ガンガー聖書勉強会(2003.1.8)
「マルコによる福音書」 眼我 真
第一回は聖書の成り立ち、新約の説明など概観を話し、参加者と相談して
新約で一番最初に書かれた「マルコによる福音書」を勉強することになりました。
初回は一節から八節までを勉強しました。(1.8)
使徒ペテロが紀元64年に亡くなり、パウロも同じ64年にローマで殺されたと云われて
います。リーダ二人を失い、信者の間に不安が募り、そのことを心配したマルコが急いで
イエス伝を書き上げたと云われています。単刀直入に語るマルコの語りは必要最小限、
無くてはいけないとことだけが書かれているので、かえって分かりやすいと思いました。
無駄な枝を落し、必要なことをまず伝えているのです。イエスの生い立ちも抜けていて、
ヨハネの悔い改めのバプテスマからすぐに始まっています。
エッセネ派(ユダヤ教の堕落を改革しようとして起ったところの改革派、ヨルダン川東部の
砂漠で禁欲、断食、質素、水浴びを常とする)のさらなる改革者としてヨハネが現われ、
悔い改めのバプテスマを水で授け始める。そのヨハネがイエスの伝道者として歩むための道
を整える役目を果たすのです。
二節の言葉は旧約の引用(マラキとイザヤ書)です。旧約で約束されていたところの
メシア出現が、遂にここに来て実現したということを言いたいのだと思います。
第二回(1.22)
九節から十三節でイエスが伝道に目覚める過程が書かれています。
ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受け、聖霊が下り自覚するイエスです。その後
十二節から荒野での誘惑がありますが、サタンの誘いを全て拒否して、改めて自分の人生の
目的を自覚されたのだと思います。誘惑を克服して、始めて自分の使命を確認でき、
神と一対一で面することができたのだと思います。
この荒野での試練によって神の子としての自覚に目覚め、
伝道への道を歩む覚悟をされたのだと思います。
私たちの人生そのものが、このイエスの荒野の試練(四十日)と同じなのです。
四十日は私たちの人生を象徴しているのではないかと思います。
誘惑に打ち勝って、神の子(イエス・キリストを信じる者)として自覚に
目覚めることができるかどうかです。
その前に悔い改めのバプテスマを受けねばなりません。ヨハネの役をするのが
伝道者なのだと思います。そうです、主の道を整えるのは伝道者の役なのです。
イエスにとってはヨハネであり、私にとっては渡辺先生だったのかもしれません。
そして、私も誰かの道を整える役を行なうのかもしれません?
人生での四十日、サタンが日々誘惑するのです。
人生に於いて「そんな無力で神の子なのか、お前は神の子じゃないよ。ただの能なしさ!」
と現実の無力さに絶望させられ、いつしか神の子であることを忘れ、さらに
神の子であることさえも否定するようになるのです。これがサタンの罠なのです。
失望することによって神を見失うようにしむけるのです。
「幼子のような素直な心を持ちなさい」とイエスはよく言われます。
純粋になることの難しさを改めて考えさせられます。
「悔い改め」は自分の力では出来ないことなのかもしれません。
挫折、苦難、困難などに完全に負けたときサタンは大喜びです。それらの苦しみの中で幼子
のような「素直な心」になれたとき。さらに、もしその人が聖書を読んでいたらきっと
神と一対一になれ、救いを神に求めることが出来るのだと思います。
これが「悔い改め」だと思います。外なる寒難に対しては内なる救いがなくては人は生きて
いけません。内なる救いが神の声なのだと思います。
「悔い改め、神と話しなさい」と内なる声は語りかけます。・・・。
これらは体験なのです。荒野という人生での体験がその人を「神の子」にもすれば、
サタンの罠にはまった「迷える子羊」にもするのです。サタンの誘惑は日々あります。
これに打ち勝つ手だては常に神と一対一で面することです。
日々の「祈り」がこれらを可能にさせるのだと思います。「祈り」は神様との会話なのです。
日々の思いを神に伝え、語る。神様はこれらの祈りを聞かれているのです。
神を神として信じ、神と自分が一対一で向かう。
これが聖書の云わんとするところのことなのです。
聖書は神と話しなさいと語り掛けているのです。
今回の箇所の云わんとすることはまず、ヨハネからバプテスマを受け、次ぎに御霊によって
荒野へ導かれて、サタンの誘惑に打ち勝つイエス。人の歩むべき道をイエスも人の子として
