2001年の「思考」的書き込み


2001年6月

 『キリスト教受容の方法とその課題』を学ぶ(ちとせのいわ聖書研究会)
日本国におけるキリスト教(内村鑑三の唱えた無教会)の位置づけを確認するための勉強会
の報告書とでもいえばいいのでしょうか、私の知り合いの方々(諸先輩)が意見を言われています。
武田清子著『キリスト教受容の方法とその課題』をテキストとして講義が進められたようです。
私はこの本をあいにく読んだことがありませんので本の感想は言えません。この講習会の報告書
を読んで思ったことを書きたいと思います。
宗教論、思想論から教育基本法などを論じながら、生きて後世へ伝えるべき使命を忘れない
諸先輩の信仰力?を感じます。「武士道に接ぎ木する」無教会のテーマを正面から捕えようと
されています。「武士道」の著者新渡戸稲造(五千円のデザインの人物)と「無教会」の創立者
内村鑑三、その弟子矢内原忠夫についてのキリスト者としての資質?について論じ、その中から
自己の信仰確認をする。中山博一先生にみる「無教会」信仰の在り方。
確信を持つ強さと自己満足の落し穴?。真理探究における判断の基準を何処に置くか?
信仰者においてはその教えが基準になります。いたって明快です。
「日本仏教に接ぎ木する」ぐらいの覚悟が無いと、日本国は欧米のようなキリスト教国には
成りえないのではないかと思います。
さしさはりの無い「武士道」をもってきてお茶を濁しているような気がしないでもありません。
「仏教に接ぎ木する」となると大事です。仏教会から総攻撃?です。
現実的には出来ないことかもしれませ。、
よって日本国はキリスト教国にはなりえないと思います。
それでいいのだとも思います。「真理は少数とともに在る」です。
キリスト教の神が真理ならば必ず信仰あるクリスチャンを救われるはずです。
仏教もまたしかりです。真の仏教者なら必ず救われるはずです。しかし、本当の真理というと
変ですが、仏教もキリスト教も全ての宗教を超越した真理というか真実が何処かに在るはずだと
思もわれるのですが、こんな考えは不信者の絵空事なのでしょうか?ちょっと待ってください。
真理と宗教的真実は違うのかもしれません。宗教的真実が真理ではないことも有り得るのです。
宗教の成立過程における宗教的真実はその宗教の真理に基づく経過です。しかし、
その真理はその宗教における真理であって、他の宗教では真理とはみなされないこともあります。
真理が違えば成立過程の宗教的真実が真理でなくなるわけです。
こんなことを考えていくと宗教の違いがもたらす矛盾の中に
真理が隠されているような気がしてきます。
「宗教的真実と真理」ちょっと分かりずらいですが、後日このことを探究したいと思います。
(6.10)

宗教的真実とは具体的にいうとどういうことなのか、例えば「モーセの十戒」です。 これはキリスト教(ユダヤ教も同じです)では宗教的真実そのものです。 神とユダヤ民族の契約です。 しかし、他の宗教の立場から見た場合、 「モーセの十戒」が本当に起こったことなのかどうか疑うことも出来ます。 キリスト教では疑う余地はありません。宗教的真実であり真理なのです。 「モーセの十戒」が嘘だとなるとキリスト教が成り立たなくなります。 キリスト教にとっての宗教的真実が他の宗教では真理とはみなされないこともありえるのです。 このようなことはどの宗教でも当てはまります。これは真理が多々あるからだと思います。 真理がなぜ多々あるのか?それは人の側の真理だからだと思います。キリスト教もしかりです。 絶対者?の真理は別にあるのではないかと思います。絶対者の真理とは何か? それは真実が真理なのではないかと思います? 人類の歴史しかり、個人の人生しかりです。 生きた証しが絶対者の真理を表わしているのではないかと思います。 個々の人生の生き様が絶対者の真理を表わす? 何となく分かったようで分からないとこが味噌なのかもしれません? 私の言いたいこと、理解出来ますか? 実存主義についてあまり詳しくないので言及できませんが、「我思う故に我在り」です。 しかし、この我も時代の流れの中の我です。歴史の中の我です。 歴史という真実の中に生きる我、そこに存在の価値がある。どんな小さな存在も真実の中では 同じ価値があるのです。存在すること自体に意味があるのです。 絶対者の存在証明を可能にさせることができるのだと思います。「絶対者の存在証明」? 次から次と言葉が生まれますが、それらの言葉にどこまで責任が持てるやら? 私がここに居る、あなたがそこに居る。物理的価値を超えた意味がそこにある。 我々の存在自体が絶対者の存在証明になりえるのか? 存在証明とは他者の認識があって始めて成立するものです?他者の認識とはどういうことか? 認識とは認めることです。ちょっと待ってください。 他者が認めなくても存在は出来るのです。それが「我思う故に我在り」です。 この我とはどういう存在なのか?自分の存在は自分で認めることができますが、 存在の証明をしてくれるのは我以外の他者です。それは家族であり、社会であり、歴史です。  ちょっと疲れてきました、この続きは後日に。   (6.11)
