長瀬勝俊の描くほんわか素朴画
2022年1月より新しく「長瀬勝俊の描く ほんわか素朴画」のコーナーを開設いたします。

このコーナーの縁は3年ほど前、長瀬勝俊が月2回くらい教室のため名古屋市緑生涯学習センターに行っていまして、丁度地域の歴史研究会が解散(淋しいですが)するため最後の講演会参加者募集という研究会の冊子を見て応募したところ当選できて初めて猿猴庵という人を知ってから始まりました。
猿猴庵という人は、本名高力種信(1756〜1831)尾張藩士三百石(今でいう愛知県庁職員で部長以上か?)
猿猴庵の父上は合戦時本陣で徳川家康の周りに控えていたそうです。
高力猿猴庵として画・筆して今でいうルポライターのようで、お祭りの様子や災害等には実際河の決壊場所に行ってその様子を画と文で記録に残されています。
その猿猴庵さんが天明六年(1786)暮秋、官務を帯びて名古屋と江戸を往復した際の写生画を基とし、見聞、ならびに先行の紀行文・歌集などの参考記事を引用して加えた彩色絵入り本を寛政七年(1795)に「東街便覧図略」東海道宮駅(熱田)から品川駅・高輪までを収めた名所図会として図全二00図で完成させたということ等を講演会の講師の名古屋市博物館の学芸員の女性の方から聞きました。
その時今から60年ほど前私は名古屋市北区に住んでいて、小学校の3年生だったか4年生だったか先生が「本の名前は忘れたが尾張と三河の境界にある橋は江戸時代には橋の真中までは尾張藩の管轄で立派な橋だが真中から向こうは刈谷藩の橋で粗末な作りの橋が架かっている江戸時代の絵を見たことがある」と先生が言われた事を思い出し、この猿猴庵さんが描いた!その橋は今私が住んでいる市にある!・・・これは面白い何かの縁だと直感して出来ればこの全二00図の場所に行ってみたいと思い、現在のその場所を描くことにしました。
参考図書は名古屋市博物館蔵「東街便覧図略」を底本として名古屋市博物館から出版されている「東街便覧図略」巻1〜巻七を全面的に参考にしています。
ちなみに、猿猴庵さんの旅程は 十月十三日 名古屋出立(東海道経由で江戸へ)
                       二十日  市谷の尾張藩邸に到着
                      二十一日 使命を果たし、そのまま江戸滞在
                   閏十月十三日 江戸出立(東海道経由で名古屋へ)
                      二十一日 名古屋に帰着 復命

なお、このコーナーに関しましては、長瀬勝俊の自己満足等で行なっていまして色えんぴつ画響会とは一切関係がありません。
描く方法も色鉛筆、アクリル、不透明水彩等の予定です。



  


    「    笠 懸 の 松     」        
        
          ガッシュ(不透明水彩)・鉛筆・色えんぴつ      
                              制作日 2024/5/9

    

    藤枝市岡部町の笠懸の松登り口を描きました。

    江戸時代の猿猴庵は岡部の宿を過ぎ、宇津の山にさしかかる左の方の山の上
    にある松を西行笠掛松として、東海道と家々や旅人などと一緒に描いています。

    今は松が枯れていましたので、私は登り口を描きました。

    私が山の登り口が分からず困っていたら、会社のお昼休みでウオーキング中の
    方が案内してくださいました。
    
    その節はありがとうございました。
    






    藤枝市郷土博物館・文学館の「笠懸の松」の資料

      静岡行きバスが岡部北口を過ぎて宇津ノ谷峠に向かう途中の河原町(かわらまち)
      岩鼻山(いわはなやま)の上にかなり年数のたった松が二本。バスの窓からも
      見えるが一本は枯れはじめてきたので二世の松を植えなおしてある。この松の
      根もとに古びた西住法師(さいじゅうほうし)の墓が立っている。
      
      西住法師は西行(さいぎょう)法師の仏弟子で諸国雲水(しょこくうんすい)の旅を
      続けているうちに病気になり、岡部の野辺の露と消えたのである。

      人も知る西行法師は、もと佐藤憲清(のりきよ)といい鳥羽上皇に仕えていた身分の
      ある北面の武士であったが、明日の命もわからない世の無常に嘆きを感じて仏門に
      入った。家来の中の一人も出家して西行の弟子となり西住と名のって、この世は
      おろか未来冥(めい)土の旅まで共にしたいと願った。

      西行と西住の二人は東国(とうごく)の旅に出て遠州の国に入り、
      すりへったぞうりに竹の杖(つえ)で天竜川の渡し場に来た。
      舟は対岸へ渡る旅人でいっぱいになり
      座れずにいる人も多かった。この中にやはり立ったまま乗っていた
      幾人づれかの武士が西行らに向って命令するようにいった。

      「お前たちおりろ」

      「いや愚僧(ぐそう)らも渡し賃(ちん)を払(はら)って乗ったのだから、
      お互いに詰め合わせて戴きたい・・・・」

      続けて何かいおうとしたら

      「何を!」

      と武士の一人がむちで西行の顔をしたたかに打った。

      「あ!」

      西行は顔を両手で押さえ、うずくまって痛さをこらえているうちに、打ち方が
      強かったのか指の間から血が流れて衣を朱色(しゅいろ)に染めた。しかし、
      そうされても、西行はぐっと痛さに耐えているだけで少しも怒らなかった。
      そうして静かに舟を下りていった。その時までそばにいて、どうなることかと
      師の西行の身を案じていた弟子の西住は、もうがまんがならぬと憤然として
      立ち、

      「何を無体(むたい)なことをするか!」

      と持っていた杖でその武士の顔をなぐった。もともと京で鍛えた武士の腕前、
      それに加えて怒って一撃必殺の気合をこめて打ったのだからたまらない。
      その男はよろめいて危く川に落ちようとするところを仲間に支えられた。
      しかしとても立ち向える相手ではないと見て舟をとびおりて一目散(いちもくさん)
      に川原を逃げていった。

      「逃げるのか!」

      となおも追おうとする西住へ渡し場にいた大勢の人足たちが
      走り寄ってきて

      「ここでけんかをしてはいかん。渡し場でのけんかは御法度(ごはっと)
      (規則を破ること)だ」
      と口々に叫んでとめたので、さしもの西住は追うのを思いとどまった。




      様子をだまって見ていた師の西行は、もう打たれることがないと
      戻ってきた武士たちへ向って

      「弟子がご無礼をはたらいて誠にもうしわけございません。お許し
      願いたい」と、ていねいにあやまった。武士たちは西行が普通の者では
      ない顔付きとおだやかな物腰に、今までのいきさつをすてて、