歩まれたのです。特別扱ではなく、悔い改めの儀式を受け、その次ぎに荒野で試練に合うの
です。三十歳まで大工の息子として普通の生活をしていたイエスがヨハネに会い、
バプテスマを受けることで神の子として自覚させられるのです。ここで彼の人生は180度
転換したのです。御霊によってさらなる試練を受け、みごとサタンの誘惑に打ち勝ち、伝道
の準備はここで出来上がりました。後はいつ伝道を始めるかです。
ヨハネがヘロデ大王に捕まることによって彼は動き出します。時は満ち足り、
ついにイエスのメシアとしての仕事の始まりです。
「マルコ伝」一章九〜十三節までを勉強しました。(1.23)
自分の意見をどこまで他の人に伝えられたか?下書きしておいた私の解説を読みながら
説明をしていきました。参加者の質問、意見を聞きながら、話をさらに深めることが
出来た気がします。荒野での四十日の試練についての私の解説、あれで
よかったのかという思いがのこりますが、あれはあれでいまの私の「想い」なのです。
荒野での四十日を我々の人生とみて話をしました。サタンの誘惑は常にあるのです。
イエスに対するヨハネ、私に対する渡辺先生、人から人への繋がりがあっての信仰なのだと
思います。イエスはちゃんとした人の手順を踏んで伝道への道を歩んでいかれたことが良く
分かりました。マルコ伝はそのことを率直に、真面目に書いていると思いました。
読む私たちも素直に、真面目に受け止めなくてはいけません。
第三回 十四節〜十五節(1.29)
イエスの伝道の始まりです。ガリラヤに行き、語った言葉が
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」解説書には
「最後の審判」が近づいていると思われていたので、このようにイエスは言ったのだと
書かれています。「最後の審判」はイエスの再臨の時とイエス自身が言われています。
だから、解説書は「神の国」とは再臨後のことと解釈したのだと思います。
そうなのでしょうか?
「時は満ちた」は何を意味するのか?
イエスの伝道のことではないかと思うのです。ヨハネの投獄でイエスは伝道を始めます。
「時は満ちた」のです。次ぎの「神の国」が問題です。
「神の国」とはいかなることを意味するのか?
次ぎの「悔い改めて福音を信ぜよ」は言葉どおりです。
悔い改めて(神に背いていた自分を悔いて、そのことを罪として受け入れ)、改めて
神の方に向き直り、神を信じて歩むことです。
イエスは時が満ちたから伝道を始められたのです。
ヨハネの投獄が伝道のゴーサインだったのです。
「神の国が近づいた」イエスの言葉をそのまま素直に受け入れればいいのだと思います。
この現実をみて判断すると「神の国」は今だ来ていないと思われます。だから、多くの
解説書は再臨後のことを言っていると説明するのです。イエスのこの伝道から後、
一番の出来事は何かといえば、それは十字架上でのイエスの死と三日後のイエスの復活
です。これが聖書の云わんとするところの「神の国」の完成なのです。
「神の国」とは悔い改めて福音を信じたとき己の内に完成される「信仰心」を表現して
いるのではないかと思うのです。
「神の国」をどのように受け止めるか?
世間一般にいわれるような天国が「神の国」なのか?
かといって今の乱れた現実の世界が「神の国」であるはずがありません。イエスの再臨に
よってもたらされるものが「神の国」という解釈は分かりますが、それよりもイエスの
十字架と復活で「神の国」はすでに実現したと解釈したほうが、イエスの十五節の言葉に
重みが出て、自然な感じがするのです。そうすると再臨後は「神の国」の完全なる完成と
いうことになります。
イエスの奇蹟や弟子たちの奇蹟はこのイエスの死と復活によってもたらされるところの
「神の国」実現を象徴的に表わしているのではないかと思うのです。
イエスの復活によって信者の内に「神の国」が実現したのでもう奇蹟は必要無くなった
のではないかと思います。イエスの選んだ十一弟子たちの死後、奇蹟は無くなったのでは
ないかと、私個人としての私見です。なぜならもう必要ないのです。
「神の国」はすでに信者の私たちの内に出来上がっているのですから。
今回の箇所で私なりの解釈が二点出てきました。
1、イエスの復活で「神の国」はすでにわれら信者の心の内に出来た。
地上の世界がいかに乱れようとも我が内に「神の国」有り。よって、何も恐れること無し。
2、「神の国」がすでに出来上がったので、奇蹟はもう必要がなくなった。
奇蹟は悔い改めを証明するための手段の一つだったのではないか?
