U-2 西ヨーロッパ諸国の発展と科学
(U-2)1章 1300〜1600年ルネッサンス,宗教革命,東洋への航海
1-1 ゲルマン人の西方進出
400年頃より黒海・エルベ川・オーデル川に住んでいたゲルマン諸種族は人口増加で土地不足になった事とフン族に追われたため相次いで西方へ移動し、西ローマ帝国を滅ぼしながら11世紀にはスペイン北部にアラゴン王国、フランスで西フランク王国がフランス王国に、ドイツ・オーストリー・北イタリ―が東フランク王国から神聖ローマ帝国に、ブリテン島の南にイングランド王国が成立し、それぞれキリスト教を受け入れローマ教皇(西ローマ教皇)に従っていた。 消長はあるがこれらの子孫が西ヨーロッパ歴史の主体になる。これらの王国は封建社会であり現在の国家形態とは大きく異なり、多くの荘園領主の上により多くの領土を持つ王がいて、領主が抱える騎士もなにがしかの領地を持ち、それぞれの領地を保護される代わりに戦争の役を果たす双務関係で社会が成り立っていた。種族の掟と伝承に包まれた彼等はキリスト教を受け入れ神学とそれに導かれる論理一色になった。その結果としてエルサレムを占拠している異教徒イスラムトルコを排除して聖地をとりもどすべく、1100年頃から十字軍戦役が始まり1270年まで7回に及んだが、次第に本来の目的を外れて当事者の利害で事が行われて消滅した。 しかしこの結果東ローマ帝国ビザンチン王国の都コンスタンチノープルを占領するとか東方イスラムと接触した為、十字軍の基地になった北イタリ―の旧ローマ人に代わって定住したゲルマンのロンバルド人に、東方の文化即ちギリシャ哲学・幾何・インドの数学・アラブの化学がビザンチン及びイスラムから伝えられ、新しい生活を始めたゲルマン人の心をゆすったのがルネサンスの原因となった。
1-2 ルネサンスの性格
美術の面で社会の変動に関連する面を見ることはできないが、一応並べるとイタリ―でジョット(1266〜1337)・マサッチョ(1401〜1428)・ギベルテイ(1378〜1455)・ドナテルロ(1386〜1466)等が遠近法写実主義を発展させ、建築ではブルネレスキ(1377〜1446)・ブラマンテ(1444〜1514)がある。又ボッチェリニ(1444〜1510)・レオナルドダビンチは皆のよく知るところである。ミケランジェロは彫刻・建築・絵画に優れ科学的分野にも光を向けている。ラファエロも絵画建築で名を成した。イタリ―以外にもアイク兄弟・ブリュウゲル・デユ-ラ-・ホルバインが有名である。文学ではダンテ・シェ-クスピアに時代の流れを取りあげた形跡は無いが、他の文人は時代の動きを示し宗教改革や大航海時代等の時代の変革に影響を及ぼしている。
ボッカチオ(1313〜1375)はデカメロンで聖職者・王侯等支配者の恥部を鋭くつき、チョ-サ- (1340〜1400)のイギリスで著したカンタベリ物語も似た様な目的を持っている。オランダのエラスムス(1469〜1536)はイギリスでトマスモア(1478〜1535)と友人になり「愚神礼賛」で痴愚の女神の口を借り、聖職者の腐敗と悪徳を痛烈に批判した。一方トマスモアは外交使節として大陸に渡り旅行中に作った「ユ-トピア」で、新大陸に渡ったアメリゴヴェスプッチに同行したヒュロダエウスが訪れた理想的な島(架空)の社会を紹介し、当時のイギリス社会特に囲い込み(権力者が土地に囲いを作り農民を追い出し、この時は羊の牧場にして儲けた)を批判した。
ラブレ-(1494〜1553)の「ガルガンチュア物語」も痛烈な社会風刺を奇想天外な話で行った。これらの作品は宗教改革や権力の下方への移動又は海外へ進出する傾向を作ったとも、又はその動きが在る所から生まれた作品だとも言える。