      「いや、こちらが先に無礼を致したのでこちらこそ申しわけない」

      とわびて舟にのって去った。
      西行と西住の二人は岸にたたずんだまま、離れていく舟を見送っていたが
     、しばらくたってから西行は西住に向い、

      「私は出家してから、人からどんなに悪くいわれたり邪魔(じゃま)
      されたりしても少しも気にかけず、今日のことよりもさらにひどい
      はずかしめを受けても、堪えしのんで行くよう心掛けて来た。
      少しばかりの怒りに自分を忘れてしまう
      ような先ほどのお前の考えの浅い振る舞い、あれではとうてい今後いっしょに
      歩くわけに行かない。お前はここで私と別れて京都に帰るがよい」

      といった。西住は膝をかがめ手をついて西行の言葉を聞いてしばらくは黙って
      いたが、顔をあげて
      「師のお言葉であれば背(そむ)くわけにはまいりません。が、しかし、
      あの時は師の辱(はずかし)めを目の前にして、手をこまねいて見ていることが
      できず、ついはやまったことをしてしまいました。今ここで師に見はなされ、
      修行の途中におめおめと郷里に帰ればどの顔さげて皆にあえましょう。
      どうか今日のところはお許し下さって今まで通りお供をさせて
      下さい。お願いでございます」

      涙の顔を幾度も地面にすりつけて頼んだ。

      「お前の人となりはよく判っている。そういう心根がかわいそうなことだと
      充分心得ている。
      しかし今日のことをよく考えてみよう。もしあの時あの相手を殺してしまったら
      どういうことになっただろう。人に対するいつくしみやはずかしめに耐えることは、
      み仏に仕える者の何よりも第一に心がけるべきこと。
      たとえその顔につばを掛けられたとしても恥とすべきではない。
      今お前をつれていけば人々は私たちを何というであろう。
      これ以上何も言うことはない」

      西行にいわれて見ればまことにごもっともな話でかえす言葉もないが、
      そうかといってここで別れなければならないことは何とも悲しい
      むごいことであろうかと、はらわたを
      しぼる思いで声もなく、涙の目で西行の姿を見あげるだけであった。

      西行は筆をとり出してそばにあった西住の笠に

      「我身(わがみ)命(いのち)を惜(お)しまず、ただ惜しむ
      無上道(むじょうどう)」

      と書いて西住にわたし、ひとりで静かに渡し場に歩いて行き、
      次の渡し船で向う岸へ渡っていった。
 
      この渡し場の近くの池田村に池田(いけだ)の長者(ちょうじゃ)
      という徳望(とくぼう)の高い人が居た。
      ちょうど用事があって通りかかり、騒ぎを聞きつけて川原に来てみた。
      時刻は既に日の入り近くで向う岸には夕ごはんの煙がたなびいていた。
      その日の渡し船は終りになって川岸には船頭たちの姿も見えず、
      広い川原には西住がひとり座っているだけであった。
      渡し場にいた人たちは何といって慰(なぐさ)めになるのか見当もつかず
      困っていた。そこへ長者が近づいて来て、西住からようすを聞いて、
      胸の底から深いため息をもらした。

      「師の難儀(なんぎ)を目の前にして、あなたのとった行いはあたり前の人情、
      師のお仕打ちが少し無理ではなかろうか」

      「あなたのおっしゃる言葉ではありますが、私は師弟となるまでは
      主人の家来であって、そのご恩を受けて年久しく、その間一度も
      さからったことはありませんでした。
      なのにこんな結果になろうとは・・・・私の命ももうこれまでか・・・・。
      人の家来として主人の命令に背き、弟子となって師の教えにも反し、
      今師に見捨てられては死ぬよりほかに道はありません」

      あとは自分に言い聞かせるように、なかば独(ひと)り言(ごと)を
      言いながら肌着(はだぎ)を脱(ぬ)ぎ自決(じけつ)しようとしかかった。
      長者はあわてて押しとどめ、

      「待って下さい。それでは恨(うら)みを抱いて死ぬことと同じになります。
      それよりは
      今後も修行(しゅぎょう)を積みながら師のあとを追ってそのお許しを願うのが
      本当の道ではありませんか」

      「なるほど、あなたのおっしゃる通りです」

      西住は、心から悟(さと)り身なりをきちんとして立ち上がった。
      もう夜になるので私の家に
      お泊まり下さいという長者の親切(しんせつ)を受けて長者の家にお世話になった。

      翌日、西住が長者の家を去る時長者の家の人々も別れを惜(お)しんで、
      途中まで送った。
      西住は杖をたよりに修行を続けるため東に向って歩きはじめた。
      小夜(さよ)の中山峠の上りにかかった時、道の脇の木の切り株に腰をかけて
      休んだ。
      足の疲れのためばかりではなく、頭に重くのしかかっている心配事を休める
      ためだった。
      休みながらあれこれと思いをめぐらしているうちに、何かしら少しはほのぼのとした
      明るい考えに思い当って、それに勇気づけられてまた歩きだした。
      大井川を渡るときに体をぬらしたために冷えこんで島田の宿(しゅく)では
      幾日か床(とこ)についたりした。歩いては休み、歩いては休み、休みから
      休みの間の距離がだんだん短くなり、岡部の宿に来た時はもうすっかり
      弱ってしまって立ち上がるのがやっとの思いであった。

      たいそう疲れたから街道を少し外れた所でゆっくり休んで行こうと思って、
      少し山道をのぼったところの松の木の根もとに腰をおろした。
      そこは予想もしなかった西住の永遠(えいえん)の休み場所となったのである。
      腰をおろしたらもう水を求めに行く力もなく、飲まず食わずで二日
      を過ごし、眼をつぶったまま横になっていた。たまたま通りかかりの木こりが
      西住の姿を見つけて近づき、まだ死んでないことを確(たしか)めて
      山道を走り下って村人に知らせた。村人は大勢で
      いろいろ支度をして西住のそばに集まり、やわらかく煮(に)たおかゆや
      気付け薬を飲ませようと試みたが、もうのどに通らず、少しばかりの水を一口
      うまそうに飲んで感謝するかのように軽くうなづいて息が絶えた。
      野辺(のべ)の送りの支度をしながらそばの松に掛けてあった笠を
      手にとってみると、

      西に行く雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の松に残して

      と書いてあった。
      
      「かわいそうに、このお坊さんは助からないと覚悟をしてこの世に別れの
      歌をよんでいたのだ」

      村人は鼻をすすりながら話し合った。松の根もとに西住を手厚くほうむり、
      金を出しあって五輪(ごりん)の塔(とう)を建てた。

      それから幾月たった頃だろうか、一人の僧がこの岡部の宿(しゅく)を通って
      一晩の宿(やど)を求めた。宿の人から「西から来た坊さんが、この岩鼻山で
      行き倒れとなった死んだのでとむらった」という話を聞き、
      近くの農家に残された遺物(いぶつ)の笠を見せてもらい、
      それが間違いもなく弟子の西住のものであると知って驚いた。
      この僧はほかでもなく西行であった。そこではじめて
      西住が自分の跡(あと)を追って来たのを知ったわけである。