自己の存在証明は他者によってなされる、お互いが存在していることを認め合う時、 そこに個々の存在の意味、意義を求め合うようになり、ついには自己の存在に対して 付加価値的理由付けをするため?自分達のために絶対者の存在証明をする。それが宗教となる? 自分達のために絶対者の存在証明をするのではなく、自分達が存在すること自体が絶対者の 存在証明なのです。宗教の以前に絶対者は存在するのです。 じゃあどのようにしてそのことを証明するか?これが難しい。常識の範囲で証明するには??? この辺は去年から堂々巡りしているところです。ちょっと考えます。(6.12)
目に見えない〈もの〉を言葉で証明することは大変なことです。 やはり今の私には無理なのかもしれません。わたしが奇蹟でも起こせれば、常識では理解 出来ないことが起こりえることが証明でき、尚且つ、そのことが絶対者(絶対なる〈もの〉)の 存在の証拠につながるのだと思います・・・?イエスの奇蹟しかり。 あるいは証明は出来なくていいのかもしれません。「無知の知」知らないということを知っている ことが大切なのかもしれません。絶対なる不可解なものが存在することを知りえることが大切であって、 その証明は出来なくてもいいのかもしれません。 証明しようとするところ、あるいは証明出来ると思うところに人の傲慢があるのかもしれません。 要は分からないことは分からないと認め、それでも人は自分は存在する。そのことに意義を見い出し、 絶対なるものの存在が自己の存在に内在されていることを知ることが大切なのかもしれません。 その先は個々の人々がそれぞれの自分の人生を通して、体験と実験で知らされるのかもしれません。  今回はこのへんで話を終わらせます。(6.13)
「断片と全体」デヴィッド・ボーム著(工作舎)についての感想(2001年2月) 聖書の創世記に有名な「バベルの塔」の話しがあります。 人類が傲慢になり神に近ずこうと天に届くほどの塔を作り始めたのです。 神はそれを見て、工事を中止させるために何をしたか。 それまで一つの言語しかなっかた言葉を乱し互いに言葉が通じないようにした。 つまり、言葉を乱すことで、思考を乱したのです。 言葉の断絶が思考の断絶に繋がることを意味しています。 このことは3000年前から言われていることです。 聖書を擁護するつもりではありませんが、たいていのことはこの書物から見い出せます。 ボームの言わんとすることも、この中に隠されていると言っても過言ではないと思います。   著者のボームは物理学者です、彼は結論から原因を導きだそうとしています? まずは彼の結論があるのです。その説明をいろいろな言い回しで言っています。 訳者の問題なのか、原文がそうなのか? 表現方法がくどく、もっと分かりやすく表現できそうなものを・・・、 文学的には未熟?(偉そうに批評しますが、有名なものほどケチを付けたくなるのが 私の嫌な面かもしれません。お許しください) ボーム自身が断片的なのかもしれません? なぜ?文章が未熟だと断片的なんですか? 思考が断片的だから、文章が未熟(断片的)なんです。 彼の文章が未熟なんて、あなたに断定出来るのですか? はい、出来るのです。なぜなら私が判断の基準なんですから。   こんな会話が彼の持論から生まれます。 学者はやたら持論を主張したがります。 しかし、その持論はあんがい数1000年前から言われていたことだったりするのです。 続きは明日。(2.24)  
「断片と全体」の30ページまで読んで、いろいろと思いが駆け巡るので 本を読むことを止めて、書き込みに精を出しています。   ボームは断片の証明に彼の得意分野の物理学、量子学を使って説明しています。 量子学も断片の一つです。「断片」をいくら繋ぎあわせても断片なのです。 30ページから先でその断片化した思考を全体的な思考へ導く手段でも 書いているのかもしれませんが。余り興味ありません。 私論を言わせてもらえば、人、人類の側からは断片でしか「もの」は見えないのです。 インド哲学のシャンカラは「世の中は『無知、無明』だ」と言っています。 無知、無明を知り、解脱する方法については何も言ってません。 自分で考えなさいと言うことかもしれません。答はないのだと思います。 答を出そうと努力することに意義があり、答を出したと思ったとき、思考は止まり、 断片の中で「全体」を悟ったと思い込むのです。 断片だということを知ることに意味があり、断片の中で悪戦苦闘しながら、 真理(全体)を追い求めることが大事であって、結論は神?のみぞ知るです。     (2.25)
