2001年読んだ本の感想


 
「断片と全体」デヴィッド・ボーム著(工作舎)についての感想。
 
聖書の創世記に有名な「バベルの塔」の話しがあります。
人類が傲慢になり神に近ずこうと天に届くほどの塔を作り始めたのです。
神はそれを見て、工事を中止させるために何をしたか。
それまで一つの言語しかなっかた言葉を乱し互いに言葉が通じないようにした。
つまり、言葉を乱すことで、思考を乱したのです。
言葉の断絶が思考の断絶に繋がることを意味しています。
このことは3000年前から言われていることです。
聖書を擁護するつもりではありませんが、たいていのことはこの書物から見い出せます。
ボームの言わんとすることも、この中に隠されていると言っても過言ではないと思います。
 
著者のボームは物理学者です、彼は結論から原因を導きだそうとしています?
まずは彼の結論があるのです。その説明をいろいろな言い回しで言っています。
訳者の問題なのか、原文がそうなのか?
表現方法がくどく、もっと分かりやすく表現できそうなものを・・・、
文学的には未熟?(偉そうに批評しますが、有名なものほどケチを付けたくなるのが
私の嫌な面かもしれません。お許しください)
ボーム自身が断片的なのかもしれません?
なぜ?文章が未熟だと断片的なんですか?
思考が断片的だから、文章が未熟(断片的)なんです。
彼の文章が未熟なんて、あなたに断定出来るのですか?
はい、出来るのです。なぜなら私が判断の基準なんですから。
 
こんな会話が彼の持論から生まれます。
学者はやたら持論を主張したがります。
しかし、その持論はあんがい数1000年前から言われていたことだったりするのです。
続きは明日。(2.24)  

「断片と全体」の30ページまで読んで、いろいろと思いが駆け巡るので 本を読むことを止めて、書き込みに精を出しています。   ボームは断片の証明に彼の得意分野の物理学、量子学を使って説明しています。 量子学も断片の一つです。「断片」をいくら繋ぎあわせても断片なのです。 30ページから先でその断片化した思考を全体的な思考へ導く手段でも 書いているのかもしれませんが。余り興味ありません。 私論を言わせてもらえば、人、人類の側からは断片でしか「もの」は見えないのです。 インド哲学のシャンカラは「世の中は『無知、無明』だ」と言っています。 無知、無明を知り、解脱する方法については何も言ってません。 自分で考えなさいと言うことかもしれません。答はないのだと思います。 答を出そうと努力することに意義があり、答を出したと思ったとき、思考は止まり、 断片の中で「全体」を悟ったと思い込むのです。 断片だということを知ることに意味があり、断片の中で悪戦苦闘しながら、 真理(全体)を追い求めることが大事であって、結論は神?のみぞ知るです。     (2.25)
「断片」の続きです。 P83まで読みました。何なんでしょう?この不快感に似た違和感は? 彼は学者(学問)として人生を解明しようとでもいうのでしょうか? 彼自身ここで言うことは理論であって断片の一つだということを書いていながら、 こうすれば断片的思考から抜け出せるという書き方で話しを押し進めています。 謙虚さに欠けるとこが嫌いに思う原因かもしれません。 自分の狭い(彼はそうは思ってないのでしょうが)思考の範囲で全体を思考できる 方法はこうだと明言する根拠は何なんでしょう。 大変攻撃的な言い方をする私も何なんでしょう。 人生の一度きりの実験を通して培ってきた思考による直感? (感性)にある程度頼るのは偏見でしょうか? 私の思考も断片的なのですが、彼の断片的思考とは違うと思います。 彼の言っていることは自然から隔離された研究室の中で、 俺は大自然を研究しているのだと豪語しているような気がするのです。 理論は実験を通して証明されるもの?この考えは古い思考方法なのか? 実験は個人で体験するもので、理論で体験は出来ません。 人生は個人の実験現場です。個人個人がそれぞれの実験を通して生きる意味(死ぬ意味?) を知らされるのだと思います。個人の人生はやはり断片でしかなく個人個人の断片を認めあい 補いあうのが「愛?(思いやり)」(ちょっと違うのですが、いい言葉が見つかりません) 最初に戻ますが「バベルの塔」の話しは面白い話しです。 あれは自然(神)への畏敬の念を忘れた人類への罰?を表わしている気がします。 ボームさんは断片的思考を全体的思考と間違えてるところが 「人類の危機」を生み出していると主張?しているようですが、 私は「人類の危機」について彼とは少し違う解釈をしています。 欲望を制御するもの、それは畏敬の念を持つことだと思います。 その対象は神であったり、自然であったり、不可解なことだったり何でもいいのです。 畏敬の念を忘れた人類の傲慢が人類を危機に導いているのだと思います。 全体的思考とは他の存在を認め、人はしょせん断片的思考しかできないものだということを 知らされることかもしれません。 このへんが彼との違いです。彼は「バベルの塔」を登ろうとしているのかもしれません。 登れば神?に近づけると信じているのでしょうか?   他人を見ることで自分の立場が見えてくることもあります。 そういう意味では面白い本です。   