モンテ-ニュ(1533〜1592)は曽祖父が商いで成功した金で土地を集め父の代にモンテ-ニュ領の領主となった家系で、教養の不足を感じた父が彼に高い教養をつけるべく家庭教師をつけボルド-大学で学んだ。この頃ドイツの宗教改革の影響でフランスでも新旧キリスト教の対立からユグノー戦争(1562〜1598)が起っていたが、学芸への関心を深め「エッセー」を書き始め1581年ボルドー市長になり新旧両教徒の融和に努力した。その後も「エッセー」の加筆訂正を行い、アンリー4世の要職就任要請は断り59歳で死んだが「エッセー」は社会に影響を与えた。
ルネサンスは1300年前後から先ずイタリ―フィレンツェでメディチ家や、ローマ教皇の保護の下に盛んになり、フィレンツェの政治が混乱するとローマやヴェネツィアに移り、更にアジアとの交易が海路アフリカ南端を回り行われる様になり地中海経由の貿易が衰えると共に、ルネサンスの中心はオランダ・スペイン・イギリス等西ヨーロッパに移行した。又いずれにも言える事だがルネサンスの中心は権力者の保護の下に成立ことが多く、社会を根底から動かすことはなかった。其れが生じてくるのは宗教改革と大航海時代や新しい科学の進展に待たねばならない。
1-3 宗教改革
免罪符発行までの経緯
1480年頃ヨーロッパの町々で「笛吹き男」の噂に脅えていた。笛吹き男は1284年ドイツのハーメルンで起こった130人の子供を連れ去ったとされる事件であるが、当時の精神状態は森や川に魔物精霊が渦巻いており、至るところに魔女や仙女が居ると信じられていた。 それを避けるために聖人聖女の遺物が必要とされ、それを求める為家元のローマバチカンへ多くの人が交通した。その巡礼者や交易商があのハーメルン事件の1284年を起点とする暦を使い、「笛吹き男」の再来を防いでいると語ったという噂がヨーロッパ中に広まった。皇教イノケンティウス8世はローマカトリック教会を挙げて「笛吹き男」と戦うべく決心した。
「異端審問至高庁」は教皇の命を受け異端審問官ハインリッヒクレーマー(1430〜1505)とヤコブシュプレンガー(1436〜1495)を中心にして、ヨーロッパ中のあらゆる文献と話を集め魔師に対する対策を出版した。たまたまドイツのマインツ市に住むグーテンベルグ(1400〜1468)が鉛にスズ・アンチモン・ビスマスを入れた合金による鋳造活字による印刷技術を発明しており出版物の配布は容易になっていた。この本は「魔師への鉄槌」と名づけられていたが1489年ヨーロッパに配布され、魔師・魔女の見分け方から殺し方まで丁寧に示されていた。
「魔師」との戦いを行うローマ教会は1506年から戦いの本営としてローマのサンピエトロ大聖堂の大改修を行うことにした。問題は金でありここで免罪符を発行し、これさえ買えば罪を犯しても天国へ行けると触れ回り、販売は教皇庁の財政を司るフッガー家が協力した。
ルターの反対
東ドイツのヴィッテンベルグの教授ルタ―(1483〜1546)は必ずしも理性から免罪符の不合理性を指摘したのではなく、悪魔を除くにはそれ相応な霊力が必要でその言葉を紙に書いただけでは効力が無いと考えていたからである。 ともかく1517年10月31日公開討論会を呼びかけヴィッテンベルグ城教会の扉に免罪符を攻撃する「95ヶ条の論題」を発表した。この論議は印刷され、前年出来たばかりのタッシ―家の郵便(イタリ―のタッシ家が政府の郵便を無料で運ぶ代わりに神聖ローマ帝国内の郵便事業を独占する特許を1516年得た)によりドイツ・スイス全土に広まった。