      村人に教えられて岩鼻山の墓(はか)におまいりし、涙ながらに歌をよんだ。

      笠ありてみのいかにしてなかるらん あわれはかなき天が下とは

      もろともに眺め眺めて秋の月 ひとりにならんことぞ悲しき

      西行は決して西住を心から捨てたのではなかった。
      西住法師の臨終(りんじゅう)の様子に強く感じた西行の友人の
      寂然法師(じゃくねんほうし)は西行に歌を送った。

      乱れずと終り聞くこそうれしけれ さても別れはなくさまねども

      寂然法師の歌に西行はこう歌を返して送った。

      この世にてまた逢うまじき悲しさに すすめし人ぞ心乱れし

      深い道理(どうり)を教えたけれど、情熱と道理とはどちらが重いのだろうか
      自分にはもう何が何だか判らなくなってしまった・・・・
      という意味がこめられているようである。

      後に西行が鎌倉に行き鶴ケ岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)に
      参拝していると、
      源(みなもと)の大将軍頼朝(よりとも)の行列にあったので
      鳥居(とりい)の脇に控えた。
      姿はみすぼらしいけれど身にそなわった気品はかくすことができない。
      梶原景季に理由(わけ)を言って身分を調べるとそれが西行であった。
      将軍に呼び出されて、弓矢のことから
      和歌のことまで興味深く問い答えている話の中に西住法師のこともでした。
      将軍頼朝は西住の様子に感動し、
      これこそ節義(せつぎ)・徳性(とくせい)・世の模範(もはん)とすべきだと
      激賞したという。

      西住をとむらった時に植えた松は三十年前に落雷で枯れたので代りを植えた。

      町人はこの松を「西住笠懸けの松」と呼んで昔の悲しい物語をしのんだという。


          

      藤枝市郷土博物館・文学館
        「岡部のむかし話」(平成10年・旧岡部町教育委員会発行)より転載









      「  岡 部 宿 ( 駅 )    」        
        
          ガッシュ(不透明水彩)・鉛筆・色えんぴつ      
                              制作日 2024/4/13


     
  藤枝市岡部町の岡部宿を描きました。
      
       江戸時代の猿猴庵の東街便覧図略では、岡部駅として

       街道の両側に家々が並び、大勢の人々が描かれています。


       私は大旅籠の柏屋のバス停を強調して描いてみました。



      
      


      「  観音堂と鐙(あぶみ)ケ渕    」        
        
          ガッシュ(不透明水彩)・鉛筆・色えんぴつ      
                              制作日 2024/3/19


     
  藤枝市水守にある観音堂を描きました。
      
       猿猴庵が描いた江戸時代には、絵の駐車場あたりは

       葉梨川が大きく屈曲して渕となっていたようで、その

       曲がり具合を鐙(あぶみ)にたとえ、鐙ケ渕と言われて

       いたそうです。

       私が訪れた時は、数組の人々がお墓参りにみえていました。
      


    絵の中の説明文

      史跡 鐙(あぶみ)ケ渕と観音堂

   一、 此処の広場は、元葉梨川の渕でその形が馬具の
       鐙に似ていたので古来より鐙ケ渕と呼称されていた。
   一、 崖上の観音堂は通称山之堂(やまんど)と言われ人々に
       親しまれて来た。御本尊は蛇柳如意輪観世
       音菩薩と言いお腹篭(はらごも)りという珍らしい
尊像で胎
       内仏は平安時代中期の名僧で恵心僧都(えしんそうず)の御
       作と伝えられる。昔から子宝、安産等に霊
       験あり婦人の参詣者が絶えなかったという。
   一、 昔、渕ののかたわらに柳の大木が有りその木に触れた
       ものは浄土往生の志を覚え渕に身を投げたという。
       人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかった。
       後に聖僧により切り取られ一体の観音像として鐙
       堂の御本尊となる。(鐙堂略縁起より)
   一、 伝説に依れば徳川家康は戦勝祈願の為、愛
       用の鐙を渕に沈めたという。(鐙堂略縁起より)
   一、 弥次喜多道中で有名な十辺舎一九は東海道
       中膝栗毛三編の中で鐙ケ渕の歌を詠んでいる。

        ここもとは鞍のあぶみが渕なれば
         踏んまたがりて通られもせず


                奉納者・松本宏雄・山下 馨
                    ・重田春男・丸子丁子屋
                    ・檀家世話人一同








        
       「  藤枝駅(宿)    」        
        
          ガッシュ(不透明水彩)・鉛筆・色えんぴつ      
                              制作日 2024/2/28


     
  江戸時代の猿猴庵の「東街便覧図略」では、藤枝駅(宿)として
      
       現在の本町付近を、2階建ての家々が並ぶ道幅が広い東海道と
      
       蓮生寺を俯瞰して描いてあります。

       
       私は商店街の各店の広告の旗が面白いと思いました。



     



       「  烏帽子(えぼし)山    」        
        
          ガッシュ(不透明水彩)・鉛筆・色えんぴつ      
                              制作日 2024/1/29


  藤枝市内瀬戸にある烏帽子(えぼし)山を描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、東街便覧図略では「烏帽子山」として
  島田宿を出たところにある青島の立場(たてば・休憩所)から
  描いています。
  
  標高100m程の山ですので、旧東海道からは建物等で見えなく
  て、近くまで行き、大きな商業施設越しに描きました。
  
  私が写真を撮っていたら、メガネが印象的な高齢の女性から
  「どこから来たの?」等と声を掛けられました。
  「名古屋の近くから来ました」と答えると、
  「私は大阪。この近くに3か月程住んでるの・・・」
  と言われ、絵のモデルになっていただきました。



    「  大井神社    」        
        
          ガッシュ(不透明水彩)・鉛筆・色えんぴつ      
                              制作日 2023/12/29


  島田市大井町の大井神社を描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、東街便覧図略では「大井神社」として
  朱塗りの鳥居の神社を描いています。
  
  私が訪れた日は七五三のため若い家族が大勢みえました。
  
  私の場合、あの頃は消極的な生活を送っていて、
  妻に「七五三どうするの?」と聞かれて、即答で「うちはやらない」と
  返答した気がします。
  それで、気持ちを打開するため、今でも住んでいる市の市民対象の
  油絵講座を幼い娘と一緒に受講したことがきっかけで、絵を描き
  始めることになったなあと、若い家族を見て40数年前の出来事を
  思い出しました。

  絵のおかげで充実した人生になっており感謝しています。



  


    「  酒匂(さかわ)川    」        
        
          ガッシュ(不透明水彩)・鉛筆・色えんぴつ      
                              制作日 2023/11/28

  小田原市西酒匂の酒匂(さかわ)川を描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、東街便覧図略では「酒匂河」として上流から
  俯瞰的に見て、右に小田原城と酒匂川をかち渡しで渡っている人々や
  遠くに相模湾に流れ込んでいる様子を描いています。
  