2000年に読んだ本の感想(以下)

「ジャヤカーンタンについての所見」
(ジャヤカーンタン:インド現代タミール文学の巨匠)
 
ジャヤカーンタンは登場人物の性格を前もって決め付けて、読む私達に強要する。
「誰のためにないたか」「憐れみをこえて」でもそうです。登場人物を物語の一
歯車として組み込み、全体を構成する。そこに読者の想像、あるいは予想などが
入る余地がない。人は多面的です。私などもそうです、お客さんによって印象が
違います。あるお客さんは「こんなきさくなお店は珍しい、ご主人が面白い。」
と言い。私の気分がすぐれない時に来た人は「愛想のない主人だ。」と思ってし
まう。ある人にはこう映り、他の人には別人のように映る。それが人間の面白い
ところです。登場人物の性格を前もって明記するジャヤカーンタンのような小説
に私は違和感を覚えたのだと思います。物語を読んでいくうちに、読者の方で登
場人物の性格なりを判断していき、自分なりのイメージを膨らませながら、物語
を楽しむのならば、読む側にも考える行為が起こり、想像を膨らませることが
出来るのです。しかし、ジャヤカーンタンのように最初にこの人はこうゆう性格
です、と決め付けられると、もうイメージが固められ、こちら(読者)に考える
余地がなくなり、ただ、ただ、彼の言う通り、はいはい、ごもっともごもっとも
となり、トコロテンのように押し出される善意を胃の中に詰め込むだけです。
善意の物語でも、それが押し売りのように一方的だと、こちらを脅迫するのです、
いいだろう、すごいだろうと。私のように一方的に押し付けられると拒否反応を
示す人間には耐えられない小説です。善意の押し売りです。
現実社会でも同じような話しがあります。善意を押し付ける側の人はそれが善意
であればあるほど、その善意を受ける側のことをあまり考えないのではないで
しょうか。藤原新也さんが「東京漂流」のなかで、家族でボランティアの募金
運動をしている姿を見ると、ある種の恐怖を覚える、いわれのない拒絶反応。
やっていること自体は良いこと善行ですが、それがもたらす結果に疑問を感じる。
うちの店のお客さんがこのことについて「ある団体が途上国に衣類を送るボラン
ティア運動をしていたら、その国の繊維産業を壊滅状態にしてしまったことがあ
る。善意とは受け取る側のことをよほど考えないと、かえって害になることがあ
る。」と言われました。ジャヤカーンタンについては以上です。
 
本の批評を通して自分の考え方のありかた、見地を再確認出来ることは良いこと
だと思います。ただし、それが自己満足に終わり、独善的になってはいけないと
思います。もしおかしいと思ったら、どしどしお知らせください。
            (2000.9.23 夜 9:40)