「断片」の続きです。 P83まで読みました。何なんでしょう?この不快感に似た違和感は? 彼は学者(学問)として人生を解明しようとでもいうのでしょうか? 彼自身ここで言うことは理論であって断片の一つだということを書いていながら、 こうすれば断片的思考から抜け出せるという書き方で話しを押し進めています。 謙虚さに欠けるとこが嫌いに思う原因かもしれません。 自分の狭い(彼はそうは思ってないのでしょうが)思考の範囲で全体を思考できる 方法はこうだと明言する根拠は何なんでしょう。 大変攻撃的な言い方をする私も何なんでしょう。 人生の一度きりの実験を通して培ってきた思考による直感? (感性)にある程度頼るのは偏見でしょうか? 私の思考も断片的なのですが、彼の断片的思考とは違うと思います。 彼の言っていることは自然から隔離された研究室の中で、 俺は大自然を研究しているのだと豪語しているような気がするのです。 理論は実験を通して証明されるもの?この考えは古い思考方法なのか? 実験は個人で体験するもので、理論で体験は出来ません。 人生は個人の実験現場です。個人個人がそれぞれの実験を通して生きる意味(死ぬ意味?) を知らされるのだと思います。個人の人生はやはり断片でしかなく個人個人の断片を認めあい 補いあうのが「愛?(思いやり)」(ちょっと違うのですが、いい言葉が見つかりません) 最初に戻ますが「バベルの塔」の話しは面白い話しです。 あれは自然(神)への畏敬の念を忘れた人類への罰?を表わしている気がします。 ボームさんは断片的思考を全体的思考と間違えてるところが 「人類の危機」を生み出していると主張?しているようですが、 私は「人類の危機」について彼とは少し違う解釈をしています。 欲望を制御するもの、それは畏敬の念を持つことだと思います。 その対象は神であったり、自然であったり、不可解なことだったり何でもいいのです。 畏敬の念を忘れた人類の傲慢が人類を危機に導いているのだと思います。 全体的思考とは他の存在を認め、人はしょせん断片的思考しかできないものだということを 知らされることかもしれません。 このへんが彼との違いです。彼は「バベルの塔」を登ろうとしているのかもしれません。 登れば神?に近づけると信じているのでしょうか?   他人を見ることで自分の立場が見えてくることもあります。 そういう意味では面白い本です。    
以下は2000年の「思考」的書き込み
ヨーガの修行僧は俗世間のもろもろを捨てさり、解脱の為ひたすら行を積む、 第三者には理解出来ない世界です。信仰も似たところがあります。価値観 の転換、信仰のない人には理解できない世界です。、人が生きて行くこと 自体、ある意味でクリエイティブです。人が生きていくうえで、日々無意識 のうちに行われている行為(自分で考え、決断、実行する)、これらも立派に クリエイティブな行為です。ETV2000で見城さんが「表現(クリエイティ ブな行為)にはレベルがある。」といってます。彼は出版する側の人間として そこに付加価値を付けなくてはいけないのかもしれません。売れる本でなくては いけないのです。売れない自費出版ではいけないのです。しかし、これはクリエ イティブな行為にたいする冒涜かもしれません。インターネットのブームで、 いろんなHPが表現として行われています。垂れ流し状態です。これは手段とし て簡単に自己表現出来るからだと思います。私もその一人です。 今度は「幸福」について考えてみたいと思います。幸福の基準は個人個人違いま す。同じ事でも人によっては不幸せに思え、別の人には幸福に思える事がありま す。そこには価値観の違いがあるのだと思います。例えば食事のことを考えてみ たいと思います。ここに味噌汁とご飯しかないとします。私などはこれだけでも 充分だと思いますが、これだけでは食事にならないと言う人もいるとおもいます 。私の知り合いの人に、麦ご飯と漬物だけあれば充分、味噌汁があれば贅沢なく らいだ。と言う人がいます。幸福感は何処から来るのでしょう?。自己満足の産 物なのでしょうか?。解脱は何処から来るのでしょうか?。これも自己満足の産 物なのでしょうか?。信仰は何処から来るのでしょうか?。これも自己満足の産 物なのでしょうか?。分からないことだらけです。一つ一つ考えて行きたいと思 います。 (9.3)
