマ帝国における十字架刑は、十字架上で罪人の脇腹あたりに槍を刺し、 すぐに死なないように、苦しみながら、長時間かけて出血させ、弱らせて殺すという、 当時において最も残酷な処刑方法だったのです。数時間経って、意識を無くした罪人の 死を確認する方法として、ハンマーで足の骨を折って、罪人が確実に死んだかどうかを 確かめていたのです。イエスの場合は6時間?ほど出血し続けていて、最後に一言語ら れ、首をたれて息を引き取られました。これらの一切を見ていた兵卒たちは、死んだ者 (イエス)の骨を砕く必要はないとのことで、イエスの足の骨(踵)を折らなかったの です。左右に掛けられていた罪人は折られたと「ヨハネによる福音書」に明記されて います。メシアが十字架上で死を迎えることを予言して「踵を砕く」と書かれていると、 解釈するのがイエスをメシアと信じるキリスト教側の主張の一つなのです。 (旧約聖書が編集された紀元前440年にはローマ帝国の十字架刑は存在して いません。)なぜメシアかといえば、「ヘビの頭を砕く」とあるからです。 前回、すでに説明していますので、この説明は省きます。  クリスマスなので、一言。 いまメール読書会で読んでいる「創世記」は旧約聖書の最初に出てくる話です。 旧約とは読んで字のごとく、古い約束です。ユダヤ教徒は「旧」を付けなくて、神との 約束を記した唯一の書と信じています。一方、イエスをメシアと信じるところの キリスト教徒はイエスの生き様と弟子達の書簡を掲載した書物を新しい約束の書として 「新約聖書」と呼び、ユダヤ教徒の(旧約)聖書と区別をします。 古い約束、新しい約束とは何か? 古い約束とは、エデンの園を追放されたアダムとエバの子孫であるユダヤ民族を神が 守り、繁栄させるという約束(モーセの十戒)です。ダビデ王の子孫からメシアが 生まれるというメシア信仰も虐げられてきたユダヤ民族にとっては希望の星でした。 ユダヤ教徒の信じる(旧約)聖書では、厳しい戒律とユダヤ民族の栄枯盛衰物語が 記載されています。  ユダヤ民族はイエスをいまだにメシアと認めていません。彼等は何時の日か真の メシアが現われることを信じて、いまも待ち続けているのです。 イエスをメシアと認める人達は民族に関係なく、イエスの教えを信じ、古い約束ではなく、 神との新しい約束(イエスの死と復活によってもたらされた約束)を結ぶことが できるのです。これらの人々をクリスチャンといいます。 イエスの死と復活については新約聖書の真髄です。簡単には書き表せません。 いつか機会があれば検証したいと思います。  クリスマスはイエスをメシアと信じる人達によるお祝いの日です。 二千年ほど前、ベツレヘム出身の貧しいヨセフとマリアの間に生まれ、霊的には神で あるのに肉体を持ち、大工の息子として30歳まで平凡に暮らしていたのです。 ヨルダン川でのヨハネによる洗礼から、メシアとしての自覚を持ち、「悔い改め」の 教えを唱えながら、各地を周ります。人類の救いには十字架上での自らの死によるしか 方法はないとの自覚から、弟子たちを連れて死への行進をします。残酷な処刑によって 死ぬことで、人類の罪の購(あがな)いをなします。さらに、三日後に復活することで 「死なない命」を証明します。 ここにおいて、ついにエデンの園での罪が帳消しにされたのです。エバとアダムから 始まった原罪が、イエスの復活で購われたのです。イエスの誕生は神によって もたらされた和解策?といえるかもしれません。 イエスの誕生は、感謝すべき奇蹟なのです。奇蹟は信じる者には善き訪れです。 私もこの善き訪れを信じる者です。メリー・クリスマス。
 幼きころの体験からくることなのか?分かりませんが、私は人と言い争うことが 嫌なのです。そのようなときは、ただ貝のように黙ります。反論すらしません。 この性格はどのようにして形成されたのか?幼児期の出来事が原因していると自己分析 をしているのですが、これは語れません。いつも行き着くのはこの思い出です。 言い訳にしているつもりではないのに、そのことが思い出されます。誰にも言えない、 辛い、嫌なことです。私はただ、貝になります。お許しください。お許しください。 泣いています。理解されない自分に、言い訳も出来ない自分に、ただ、耐えるだけの 自分に、泣いています。私に与えられた十字架です。何をしてこの重荷を降ろせるのか? ただ、祈り、自分に出来ることを果たすのみです。八木重吉の詩集を久しぶりに読みました。 幾度となく読んできましたが、いま一つ読み取れませんでした。彼も病という重荷に 打ちひしがれながら、詩を書くことで救いを求めていたのだということが、分かりました。 私もこの重荷を背負い、書くことで、救いに預かることを信じたいです。 言い争えない自分に、貝の自分に、救いを求めます。2005.12.27    師走のひととき  暖房のきいた店で一人うたた寝  天国とはこんな  ウトウトとした気持ちの良いところかもしれない  
  和を尊び   風と戯れる   そんな人でありたい 2005.12.28    一月の展覧会は流木作家の山根さん、漫画家の猪子剛史さん、眼我真の墨絵と書 で「ハッピー・ニュー・ア・イヤー!」(テーマ和風)なる展覧会が企画されました。 さて、何が出てくるやら?見てのおたのしみです。私も書と墨絵を書かなくては いけませんが、正月休みの二日間で仕上げるつもりです。瞬発力だけが頼りです。 一月十日から二月の第一週までの予定です。来年のカレンダーがまだ手元にないので 日の確認ができません。後日発表とします。  息子と妻がスケッチ旅行に行きました。伊勢志摩の先端にある大王町の波切で、 絵画公募展の募集があり、一月下旬が締切日です。地元の風景がテーマになっていて、 息子が応募したいとのことで、今回作品作りのために出かけたしだいです。妻は妻で、 高校時代に学校から波切にスケッチ旅行に来ているので、懐かしさもあるみたいでした。 私だけ一人黙々と、働いています。(12.28)  メール読書会「創世記」(その16)第3章16〜24節まで。2005.12.28 今年最後の読書会です。第3章を終わらせて、新年を迎えるのが話の流れからすると、 丁度いいのです。第4章からがユダヤの歴史としての史実が記述されているのです。 16節女の出産の苦しみと、男が女を治めることが明記されています。これらは 性の違いからくる役割分担とみるべきかもしれません。女が男に食べるように誘った ので、その罰として女は男に仕えることになったのだと思います。17節18節は 男の仕事についてのことが書かれています。19節にも労働の苦しさと、 「ついに土に帰る」という表現から、人にここで死が与えられたことを暗示しています。 20節「エバ」とは「生命」の意です。人類のすべての母ということです。21節は 神のやさしさが表されています。 22〜24節不老不死が「命の木」であることが、記されています。 東西南北、どの文明にも不老不死説があります。「死」がすべての終わりと思っている 人々にとって、死は「恐れ」そのものなのです。死からの解放が人類にとっての永遠の テーマなのです。イエスの復活劇はこの死からの解放を意味しています。だから、 キリスト教においてはイエスの十字架上の死と、三日後の復活が最重要なのです。  来年もコツコツとメール読書会が発信できますように神に祈りながら、淡々と生活 していきたいと思います。  
 

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