柳美里さんが、以前、井上ひさしさんに「お父さんは宝ですね」(このような ことだったと思います?。)と言われたそうです。不幸の原因が宝物?。もの を作り出すような仕事をしている人にとって(表現者)育った環境は運命的 なところがあります。才能は同じでも環境が違うと表現されるものは違ってき ます。柳さんも平和な家庭に生まれていたら、このような優れた作家にはなれ なかったと思います。環境は選べないところがあります。特に幼時期は自分で 選べません。世の中、才能のある人は沢山いらっしゃいます。しかしその才能 が表現者として開花する人は限られているのかもしれません。それこそ見城さ んが言っていた「王様と乞食しか表現者になれない。そこに葛藤があるからだ。 」このことは正しいのかもしれません。藤原さんにも柳と同じ臭いがします。 不幸が才能を開花させたようなところが感じられます。これは私の直感です。 違っていたら申し訳ありません。いま朝の5:30です。目が覚めてしまいま した。パソコンは思いがすぐ書き込めるので楽です。道具として使いこなすと 便利なものです。HPを開いてから、詩をまた書きだしたのです。HPを持た なかったら詩は書いてはいなかったと思います。これも環境が生み出した副産 物かもしれません。 9.8、朝
藤原さんの「インド放浪」はかなり有名らしいです。31年前書かれています。 当時、妻も読んで大変面白っかったといってます。私は残念ながら、まだ読んで いません。「ディングルの入江」はなかなか良いです。なにげもないありふれた ところで、ありふれた女性を表現するのに「飾り気のない健康な肉づきの娘」と 書いていました。ちょっと笑えました。外国人的な感覚を持っていらっしゃるの だと思います。文章も個性的です。つい引き込まれます。 9.8、夜
ディングルの続です。アイルランドの荒涼とした漁港が舞台です。梅森店のクー ラをちょっと強めにして臨場感をだす。謎の女性プーカの絵を藤原さんが批評す る。彼の得意な場面です。力がはいります。自然描写も写真的、絵画的で、読む 側の脳裏に風景をイメージさせるだけの文章力があります。 9.9
続きです。 心に残る文章が有りました。「アダムとイブとが楽園を離れたときから人類はそ のまま楽園から遠ざかり、廃虚に向かいつつあるんだって。次々となにかを 手に入れようとする人間の限りない欲望が、ほんとうは次々と大事なものを手放 し自分たちを追い詰めつつある...。」河島英ご(漢字が出てこない)さんの歌に 結婚して冷蔵買い、洗濯機を買い、テレビを買い、ものが増えていくにしたがい 会話がなくなり、車を買ったら別れた。といった内容の歌を昔聞いた。後、力車 のおじさんの歌、一日何ルピーかの売上でもおれは世界一の幸せものさと自慢す るおじさん、心に残る歌詞です。際限のない欲望は破滅をもたらす、その程度は 何処で線を引くのか?。ここまでなら大丈夫、これ以上はいけない。個人の裁量 によるところのものと、人類の問題にかかはることと関連があるのか?。あるの だと思う。藤原さんが25年間も世界中を旅して思ったことの大切なことがこの 小説の中に凝縮して書かれているのだと思います。荒涼としたアイルランド、最 果ての地、不必要なものはそぎ落とされ必要なものだけが生き残れる地。ここを 小説の舞台に選んだところが藤原さんらしい、世界を見て回って感じたことの答 えがここにあるのかもしれない。猫の音で目が覚めうとうとしてたら書きたい文 章が思いだされたので、今日も早起きです。ここ数日睡眠時間が少ないです。少 し寝だめしなくてはいけません。疲れがたまりやすくなってきました。 9.10朝5:33
続きです。 いい本です。氷山のように水面下に膨大な経験と知識が有り、この本は水面上の 極小さな一角でしかない。この本が出版されたのが1998年ですから、彼が 54歳のときです。しかも小説活動の第一作だそうです。それまでの膨大な旅の 経験と知恵は測りきれないものがあります。心に残る文章がまたありました。 「話しの中に出てくる不死の島(ティー・ナ・ニーグ)とは自分の長生きの欲望 をかなえる島というのじゃなく、むしろ人が自分というものを消すことによって 得られる大きな人間の命の輪のことじゃないかと。.. .人は死してもその輪はずっと生きつづけるんだ。だから自分の長生きの欲望を かなえるために島を目指した者の前では、そけは近づいたとたんに消えてしまう 。」 解説をすると。不死の島とは島全体が一つの生命体としてあり。そのなか のどれ一つも別々ではなく手を取り合ってつながっている(私利私欲には無縁で す)。