「あなたの信仰があなたを救った」という癒しの奇蹟の後でのイエスの言葉が印象的です。
「神の国」があればもう奇蹟はいらないのです。イエスを信じ、悔い改めて神を受け
入れることが出来れば、すでに「神の国」の中なのです。奇蹟はもう必要ありません。
(1.30)
第四回 マルコ伝1章16節〜28節 勉強会下書き。
シモンとシモンの兄弟アンデレにイエスが声をかけると
すぐに二人はイエスに従ってついて行く。「人間をとる漁師」すごい言葉です。
でも、どうして彼等はついて行ったのでしょうか?あなたの前に見ず知らずの男が来て、
「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたとき、あなたならどうしますか?
私なら「この男、頭おかしいいんじゃないの」と思い相手にしないか、もっと話を詳しく
聞いてみると思います。詳しく聞いても、すべてを捨ててついて行く勇気はありません。
シモンとアンデレがすごいのか、いえイエスがすごいのだと思います。人を一言で従わせ
ることが出来るだけの力があったのです。神の力なくしてはなされない奇蹟だと思います。
その後のゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも同じです。残された身内の家族は狐に
つままれた思いがしたと思います。常識では考えられないことです。受胎告知のとき
マリアがうろたえた驚きと同じ驚きが彼等の内にもあったのだと思いますが、そのことは
何も書かれていません。結果のみが書かれています。
改心の代表的な記事が新約の使徒行伝に書かれています。
その人の記事を調べたいと思います。
使徒行伝七章58節(p193)に「サウロ」という若者が出てきます。
八章1節3節にも、九章1節から31節、十三章9節。
サウロはイエスが生きていた時は信者を迫害していたのです。
ダマスコ城外での天からのイエスの声を聞いて、改心するのです。
その後のサウロ(パウロ)は異邦の民(ユダヤ人以外)への伝道をしていきます。
パウロなくしていまのキリスト教はありえません。そのパウロがイエスの信者を迫害して
いた事実は真実だと思います。何がパウロを180度方向転換させたか、それはダマスコ
城外での出来事です。信仰体験です。これなくしてパウロは神(イエス)を受け入れる
ことはできなかったのだと思います。このような信仰体験なくして神を神として信じる
ことはできないのかもしれません。
イエスは四人の弟子とカペナウムへ向かいます。 安息日(日曜)に会堂(ユダヤ教の
信仰的建物)で教えられた。律法学者のように理屈を語るのではなく、聞く人の胸を打つ
ような生きた言葉を語られたのだと思います。聞く人はその教えの力強さに驚いたのです。
汚れた霊を追い出す。汚れた霊がイエスを神の聖者と認めたからこそイエスから追い出さ
れる羽目になるのです。汚れた霊がイエスを神の聖者と認めなければ追い出されることも
なかったのではないかと思われます。イエスの癒しの奇蹟の多くは患者の信仰心ないしは
家族の信仰心がその患者を救ったのだとイエス自身が言われています。信仰心とはイエス
を神と認めるかどうかです。それは汚れた霊でも同じなのです。汚れた霊に信仰心が
あるというのではなく、イエスを認めるということは汚れた霊にとって自己の負けを
意味しているのだと思います。これもある種の悔い改めです?汚れた霊の悔い改め?
よって汚れた霊はその場から去って行ったのだと思います。いまの時代でもイエスを神と
認めることが出来れば内なる汚れた霊は逃げていくのだと思います。目に見えるかたちの
奇蹟はなくなっても、内なる神の国での奇蹟は日々起こっているのだと思います。
世の中、悪人あるいは自分にとって善くない人は実際います。でも
彼等(悪人、自分に対して善くない人)にしてみれば自己防衛なのです。自分さえよければ
いいという身勝手な自己防衛のです。弱い人ほど自己防衛に全神経を注ぎます。その逆に
本当に強い人はイエスのように弱い人に優しく、自己防衛ではなくその逆で、自己犠牲を
いといません。その強さは内から湧く勇気です。その勇気は何処から来るのでしょうか?
