2006年1月の「思い」


 昨年は暮れの30日にイベントを行い、盛況でした。参加された皆様 ありがとうございました。今年もガンガーをよろしくお願いします。  正月休みで、だらけています。(1.2) 三日は2時から新年初の読書会をガンガーで行いました。北海道でギター作りを されている青木さんが読書会に参加されました。秋にはギター作りの拠点を実家の 豊田に移すとのことです。豊田に戻っても、何かと北海道に行くことになるとも 言われていましたが、ご両親が高齢ということでの帰省です。年末あたりには ガンガーでギター演奏会を企画したいと思います。  読書会の報告もしなくてはいけませんが、もう少し仕事のペースが戻るまで、 のんびりしたいと思います。青木さんが戻って来られたら是非、読書会に誘いたいと 思います。今年の私の目標は、時間を大切に、人に理解してもらう努力を怠る ことなく、健康維持のための運動を継続させ、ガンガーをもう少し繁盛させる ことです。(1.4)
 小泉さんが新年(2006年)の記者会見をされたようですが、靖国問題についてはいつもの 持論を平然と述べ、一個人としての心情を国家間の問題にしてしまう中国、韓国政府の 方がおかしい、と開き直りをしていました。郵政民営化のときもそうでした。法案の内容 ではなく、民営化にたいして賛成か反対かというふうに、議論の焦点をずらして、小泉劇場 を演じました。それに踊らされたのが、抵抗勢力といわれた国会議員と国民でした。 中国、韓国政府が靖国問題で小泉首相を攻撃すればするほど、抵抗勢力として明確になり、 日本国民は中国、韓国に対して嫌な思いを抱きます。いつしか国民は中国、韓国を脅威の 対象と思うようになってくるのです。そこが小泉さんの狙いなのだと私は推測します。 国民が脅威に思えば、思うほど、軍備で対抗しなくてはとなり、憲法改正、九条改正へと 流れていくのです。中国、韓国に負けない軍隊を持つべきだというふうに、世論を扇動 していくのが小泉さんの手法なのです。たぶん小泉劇場は9月以降も続くのです。 後継者を任命して、総理を辞めた後も、闇のあやつり人形師として小泉さんは小泉劇場を 演じるつもりなのです。恐ろしく戦略に長けた策士です。今の日本国にとって必要な人物 なのか?どんぐりの背比べの中では、秀でていますが、吉と出るか、凶と出るかみものです。 善しにつけ、悪しにつけ、歴史に名を残す総理大臣であることは間違いありません。  先日の記者会見では、韓国政府はすぐに反論しましたが、中国は公には反論していません。 多少、中国の方が賢いのかもしれません。韓国政府も小泉劇場に惑わされないように すべきです。ES細胞捏造(ねつぞう))問題に対する韓国大統領の発言にしてもそう ですが、韓国政府は世界の動きがまったく読めていないとしか思えません。 なぜ、あのような恥ずかしい捏造が起こったのか、政府も責任を自覚すべきです。 今の韓国は異常な教育ブームです。国力を増すための異常な教育熱がもたらせた社会現象 が世界的捏造を生んだ背景にあるということをまったく分かっていません。 プチ整形手術をしてまでも支持率を上げようとする大統領の元では、国家の恥となる捏造が 起こっても当り前なのかもしれません。姉葉さんの捏造などとは次元の違う捏造なのです。 科学立国を目指す韓国にとっては国家的恥なのです。  年賀状の返事が遅れています。一部の方はしばらくお待ちください。 少しずつ書いています。  1月10日から2月5日まで、「ハッピーニュー・ア・イ・ヤー」なる三人展が 行われます。私もそのメンバーの一員ですので、興味のある方はガンガーまで見に来て ください。テーマが「和風」ということなので、私は書と墨の似顔絵と、旧作に手を加えた 油絵を展示します。今年は墨による作品作りに挑戦したいと思っています。数年前から 墨で表現したいと思っていたのですが、機会がなく伸び伸びになっていたのが、今回 和風ということで、いい機会を与えられた思いです。物心つくあたりから墨には親しんで きた私です。懐かしくもあります。墨は私の芸術の原点かもしれません。(1.6) 