  表現者についての所見 人生を生きるそのこと自体が表現することである。ゆえに人はすべて表現者で ある。藤原新也もそこらのおじさんも人としての尊厳では同じ価値である。 表現者の価値と尊厳の価値は違う。 人にどれだけ影響を与えたかによって表現者の価値が決められるものなのか?。 人の表現者としての価値を決められるのはだれか。世論なのか、一個人なのか、 それとも創造主なる神なのか。私の意見はそれはその人、本人が自分の価値を 決めるのだと思います。世論でも他人でもなく、その人本人が決めるのだと思い ます。自分がこれだけの人間だと思えばそれだけの人になるのではないでしょう か。そこに目に見えない〈物〉〈神〉〈言葉〉の力が働くのかもしれません。 (10.3 夜 11:20)
「10月の映画の批評についてと今回の『日記』についての私の意見。」   人は大人になるにつれ自分を守るために、社会を生き抜くために、いろいろと 処世術を(良い悪いは別にして)知らない間に身に付けてしまう。それは生きるため に必要なのかもしれないが、そのこと(処世術)を当たり前のように思って生きて いてはいけないと思う。特に表現者はこの処世術(世のアカ)を脱ぎ捨てる努力を しなくては良いものは生まれてこないのではないかと思います。垢(アカ)をごしごし 落とさなくては、意識して落さないと落ちないのです。幼子のような純粋な感受性は その垢の下に隠れているのです。自分の弱さ、間違いを素直に認め傷つく感受性が 必要なのだと思います。自己防衛に追われていては何もそこから生まれません。 映画の件にしてもより良い〈もの〉を生み出すためには良くないとこはきちんと 受け止めないと、次に作る時によりよい〈もの〉は生まれないと私は思って あの様に書きました。今回の「日記」についても似た様なことです。本来の日記は 人に見せるものではないのですが、HP上の日記は人に見てもらうために 書かれています。それを読む側は勝手に読んで勝手に感想を持つ訳です。好む好まざる 関係なしに読まれるのです。それを覚悟していなくてはいけません。自己防衛をしては いけないのではないかと思います。さらけ出すとは人の批判をも受け止めることだと 思います。個人攻撃をするつもりではありません。 私を含め一般論として言っているつもりです。私の「思い」も作品も同じことです。 自己防衛するのではなく素直にさらけ出したいと思います。読んでいて面白くないと 思われる方がいてもそれはそれでいいのだと思います。そのことに関してこちら側は 素直に受け止めれば良いことだと思います。 批判があれば真面目に受け答えするのみです。                            (11.7 夜中 2:15) 作品を発表するということは他の人に誉められたいからするのか? いや違う、自己の内部の葛藤から生まれてくる言葉、絵、音楽などで表現された 〈もの〉を愛しむ気持ちは大切ですが、その表現された〈もの〉はその時点で作者 から離れ、見る側、聞く側、読む側に手渡されるのだと思います。 受け手に委ねられるのです。その受け手がどのように思うかによって評価が決まる。 評価は受け手が決めるのであって、表現する側は生み落とした後は、その表現された 〈もの〉を見守るだけです。表現者を離れた〈もの〉は一人歩きするのです。 受け手がどう受けとるかは結果であって、目標ではないのです。表現者は作品の目標 をより高い次元に置き、結果は経験として積み重ねていくものであって、結果を目標 にすべきではないのです。表現者は結果にこだわりすぎると余り良くないと思います。 しかし、一方的に無視することもよくありません。次の〈もの〉を生み出すためには 結果を真摯に受け止めることも必要です。また一方で余りに結果にこだわり過ぎると 良い〈もの〉は生まれなくなるのも事実です。 結果と目標のバランス感覚が必要かもしれません。 〈もの〉を生み出すことです。次から次と生み出すことで、その先に何かが 見えて来ると私は信じています。                  (11.7 夜 10:30) 