己を無にして自己防衛しないところから来るのだと思います。幼子のような素直な心を持つ
ことが大人になっても出来るどうかです。欲望に囚われていては「幼子のような素直な心」
にはなれません。欲を捨て、無欲になって人生を生き抜いていけるかどうかです。そのことが
出来る人には自己防衛は必要無く、その対極にあるところの自己犠牲をも可能にさせるのだと
思います。イエス自身が人類の犠牲として十字架に架かりました。このことはイエスの
十字架のところで詳しく話したいと思います。自分のことしか考えられない人は自己防衛の
呪縛に陥っているのです。サタンの望むところです。そのような人はすでにサタンのえじき
になっているのです。「迷える子羊」となって、哀しいかな永遠に平安は訪れないのだと
思われます。いかにしたらこれらの呪縛から逃れ出ることが出来るか?
それは自己防衛を放棄するのです。防御を放棄して、この世の痛みをその身で直接感じ、
血を流し、痛みに泣き苦しみ、それらに耐えれないとき、始めて人は本当の救いを求める
ことができるようになれるのだと思います。自分の無力さを知らされ、どん底に落された
ときに奇蹟は起こり得るのかもしれません。「悔い改め」がこのときなされるならば、
救いは内から湧き起こり「神の国」が見えてくるのです。(2.3)
今回は30分時間オーバでした。話がはずんでの延長は良いことだと思います。
「けがれた霊」とはいかなる霊か?欲望に囚われているような人はみな「けがれた霊」に
付かれた者なのかもしれません。そういうことになるとほとんどの人が「けがれた霊」に
付かれていることになります。悪霊とけがれた霊は違うのでしょうか?サタンと悪霊は
違うのか?原語で読んでみなくては分かりません。註解書で調べてみます。
第五回(2月12日)
マルコ伝1章29節〜40節
ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家に入っていく。最初の弟子の家に向かえ
られるということは、シモンの家族もイエスを受け入れたということです。しかも
姑(しゅうとめ)の熱病を意図も簡単に治すのです。姑は汚れた霊に付かれてはいなかった
ということです。汚れた霊に付かれていたら、まずその霊を追い出す事から、イエスはされ
たと思います。そのようなことが書かれていないということは、シモンの家族はみなイエス
を信じていたのだということがいえると思います。30節に「人々はさっそく、そのことを
イエスに知らせた」とあります。シモンの家に関わる人達にもイエスが行なうところの
癒しの奇蹟が知れわたっていたことを証明する書き方だと思われます。
31節「夕方になり・・・」ユダヤでは一日の始まりは日が沈む夕方からです。
「夕方になり・・・」は「その日が始まると」ということです。
「町中の者が戸口に集まった」噂が多くの人に広まっていることを表現しています。
「悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである」
ここの解釈がいま一つ、はっきりしません。悪霊たちがイエスをメシアと知っていたのなら、
メシアであることを民衆に隠したっかたということかもしれません。なぜ隠したかったのか?
栄光のメシアではなく、苦難のメシアとして歩まなくてはいけないことをすでに自覚して
いたからなのでしょうか?
話が少し先にとびますが、おかしな箇所があります。三章21節
「身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取り押さえに出てきた。気が狂ったと
思ったからである」
処女降誕での出来事をマリアもヨセフも覚えているはずなのに、なぜイエスが
気が狂ったと思ったのか、不思議です。
マルコはイエスの誕生については何も書いていません。
そのことと関係しているのでしょうか?
一章38節の言葉は伝道の難しさを表わしているような気がします。癒しの奇蹟には多くの
民衆が従ってくるけれども、悔い改めて福音を信じる人は少なかったのかもしれません。
第六回(2月19日)
マルコ第一章40節〜45節
40節「み心でしたら、清めて・・・」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、・・・
日本でも「らい病」は去年まで伝染病として隔離政策をとっていました。2000年前はもっと
悲惨な病気として恐れられていたと思われます。手で触ること自体が勇気がいったのでは
ないかと思います。「そうしてあげよう、きよくなれ」奇蹟はいとも簡単になされます。
らい病の患者さんがこの箇所を読まれたら、どのように受け止められるでしょうか?