 メールで神への捧げ物について、生き物を殺して捧げることは、戦闘的で、宗教戦争 に繋がるのでは、という意見をいただきました。  ユダヤ教やイスラム教ではいまでも生き物を殺して捧げ物として、捧げているのだと 思います。しかし、キリスト教ではそのようなことはしていません。イエス自身が神への 捧げ物となり、人の罪をあがなったので、もう捧げ物をしなくてもよくなったのです。 旧約聖書に出てくる捧げ物はエデンの園でエバとアダムが行った罪のあがないを乞うため に行われてきたのです。イエスが自己犠牲として、十字架上で死ぬことで、ご自身が捧げ 物となったことで、アダムとエバによって人類に与えられた罪は消えました。このことに よって、イエスをメシアと信じる者にとっては捧げ物をしなくてもよくなったのです。 以上は私の解釈です。たぶん間違いないと思いますが、念のため後日調べてみたいと 思います。  同じくメールでいただいたことを調べてみました。 インダス文明(前2500〜前1800)インド西、インダス川中から下流に成立。都市国家で 都市の中央には沐浴場、インドで今も残るガンジス川での沐浴はインダス文明のなごり かもしれません。「清め」の沐浴に対して「汚れ」を嫌うインダス文明では上下水道が 完備していたとのことです。「清め」と「汚れ」が後の宗教に影響を与えるのかもしれません。 文明の特徴は青銅器で、灌漑農業と放牧が主な生産手段ですが、メソポタミア地方との 交易も行われていました。ただ、文字はいまだ解読されていなくて、呪術の印章では ないかという説があり、文字としての役割を果たしていなかったというのです。 これはこれから研究者によってはっきりされることと思われます。インダス文明が滅びる のが前1800年ごろで、滅んだ原因はいまだ不明です。その前後にインド=ヨーロッパ語族 のアーリア人が中央アジアから南下してきます。南下したグループで西に行った人々が 後のペルシャ人となります。東に向かったのがアーリア人で先住民族のドラビダ人(彼等は オーストリアやニューギニアの先住民と同じ系統の民族)を制服したり、混血したりしながら インドに定住します。前1000年頃アーリア人はガンジス川流域まで拡がっていき、小さな 国もたくさん生まれたようです。この時期にアーリア人のもと、現在のインドで信じられて いる宗教や身分制度の原形が生まれたのです。厳しい自然環境を神々としてたたえる歌の 「ヴェーダ」、最初に成立した歌集「リグ=ヴェーダ」や後の「サーマ=ヴェーダ」など 自然賛歌の歌集が生まれます。ヴェーダをうたって神々を賛え、儀式をとりおこなう専門家が 生まれました。これがバラモンとよばれる僧侶階級です。バラモン教の成立です。 神々を慰め災いをもたらさないようにお願いできるのはバラモンだけということで、 特権階級を作ってしまうのです。他の下の身分も作り上げていきます。バラモンの次が クシャトリア(武人)、ヴァイシャ(一般庶民)、シュートラ(被征服民)、この身分の ことをヴァルナといいます。さらにこの四つのヴァルナに属さない最下層の身分として 不可触民(汚れたもの)がいます。これらの不触民はいまだ人ではないような差別を受けて います。「清め」がバラモンなら、この不可触民は「汚れ」そのものなのです。 ヴァルナ(種姓)は現在も続いています。ただ、バラモンが僧侶をしているとか、クシャトリアが 軍人とか、いうのではなくて、農民のバラモンもいれば商売をしているシュードラもいます。 種姓の四つは大きすぎるので、時代と共に細分化され、細かく分かれた身分をジャーティと いいます。いわゆるカースト性です。身分制度は差別そのものです。政教一致の時代において バラモン階級は権力維持のため、身分制度を作り、不可触民を作ることで、政治への 不満のはけ口としたのではないかと推測します。日本にも明治維新まで士農工商という 身分制度があり、しかもインドと同じく汚れの対象として「えた」「よつ」といわれた 不可触民がいました。いまでも部落問題(同和問題)として残っています。 (インドの不可触民がキリスト教に改宗するのは自由平等を求めてです。) 輪廻思想もこれら身分制度からの脱却を願って出来たのではないかと私は推測します。  少し疲れました。あとは後日とします。(1.8)