   


    「  星月夜社    」        
        
          ガッシュ(不透明水彩)・鉛筆・色えんぴつ      
                              制作日 2023/11/5

  小田原市浜町の山王神社を描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、東街便覧図略で「星月夜社」として朱塗りの建物
  等を描いています。

  境内に掲示してあった説明文
  【由緒】
  明応四年(1495)二月北條早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、
  小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。
  その頃の山王神社は北條家の郭内(かくない)で山王曲輪(くるわ)
  と称へ、海辺なる袖の池ノ南袖ケ藪(やぶ)にありしが暴浪のため、
  その地崩潰(ほうかい)せしかば、慶長十八年(1613)九月十八日
  現地に移せりと。
  旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。その
  井戸も移して現地にあり。天正十八年小田原陣のとき、徳川家康は
  日々参詣ありし由、又旧領主大久保氏の祈願所(きがんしょ)にして
  元禄中再建の用材は領主永世寄進(りょうしゅえいせいきしん)の
  証状(しょうじょう)ありしと。
  寛永元年(1624)四月四日江戸初期の朱子学者林羅山(らざん)は
  山王神社境内にて星月夜の詩を詠(よ)む。その詩にもある如く、
  当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、井戸も
  再現いたし、地底より湧き出る水面に浮ぶ大空の星影映る往昔の姿
  こそ誰が神秘といわんや。この歴史ある社と共に、星月夜ノ井戸を史跡
  として長く後世に伝えん。

  星月夜ノ社とは、ロマンチックな響きが感じられ、私は絵の空をこのように
  してみました。



  



   「  小田原ういろう本店    」        
         不透明水彩・鉛筆       制作日 2023/10/9

  小田原市本町のういろう本店を描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、東街便覧図略で「小田原外郎本家 虎屋店」
  として描いています。

  猿猴庵さんは「東海道には名物の品が多いとは言っても、中でも特に、
  この薬店は各地に広く知れ渡った有名な店である」と述べています。
  由来も記していて
  「応安年中(1368〜75)の初め、中国の元の老臣で礼部員外郎(れい
  ぶいんがいろう)の官職にあった陳宗敬という者が、筑前国(福岡県北西部)
  博多の津にやって来た。
  元は至正年中(1341〜68)、明のために滅亡した(1368年)のだが、宗敬
  は、二君に使えず、という信念によってわが国にやって来た。
  将軍足利義満公(在職1368〜94)は、その名声をお聞きになり、お招きに
  なったのだが応じなかった。この人は、物事をよく知っていて、占いに通じ、
  また、優れた効き目のある薬の処方にも詳しかった。
  (中略)
  その末裔(子の宗奇とも孫とも)が京都に来て西の洞院に住み、『透頂香
  (とうちんこう)』を製したのだ。まさしく、この『透頂香』こそ、公卿殿上人が、
  冠の甲(広くひらたい部分)に入れて、髪の臭気を消すのに使ったものである。
  冠(頂)から透けてよい香りがすることから、この『透頂香』の名がついたので
  ある。
  ここ相模国小田原の『透頂香』はこの流れが分かれたもので、鎌倉円覚寺
  (実は建長寺)の大覚禅師(宋の禅僧、蘭渓道隆。1213〜78)が来日して
  鎌倉に住んでいた時、この薬を小田原の土地の人に伝えたのだという。
  (小田原の外郎)というのがそれである」と書いてある。
  この店の元祖は、北条氏綱(二代)の時、小田原の領主(氏綱)にこれを
  献上しようと登城して氏綱に謁見し、その結果、当所の明神の前に町屋を
  賜り、この地の住民になったと、【本朝三国志】に載っている。
  また、この店の主人は常に袴を着用し、その他は手代だと思われるが、
  それぞれ薬箱を前にして列座している様子は、いかにもおごそかである。
  加えて家造りも大仰で、他とは違って目立つ。
                 
              以上名古屋市博物館「東街便覧図略 巻六」抜粋

  この土地で500年以上も経営されていることに驚き感動しました。
  また、薬剤師の私として、現在も薬の『透頂香』も売られているということに
  お店の根本的な考えがすごいと思い、嬉しかったです。







     「  長興山 紹太寺    」        
         不透明水彩・鉛筆       制作日 2023/9/10

  小田原市入生田の長興山紹太寺を描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、東街便覧図略で「入宇多
  浄泰寺」として紹太寺を描いています。

  猿猴庵さんの絵では、惣門の手前に蓮の葉の形の青銅で
  造った鉢から手水として水が出ている様子が描かれています。

  今は残念ながら紹太寺は幕末の火災で焼失し、子院の
  清雲院がその寺号を継いでいるとのことです。

  
  

     「  はやかわ ( 石垣山 と 早川 )    」        
         不透明水彩・鉛筆       制作日 2023/8/12

 
  小田原市早川の石垣山(笠掛山)と早川に架かる
  【かざまつりはし】を描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、東街便覧図略で「石垣山」と
  「早川」を一体で描いています。

  ネコは近くにある蒲鉾屋さんの駐車場にいたので
  絵に入れました。
  石垣山(笠掛山)には秀吉が築城した一夜城の跡地が
  あります。
  
   


   「  大井川   」        

        不透明水彩・鉛筆       制作日 2023/7/21



  大井川を渡り切った対岸です。

  江戸時代の猿猴庵さんは、
  「大井川を渡りて向ひの河原には、大きなる石
  ひっしりと透(すきま)なし。」
  と東街便覧図略に記してみえます。

  その言葉通り、河原には丸い大小の無数の石が
  ありました。

  冬の強い風に背中を押されて、楽しそうに会話を
  しながら自転車を走らせている、部活が終わった
  様子の学生さん達を描きました。
  



 「  間の宿菊川の里会館   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2023/7/1



  島田市菊川の旧東海道間の宿菊川の里会館を
  描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、菊川里、菊河茶屋を描いて
  みえます。
  
  菊川の里会館で写真を撮っていると、一人のおばあさん
  に声を掛けられ話ができました。
  掛川市内から嫁いできたこと、ここは休日には東京など
  から大勢みえることなどを話してくれました。
  
  私が名古屋から車で来たことを伝えると、運転が上手
  なんだネと言われました。
  





  「  接待茶屋跡   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2023/6/15



  掛川市の旧東海道小夜の中山にあります接待茶屋跡を
  描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、1枚の絵に久延寺、「御茶や」
  と記して接待茶屋、「あめや」と記して茶店2軒(江戸時代
  には【飴の餅】を売ることが幕府より認められ、街道の名物
  となっていたそうです)を描いてあります。
  