過去も現在も未来も一つにつながっている。その不死の島は何処にでもあ りえる。民族であり、家族でもありえると私は解釈しました。私の解説では、 ちょっと分かりずらい人は本を読んで見てください。 夜、最後まで読みました。うーん、部分部分面白い所が沢山ありました。が、 ただ 何かが足りない、その何かとは?。わたしにもはっきり分かりません。 プーカが死に彼女の遺品を取りにウイックローの彼女のいたアパートにいき、 貸家の主人と遺品を見てここで完結させたほうがよかったのでは?ここらは胸を 打つ場面です。つぎの第十章はいらないとおもいます。ケイン・マックールを捜 して彼女の遺品を渡す。この箇所があると彼女のアパートでの神聖?なできごと が半減してしまうのでは?。全体的にはいい本です。  6.10夜
今日近くにある、今風の古本屋に行きました。ここで時々本を買います。丁度 藤原新也の「東京漂流」がありました。しかもなんと100円です。嬉しくなり ます。今日はいろいろと用事があったのでゆっくり本が読めませんでした。明日 さっそく読みたいと思います。本をよく読み出したのも、HPを開いてからです 。それまではほとんど本は読まなかったです。新聞は良く読んでましたが。特に 「思い」のコーナを作ってからは意識的に読んでます。人に何かを伝えたい、 それには自分がそれだけのもの?を持ってないとすぐに種切れしてしまいます。 それに自分の好奇心を駆り立てるものがそこになければ読む気になりません。 だから興味のあることから次々に読んで書いてます。いまは藤原さんに凝ってま す。あと一貫したテーマとして「人生」「表現者」「宗教とは?」なんかを追求 したいと思います。これがわたしの「思い」かもしれません。興味のある人は 読んで下さい。これは自分のために書いてます。それが他の人にとって有益な ことでしたらこのうえない喜びです。 9.11
「東京漂流」ショート、ショートのエッセイ集と言った感じです。藤原さんの 視点が何処にあるかよく分かり、藤原さんを知るにはいい本だと思います。高度 成長期の前と後の日本人の変貌、変化がいたるとこにみられる。彼は特に都市の 景観、家の作りなどに日本文化の変容に注目している、それは日本人の精神構造 をも変えてしまった。この本は1983年に発行されているので、17年前です 。すでに現在の諸問題を予見しているとここがあります。まだ58ページしか読 んでないので、このさきは夜書きます。 9.12 昼休み 彼の生い立ちが少し書かれた箇所がありました。父親は旅館を経営していたらし く、その旅館にはいろいろな人が来て泊まっていった。普通の家と違いお客さん が主役で広い家の中を探検?するような楽しみがあり、本人は大変この建物を愛 していたようです。しかし、高度成長の都市計画で二足三文で立ち退きさせられ 、別の場所で旅館をはじめるのですが、経営に失敗して放浪の旅が始まったよう です。旅館という特殊?な環境が彼の精神構造を形ずくるうえで多少なりと影響 を与えていると思います。幼少のころはお客さんの話す色々なことを通して世間 を知ったのではないでしょうか。藤原さんの書物についてずうと以前から良く知 っている知り合いが言うには「彼のカルカッタの路上生活者の写真は他の人と違 いその路上生活者の視点で、レベルでものをとらえてる。上から見降ろす視点 ではない。色々な彼の写真を見ているけれど、この写真が一番いい。」その知人 は毎年ベナレスに4〜5カ月行く人です。「東京漂流」はかれのものの見方、視点 の目のつけどころなどが良く分かる本です。あるいみで常に同じ視点でものを見 ています。問題提起と現状分析が鋭く、将来の予見も鋭い。しかし、 その解決方法は特別に表記されていない。問題提起することで、彼は自分の居場 所を確認したいのではないでしょうか。自分のために写真を撮り、自分のため本 を書いている。読者は彼と同化してはいけないのです。彼の視点は彼のものです 。自分は自分の視点を捜さなくてはいけません。ちょっと分かりずらいかもしれ ませんが、要は「世の中のことに疑問を持ち、自分で思考して自分で解決しなさ い。」ということです。一人一人がもっと自立した人間になる必要がある。 と彼は自己主張することで暗に私たちに言っているのではないでしょうか。    9.12 夜11:35  
