(U-1)4章 松平親氏から徳川家康まで
親氏
徳川の先祖は松平親氏であることは分っているが、徳川氏の主張は親氏が新田義重の孫世良田頼氏の八代目であり、家康は親氏から九代目に当たるとする。世良田氏は徳川郷に居たことがあり、徳川を名乗っていたので家康は徳川氏であると主張する。家康の祖父清康は世良田清康の発給文書を残しており、この頃から新田氏との関係を主張していることは明らかだがその前は明確ではない。作り話説が有力だが本当かもしれない。しかしどちらであっても家康を含め松平代々の努力は評価でき、その積み重ねが後日の徳川時代を作り上げたものである。室町初期親氏が新田一族であれば足利に追われ諸国を流れていた話は合うことである。流浪の時宗僧親氏は徳阿弥と名乗り西三河坂井の豪族の所に立ち寄り、娘との間に酒井広親をもうけたが娘は死し広親は後松平の有力武将になり徳川の名家酒井氏となった。親氏は坂井を出て東方
泰親・信光・信忠・清康
二代目泰親は松平から南下岩津城・大平城を陥し三代目信光は三河平野まで下り、安祥城を手に入れ西三河を平定、四代から六代信忠にかけては安祥城を確保、七代清康に至り1524年岡崎城を手に入れ以後之を本城とした。
広忠から竹千代(家康)へ
清康は三河一国を支配するまで勢力を大きくしたが尾張まで手を広げた時、守山攻めで近臣に25歳の若さで殺された。八代目広忠は10歳で松平の力は弱体化し、東は今川、西は織田に侵食され広忠も近臣に殺された。九代目竹千代は織田信秀から今川義元へとたらい回しにされた。岡崎に残された臣下は農作業で食い繋ぎながら、竹千代への忠誠を忘れず再起の備えを密かに行ったと言う。義元の所で竹千代は苦難の内に成長し、義元の先兵武将として上洛の途上義元は1560年桶狭間の戦いで討たれ開放された。家康は岡崎城を回復、以後織田信長と同盟を結び勢力を伸ばし信長の死後、秀吉と争い互角であったが臣下として仕え実力は削がれず実質対等であった。秀吉の死後1603年征夷大将軍として江戸に幕府を開き1614〜1615年大阪の陣で豊臣の勢力を一掃し260年の安定した江戸時代を作った。
衰退と没落
中期以降幕府に緩みが生じ旗本の士気が低下したが、反対勢力や不平分子の発生で政治に不安が生じた藤原・北条・足利のようなことは無かった。しかしそれらの時代と全く異なる状況が生じた。英・仏・ロシア・アメリカが東洋に進出し、清国は英・仏と交戦敗北し一部領土を取られる事件が生じていた。我が国にもロシア・アメリカが修交をもとめるなど江戸幕府の手法では処理出来ない状況となった。この問題については次ぎの章とU部西ヨーロッパの発展と科学でふれる。
親氏の功績
徳川の成立の前には長い苦難の努力が在って可能となった。 中でも重要なのは新田の子孫かどうかは関係なく親氏が流浪の身でありながら野心を持ち続けたことである。通常その様な苦境が続けば目先生きてゆくことに甘んずるのが殆どである。中臣藤原・頼朝・北条・足利いずれも程度の差こそあれ豪族の身分であった。親氏のような気力があったればこそ長期の努力が報いられ徳川の成功に繋がったのである。
天下を制する者は常により下から障害を乗り越え上昇した者に与えられる。上に在る者には気力が生じにくいが、下から乗り越えるには気力が必要でそれが天下を制する力になる。これは普遍的な現象であるが、下から障害を越える過程で殆どは諦めて沈み残る者は非常に少ない。親氏はまさしく非常に少ない人間の一人である。
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