  「言葉(単語)と文章についての私見」   言葉(単語)だけでは意思は伝わりにくいその言葉に助詞、助動詞などが ついて文章になる。文章は流れだと思う。 言葉は水で、文章の流れ方によってその言葉は輝きもすれば淀んだりもする。 言葉は日常、誰でも会話で使っている。文章も誰でも書く。しかし、名文となると なかなか見当たらない、最近わたしが旨い文章だと思ったのは藤原新也さんと 柳美里さんのふたりぐらいです。流れが淀みなく言葉が輝いています。 (そこそこの文はよくあります。中には耐えれない文もあります。) ここでは先日、詩とエッセイについて書いたことをもう少し掘り下げて考えたいと 思います。詩はせせらぎの流れ、心澄まして聞かないと聞えない言葉のせせらぎ。 そのせせらぎを言葉が流れる、重い言葉もあれば軽い言葉もある。 重い言葉はせせらぎには向かないと私は思っています。 言葉自体に意味をもたせ過ぎるとその言葉はせせらぎの底に沈み、 読む側には理解しにくくなります。重い言葉はもっと流れの早い激流で 使うべきだと思います。言葉自体に重い、軽いがあるのか? 例えば「神」という言葉を使う、使った本人は自己の中で完結している意味 かもしれないが、「神」にもいろいろな神があり、文章の流れの中で理解出来る 程度の意味合いならばよいのですが。やたら「神」など信仰的、抽象的な 言葉を使われるとこちらは何を言っているのか解らなくなります。 もっと具体的に分かる言葉で話してよと言いたくなります。その人にとっては 日常的に使い、納得しているのでしょうが。その人の神とはどうゆう神なのか? 神の定義からしていただかないと、こちらに言いたいことが伝わってきません。 そのような言葉の羅列は一方的に押寄せてくる洪水のようなものです。 使う言葉自体に依存しすぎているのだと思います。言葉の流れを考えず、重い 言葉の羅列は水底に沈んで行くだけです。その重い言葉も激流ならば 迫力がある文となりこちらに危機迫る効果があると思いますが、 ある程度の文章の長さがないと激流になりきれないのです。 短い文や詩では激流になる前に言葉は水底に沈んでいきます。 詩などでやたら重たい言葉を使った詩があります。そのような詩は言葉自体に 依存している詩です。流れを無視して言葉自体の持つ意味に酔いしれている のだと私は思います。言葉は流れの中で輝くのであって、流れを意識しないで、  言葉の意味だけに頼った詩は、流れの底に沈み淀んだ流れになります。 金子みすずさんや八木重吉さんの詩は 簡単明瞭な軽い言葉で輝く流れを作っています。 いかに軽い言葉で輝く流れを作るかが、難しいのです。 作者の感性が問われるのだと思います。 これは私の私的意見です。ご意見がある方はメールを下さい。         (11.8 夜 11:15)
欲を捨てているというか、 自分の欲の為に童話や詩を作っているのではない。生きる為、自分の為でもある。 しかし、それは欲からではない、自分を救う為?自己救済の一つなのかもしれない それが他の人の救済につながるならば、それは使命をおびた人かもしれない。 何を言いたいのかと言うと、宮沢賢治さんの作品には欲がないのです。 ほのぼのとした暖かいものが残ります。受けを狙ったわざとらしさがないのです。 その素直なとこがいいのです。 飾りけがなく本質をさらっと語る、優しさがそこにあります。私もこのような作品を 作れたらと思うよりも、それ以上にこのような優しい人になりたいと思う。 別に〈もの〉を作り出す創造力がなくても、 こんなに多くの〈もの〉を愛していけたらすてきだと思う。 苦難も生きる糧として、へいへいぼんぼんと笑顔で生きていく力強さ、 そんな生き方が出来たらいいと思う。 素直になれる宮沢さんの、これらの作品はいい作品だと思います。   「僕、僕、笑っちゃいます」とラジオから古い歌が流れてきました。 本当に笑っちゃいますよ。何をそんなに争うのですか? 何をそんなに威張ってるんですか? 何の為ですか? 宮沢さんの本でも読んでみるといいですよ。   いまにも雨が降りだしそうな、薄暗い静かな空、 一人思いを深めるには好きな空模様です。自然の中で考える自分がただ独り居る。 私の回りを自然が包み込む、私の思考はその中で自然と溶け合い、一体となり 拡大していく、外へ外へ宇宙空間までも拡大していく、膨大な思考は自然をも凌駕 (りょうが)したかのように思われるが思考は所詮、私独りの頭脳の中の作りごと。 現実の宇宙は遥かに膨大です。しかし、思考の中の宇宙と現実の宇宙、 現実の宇宙の膨張は思考の膨張と似ている? 他の人には現実の宇宙の膨張も、私の思考の中の宇宙も同じく、 目で見ることことは出来ない。 現実の宇宙は数式で認識できます。思考の中の宇宙は言葉を通して認識できます。 数式と言葉の違いはあるが、似ている。 (そのもの自体は目で見ることは出来ない。) 現実の宇宙を目で見ることが出来る範囲は全体からすると極限られている、 膨張している宇宙の先を見ることは出来ない。 数式の思考の範囲内で納得しているにすぎない。 思考の宇宙も同じく言葉の認識を通してその範囲内で納得しているにすぎない。 何を言わんとしているか、 要は、思考の膨大さは「言葉」という認識を通さないと説明出来ないもので、 「言葉」とはそれだけ重要で、 言葉の表現力が持っている可能性のすばらしさを力説しているつもりです。                       (11.18 夜)  