 輪廻思想については詳しくないので詳しくは書けません。いつか調べたい項目です。 昨日からの書き込みはインターネットで調べた資料の抜粋と私見を折り混ぜたものです。 その中から実話を一つ、山際素男・著「不可触民」(もう一つのインド)知恵の森文庫 山際さんがインドに留学されていたとき、知り合いのインド人に案内されドライブをしていたら 途中、白い衣服の集団の一人をその車がはねてしまったのです。山際さんが「人をはねましたよ! 止めて下さい」といっても、車はそのまま何事もなかったかのように、走り去ったのです。となりに 座っていた友人のインド人はばつの悪そうな顔をするだけでした。これはあきらかなひき逃げです。 翌日新聞を調べても載っていません。知り合いのインド人達に聞いても、みんな同じように 「そんなことは忘れなさい」と言い、「あんな連中はどうでもいいんです!」と言うのです。 はねられた人は不可触民だったのです。いまのインドでの出来事です。信じられない話がこれでもか というぐらい、その本には記載されているそうです。不可触民は現在のインド人口の約二割です。 約二億人ということです。日本の人口よりも多いのです。バラモン教から発展した ヒンドゥ教はカースト制を黙認しているのではないかと思います。この辺も調べなくては いけません。憲法ではすでにこの制度は廃止されていますが、宗教に容認するふしが残って いては、何の解決にもなりません。だから、いまだにキリスト教に改宗する不可触民が多く いるのだと思います。(1.9)
 輪廻思想を調べました。インターネットで調べると、案外マニアックな人がいるのです。 いい資料がありましたので、抜粋と私見を混ぜながら話を進めます。  輪廻転生はバラモン教の輪廻思想を受け継いだ仏教が、無我という独自の教義に照らし 合わせながら 宗教に取り入れた教えである。インドのヒンズゥ教は今からおよそ2500年前の仏教以前に バラモン教として存在していて、輪廻思想に類似した思想は西洋に置いても存在していて 紀元前6〜7世紀にギリシアで興ったオルペウス教がそれである。バラモン教とオルペウス教 のどちらが古いのかというと、(この辺は詳しく調べる必要があるかもしれませんが)今回の 資料と1月8日のインダス文明についての資料の年表からするとバラモン教の方が古いよう です。アーリア人が定住して、バラモン階級が生まれ時期に、西のペルシャ人(元は同じ 民族の系統)と交流がなされいてもおかしくありません。ペルシャ人からギリシャなどの地中海 諸国にバラモン教の教えが文化の一端として伝わったとしても不思議ではありません。西洋に おける輪廻転生思想は紀元前5世紀の哲学者ピタゴラスが礎石になっている。同じくギリシャの オルペウス教団の神話では、神デュオニソスは神ペルソポネーと全知全能の神ゼウスのあいだに 生まれた子で、未来の世界統治を委ねられていた。このことを妬んだ妃ヘラは地下の巨人 ティターンを召還して、デュオニソスを虐殺させるのでした。ただ、遺体の心臓だけはゼウスの 手に渡り、ゼウスはデュオニソスを新たに転生させるのでした。ゼウスは怒り、雷でティターンを 焼き払い、その灰から生まれたのが人間なのです。したがって人間には生まれながらにティターンの 贖罪(しょくざい)が背負わされている。 (人間には生まれながらに贖罪を背負わされている、という思考方法はキリスト教のアダムと エバの贖罪と似ています。これは偶然なのでしょうか?