  現在の接待茶屋跡から江戸時代には見られなかった
  牧之原台地のお茶畑が後方に見えます。







     「  小夜の中山茶店扇屋   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2023/6/2


  掛川市の旧東海道小夜の中山にあります茶店扇屋さんを
  描きました。

  今年1月4日に訪れましたが、2人の男の人しか付近に
  みえませんでした。
  その内の1名の方に声を掛けたところ、快く写真を撮らせて
  もらえました。
  
  猿猴庵さんは描いてみえませんが、懐かしい雰囲気が
  ありましたので描きました。
  
  掛川市の小冊子には、営業は土曜・日曜・祝日と書いて
  ありました。







       「  事任八幡宮   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2023/5/11


  掛川市八坂にあります事任(ことのまま)八幡宮を描きました。

  江戸時代の猿猴庵さんは、「誉田八幡宮」として東海道と八幡宮を
  俯瞰的に描いています。
  
  東海道から見える鳥居は、江戸時代当時は赤く塗られています。
  現在はコンクリート造りです。

  私は正月4日に訪れたので、大勢の人で賑わっていました。
  
 
 


      「  汐屋の権現   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2023/4/19


  掛川市八坂にあります塩井神社を描きました。

  猿猴庵さんは「汐屋の権現」として、街道の大勢の人々と森の中の
  神社を描いています。
  
  『神社の前に細き流れ有て』と記し、橋のない川も描いています。
  今も橋がなく、このことが珍しく、TVのナニコレ珍百景にも取り上げられた
  と入口付近に掲示されていました。

  

      「  掛川 葛布店   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2023/3/25


  今は掛川城近くに2軒の葛布店がありました。そのうちの1軒を描きました。

  猿猴庵さんは「掛川 葛布店」として、当時葛布の大問屋3軒の中の
  「三文字屋」さんの店先を描いています。
  
  江戸時代の画家猿猴庵さんは、掛川葛布店の店先を描いています。
  私は名古屋の宮から東海道の風景を掛川まで描いてきましたが、
  江戸時代の店が残っているのは初めてで感激しました。
  ぜひ、掛川葛布が続いて欲しいと思い、お店の名前も分かるように
  全体を描きました。

  私が写真を撮っていたら、近くのお店から3台のバイクがお店の方に
  見送られて出発して行きました。
 


    「   二瀬川・大池橋のお宮さん   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2023/2/23


  掛川市の倉真川に架かる大池橋の近くにあるお宮さんを描きました。

  猿猴庵さんは「掛川駅入口  二瀬川」として、東海道から秋葉山への参詣道の追分
  にあった銅の鳥居を描いています。
  
  近くにあった「秋葉山本宮 秋葉神社 掛川一の鳥居由緒」 より
   
   秋葉山本宮秋葉神社は天竜川の上流、赤石山脈の最南端、秋葉山を神体山と仰ぎ、
   御祭神は火之迦具土大神と称え奉ります。
   御本殿(上社)は海抜八六六メートルに鎮座し、初めて御社殿が造営されたのは
   和銅二(七0九)年と伝えられます。
   古くから朝廷の御尊崇篤く神階正一位を賜り、火防の本宮として全国から信仰を
   集めました。
   江戸時代になりますと諸国に秋葉講が出来、秋葉街道は参詣者で賑わいました。
   その盛況ぶりは「東海道名所図会」に「参詣は蟻の如く道に集い、国々県々多くの
   人数を集め」と記されています。
   ここ掛川宿は東海道から秋葉街道への入り口に当たります。安永九(一七八0)年、
   江戸日本橋の豪商 次郎兵衛翁より青銅製の鳥居が寄進され、歌川広重の「東海道
   五十三次」にも描かれる海道の名所となりました。オランダ商館医のシーボルトも
   「青銅製の二つの燈明台が両側にある青銅鳥居の傍らを通り過ぎた。この鳥居を
   くぐってゆくと数十マイル離れたところに秋葉神社がある」と『江戸参府紀行』に
   記録しています。
   また鳥居は秋葉山を遥かに拝む祈りの場所でもありました。
   明治二十四年掛川森往還道の開通に伴い移転し、昭和八年に道路拡幅に因り鳥居が
   撤去されてしまいましたが、遙拝所として地元篤信家により護持されてきました。
   平成二十一年本宮御鎮座千三百年記念事業として正式に本宮末社「掛川遥斎所」
   として社殿を改築し境内を整備致しました。平成二十四年には参拝者の便を図り、
   駐車場を設けております。
   秋葉山を遥かに拝み奉斎する祈りの道、歴史を有する掛川の名所、人々の憩いの場
   として永く親しまれることを願います。


   大池橋近くにある説明文 より

   大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ二九間(約五二m)余り、
   幅三間一尺(約五・七m)余りの土橋と記されています。東海道を東から来てこの大池橋
   を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防(ひぶせ)
   の神として広く知られた秋葉山へ通じる街道の入口であることを示していました。
   秋葉山へは、ここから九里(約三五km)余りの道のりです。
   常夜灯は、明和六年(一七六九)に、鳥居は安永九年(一七八0)に建てられたものです。
   この鳥居と常夜灯は、嘉永七年(一八五四)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯
   も立て替えられ、鳥居も木造で立て替えられました。
   東海道は、鳥居の手前で左に折れます。
   
   

  私は取材前には鳥居はもうないと分かっていましたが、どこにあったか興味が
  ありましたので、ネットで調べたところ、鳥居跡には絵に描いた神社が建っている
  との記事がありましたが、地図は乗ってませんでした。
  大池橋に行けばすぐに見つかるだろうと早朝自宅を車で出発、ひたすら国道1号線を進み
  昼過ぎ大池橋に到達しました。しかし、天竜浜名湖鉄道の西掛川駅から大池橋を通り二瀬川
  の信号までを2回往復しても場所を特定できませんでした。
  午後1時を過ぎていましたので、近くの店で昼食をとり、大池橋付近を歩き
  ましたが分かりませんでした。
  困ったなあと思いながら掛川市役所の駐車場に車を止めていたら、丁度リュックを背負って
  歩いている男の人が見えましたので藁にもすがる思いで声を掛け写真を見せたところ、
  「ここだったら知ってますよ、この辺りはよく歩いているので・・・・」と言われ
  ラッキーと思いました。
  言葉では説明しづらいとのことで車に乗ってもらい案内していただきました。
  大池橋のすぐ近くでしたが、道からは二階建ての家がありその向こうでしたので
  分かりませんでした。