彼白く「集合住宅、団地などが現われる前は、日本家屋構造は機能的ではないが 世間に向かって開放されており、自然環境の中で呼吸をしている生き物であった 。」いまはその逆だ。と言ってます。私はよく実家の昔の家を思い出します。 縁側がありトイレが部屋の外(縁側のはずれ)にあり、横雨のときは濡れながら トイレにいったものです。怖い話しの後はトイレにいくのが大変辛かった思いで があります。台所にかまどがあり。正月前の餅つきはかまどで餅米を蒸して中庭 で餅つきをしました。父が健在なあいだは毎年楽しい行事でした。18歳まで その家で家族4人暮らしました。いまでも間取りから何が置いてあったか鮮明に 覚えています。懐かしい懐かしい思い出です。この話しをいつか書きたいと思っ ています。最近詩を作るより文章を書くほうが面白くなってきました。こうゆう 時もありですね?。 9.13 真夜中 0.15
「東京漂流」の続きです。カルカッタのTライ救済病院でのシスターとの問答が 感動的です。彼は自分で納得できないと、気が済まない、理解したことになら ないということを体で知っている人です。本を捨て町へ出よう、なんて生易しい 程度じゃない。屍を潜り抜けはいつくばって前線を生き抜いた事実、体験を持っ ています。これは水戸黄門の印籠と同じ効果があります。キリスト教の真髄に 近い問題を、このシスターとの話しの中で自分の理解力を越えたものを理解し てしまう。要は信仰を知ってしまう。すごいことです。長年聖書を読んでも 理解しにくいことを体験を通して信仰をもたない?彼が聖書の言わんとすること を理解する。彼のすごいところです。  9.13 夜 10.30
読み終わりました。世界に出て一年のほとんどを海外で過ごして、25年間の間 に日本の社会はおかしな方向に進んでしまった。藤原さんだから見えるおかしな ところがこの中ににつまっています。良い本なので常連さんにこの本をお貸しし ました。読んでない人は一度読んでみることをお進めします。 9.14
藤原新也さんの本「幻世」について、気になる所から感想を書きます。P123の 「ヒトと物の間」にヒンドュ教について書かれています。「ヒンドュ教は〈質・ 量〉つまり〈物〉の宗教。〈物〉とは自然の流転に乗り、逆らわずに在るもの それは、在り方の標準を示してものである。その〈物〉から生活的、官能的に在り 方の標準を学ぶのがヒンドュ教だと思う。」大変わかりずらいところです。さらに 「ヒンドュ教を生殺ししたのが仏教だ。ゴーダマ・ブッタは〈物〉の下を旅し、行 為を経て彼の内に一定の標準を築く、その標準を《言葉》にたくした。言葉は《文 字》にたくされ、途上の国々で変容しながら日本に伝来した。しかし、文字は言葉 の生殺し、言葉は〈物〉の生殺し、本質は官能的なものから認識的なものにすり変 えられている。本来、官能的なヒンドュ教から認識的な仏教にすり変えられている。 だから私は生殺しという言葉で言い表している。」こういう感じで話しは進んでい きます。〈物〉は伝来しないそれはインドにあっての〈物〉なのである、ヒンドュ 教はインドでしか存続できない。バリにもヒンドュ教はあるが、あそこは伝来した 生殺しのヒンドュ教をバリ独特の音楽で宗教を再生している。宗教哲学っぽい内容 の箇所です。「日本の読経にはその背後にブッタという人称を想像させるが、チベ ットの読経はブッタを突き通して〈物〉に至っている。ブッタはあくまでメディア である。メディアを通して〈物〉に至ろうとするのが日本の宗教の根本的な弱さだ と思う。宗教が〈物〉を保護する。西欧的世界観とヒンディズムは違う。ヒンディ ズムの宗教的社会の中では、人間対、鉱物、植物、動物の間に人間対人間のように 一定の禁止状況がしかれている。それをタブーというのだと思う。つまり人間社会 を成り立たすということは人間以外のものを成り立たすのであるという、今日 日本人が気付き始めた、自然と人間のモラルがインドでは5000年前から宗律と して守られてきた。モラルとは人間対人間の関係という狭い考えではなく、本来 モラルとは世界的(人、もの、動物、植物などとの関係。)な意味を含んでいる。」 以上、簡単にまとめてみました。           (9.26 夜 11:50 )