文化交流があったから起こった類似性 のような気がしてなりません。) ギリシャのオルペウスの教義は人間の苦しみは肉体の死では終わらず、しばしハデス(黄泉)に 滞在したのち、また他の肉体に宿り、限りない生成の環の中を巡らなくてはいけないとなって いるそうです。さらにオルペウス神話のデュオニソス神はアジアからギリシャにやってきたことに なっているそうです。この時代はまだ仏教は起こっていませんから、バラモン教がオルペウス の輪廻転生思想の発端であり、また仏教の輪廻思想もバラモン教からの影響と考えられますから、 バラモン教が西洋、東洋の輪廻転生思想の発端ということです。  バラモン教についての書き込みをします。 バラモンでは、人間には精神や肉体を超越する、その人間の原風景ともいうげき「我」が存在 するとされ、それこそが輪廻転生する主体であり、そしてそれはバラモンの創造梵天(ぼんてん) そのものなのである。(バラモン教がヒンズゥ教に移行するとともに、創造主も梵天から シヴァ神になっている)この心理を梵天一如といい、そして人間はこれを理解できないために 輪廻を繰り返すのだが、来世で何に生まれ変わるのかは現世の行い「業」によって決定される。 転生するのはその人間の精神ではなく「我」なので、当然来世に現世の思慮は残らない。 「良い業」はバラモンの教えに対してです。このような形を成しインドの人々に根付いた 輪廻転生思想ですが、これは後に権力者に利用され身分制度の「カースト制度」を生み出す ことになります。(私の推測と一致します。)たとえ奴隷階級に生まれたとしても、それは 前世の業のためとされ、現世の苦しみから逃れるためには、来世で高い身分の人間に生まれ 変わるようにバラモン教(ヒンズゥ教)にとっての「良い業」をかさねるしかないのです。 (傍観者として、批判的に見れば、現世の不満を宗教で統治するということだと思います。)  仏教についての書き込みをします。 仏教での輪廻転生思想はバラモン教のものを受け継ぎ発展したものですが、大きく異なっている ところは平等であることです。そして、人間の根本を「我」ではなく「無我」としたところです。 つまり、つまり人間にとって絶対的なものは存在しなくて、仏教での輪廻転生では、その主体は 精神でも肉体でもない。仏教ではその正体を「阿羅耶識」(あらやしき)であるとしている。 人間には視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五感があり、仏教ではこれに意識を加え六感としている。 そして、さらに第七感として未那識(まなしき)、第八感・阿羅耶識が存在します。 この阿羅耶識と「我」の違いは、「我」は人間の中にある普遍的かつ絶対的なものとされている のに対し、阿羅耶識は何らかの原因があり、あるいは何らかの影響を受ける現在に存在して いることである。例えば、一人の人が一日かけて一冊の本を読んだとします。すると、その 読んだ人は、読む前と、後では違っているのです。本の内容によって影響を受け変化したかも しれませんが、そんなことよりも時間が一日経ち、過ぎ去った時間により、老化していることは 間違いありません。つまり、時間が経過することに阿羅耶識は変化しているのです。 外界から受けた影響を付け加えることで、新しいものとして、あるいはまったくべつのものに 変化して阿羅耶識は現存に至っているのです。ちょっとややこしくなってきました。 この辺は明日解明します。(1.11)
 仏教の輪廻思想について参考文献を読んでいて、思ったことは藤原新也が何かの本で 「日本の仏教は言葉の生殺し」と表現していたのです。インドは物から直接感じたことを 宗教なり、思想なりに表現しているのに対して、日本の宗教はブッタや物から直接ではなく 間接的な物として表現しているので、それは教の生殺し状態だと言っていたように覚え ています。(多少言い回しが違うかもしれません。)ブッタの教にフイルターのかかった ような教になってしまったのが、今の日本の葬式仏教なのだと思います。 ブッタは「阿羅耶識」(あらやしき)など言ったのでしょうか? もっと分かりやすく、直接的な表現をされていたのだと思いたいです。