  絵で右側にある二階建ての建物があったので分かりませんでした。また、後ろにも
  二階建ての住宅等がありましたが、屋根が被る等の理由で省略しました。

  あの男の人と出会わなければ、この絵は無かったかも分かりません。
  この場をお借りして感謝いたします。ありがとうございました。
  



      「  湯本早雲寺   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2023/1/24


  神奈川県足柄下郡箱根町湯本の早雲寺を描きました。

  猿猴庵さんは「湯本早雲寺」として、東海道と立派な石垣に囲まれたお寺をやや俯瞰的
  に描いています。
  
  完全東海道五十三次ガイド (東海道ネットワークの会 )  講談社+α文庫 より
   【早雲寺】
   小田原の戦国大名、北条早雲の遺命により、大永(たいえい)元年(1521)、二代
   氏綱(うじつな)が建立(こんりゅう)した小田原北条五代の菩提寺。
   境内(けいだい)には北条五代の墓、早雲の子・北条幻庵(げんあん)作と伝えられる
   枯山水の庭園、芭蕉が敬慕した連歌師・伊庭(いば)宗祇(そうぎ)の墓と、その代表句
   「世にふるも(碑は世にふるハ)さらに時雨(しぐれ)の宿(やど)りかな」
   を刻んだ句碑、宗祇を慕ってここで剃髪(ていはつ)した江戸の俳人・稲津(いなづ)
   祇空(ぎくう)の墓、江戸時代の医師、曲直瀬(まなせ)道三(どうさん)の五輪塔、
   隠れキリシタンの墓、文豪・徳富(とくとみ)蘆花(ろか)が「古(ふ)りし鐘楼
   (しょうろう)」と讃えた鐘楼、その隣にこの地で秀吉に慘刑に処された茶人・
   山上(やまのうえ)宗二(そうじ)の供養塔など、見どころが豊富。

  私が写真を撮っていたら、丁度お寺の方が門の戸を閉めようとされていたので、
  その様子を描くことができました。



 
      「  箱根湯本のお風呂屋さん   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2022/12/26


  神奈川県足柄下郡箱根町湯本の旧東海道沿いにありましたお風呂屋さんを
  描きました。

  猿猴庵さんは「湯本引物細工店」江戸屋の店先を描いています。
  
  東街便覧図略 巻六 (名古屋市博物館資料叢書3 猿猴庵の本) より
   また、ここは木地(きじ)細工・引物(挽物)細工が名物で、これを商う民家が
  たくさんある。それぞれ店に戸棚を出し、種々様々な細工物を飾り立ててある。
  その品々はというと、硯蓋(すずりぶた)・箸匣(はしばこ)・弁当箱・萩箸などである。
  その他、おもちゃの類は特に工夫が奇抜で、実に見る価値のある面白さだ。
  また、「神代杉細工所」などと染めた暖簾をかけた店もある。その本家は、
  今ここに描いてある「江戸屋」だということだ。

  私は、街道沿いに昔懐かしい雰囲気のお風呂屋さんがありましたので描きました。


   
      「  曽我五郎割石 ( 割石坂 )   」        

        不透明水彩・鉛筆・色鉛筆       制作日 2022/12/1

  

  神奈川県足柄下郡箱根町須雲川沿いの旧東海道の割石坂を描きました。

  猿猴庵さんは[曽我五郎割石]として東海道とそこにある数個の大石を描いています。
  
  東街便覧図略 巻六 (名古屋市博物館資料叢書3 猿猴庵の本) より
  この石が有るために、「割石坂」とよばれている。
  『東路塩土伝』には、「曽我の兄弟が、太刀で両端を切ったと伝わる薄い石が有る。
  その切り端は谷へ落ちたということだ」と書いてある。
  時は文治二年(1186)三月、曽我五郎時宗が、雅名を箱王と言った頃のことだが、
  十一才で母の勧めに従ってこの山に登り、箱根権現の別当(長官)に入門して学問
  をしていたが、父の河津三郎(祐泰)を暗殺した工藤左衛門尉祐常(祐経)を討とうと
  謀り、出家しようという思いもなかったので、ついにこの山を下り、再び故郷に帰った。
  年月を経た建久四年(1193)、富士の巻狩に出かけた際に、兄の十郎祐成と共に
  箱根の坊に立ち寄り、別当に対面して敵討ちの立願などをした事が、『曽我兄弟』に
  詳しく書かれ、世にも広く知られている。
  <略>
  この図に描いたのは、特に大石が多い場所で、大変歩きにくい。左右には、大木の
  杉がすき間もなく立ち並び、雲や霧もかかって、道をふさいでいる。

  私は「曽我五郎の割石」という石があるものだと思って、付近を探し、地元の方にも
  聞きましたが、そういう石は聞いたことがないとのことでした。
  場所的には、須雲川沿いのちょうど大石が多い、絵にした場所あたりだと思いまして、
  妻に指さしてもらい描きました。

  旧東海道の石畳と杉木立をこのように描けて嬉しいです。
  
 
  


      「  箱根町畑宿の店    」        

        不透明水彩・色鉛筆・鉛筆       制作日 2022/11/14

  

  神奈川県足柄下郡箱根町畑宿の箱根寄木細工の店を描きました。

  猿猴庵さんは[畠(畑)之茶屋]として茶屋を描いています。
  
  その茶屋は、(以下東街便覧図略より)
  ここは家の造りが立派で、美しい店である。雉子や山鳥などを、軒ごとに懸け連ね、
  奥には旅人をもてなすための座敷が有る。湯本細工の品々を数々の箱に入れて
  飾り並べた様子は、本当にまぶしいほどである。
  また、ここの茶屋の多くは、雑煮を売っている。ここの名物なのだろう。
  <略>
  その店で休んで、出立しようとすると、萩楊子を娘が持って来て旅人に渡すなど、
  まことに洒落ている。
  おおよそ、この辺りの茶屋の男女の身なりや身のこなしは上品で、山の中の人物とは
  思われない。
  
  畑宿には箱根細工の店がたくさんありましたが、以前テレビで見たことがあった店を
  描きました。
  運よく、幼子を抱いてお母さんが散歩に来てくれたので描くことができました。
  


      「  原川薬師    」        

        不透明水彩・色鉛筆・鉛筆       制作日 2022/11/1

  

  掛川市領家の金西寺(コンサイジ)を描きました。

  猿猴庵さんは[はら川薬師]と記しています。
  
  原川薬師と呼ばれた金西寺阿弥陀仏には、供えるための薬師餅を売る店がお堂前(向え)
  に二軒あり、五文餅の上に一文餅をのせていて「はら川の薬師餅」と呼ばれ、名物になって
  いると記されています。
  
  写真を撮っていたら、4人組の自転車の一団がゴーという大きな音を響かせながら、掛川
  市街地方面へアーっという間に通り過ぎていきました。
  




     「  貫名  妙星寺    」        

        不透明水彩・色鉛筆・鉛筆       制作日 2022/10/7

  

  袋井市の日蓮宗の古刹 妙日寺 を描きました。

  猿猴庵さんは妙星寺と記しています。
  
  海道より一丁程(約109m)入って本堂があると
  記されています。
  オレンジの線があるのが旧東海道です。

  こんな感じの所は、以前岡崎の本宿の法(宝)蔵寺
  を訪れた時の感じと同じように感じましたが、
  東海道から平で、ずーと続いている迫力を感じました。
  
  絵の左側の灯篭の前に描いてある大きな石の碑の
  ようなものは猿猴庵さんも描いてみえました。
  



     「  七ツ森神社 (七森)    」        

        不透明水彩・色鉛筆・鉛筆       制作日 2022/9/9

  