ローマカトリック教会はドミニコ会を中心に猛然反撃した。それに政治問題も絡み厄介な事になった。即ち1519年スペイン王がハプスブルグ出身者として神聖ローマ皇帝を兼ねる事になっていたので、挟まれるフランスのヴァロワ家は其れと対立し、イツ国内では反皇帝派領主,反教皇派市民,反商業派農民はそれぞれの思惑からルタ―を支持し、「福音派」または「抗議派プロテスタント」として混乱が続いた。ルターは1518・1519・1520年の三年間多くの本を出版したが中でも1520年の「キリスト教徒の自由」は救済と儀式と教義を独占するローマカトリック教会を否定する事になってしまった。このため1521年ルターはローマカトリック教会から破門された。その後反皇帝派ザクセン侯の庇護の下に一般民衆でも読めるようラテン語でなく、ドイツ語で聖書を作り1522年に出版した。
スイスのツヴィングリー(1484〜1531)はルターの決起を知ると1522年スイス友愛会を作りチューリッヒ・ベルン・バーゼルの諸都市をカトリックと縁を切り新教の都市にした。又トーマスミュンツアー(1489〜1525)は千年王国説と階級革命論を結び付け、教会ではなく精霊による「再洗礼」を訴える結社をドイツ農民の間に作った。トーマスミュンツアーはルターの決起に応じドイツ農民戦争を起こし(1524〜1525)ツヴィングリーも又これを支持した。しかしルターはそれに反対で諸侯領主と共に弾圧する側に立った。オランダのエラスムスはルターを「信仰より善行によって救済の恩寵を受けることが出来る」と批判した所、ルターは「人間は自由でなく信仰を問われる神の奴隷である」と反論した。結局ルターのカトリックに対する改革は中途半端のものであった。
農民戦争を起こしたミュンツアーは1525年農民と共に戦死した。ドイツでは宗教改革がこの様に徹底せず、後に30年戦争で内部抗争と外国の干渉を受け国としての統一形成が他のヨーロッパ諸国に大きく差をつけられ、1871年のドイツ帝国がプロイセンによって作られるまで待たなければならなかった。
カルビンの宗教改革
パリのカルビン(1509〜1564)は異端の疑いをかけられ1533年ツヴィングリーが死んだ後も新教への改革の続くスイスのバーゼルに亡命した。旧教派ではスペインバスクのイグナチュウスロヨラがイエズス会を作り、旧教として軍隊的に改革を進めスペインに受け入れられヨーロッパとスペインの進出した新大陸を中心に広まった。カルビンの主張は「キリスト教綱要」に示すよう「聖書のみ・信仰のみ・恩寵のみ」であり人の心によく通り、ジュネーブで聖書共和国を作り厳格な行政をおこなった。教会の制度として上部から示命される司教を廃し、牧師と信徒代表の長老で教会を運営する長老制度をとった。
その考え方で神は魂の救済を予め決めているが、信仰によってそれを得ることができる。救済の確信を得るには禁欲と神に与えられた天職として勤勉に働くべきで、その結果の富は信仰の結果で正しいと考えた。これは商工業市民に支持され経済発展に力となった。イングランドの清教徒・スコットランドの長老派・フランスのユグノー・オランダのゴイセンとなり、歴史を動かした力は大きく一方ルター派の作用はそれほどではなかった。
イギリス国教会
イギリスのヘンリー八世(1491〜1547)はカトリック信者でルターに反対する論文を出し教皇から「信仰の擁護者」と言われたほどだったが、キャサリン王妃(早世した兄の未亡人でスペイン王の娘)を嫌になりアンブリ―ンと結婚するため離婚したかったが、教皇が許さなかった。そこでローマ教会から独立し教皇に破門されたが、イギリス国教会を作り国王が首長となりローマ教会がイギリスに持つ修道院その他資産領地を取り上げた。しかしイギリス国教会の教義等はカトリックでありローマ教会から独立していることだけが異なっている。 イギリス国教会自体は影響力が小さかったが、ローマ教会やカトリック旧教派から拘束を受けなかった事はイギリスにとって良い結果を生じた。