机上の仏教理論とは 言いませんが、後世の仏教関係者によって考え出された教義のような気がします。 (仏教に詳しくない私が推測で言うべきことではないかもしれません。 間違っていたらお許し下さい。)  次に「六道輪廻」なる言葉について書かれてあることを検討してみます。 これも後付けのような説明です。輪廻転生とはバラモン教においても仏教においても、 苦しいものであるとされています。その苦しみから抜け出すには、輪廻の環から抜け出す 「解脱」を達成するしかない。バラモン教では梵天一如の真理を悟ることで、仏教では 無我の境地に達し、仏陀(ブッタ)となることです。これを成仏といい、仏教の最終目的 です。六道輪廻もカースト制と同じく、宗教組織の維持運営のために設けられた教義の ような気がしてなりません。ユダヤ教にも教義はあります。キリスト教にもあります。 しかし直接、イエスなり、神なりに心を捕えられれば、教義や戒律など無くても信仰は 維持できるものだと(ちょっと乱暴な言い方ですが)私は思っています。直接的に神なり、 イエスなりと関わられない人達が、宗教組織を維持するため、人間的な発想で考え出された 教義が、皮肉なことに宗教を堕落させているのではないかと思っています。藤原新也の表現 を借りれば「宗教の生殺し」が多くの宗教でなされているということです。大変乱暴な表現 で、誤解を招くかもしれません。私はキリスト教徒として、原点である聖書からすべてを 学び直す必要があるのではないかと思っています。偉そうに言い放つ私見に対して、暴言 だという指摘があれば謙虚に反省しますので、もしお気付きの点があれば私までお知らせください。 (1.12)
 眼我通信15号が出来ました。いいことの後にちょっと残念なことがあります。 私の楽しみだった「チャングムの誓い」が土曜日の夜から金曜日の夜に放送が変更に なってしまったのです。なぜ残念かというと、・・・。私にとって金曜日の夜は夜更かしが 出来ない日なのです。土曜日なら夜中でもかまわなかったのですが、残念です。一応は年末の 総集編を見ているので、話の筋書は知っているので見られなくてもかまわないといえば、 かまいなせん。またいつか縁があれば「チャングムの誓い」を見られることもあると思います。  フロッピードライブクリーナで掃除をしながら、とても古いパソコンを使いこなしています。 三日に行った読書会の報告をメール読書会の17回とします。  メール読書会(その17)第4章1節〜16節 2006.1.3 1節「人はその妻エバを知った。」エバとは「生命」の意味だそうです。エバから始めて 人が生まれたのですから、エバは人類の母ということです。ここでいう「知る」とは肉体的 に交わることです。その結果、長男カインが生まれます。次に次男のアベルが生まれます。 3節カインが主に地の産物を供えたと記載されています。神への捧げ物がなされたという ことは、ここに宗教の原形が誕生したことを意味します。エデンの園を追放されたアダム とエバがしたことは罪への贖罪だったのです。親のしていることを子であるカインと アベルが真似をしたのだと思います。 5節なぜか神はカインの捧げ物を顧みません。カインは憤り顔を伏せる。とあります。 神に対して怒るとは?6節にそのようなカインの心を見透かして神はいさめようと、カインに 忠告をします。神はアベルの捧げ物とカインの捧げ物を比較して、アベルを顧みたわけでは ないのです。アベルの信仰心を褒め、一方カインの心に信仰心が無いことを見抜いて、忠告 されたのでした。8節でカインはアベルを殺します。アベルという名はこれ以降、聖書に 出てきません。キリスト教的にいえば人類はすべて「カインの末裔」ということになります。 しかも、殺人者の末裔なのです。地を耕していたカインが殺しを行い、呪われた地から 追放され、地上の放浪者となってしまう。イスラエルの歴史を予言しているような出来事 です。16節カインは主の前を去って、エデンの東、ノド(さまようの意)の地に住んだ。 アダムとエバが住んでいた所はエデンの園の近くだったのではないかと思われます。 主の姿が見えるような近い所から、見えない東方へ行ったノドの地ということだと 思います。(1.13)