  袋井市の七ツ森神社を描きました。
  
  境内にある平成10年3月25日付け袋井市教育委員会の説明文に、
  「史跡 七ツ森神社 として
  七ツ森は田圃の真ん中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)
  藩士高力猿猴庵が天明六年(一七八六)に、東海道を自ら旅して
  記した『東街便覧図略』に描かれています。
  その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森
  神社です。以下略 」

  こんな具体的に猿猴庵さんのことが書かれているのを見たのは
  初めてだったので元気が出ました。

  猿猴庵さんは俯瞰的に描いてあります。
  
  境内には袋井市の名木古木に指定されている 「シイノキ」
  がありました。
  
 
                「  木原 熊野権現社    」        

        不透明水彩・色鉛筆・鉛筆       制作日 2022/8/22

  

  袋井市の西外れ(磐田市との境)にあります、許禰(こね)神社
 (木原権現社)を描きました。
  境内には樹齢500年と言われている御神木の「許禰神社のクスノキ」が
 あることが描き終り近くに分かりましたが、絵の中央に描くことができて
 いて良かったです。
  また、境内には徳川家康公腰掛石というものもあり、きっと徳川家康公も
 このクスノキを見たことだと思いました。


             「  三香野橋    」        

            不透明水彩・色鉛筆      制作日 2022/8/9

 磐田市の太田川に架かる三ケ野橋を描きました。
 
 猿猴庵さんの「東街便覧図略」には三香野橋として太鼓橋風の立派な橋が
 描いてあります。
 今は、旧東海道では太田川には413号線にこの橋が架かっています。
 直ぐ近く(絵では右手)に1号線の磐田バイパス、袋井バイパスの大きな
 橋が架かっています。
 取材当日は曇り空で少し前に雨が降ったか、路面が濡れていました。
 車や人の利用もそこそこあり、地域に密着した橋だと思いました。


              「  見付宿  (見付駅)  」        

            不透明水彩・色鉛筆      制作日 2022/7/18

 
見付駅は鎌倉時代以来の宿場だそうです。

 猿猴庵さんの「東街便覧図略」には籠に乗った人々など街並みが
 描かれていますが、私は宿場全体が見渡せる愛宕神社から
 描きました。
 緑の中に包まれた感じで、現存する日本最古の洋風木造建築の
 旧見付学校の5階建て校舎などが見えますが、私は全体に街並みは
 白さが印象的でした。
 愛宕神社で写真を撮っていたら丁度2匹の犬を散歩中の方が見えました
 ので、一緒に描きました。

 

            「  中泉八幡宮  (府八幡宮)  」        

            不透明水彩・色鉛筆      制作日 2022/6/21


  奈良時代、遠江国司により国府に勧進されたので府八幡宮と
 言われています。
  猿猴庵さんの[東街便覧図略]では、中泉八幡宮として描いてあります。
 それには私の描いた鳥居は石造りのように描いてあります。
 鳥居の上のほうにある「府八幡宮」と書いてあるもの(神額・扁額)の形は
 猿猴庵さんの描いてあるものと同じ形でしたので嬉しかったです。

           「 天龍川 」        

            不透明水彩・色鉛筆・鉛筆      制作日 2022/5/21


  猿猴庵さんの[東街便覧図略]では、大天龍、小天龍と渡し場の人々や
 渡し船に乗ってる人々や馬などが描いてあり、大きく湾曲した船も2漕
 描いてあります。絵の中で「洪水の節、此ふねを用ゆ。二艘船という也」
 と書いてあります。
  遠くに秋葉山も描いてあり、ゆったりとした雰囲気の絵です。

  私は2022年4月の下旬に訪れました。丁度雨上がりで河川敷には
 大小たくさんの水たまりが出来ていて、白く輝いていました。
  暴れ天龍を描けてうれしいです。
  東海道の渡し場跡と思われる場所には、「国土交通省中野町水位観測所」
 が設置されていました。手前の草花は、私の住んでる愛知県の東海道が
 通っていた市の北部ののどかな田園地帯のあぜ道に5月の上旬に咲いて
 いた草花を入れました。



     「 浜松 杉浦本陣跡付近 」     (描いた場所は浜松市中区伝馬町)   

            不透明水彩・色鉛筆      制作日 2022/5/5


  猿猴庵さんの[東街便覧図略]では、浜松宿の入口を描いてあります。
 私は2022年1月3日に行きました。付近の大きな神社の初詣等の人々で
 賑わっていました。
  時刻は午後3時を回ったころで、晴れていましたがビルの谷間は暗い
 感じがしましたが、いつものように人々は明るく描きました。


 

    「 蓮沼 」     (描いた場所は浜松市南区高塚町)   

            不透明水彩・色鉛筆      制作日 2022/4/12

 名古屋市博物館編集・発行本によると、{浜松市高塚町にある蓮沼か}と
 記載されています。 
 車で探し回りましたがそれらしい所は見つけることができませんでした。

  2022年1月3日に訪問しました。猿猴庵さんの絵には赤い花が咲いている蓮と大きな沼が
 描いてありますが、それらしい沼は探し出せませんでしたので、国道257号線にある大きな
 交差点にいかにも江戸時代から存在している感じの大きな松を描きました。
 また、そこに大きな看板がたくさん集まって面白い感じでしたのでそこも入れました。
  「引佐細江(浜松市細江町)」   [ 描いた場所は[佐鳴湖(浜松市西区・中区) ]

            不透明水彩      制作日 2022/3/23

猿猴庵さんの東街便覧図略では「引佐細江」と記してあります。実は東海道からは
見えないため名古屋市博物館編集・発行本によると、描いた場所は「佐鳴湖」と
思われると記してありますので佐鳴湖を描きました。


2022年1月3日午後2時頃訪問しました。風は強いと感じましたが天気は良く多くの人々で
賑わっていました。大多数の人々は湖の周りをウオーキングしてみえました。
佐鳴湖のCOD(化学的酸素要求量)が高いと聞いていたのでどんな所かと思っていましたら、
完全に都会の中の水と緑のオアシスでした。
私は以前(約40年程前)仕事でCOD等を測定していたことがあります。その時職場があります
愛知県では「油ケ淵(あぶらがふち)」という安城市と碧南市の境にある湖沼のCODが高くて
改善に取り組んでいたことを思い出しました。今は佐鳴湖も油が淵もよく似た感じがして
周りには公園等が整備され憩いの場所になっていると感じました。