1-4 科学への芽生え
ロジャーベーコン(1214〜1294)はイスラム科学の影響を受け実験と観察を重んじ自然科学の先駆けとなった。彼自身は僧職であった。
パラケルスス(1493〜1541)は放浪の医者であった。1526年医者に右足の壊疽を見離されたフロベニウスが、パラケルススによって切断手術することなく治った。そこでフロベニウスはバーゼル市立大学医学部教授に推挙した。所がパラケルススは古典購読の講義を行はないので、大学は教室使用と学位の授与を禁止した。当時の医学は神学の一部であったが、実践的な彼の講義はラテン語でなくドイツ語で行われ人気は高かった。バーゼル市聖堂参事リヒテンフェルスが胃痛に苦しみ百グルテンで治療を頼み、数粒の丸薬でパラケルススは治したが、リヒテンフェルスは6グルテンしか払わなかった。パラケルススは訴えたが認められず、逆に法廷侮辱で逮捕されかけ1528年2月バーゼルを退去した。1529年ニュールンベルグで「パラケルスス博士の予言」と医学パンフレット「グアヤックについて」を出版した。後者は梅毒について論じたもので当時フランス病と言われ難病だった。パラケルススはこの新大陸のグアヤックと言う木に治療の効果が無い事を指摘したのであり更に「フランス病の起源と由来」を出版した。所がこのグアヤックはドイツの豪商フガ―家の目玉商品だったので、フガ―家の御用学者ライプチッヒ大学医学部長シュトローマーは怒りニュールンベルグ市に出版禁止を求め成功した。
1538年パラケルススは「医師の迷路」の原稿を持ってオーストリアのクラ―ゲルフルトに再び現われたが、ウイーンの医者が妨害して出版させなかった。以上の事は実証・実践的な医学が神学に支配された古典医学と対立した事であり、科学的方法の芽生えが生じたのである。
アグリッパ(1486〜1535)は神聖ローマ皇帝カール五世の歴史官だったがヨーロッパ中を廻りタッシ家の郵便を使い知識人と便りを交わしフランスのドール大学の神学博士になり、哲学者であり天文,錬金術(鉱物金属学)に通じ八カ国語を使った。1530年「科学と芸術の虚栄について」を出版し人間万能主義を排し、無知の自覚を説いたら異端とされた。更に「オカルト哲学」の出版で魔術を霊力としてでなく科学的に解釈しようとした所、教会は彼こそ魔師であるとして投獄した。
ノストルダムス(1503〜1566)はフランス マルセーユの北サンミレで生まれ、モンペリエ大学で医学を修め1536年取り組んでいたペストで妻子を失い異端として出頭を命ぜられ逃亡した。異端とされた理由はペストで医者家族にも見捨てられ閉じ込められた患者の家に入り、換気清掃し酢酸を使って消毒する方法で努力し数年後ペストは収まった。町の人にとって彼の行ったことは魔法としか思えなかったが、町の人が訴える事は無かったが異端審問官は追及した。
逃亡後1547年再婚マルセーユ西のサロンで医者として開業し実践的な臨床医として効果をあげた。1552年「化粧品とジャム」を書いたが美容とジャムの関係を医学的に纏めたもので、科学の進展にあまり関与するものではなかった。彼はその後田舎町の医者の生活に戻り一生を終えた。
科学と技術の発生
ルネサンス時代の三大発明は火薬(火砲)・羅針盤・活版印刷である。火薬は中国からイスラムを経て1200年代に伝来し大砲・鉄砲に使用され戦術が変わり、騎士階級が没落した。羅針盤は同じく中国から伝来したが1310年イタリ―のフラヴィオジョーヤにより磁針を水に浮かす代りに、方位盤に立てたピボットに乗せ航海上でも使用出来るようにし(現在はジャイロコンパスを使用)大航海時代の糸口になった。勿論これで完成したわけでなくより確かな航海の為に緯度経度の測定、洋上でも使える時計クロノメーターの発明等が後世加えられる。