「言葉」は膨大な思考の中の一部を具現化したものだと思います。 一部であってすべてではない。しかし、やはりその一部は、 いかに思考しているかの証でもあります。         宮沢さんの膨大な知識と経験があのような「言葉」を生みだし、 童話を生み出したのだと思います。(そうです、経験が大切なのです) 知識、知恵、に経験が加わって思考を生み出す。知識、知恵だけでは思考は生まれない。 経験という培養液がないと思考は成長しない。そうそう、経験は培養液なのです。 昨日から思考、思考と言ってますが、思考は経験という培養液によって生み出された 創造物だと思います。 経験をどのようにに受け止め、どのように克服していったかによって 、思考は違ってくるのだと思います。                  (11.19 夜)
「芸術とは?人が生きるうえにおいて必要なことなのか。」 という問いかけがある場で出ました。 芸術の定義からしたいと思います。岩波書店の公辞苑には「特種の材料、技巧、様式 などによる美の創作、表現。造形芸術、表現芸術、音響芸術、言語芸術などに分ける こともある」 とあります。人が生きるということ自体が芸術という言葉で表わされるのではないでしょうか。 人は生きるために色々な物を考え作り出します。古い時代から現代もそうです。 作り出される物の程度は違っても、作るという行為における芸術的意味においては、 昔も今も同じです。これらの行為は必要に応じて行われています。芸術と意識しない 昔から無意識のうちに行ってきたのです。縄文式土器も今ではりっぱな芸術作品です。 後世の人がそれを芸術と評価するのです。縄文人は芸術作品として意識してなっかたと思います。 文明が確立してから芸術という意識が生まれ、芸術に付加価値を付け普遍性を求めるようになる。 このへんから芸術は選ばれし者の特権になってしまう。 私の描いた絵が数千年後に残っていたら立派な芸術品?となるでしょう。 ゴッホの絵と素人の書いた絵の価値の違いは何処にあるか。上手に描かれているから?生き様が 真摯だからか?物を生み出す喜びに意義を見い出すことが出来れば、それが芸術だと私は思います。 芸術においてその作られた物に付加価値を付けることに何の意義があるのか?普遍性に価値を 見い出すのか。それが作者にとって何の意味があるのか。生きて行く上に何の意味があるのか。 死んだ後の時代に評価され、それがどうだというのか。生きているうちに評価されたい? こんな欲望はいけないことなのか?いま一つ考えがまとまりません。後日まとめたいと思います。 (11.20)
昨日からの続き とりとめもなく書きながら結論めいたものがでることを祈ります。 バッハが生まれ、あのような作品を作らなければ後の歴史は変わったでしょう。 バッハのようにすぎれた才能があっても早く死んだ人、埋もれて世に出られなかった人、 そのような人は幾人もいたはずです。人類の歴史を振り返り見た時、このように歴史を 変えるような人物は多々いらっしゃるのです。しかし、そのような人物が生まれなっかたら どうなっていたのでしょう?バッハ、ゴッホ、ピカソ、宮沢賢治、 ジャンヌ・ダルク(昨日息子がレンタルで借りてきました。)、など 数上げれば切りがありません。これら歴史上の人物がいなければ別の歴史が生まれていた、 それだけのことと思えばそうです。バッハが生まれなければ、才能を発揮できなければ 別の歴史があったのです。それが今の歴史とどれだけ違っていたとしても、それはそれで 人類の歴史なのです。他のバッハが生まれていたかもしれません。 ダイナマイトをノーベルトが発見しなくても、必要は発明の母です。 他の誰かが発明していたことでしょう。 科学においては必要に応じて誰かが発明していたと思います。 芸術においてはどうか、同じく似たような人物が出たのではないか? これは例えなので断言はできません。 何を言いたいのかというと、人が何を成したかということは、 大したことではないのではないかと言いたいのです。