   「舞 坂」 (静岡県浜松市舞阪町)  不透明水彩  制作日 2022/3/8

 表題の「舞坂」は猿猴庵さんの「東街便覧図略」では「舞坂」となっていますので、
 舞阪ではなく舞坂とします。

 2022年1月3日(月)に訪問しました。風は強く冬の寒さもありましたが天気は
 良くすっきりと晴れていました。
 猿猴庵さんは舞坂で船着き場をえがいていますので、船着き場を探しました。最初に北雁木
 (きたがんげ)の絵にした場所に着きました。ちょうどカモメも近くにいて迎えてくれました。
 来る前にインターネットに出ていた風景がそこにはありました。石畳が面白く右側に
 描いた建物もいい感じでこの場所を絵にしようと思いました。
 なお、家に帰って描いているとき、妻が右側にある建物と同じようなものを名古屋の熱田にある
 「宮の渡し公園」で見たことがあると言っていましたので、今度行ってみたいと思っています。
 舞阪町には船着き場は他にもあると本に書いてありましたので探しました。
 「北雁木」から車で少し行った所に「南雁木」がありました。
 そこにあった浜松市教育委員会の説明文によると
 江戸時代舞坂宿には3箇所の渡船場があり、そのうち一番南側の渡船場跡が南雁木だそうで、
 渡荷場(とうかば)と言われ一般庶民の乗降にも利用したが、その名のように主に東海道の
 輸送用荷物の積み下ろしをした場所だそうです。
 真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれていたとありますが、ちょっと
 見つかりませんでした。
 絵にした北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還(おうかん)から
 幅十間(約18m)の石畳が水際まで敷き詰められていると記してありました。
 猿猴庵さんも江戸時代きっとこの北雁木を使用したと思うと、なんだか複雑な気持ちに
 なりました。

 「新居駅御関所(おせきしょ)」(静岡県湖西市新居町新居) 不透明水彩 
                                 制作日 2022/2/11


 2022年1月3日(月)に訪問しました。あいにく休館日でしたが、すごく立派な正月飾り
 に出迎えてむらえました。以前東京から新幹線に乗りこの辺りを通過した時、なんか
 面白そうな建物があるな〜と思ったことがあり、ここがそれだったと直感しました。
 江戸時代はこの絵にした辺りは渡し船が着いてた所のようでびっくりです。
 昔の面影が残っている付近の街並みを写真に撮り、目当てにしていた2軒の店を探しました。
 関所の信号のすぐ前のせんべい屋さんは残念ながら1月6日までお休みと張り紙が
 ありましたが、もう少し先の和菓子屋さんは開店していました。私が入ろうとした少し前に
 大きなバイクに乗った人が入っていったので外から様子を見ていたら沢山買ってみえました。
 やはり有名なんだと思いました。
 中にはお爺さんと二人の若い女性がみえて、お爺さんが造っているみたいでした。同じ種類で
 ちょっと違うものをお土産に買いました。
 家に帰って食べたところ、私の住んでいる愛知県では食べたのと同じようなものは、知立の
 「大あんまき」が有名で時々食べていますが、それとよく似ていると思いました。
 知立の藤田屋さんの大あんまきは洗練された感じ、新居の卯月園さんのは素朴な感じがして、
 どちらもいい感じだと思いました。

 以下に名古屋市博物館編集・発行の「東街便覧図略」の新居駅御関所(おせきしょ)の
 説明文を記します。
 
 東海道に二つ置かれた関所のひとつ、新居関所。新居では、戦国時代から関銭の徴収が
 行われていたが、江戸幕府によって関所が置かれ、当初は直轄管理、元禄十五年(一七〇二)
 以降は吉田藩によって管理された。入り鉄砲・出女を厳しく詮議した他、今切湊に出入りする
 廻船も検閲した。新居関所は再三の地震・津波で被災、移転しているが、本図に描かれたのは
 一七〇七年の宝永地震後の建物。
 その後、一八五四年の安政地震で大破、翌年改築された建物は、現存する唯一の関所建物
 として、国の特別史跡に指定されている。 

 猿猴庵さんが描かれた新居駅御関所の絵には御関所の所に「おせきしょ」と仮名が
 書いてあります。
 絵は鳥観図で街道、街並み、関所の様子、渡し場の様子、浜名湖等が描かれていて、
 籠を担いでいる人や馬を引いてる人の思いや、関所での問答の様子や渡し場のやり取りまでもが
 私には伝わってきます。

 「浜名の橋跡」(静岡県湖西市新居町浜名)  不透明水彩      制作日 2022/1/19  

2022年1月3日(晴れ)前回は場所が分からず見つけられなかった「浜名橋跡」を下調べを
して早朝家を車で出発し、国道1号線をひたすら走り休憩を取りながら8時半頃浜名に
着きました。
前回はここからが良く分からなかったので、少し心配でしたが下調べしていた細い道に
入りました。
前方に大型バイクでツーリングしているような方が進んでいたので少し安心していたら、その
方が急にUターンして戻ってきてしまい心配になりましたが、まっすぐ進み突き当りを少し左に
曲がったところが調べていた写真と同じ場所で見つけることができました。
到着した時ジョッキングをしていた人が通ったのですが、カメラが間に合わず人を写すことができずしばらく待っていました。そうしたら低空で大きな鳥が頭の上をかすめていきました。びっくりして腰を抜かしそうになりました。私の後ろ側に同じ仲間の鳥がいて、二羽で飛び始めました。そしたら、どこからかもう一羽飛んできて、三羽で中心から120度の角度の位置でクルクル輪を描いてすごい高さまで昇っていき見えなくなりました。
産まれて初めてトンビをこんなに近くで見ることができ「良かったな〜」と思っていたら、散歩の方や犬を連れた方が通られ写真に撮ることができました。

浜名橋跡に建っている湖西市教育委員会の説明文によると
(江戸時代の地震で)今切口ができる前の浜名湖は淡水湖で、浜名湖から太平洋に浜名川が流れ、それに浜名橋が架けられていて、口伝によれば、浜名橋の跡地がこの辺であるとのことです。
平安時代の浜名橋の規模は長さ167m、幅4m、高さ5m程で、東海道を往来した旅人の日記や和歌にしばしば登場しているそうです。

※上記文中の「(江戸時代の地震で)」は長瀬が記入しました。

「新居奉行所跡」(静岡県湖西市新居町浜名)  不透明水彩   制作日2021/12/28

2021年9月24日(金)豊橋2箇所(立岩と毛物塚[一里塚])と潮見坂の写真を撮ったあと、猿猴庵さんが描いた新居町浜名に平安時代に架かっていたという「浜名の橋跡」を探してここまで来たが、もうそろそろ帰らないと・・・と考えつつ何気なく湖西市新居町浜名の新居地域センターに車を停めて歩いていたら、新居小学校の門の所に「新居奉行所跡」の石碑を見つけて、ラッキーと思い猿猴庵さんは描いてないが描きました。
中学校以来50数年ぶりに不透明水彩を使って描きました。不透明水彩は相当面白いと思いました。