メール読書会「創世記」(その18)1月18日   矢内原忠雄の本によると4章は1節から16節までと、17節から24節までと、 25と26節の三部から成り、元来は別々の伝説に属していたものを創世記編集者が つなぎ合わせたものと考えられるそうです。確かに、17節では急にカインが妻をめとり、 子までもうけ、さらに町を建てたとなっています。18節は子のエノクからレメクまでの 系図が記載されます。19節はレメクに妻が二人いたことが記述されています。当時は 種族の繁栄のためだと思われますが、一夫多妻制だったのです。20節一人の妻から天幕 (宗教的儀式用の建物)に住んで、家畜を飼う者の先祖となった、とあります。これは ユダヤ民族の先祖を意味していると思われます。21節音楽を奏でる種族の先祖。もう 一人の妻の子は青銅や鉄の刃物を鍛える者となった、と記載されています。種族の役割分担 が起こってきたことを暗示しています。23節は人類初の詩だと解説されていました。 その内容は自己防衛のために他の人を殺すことは許されることだという、自己弁明をして いるような内容です。神が15節でカインを殺す者は7倍の復讐を受けると明言したのは、 カインを守ることでもあったのです。追放するかわりあなたを守る約束をします、という 神の思い遣りでもあります。23節ではこの約束を神ではなく、レメクが妻二人にします。 カインの7倍から、70倍に増やすというのです。レメク(人類)のおごりのような気が してきます。この辺から、宗教が成立していく過程で、人の「思い」がその中に刷り込まれ ていく様子が、このような言葉の表現からうかがえます。 25節から急に元に戻り、アダムに次の子が生まれたことを知らせています。その子は セツという男の子で、そのセツの子がエノスで、この時期に人々は主の名を呼び始めた、 とあります。宗教の始まりです。  (1.19)
 今年の具体的な目標を公言します。一部のお客さんにはすでに発表していますが、 今日が公約?の日とします。自分に対する責任として、公言することがいいのだと思って います。2月が私の誕生日です。そのプレゼントとして、ギターを買うことにします。 お金に余裕がないので、安いフォークギターです。何が目的かというと、自分の詩に曲を 付け、弾き語りをしたいのです。店で多くの方が演奏する姿を見ていて、自分もあのように 成りたいと思ったのが、直接の原因です。息子のお古を待っていたのですが、彼は案外 物持ちが良く、無駄?使いをしません。待っていても何時になるか分からないので、この際 だから、誕生日プレゼントとして買うことにしました。新しい一面が開けるかもしません。 まあ、一年後あたりに店で弾き語りができれば良いなと思っています。のんびりとマイペース で楽しみたいと思います。先月からボイス・トレーニングを自己流で始め、かなり声が出るように なりました。これまた楽しみです。まあ期待をしないで、一年後をお待ちください。(1.20)
 フロッピーに入れたはずの書き込みが、消えていました。もう一度同じことを書く 気になれません。報告として、ギターを進呈してくれる嬉しい知らせがあります。知人の 友人が持っていて使っていないギターを私の方に回してくれるそうです。ありがたいことです。 楽しみながら、五十の手習いをしたいと思います。息子に「宜しく」というと「いいよ」と いう返事です。多少弾くのに慣れてきたら、作曲のノウハウも他の知人に指導していただこうかとも 思っています。環境が何かと整っていることが私にとっては幸いです。(1.22) 