涙をながして、イエスを信じるでしょうか?それともそんなことが起こるはずがないと
この記事を信じないでしょうか?聖書のらい病人は奇蹟は信じても、その奇蹟を行なった
イエスを心から信じていたのではないようです。イエスの忠告を無視して奇蹟を言いふらします。
自分のことしか考えられない人はこのらい病患者のように病気が癒されたとしても魂は
神から見放されるのではないかと思います。この「らい病人」も病気は治っても、魂の救い
にはあずからないのではないかと思います。病気が癒されるよりも、魂が救われることの方
が重要なのではないかと思います。イエスは悔い改めによる魂の救いを語っているのに、
民衆の多くは癒しの奇蹟を望んで集まってくるのです。伝道の目的が逆転しています。手段と
目的がイエスの想いと民衆の思いとが違ってきているのです。癒しの奇蹟は手段であって
目的ではないのです。目的は悔い改めて神を信じることなのです。
第七回(2月26日)
マルコ第二章1節〜12節
カペナウムの家とはシモン、アンデレの家だと思われます。
あなたの罪は許された。「罪の許し」とはどういうことなのか?
前章のらい病人にしてもまずは癒しをされるのに、今回は「癒し」の前に「罪の許し」という
行為をされています。律法学者がいることを察知され、あえて「罪の許し」を語られたの
かもしれません。律法学者の反応を確かめるつもりで、わざと「罪の許し」を言われたのか
どうか?頑固に自己の考えを守る形式主義者に対するイエスの挑発かもしれません。
目に見えない「罪の許し」の奇蹟を信じられない律法学者たち(律法学者以外にも同じよう
な人たちがいたと思われます)。「子よ、あなたの罪はゆるされた」この言葉を素直に受け止め
られない、パリサイ派の律法学者たちは疑います。言葉を素直に信じることの出来ない人、
素直に聞くことは大人にとっては難しいことなのかもしれません。幼子のような素直な心に
なれない人々。イエスはしばらくすると「たとえ」で語るようになります。さらに
「聞く耳のある者は聞くがよい」(マルコ四章9節)と言われるようになるイエス、
素直に聞くことが出来ない人々が多くいる現実を知らされ「聞く者は聞け」と言わずには
おれなくなったのかもしれません。伝道の難しさを身に染みて感じていたのかもしれません。
苦難のメシアへと歩まれていく過程が書かれているようでイエスの苦しみ、哀しみが伝わって
てきます。
第八回
マルコ第二章13節〜17節
「海べ」はガリラヤ湖のこと。「彼らを教えられた」彼らを癒されたとは書かれてない
ので、癒しの奇蹟は特別には行なわれず、福音を述べ伝えるイエスの本来の仕事が出来た
ようです。アルパヨの子レビを弟子として、従わせます。ルカ五章27節〜32節同じ記事が出
ています。ルカ五章の方は「・・・罪人を招いて悔い改めさせるためである」と書かれて
います。「悔い改めさせるため」この一言が有ると意味が少し違ってくるような気がします。
マルコのように「罪人を招くため」なら無条件で招かれるようですが、ルカのように
「招いて悔い改めさせるため」となると招かれても悔い改めなければイエスの「招き」に
招かれたことにはならないのです。「悔い改め」という条件付きなのです。
「招く」は「導く」、救いへの導きです。マルコの方がストレートで分かりやすいかもしれません。
罪人とはどのような人たちのことなのか?矢内原忠雄の「イエス伝」によると『道徳的意味の
罪人ではなく、むしろのけ者、仲間はずれとの意味です』とありました。
ユダヤ教の律法を厳格に守るべきことを主張した国粋主義のパリサイ人から見て、ローマ人
の生活習慣に従い、ローマ人かぶれのした者たちを非国民、罪人といったのです。
取税人というのは政府の下請けの税金取り立て人のことです。ローマ政府の配下に属し
ローマ人との関係が深く、習慣もローマ的となり、生粋のユダヤ人からは嫌われていたのです。
イエスの弟子には学者や聖職者など地位、名誉のある人は一人もいません。漁師や取税人
など、どちらかといえば教養の無い、無学な人たちでした。でも、この弟子たちはいずれも
幼子のような純粋な心を持った稀有な人たちだったのです。
イエスの言うところの「神の国」を受け継ぐのはこのような人たちなのです。
第九回(3.12)
マルコ第二章18節〜22節
ヨハネの弟子とパリサイ人は断食をしていた。人々が来て、イエスに質問したら、
婚礼のたとえで断食の意味するところのことを教えられた。目的と結果が逆転していると
イエスは指摘しているのだと思います。断食を否定しているのではなく、断食はあくまでも’
結果であるといいたいのです。「花婿が奪い去られる日が来る」十字架を予言しているのか?