グーテンベルグの活字印刷の発明は1450年頃で金属活字を組んで文章を作り、それに合金を流し込み凹型の面を作り最後に鉛にアンチモン・スズ・ビスマス等をいれた低融点合金を凹型の上に流し鋳造凸活版を作り、油にすすを加えたインクと葡萄絞りプレスを使って、中国からイスラム経由で伝来した紙に印刷するのである。
レオナルドダビンチ(1452〜1519)は画の外に人体に関心を持っていたが、神聖ローマ皇帝カール五世の薬務官ベルギーのベルサリウス(1514〜1564)は多くの解剖を行い「人体解剖学」を出版した。イギリスのギルバート(1540〜1603)は医者であったが船乗りが活用する磁石に注目し、実験を行い磁石と磁界の関係を求め静電気を発見した。更に地球が大きな磁石である事に気づきそれまでの発見をまとめ1600年「磁石論」を書いた。 神秘的要素が残っているが実験と理論は現代的で近代科学の出発点と考えられる。
デンマークの貴族ティコブラーエ(1546〜1603)はデンマーク王の支援で肉眼による天文観測所を作りデータを収集し、コペルニクス(1473〜1543)の地動説を実証しようとしたが、「年収差(太陽を中心とする地球の公転に対する恒星の見える角度の差)」を入れなかったので失敗した。
コペルニクスはポーランドで天文学者ノバラの天動説反対意見に影響をうけた。教会の支持する天動説では天体観測と合わないことが多く、1497年アルデバランの星蝕現象を観測して、プトレマイオスの月の理論は誤りである事を知った。それからノバラの天動説反対を受け入れ、古代ギリシャ アリスタルコスの太陽中心説を採ると観測結果に矛盾が無い事を知り、1510年「天の運動を説明する仮説の概要」に自分の名を入れず友人の天文学者に送った。この論文はヨーロッパの天文学者の評判になった。内容は「太陽が宇宙の中心で固定し地球は一日一回地軸を中心に自転しながら太陽の回りを一年周期で回っている」という画期的なものであった。教会を恐れ公表してなかったが熱心な説得を受け「天体の回転について」の出版準備が出来たのは死の直前だった。ただし地球の公転を円にこだわった(実際は楕円)ため不正確な面も生じた。ジョルダノブルーノ(1548〜1600)はコペルニクス説を支持捕らえられ火刑により殺された。
ガリレオ(1564〜1624)はピサで医学から数学物理に転じ当時発明された望遠鏡を自作し、天文観測を行い木星に衛星を発見し地動説を側面から証明した。異端審問所に呼ばれ地動説に関する著作と授業を禁止されたが、1632年「天文対話」を出版したため宗教裁判にかけられ地動説の放棄を誓約させられた。
ドイツのケプラー(1571〜1630)は地動説に関心を持ち高校の数学教師をしながら「宇宙の神秘」を発表ティコブラーエ・ガリレオに認められた。皇帝ルドルフ二世の保護するティコブラ―エの助手となりプラハに移り、ブラーエの死後残されたデータを分析し1609年「新天文学」・1619年「宇宙の調和」などいずれも地動説に関するものだが、最も重要なのは惑星の軌道と速度に関する「惑星運動の三法則」である。これは後にニュートンが引力の法則を発見する基になる。以上科学の芽生えと初期の発見を長々と説明したが、次に述べる外洋へ発展の開始・宗教改革と併せて生起する諸事件の因となり結果を生み、更にそれが作用して次の結果へと絡み合って視野を広げていく展開となっている。この傾向は1600年以降加速されて行くが、こうゆう経過は他の歴史展開には無い事で、現代文明を作り上げる原動力となる。