 巷では「ホリエモン」騒動でにぎわっているようですが、天の邪鬼(あまのじゃく)な 私としては人が騒ぐと興ざめしてしまい、私見を書く気がしません。昨年、日本放送 (フジテレビ)買収事件の祭はいろいろと書きました。そのときに「暴漢などに襲われる 危険性があるので、くれぐれもお気を付けください」と皮肉って書いた記憶があります。 暴漢は身内にいたようです。今回の一連の捜査は、すべては内部告発から始まったのだと 私は推測しています。天国から地獄への急落から、いかにしてホリエモンがこれからの 長い人生を歩んでいくのか多少興味があります。彼がこれまで唱えていた拝金主義からの 脱却ができるかどうか?人一人死んでいるのです。 自分のしてきたことへの反省をすることが出来るかどうか? 独房の中で何を考えているのやら?裁判での闘争に意欲を燃やすようでは、・・・。 何故、彼は自殺をしたのか?罪意識に良心が死を選ばせたのだと思います。 彼の死を無駄にすべきではないのです。悔い改めをされますようにお祈り申し上げます。 (1.24)
 風邪を引いたようです。熱はないと思いますが、鼻声で咳も少し出ます。 書き込む気力が出ないので、今日のメール読書会は後日にします。「チャングムの誓い」の 解説本をお客さんにお貸ししたら、お返しの意味だと思いますが、お客さんが読むように 置いていかれたお気に入りの本を今読んでいます。こんな大衆小説は何十年ぶりでしょうか、 短編集なので一話、一話が短くてすぐに読み終えるのが良いです。話は読者の涙腺を突く ツボを心得ていて、素直に読めばそれなりに楽しめますが、天の邪鬼な私は作者の作為が 見えてくると少し興ざめてきます。作り話と分かっていながらも、読まされていくのが 読者なのだと思いますが、私の場合は二話も読めば、もう十分かなと思ってしまいます。 とても気に入っている本を他者に薦めるということは、感想を共有したいのだと思います 私が「チャングムの誓い」をお貸ししたのも同じ思いからですから、その思いはよく 分かります。そのことを思うと無下に読まないわけにはいきません。お客さんの思いも くんで読まなくてはいけません。しかし、二話読んだから、もういいかなとも思ってしま います。ああでもない、こうでもないと思いをめぐらすのが、私の癖なのです。 何かと言いながら、気が向いたら短いので少しずつ読むようにします。 お客さんの思いもありがたいことですから、このような機会を大切にしたいと思います。  寒いので店が暇です。時間つぶしにでもかまいませんので、遊びに来てください。ただ 体調がいま一つよくないので、後二三日したらにしてください。(1.25)
 今日はお客さんがよく来られました。昨日の私の書き込みを読まれたわけではないと 思いますが、偶然でもうれしいことです。いま展覧会をしているメンバーの猪子さんに 私からリクエストで、拘置所三畳半にいるホリエモンを描いて下さいと頼みました。 すると彼曰く「ホリエモンあらためムイチモン(無一文)かなあ」と言っていました。 展覧会中には展示されるものと思われます。 今度の28日(土曜)午後一時からと29日(日曜)2時から猪子さんの似顔絵コーナーがあります。 一枚300円であなたを描きます。(1.26)
 風邪の峠が過ぎたようです。二日間よく寝ました。 寝る子は治る?です。「チャングムの誓い」のファンが増えています。私が店で宣伝して いるからです。ファンが増えるのはいいのですが、物語の先を話せないので少しストレス がたまります。昨日、本を貸してくれている人が食事に来られたので、「『ばんざい屋』 読んでいます」と言うと喜んで話しに乗ってきました。話題を共通できることの喜びを 感じるしだいです。また本の先を読もうと思った私でした・・。  先日のリクエストに答えて猪子さんがホリエモンの拘置所内の似顔絵を描いてきました。 彼の不安なまなざしが実によく描けています。ガンガーのトイレに掛けていますので、 興味のある人は見てください。(1.28)
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