次ぎの布切れとぶどう酒のたとえも同じことを言っているのだと思います。
新しい布切れ、新しいぶどう酒はイエスの「教え(福音)」のことだと思います。古い着物、
古い皮袋はパリサイ派的な考え方をさしているのだと思います。ここで、古いものがいけない
とは言っていません。ただ、合わないと言っているのです。
最後の括弧は後世の加筆だと思われるので、括弧で囲んでいます。
括弧のことをイエスは言われていないのだと思います。
自分の話を聞く人の判断にゆだねていところがあります。前回の義人の話でもそうです。
婚礼の客は弟子たちのことです。花婿はイエスのことです。では花嫁は誰なのでしょうか?
イブはアダムのあばら骨から造られたと書かれています。(創世記二章21〜22)
「欠けたるを補う」という聖書の言葉があります。
創世記の記事のようにアダムの欠けたところがイブであって、結婚という形式をとって欠けて
いるところを補い合うのが結婚の意義だという考えがあります。聖書的結婚観です。
聖書的結婚観の最たるものの一つに藤井武の著書「子羊の婚姻」があります。ミルトンの
「失楽園」をも越える本と無教会の先生方は語られています。結婚と信仰は同じ要素を
含んでいると言ったらいいのか?アダムの欠けたるを補うのがイブで二人で一つという考えが、
信仰においてもいえるのです。人の欠けたるを補い合うのが結婚ならば、同じように
信仰も神を花婿と考え、信者を花嫁ととらえ、神の欠けたるものを補うのが信者だ
という考えがあります。全能の神に欠けているものがあるのか?という考えが起こってきます。
「子羊の婚姻」を、また読み直してみます。
18年前、結婚するにあたり、渡辺先生からそれぞれ「子羊の婚姻」を読んで、それぞれ感想文
を提出するように言われました。妻は一度の提出で先生の了解を得たのに、私は二度、三度?
提出させられた思い出があります。お互いの感想文の内容は知らされていません。その感想文は
いまも先生がお持ちのはずです。いったい何と書いたのか?自分の感想も完全に忘れています。
客観的に評論家のような書き方をしてしまったのではないかと思うのですが・・・。(余談です)
「悔い改め」についての一考。
以前の書き込みからの引用を参考に「悔い改め」について考えてみたいと思います。
先週から見続けているテレビドラマがあります。昼の3時35分からの再放送
シリーズ「こんな恋のはなし」です。真田広之、玉置浩二、松嶋菜々子の演技が光り
ます。もう終わりに近いと思います。時間があり、興味のある人は見てみるといいかも
しれません。終わりをどう終わらせるか、「死」をテーマにして「生」を問うています。
歌手の玉置さんは以前も役者としていい演技をされていたので記憶にありましたが、
今回もなかなかいい味を出しています。バックに流れる音楽も玉置さんの曲です。
真田さんの抑制された演技もなかなかです。松嶋さんも新鮮です。 (2001.7.18)
テレビドラマ「こんな恋のはなし」が終わりました。
「いつからでも人生やり直しは出来る!」
「決して最後まで諦めない!」主人公の言葉です。
主人公は最後の三ヶ月を人生の良き思い出作りに費やしたみたいです。
さわやかに終わりを迎えたようです。思い出を残して去っていく主人公、
残された人たちは各々の人生を歩む、一年一度彼を偲んで集まることにして
思い出の中の彼は生き続ける。人生で何を残したかではなく、人生をどう生きたかが
問題なのだと思います。「死」を考えることが「生」にとって
大切なことなのだと思います。いかに生きるかは「死」を前提に考えるとき、
その生き方が変わってくるのだと思います。
限られた条件の中で生き抜くところに人は感動するのだと思います。その条件が