バッハ確かにすばらしい音楽家です。 しかし、同じ時代に生きた名もない(歴史上)人々とどう違うのか、 生きるということにおいて、才能が在る無いは人の存在価値?の上に違いがあるのか? いや違う。 生きるという意味において、才能の在る無いは別に大したことではない。ただ、いっしょう 懸命生きる姿に人生の価値が在るのであって、その人が歴史上何も残さなくても 意義在る人生だと思います。価値とはその生きる生き様にあるのであって、 結果にあるのではない。バッハも名もない人も同じ価値です。 その人が真摯に人生を生きたとすればその価値はバッハと同じ価値があると思います。 芸術とは科学とは何か、人が生きる上においてよりよい人生を送るための手段であって、 それが人生の目的ではない。 才能が世に埋もれたとしても、それはそれでいいのだと思います。 そのこと自体は大したことことではないと私は思います。才能は他と比べて、他と比較して 在る無いと判断したところで、才能が在るからどうしたというのでしょうか、 優越感に浸って自己満足してどうするのですか。大して意味が無いのではないかと思います。 才能の在る人、天才はいます。しかし、それがどうしたというのか、寿命がのびるのか、 幸になれるのか、生きるということでは才能の在る無しは問題ではないと思います。 人生とは何か?与えられた命、時間を使って一体何を知り何をどうするのか、 そのことにいかほどの価値があるのか。面白い課題です、私の課題です。 夜が明けてきました、またいつもの一日が始まります。今日一日幸な日でありますように。                  (11.21 朝)  
                   
  「文学と科学」について   本来、文学と科学は同じ一つの〈もの〉だったのが、それぞれ専門化していくうち に別々に別れ、それぞれさらに細分化して専門化していきました。科学に限界が見えて きた20世紀。科学はさらなる進歩?のため文学的要素を加えることでその限界を打ち 破ろうとしています。「創造(思考)」というものは本来(科学も文学も含んで)一つ の全体的な〈もの〉だった。それを人は細分化することにより、さらなる真実を発見でき ると信じたのが根本的に間違いだったのです。ピタゴラス、レオナレド・ダビンチ、 パスカルなどの先人は科学者であり文学者、哲学者なのです。 彼等は自然の中からそれらの新しい〈もの〉を発見(創造)したのです。 創造とは全体的、総合的思考が作り出す〈もの〉だと思います。 細分化からは本当に必要な真理は生まれてこないのだと思います。自己(人間)の 欲望を満たすだけの科学となり、かえって人類に害を与えるのだと思います。      今から2000年前後にブッタ、イエス・キリスト、マホメットなどの信仰の開祖やメシア が生まれた。年数には少し開きがありますが、今から千数百年前です、 偉大な宗教家、思想、哲学家などもその時代か、前後に出ています。 人類の種としての寿命があるはずなのです。そう考えた時、種として思考的に成長した 時期があり、そのまま成長することはなく、その遺産を受け継ぐだけの惰性的時期が続く、 それが今の時代かもしれません。これからどのように種として熟年?さらに老後?を 迎えるえるのか?人の成長と人類としての種としての成長をダブらせて考えてみました。 ただ今のままでは人類が老後を迎える前に人類の体がもたないかもしれません。 その前にこの地球がもたないかもしれません。            (11.26)  
「無知(無明、無智)について:シャンカラの説」  (シャンカラ:8世紀前半、印度最大の宗教家、哲学家の一人)   昨日の夜、印度哲学大学院生とシャンカラの説の「無知」について語り合いました。 いろいろ話したのですが、話しの流れからある程度納得出来たと思っていたら、話し終わり 振り返ると、いったい何を話したのやら?あやふやになってきました。 もう一度整理したいと思います。 私が認識出来たところのシャンカラの説は以下のようなことです。 1、ブラフマンはすべての始まりであり、すべてである。 この世の見える現象はすべて「無知」の現われであって、 無知ということを「知る」ということが大切である。 「知る」ために行為をすることは、そのこと自体が無知である、???。 2、原因があって結果がある。原因の中にすでに結果が含まれている。 結果の現象であるこの世界は無知である。そうすると原因にはすでに無知が含まれている? それは違う、原因はすべての始まりであって、すべてである(ブラフマン)。 