2001年ビデオ鑑賞

 昨日、ビデオ「ナビィーの恋」を見ました。噂になった映画です。
笑えて、ほのぼのとした気分にさせてくれます。
インド映画を彷彿させる演出がいたるところにみられ、楽しませてもらえました。
ただ、インド映画は音楽とダンスだけではなく、
必ず社会の矛盾を指摘した内容がテーマになっています。
「ナビィーの恋」は一応、ナビィーお婆ちゃんの過去の出来事をテーマにしていますが、
なぜそのようなことになったのか、いま一つ突っ込みが足りないきがします。
過去と現在の問題をもう少し掘り下げたものが欲しかったです。
これは私のような、ひねくれ者の贅沢な欲求かもしれません。
これはこれでいいのかもしれません。   (2.13)
 

 2000年ビデオ鑑賞
今日はビデオ1本と少し見ました。少しは「インディペンデンス・デイ」です。 息子のお気に入りで息子は4回ほど見ています。私も1〜2回見ています。今日 も借りたいというので借りて見ていました。私は最後のほうだけ見ました。最後 の出陣に向けアメリカ大統領が演説します。アメリカの正義は人類救済のためで ある。「現実の世界もアメリカは人類のために戦っているのだ。」といはんばか りの演出です。酔っ払いのおじさんが神風特攻たいよろしく宇宙船に突っ込むと ころは目頭がうるるんします。アメリカの武力は人類の正義のためだと言わんば かりです。アメリカ合衆国万歳の映画です。でもよくできてます。 もう一本は「マトリックス」です。仮想未来社会の物語です。人類とコンピュータ の戦いです。人類はコンピュータとの戦いで負け、コンピュータは人類を自分たち のエネルギー源とする、ひとの出す体温、電波などを吸収することで現実の コンピュータ社会を維持する。人が生まれるとコンピュータのバーチャル世界で 飼育する(マトリックス)。飼育されてる人類は仮想の世界で生かされる。その バーチャル世界では1999年の今が映し出され、その世界で人は幸にくらして いる。一部の人(ハッカー)は「マトリックス」を捜す。話すと長くなります。 感想だけ書きます。今の現実社会の弊害を指摘した映画だと思います。情報社会 の中で育てられてきた今の私達は科学万能の神話を信じ、よりいっそう人類の未来 を科学に託すそうとしています。しかし。それはおかしいのではないか、科学万能 の神話は崩れさったのだと言いたいのです。科学自体が諸刃の剣です。人類に未来 を与えると同時に破滅ももたらすのです。この映画でも主人公は「マトリックス (コンピュータが作り出した世界)」に対してコンピュータのバーチャル世界で 対抗しています。現実の世界を変えるためマトリックスの世界で戦うのです。私達 も科学の恩恵にあずかっています。現実は変えられませんが、未来は変えられます。 未来を変えることも今となっては科学無くしては在りえないのかもしれません。 科学の限界を知って直かつその科学を良い方向へ利用することが 必要なのかもしれません。マトリックスの意味を辞書で調べました。 matrix  1 鋳型、模型、刻印機:〔印刷〕母型 、2〔解〕子宮(womb) 3 母地、母体:〔数〕マトリックス、行列 。
「ジャンヌ・ダルク」 昨日息子がレンタルビデオを借りてきました。途中ちょこちょこしか 見てなかったので、映画の感想としての確信は言えませんが、 映画から連想された私の「思い」を書きます。 ジャンヌの神への情熱はすさまじいものです。一途の一言です。 熱心な信者は多々いらしゃると思いますが。なぜ彼女はあのような幻影を見たのでしょう? 神のお告げとして確信して行動する彼女、強い確信は戦場をも制圧してしまう。 ただの思い込みと断定してしまうことも出来なくもないが、それでは説明出来ない何かがある。 やはり神の導きなのか? 映画では最後の方の場面によく幻の男(神?)が出てきてジャンヌに 問いかける手法を使っていました。 神の意思ではなく、ジャンヌの思い込みでしかなかったのだと幻の男は言い、 ジャンヌは違う自分は神のお告げにしたがったのだと言う。 最後に罪の許しをその幻の男に乞い、告白することで許しを得る? そして魔女として火あぶり・・・。 500年後ローマ法皇は彼女を聖人として認める。 歴史を動かした彼女、田舎生まれの普通の女性がお告げを信じ行動する。 一途な思い、何処からあのエネルギーは生まれるのか? 信仰の力としか言いようがない。信仰とは何か?神我が内に在りて生きる。 神を信じることにつきます。普通の人として平凡な生活を送くることが出来なかった彼女。 第三者には理解しにくい世界です。 思考の宇宙は無限です、その中に入り込むことは出来ません。 ジャンヌの思考(信仰)は彼女のものです、それを他の者が覗き込むことは出来ません。 神のみが知ることが出来るのかもしれません。 人は行為を以って判断するしか判断のしようがない。 ジャンヌの行為を以って判断するとすれば、彼女は選ばれた人だと思います。          (11.22 夜)  
  故黒沢明脚本の「雨あがる」先日借りて来ましたが、忙しく見る暇がありません。 妻が変わりに見ていたので、終わりのところだけいっしょに見ました。すると、 私が「思い」の中の芸術について書き込んだ内容(21日朝)と故黒沢監督が 「雨あがる」で言いたかったことがはぼ同じだと気付きました(手前味噌かも?)。 以下私の21日の記述の一部です。   「生きるという意味において、才能の在る無いは別に大したことではない。 ただ、いっしょう懸命生きる姿に人生の価値が在るのであって、 その人が歴史上何も残さなくても意義在る人生だと思います。 価値とはその生きる生き様にあるのであって、結果にあるのではない。」   また時間があったら「雨あがる」を最初から見たいと思います。 私が観た中で、少しおかしなとこがあったので一言、 殿の前で仕官のための御前試合の場面で余りに主人公を強くみせるため、 わざとらしい殺陣が目立ちました。 剣が強いということがこの主人公の個性の重要な要素です。 しかし、その主人公の人格を強調する余り不自然な行為(殺陣)は 映画自体をも陳腐にしてしまいます。役者さん自体が演じているのであって、 その演技をいかにリアルに見せるかが監督の手腕だと思います。 故黒沢監督の言いたかった「雨あがる」の主旨が陳腐になってしまいます。 この監督は新人の監督ということですが、山本周五郎さん、故黒沢明さんが「雨あがる」で 言いたかったことが分かっているのか? リアリティについてどう考えているのか?疑問が残ります。 原作は山本周五郎さんです。 殿役の三船史郎さんは故三船敏郎さんと関係あるのでしょうか?雰囲気が似ていました。 わざと似た人を使ったのでしょう。故黒沢監督の最後の脚本ですから・・・。 (11.25 朝)


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