厳しければ厳しいほど物語としては感動ものに仕立てられやすいのだと思います
「こんな恋のはなし」も後6ヵ月の命という設定で話しは進みます。
限られた時間でも人はやり直しが出来、充実した人生を送れる。
時間の長さでもお金の有る無しでもない、「生きる」とは心と心のふれあいに
よる一体感からくる喜びを分かちあう
友人、恋人、妻、夫、子供などが身近にいることに感謝でき、そのことに「幸せ」
を感じることができるかどうかです。(2001.7.27)
主人公は仕事優先の利己的な人でした。利己的でない金銭的に貧しい人たちと
接するうちに価値観が変わってきて、死の直前に180度の転換をするのです。
「いつからでも人生はやり直しがきく」と信じ、最後は自己犠牲をもいとわない
勇気を持つのです。信仰のお話ではありませんが「悔い改め」をそこに見ることが
出来ます。「やり直し」は悔い改めなくしてはありえません。以前の自分をただ
否定するのではなく。間違っていたことに対しての「悔い改め」なくしては
「やり直し」もできないのではないかと思います。(2003.3.12)
第十回(3.19)
マルコ第二章23節〜第三章6節
23節から二章の終わりの28節までと三章1〜6節の二つの出来事は安息日に対する考え方の違い
から、いかにイエスの教えが新しいぶどう酒でパリサイ人が古い皮袋かということを表わして
います。
出エジプト記の第二十章に「モーセの十戒」の記事があり、第四番目に「安息日を覚えて、
これを聖とせよ」とあります。カナンの約束の地を目指し砂漠をさまよう民にとって神との
契約(十戒)は精神的な支えとなり、必要はものだったのです。その精神的
4月30日 マルコ三章31〜35
「変革」
メシアとしての自覚がイエスを変えました。イエスが変わればイエスの回りも変わって
きます。大工の息子ではなく、救い主として回りはみるようになったのです。ただ、肉親、
近所の人たちにはイエスの変化が狂気にみえたのでしょう。昔から知っている人にはイエスの
変化が霊的なのに気付かないのです。つい目でみてしまい、外見で判断してしまうのです。
よって霊的に理解しにくいのだと思います。
マルコ三章31節から35節は
肉体の関係よりも精神(信仰)の関係を大切にしているイエスの姿が見受けられます。
心理学の分野で「悪い人ゲーム」?という現象があるそうです。
「あの人が悪いから私は不幸なのだ」と不平ばかりいう人は自分の現実が不幸なのは
あの人たちの所為だと悪いことはすべて他人の責任にしてしまうのです。そこからは何の
解決も得られず、常に他人を意識して不平をいうのです。他人を意識しすぎるあまり、
被害妄想に陥ったりもするのです。
この悪循環を断ち切るには、まず自分が変わることなのです。
どのようにしたら変われるのでしょうか?
まず自分が変わりたいと切望することだと思います。信仰的にいえば神に祈る
ことです。ひたすら祈るのです。何をいのるかといえば「自分を変えてください。
あなたを信じて歩めますように」そうすればいつかかなえられるはずです。
5月7日 マルコ四章1〜9節
「種まき」は伝道者、あるいはイエス御自身のことかもしれません。
「種」は福音、イエスの教えです。
道ばた、土の薄い石地、いばらの中、良い地は聞く側の心をさしている。
15節からたとえの解説がついています。
同じ話を聞いてもこのように、いろいろな反応があるのです。
良い地でありたいものです。
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今日の読書会は「マルコによる福音書」第八章一節から十三節までやるつもりです。
一節から十節まではパンの奇蹟です。六章で行った奇蹟と同じような奇蹟です。重複なのか?