ではなぜこの世界は無知なのか?   私の持論とシャンカラの思想には共通点がありましたが、 先人の哲学的思考について話しをしていても 自分の尺度でしかシャンカラの思考を理解していなかったということでしょうか? 自分に都合のいいとこだけ覚えていてそれ以外は余り覚えていない・・・。 口から出た言葉の中で、消えていった言葉たちと記憶に残っている言葉たち、 シャンカラについて語った後の消えていった言葉たちを思い出しながら 記憶に残っている言葉とつなぎ合わせ、もう一度自分の思考を再構築したいと思います。    (11.29 夜) この目で見える世界が無知、幻の現象だとしたら本質(ブラフマン)は何処? どうしたら分かるのか? (これから書くことは私の思考です、シャンカラに誘発されて思いついた思考です) ブラフマンは原因で、元々あった本質。 以前(11.7 夜中の思い)私は常識(世渡りの術)の殻を破らなくてはいけない と書きました。幼いころの純粋さが成長するに従い世間の垢に包まれ自己防衛する。 このことがシャンカラの「無知」ということにつながるのかもしれません。 自己を開放する、常識という既成の枠を取り外し自己の思考を開放する。 既成の常識を外した後に残る〈もの〉が本質(ブラフマン)であり、 そのことが「知る」ということなのかもしれません。 「知る」とはシャンカラの説を知識として学ぶことではなく、人生において 生きるということを通して知る事に意義があるのだと思います。 この現実の無知と幻の中でどうしたら「知る」を知り得るのか? 院生の話しでは彼女が読んだところにはそのことは書かれていないそうです。 「知る」とは「開放する」ことかもしれません。 そのための行為は意味のないことだとも彼は言ってます。   「101匹の猿」という本があるそうです。 彼女も言ってましたし、他の知り合いの人もその本のことを言ってました。 一つの島で猿が芋を洗い出す、すると他の離れた島の猿が突然芋を洗い出すという話しです。 これは実話だそうです。ここに「知る」(開放?)ヒントが在るのかもしれません。 最初の猿はどうして芋を洗い出したのでしょうか? これも先日私が書いた種の成長(寿命)と人の成長に関係しているのか? その猿は必然性を感じて芋を洗った、幾多の猿がいてその猿だけ?いえ違うかも、いままでも そのような猿はいたのかもしれない、ただこれは伝承しなかったのかもしれません。 その猿の生きている間だけの現象なのか? 他の島の猿が誘発されて洗い出す、この誘発もどう説明すべきなのか? 猿の進化の一つとして処理してしまっていいものなのか? シャンカラのいう「知る」ことなのか?   独りの人がシャンカラの「知る」ことができたら、 他の関係ない人も誘発され「知る」ことが有り得るのか?   ブッタやイエスの時代に多くの優れた宗教人が生まれています。 これも「知る」と「誘発」に関係があるのかもしれません。     (11.30)
シャンカラ自身は先人の書き残したベーダーなどの教えを勉強し、 その中から自己の研究を押し進め「知る」ということを唱えるようになった。 先人の書物の中の言葉(教え)に「誘発」され「知る」ことになった。 「知る」とはこれかもしれません、「言葉」による「誘発」です。 それは思考なのです。言葉という手段?を使って、言葉でなくてもいいのかもしれません。 誘発されればいいのです。 何に?自己の思考の宇宙に本質(ブラフマン)、真理(神)、など 絶対的な価値を見い出し、誘発されればいいのです。 このように考えればこの世の中の現象にこだわる必要がなくなり、 無知でもかまわなくなるのではないでしょうか? ちょっとこのへんは考える余地があります。       (12.1)
絶対的価値(ブラフマン、神)と共鳴し、誘発される。 なぜ共鳴するのか、なぜ誘発されるのか? 共鳴する人、共鳴しない人がいる。その違いは何処からくるのか? 才能なのか?与えられるものなのか? 違うと言いたい。自己のプライドを無にし、挫折をし、自己の無力さを知らされ 絶対的存在を「知る」とき、自ずと頭を垂れ、無力な自己を知らされ、 自己を無にすることが出来る。 階段を昇りつめて高みを極めつけるのではなく! 挫折して、底を極め、完全に無力にされたとき人は力を与えられる(他力本人?) その力が「知る」ことかもしれません。 名誉、地位、権力、お金とは対極をなすところに 「知る」が在るのではないでしょうか。   (12.2)
 


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