ヒンドュ教についての藤原さんの解釈は理解できました。しかし、彼はこの考えを すべての宗教にあてはめようとしています。それは違うのではないかと、私の考え を書きたいと思います。私はクリスチャンの立場から述べたいと思います。ヨハネ 伝の始めに「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 」キリスト教では藤原さん白く〈物〉の生殺しの《言葉》がこの〈物〉の上に位置 する。物と言葉の位置関係が逆転しています。ここにキリスト教の性格が如実に表 われています。キリスト教は神と人との契約の宗教です。旧約聖書の創世紀の一節 に「はじめに神は天と地とを創造された。」とあります。三節に「神は『光りあれ』 と言われた。すると光りがあった。」。絶対神の《言葉》が〈物〉を生み出す。キ リスト教では創造主と創造物は同一ではない。ヒンドュ教の始まりはバラモン教です 。そのバラモン教のブラフマン(創造主?)とアートマン(創造物?)の関係は 最終的には同一であるという思想、キリスト教と違います。違いは何処からきてるか 。それは、それぞれの宗教の発生したところの自然環境の違いと生活様式の違いから きていると思います。 キリスト教は不毛の地、自然に対して対立、征服しなくては生きていけないような 厳しい土地に発生した、狩猟民族の宗教。一方、ヒンドュ教は緑ある恵まれた 自然環境の地で発生した、農耕民族の宗教。          (9.27 夜 10:40)
この先、西洋宗教と東洋宗教の違いなどを書きたいと思っていましたら、昼、 藤原さんの本「沈思ほうこう」(ほうこうの漢字がパソコンにない)を読んでいたら そのこと(西洋宗教と東洋宗教の違い)を書いていました。すでに書かれていること を書いてもしかたないので、止めときます。要は西洋的な宗教、思想、経済は限界に きていて、これからは東洋的な宗教、思想が人類に必要になる。この辺のことは他の 人も言ってます。しかし、彼のすごいとこはそれらを現実の社会現象から原因を見附 だしその原因を分析して「考える」ところです。そして推測して予言するのです。 その推測も実に鋭い、これほどの人は始めてです。この本は彼の27年間の「語り」 を一冊の本にしたものです。この本のための書き下ろしの文がすごいのです。特に私 にとってすごいのです。先日、私は差別用語について書きました。藤原さんもここで 差別用語について書いているのです。あと乞食についても書いてます。乞食について 先日私も書いたところです。後、宗教についても書いてます。すごいでしょう、私が テーマにしていることを彼も書いているのです。しかもその本を私はまだ読んでいな かった。嬉しくなります。自慢したくなります。ただ、彼のほうが鋭く対象をつかん でいます。でも、嬉しくなります。この本の終わりに彼は「『言葉』が重要になって くる。・・・かってのように自然の中における体験が人の心を育むというような人間 と自然との蜜月は終わっている。言葉や芸術こそがそれの代用として機能する・・・」 と言っています。「言葉」は大切です、しかし、西洋宗教の言葉の教えは神との契約 が成り立ってて成立するのであって、「言葉」だけではいままでと同じ事の繰り返し になります。契約あるいはそれに等しい規制のような〈物〉が必要です。それは 東洋的な〈物〉です。ヒンドュ教で彼が言っていた、〈物〉に価値を見い出す必要が あるのではないでしょうか?。 これからは《言葉》と〈物〉の関係が問われるのではないでしょうか。 昨日のヒンドュ教について一言、それはカーストについてです。 すべてにおいて等しい関係を唱えてる?ヒンドュ教においてカーストは矛盾しないの か?。輪廻の思想はカーストの矛盾をごまかすための詭弁なのか?。カーストはバラ モンの支配を完璧にするための身分制度?。 機会があればこの辺のことも考えたいです。      (9.28 昼休み)
藤原新也さんの「沈思ほうこう」のP74に83〜87年の彼の出版についての 小さな書き込みがあります。「ディングルの入江」を読んだときこれほどの本が なぜ文学賞を取っていないのか不思議に思ったのです。今ベストセラーの「命」を 書いている柳美里さんの泉鏡花賞と野間文芸新人賞のダブル受賞の「フルハウス」 、芥川賞受賞の「家族シネマ」などを読んだ時よりも私は「ディングルの入江」を 読んだ時のほうが感動がおおきかったです。人によって多少の好みの違いがありま すが、なぜ藤原さんは賞をもらえないのか不思議でした。P74にその訳が書いて ました。彼は「東京漂流」に与えられた評価である、大宅壮一賞および日本ノン フィクション大賞を辞退していたのです。彼らしい行為です。多分これ以降、 彼は賞から縁が無くなったのだと思います。表現者として賞という名の世間の評価 を気にしなかった、あるいはうっとうしいと思ったのかもしれません。彼は自分で 自分の価値を、表現者としての価値を見つけ出している 貴重な人間なのかもしれません。 (10.4 朝 5:40)


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