どうかということではなくて、別の同じ様な奇蹟と捉えていいと思います。
六章では弟子達からイエスへの問いかけから、パンの奇蹟を行ったのに対して、
今回はイエスから自発的に奇蹟を行っています。ここが以前と違うところです。後はほぼ同じ
行程で終わり、奇蹟を奇蹟として伝えることなく、すぐに群衆がいるその場を立ち去るのです。
このへんはまったく同じです。奇蹟を公にしないのがイエスなのです。何故か?イエスの目的は
奇蹟にあったのではなくて、魂の救いにあったのです。奇蹟は相手にたいする愛情ある行為に
すぎなくて、そのことはイエスの思いやり以外のなにものでもありません。
十一節から十三節は奇蹟(しるし)というものを、イエスがどのようにとらえていたかを
言い表している箇所です。噂を聞きつけて
「パリサイ人がイエスを試みようとして議論をけしかけ、天からのしるしを求めました」
ヨハネのバプテスマを受けたあとの、荒野でのサタンの試練(マタイ四章一節〜十一節)と
同じようなことを、このパリサイ人は言うのです。パリサイ人はサタンと同じということです。
信仰がないところでは、決して奇蹟を行わないのがイエスなのです。生まれ故郷で奇蹟を
行わなかった(六章一節〜六節)のと同じです。
相手の信仰心がイエスの奇蹟を呼ぶのであって、興味本位の試みで奇蹟を求めても、イエスは
答えません。ただ去って行くのです。
興味本位の期待や希望に対して、私たちも無意識のうちに、そのようなことには拒絶して
いるところがあるのではないかと思います?本心が何処にあるかで、返ってくる答が違って
きてあたりまえなのです。幼子のように素直になれれば、相手も素直に対応してくれます。
そうでない場合もありますが・・・。こちらが構えて相対すると相手も構えてしまいます。
無心になることの難しさをしらされます。無心、無防備になれれば怖いもの知らずかもしれま
せん。(2003.10.22)
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明日の読書会で話す箇所を勉強します。マルコ八章十四節から二十一節まで。
この箇所でイエスが言われた言葉
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」を如何に解釈するかです。
弟子達は的外れな解釈をして、イエスに「まだ悟らないのか」と言われてしまいます。
私達は後世の人間であって、イエスの死後の過去の歴史を知っています。常識として、知識
として、いろいろと知っています。その感覚で読めば、弟子の無知さに驚かされますが、
イエスと生きる時を同時進行していた時点で、イエスの言葉を悟ることが出来たかと
問われたとき、「わかっていました」とは言い切れないのではないかと思われます。もし、
「わかっていました」と言う人は、自惚れ屋か自信過剰な方かもしれません。
では、パリサイ人のパン種とは何か?、ヘロデのパン種は何かということになります。
パン種はイースト菌のことだと思います。イエスはマタイ四章四節で「人はパンだけで、生き
るものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」とサタンとの誘惑で
の対決でイエスは答えられています。「パリサイ人のパン種」とは「パリサイ人のような
独善形式主義の入ったイースト菌で作られたパンを食べると独善形式主義の影響を受ける
ので警戒しなさい」と言っているのだと思います。ヘロデはローマ的権勢に迎合する人々を
さしています。「ヘロデ党の迎合主義を警戒しなさい」と言っているのです。つづく。
(10.28)
今日の「聖書読書会」はマルコ八章21節〜30節までしました。
ガリラヤ湖の北、ベッサイダはすでに異邦の地なのです。そこでは純粋なユダヤ語を
語るユダヤ人ではなくて、ギリシャ語をかたるユダヤ人たちの地なのです。この地では
パリサイ人やヘロデ党などによる、身の危険を感じることなく、伝道に専念できます。
逆に言えば、ユダヤの地ではイエスはもう語れなくなってきていたのです。身の危険
を感じ、伝道できなくなっていたのかもしれません。今回の奇蹟は盲人の目を癒す、
奇蹟です。目に唾を付け、二度行って、見えるようになった経緯が細かく描かれて
います。この奇蹟でも、村から離れ、人が見ていないところでの奇蹟です。
良くなった盲人にも「村に入ってはいけない」と忠告をしています。人に知られる
ことを極力嫌うイエスなのです。
27節からは弟子たちへの質問です。ピリポ・カイザリヤはギリシャ人の都市です。
ここで、イエスは弟子達に、民衆が自分のことを何と言っているかを聞きただします。
ペテロがイエスに向かって「あなたこそキリストです」と答えます。
キリストはギリシャ語でメシア(ヘブル語で『救い主』の意味)を意味します。
ペテロのこの言葉に対して、イエスは、自分のことは誰にも言わないようにと忠告
します。キリスト(メシア)の本当の意味を、多くの民衆は充分に理解をしていない
ことを身をもって、体験していたのだと思われます。弟子でさえ本当に理解して
いないことへの孤独感がイエスの言葉の節々から感じられます。人類の救いのために、
伝道しているのに、多くの民衆はその奇蹟にしか興味を示さないことへの挫折感みた
いなものがイエスを襲っていたのではないでしょうか?
そこには栄光に包まれた救い主(メシア)の姿はなく、無理解による孤独な苦難の
メシア(キリスト)がいます。あなたも他の人に理解されないことから起こる無力感
みたいなものを感じたことはありませんか?(2003.11.6)
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