1-5 大航海時代
東洋への航海
12世紀から13世紀まで十字軍は七回にわたって軍隊を送ったが、イスラムオットーマントルコを破る事が出来ず、遂に12世紀にはイベリア半島南半分をイスラムに占領された。レコンキスタにより1230年コルドバを落しほぼイベリア半島を取り戻し、ジブラルタル対岸のセウタも占領した。しかし東洋へ行くにはイスラムトルコが中東にいて行けない。この当時プレスタージョンの伝説が広くヨーロッパで信じられて居た。東方に強大なキリスト教の国があり都は黄金で満ちており、その国が異教イスラムトルコを破りつつあると。之はマルコポーロ(1254〜1324)の東方見聞録が関係していると思われる。ポルトガルのエンリケ航海王子(1394〜1460)はイベリア半島西岸ザグレスに航海学校を作り、本人は航海しなかったがプレスタージョンの国を求め、それより南は魔物が住むとされたサワラ西岸ボジャドール岬を越え、以後アフリカ南端喜望峰を回り遂に1498年ヴァスコダガマがインドに達した。
東方へ行く航路はその他西航路(コロンブス・マゼランが実行)・西北航路(カナダを北西に越えて行く)・東北航路(東北今のシベリア北の北極海を通って行く)があり、いずれも前途何があるか当時は分らなかったが西北航路・東北航路は幾つかのチームが挑戦し氷の中で悲惨な結末をとげた。西へ行ったコロンブス・マゼランと南に向かったヴァスコダガマの見通しが西北・東北隊より優れていた訳ではなく偶然の結果である。
西北航路・東北航路については日本で殆ど語られてないが、彼らの勇気に敬意を払いたい。それが近代文明の基盤になったからである。
コロンブス(1451〜1505)はフィレンツェの天文学者カスネリの説「地球は丸いからインドへ行くなら東へ行くより西の大西洋を西に行った方が早い」を信じ、黄金のくにジパングへの大西洋西航海の案をスペイン女王に採用して貰い、1492年8月3隻の船と120人でスペインのバロス港を立ち、10月にバハマ島に達し近辺を探検し1493年3月スペインに帰った。その後も数回アメリカ大陸に渡っている。
コロンブスはアメリカをインドと信じていたが、アメリゴヴェスプッチが数回アメリカ遠征に加わり、インドではなく新大陸である事を示しアメリカと名づけられた。ポルトガルのマゼラン(1480〜1520)は西回りで東アジアモルッカ島へ行く計画を立て、スペインのカルロス一世から認められ1519年8月5隻の船と265人の人員で出発、1520年10月3隻(1隻を失い1隻脱走)が南アメリカ南端のマゼラン海峡をこえて太平洋に達し、マゼラン本人はフィリッピンで住民に殺され残りの部下はアフリカ南端を回り1522年スペインバロス港に帰ってきた。史上初めて世界一周に成功した時残った船1隻と乗組員18人だけだったが地球が丸い事が実証された。
スペインのインカの征服
アメリカ大陸には氷河時代ベーリング海峡がなく、アジアからモンゴロイドのインディオが移住し南アメリカ南端までくまなく居住していた。スペインがアメリカ大陸に渡って来た時文明を形成していたのはメキシコ高原のアステカ族がアステカ王国を、ペルー・ボリビア・チリにはインカ族によるインカ帝国であった。アステカはスペインの貧乏貴族コルテスがキューバ総督の命を受け兵500人・馬16頭・銃50丁でユカタン半島に上陸、アステカ王国の首都テノチティトランを占領1521年滅ぼした。ピサロも貴族の私生児で1531年スペイン王の援助を受け、兵180人・馬27頭と銃を持ちクスコに入り内紛に乗じインカ王を捕らえ、莫大な身代金を要求し手にすると王を殺しインカ帝国を滅ぼした。
メキシコ・ペルーでスペインは多量の金銀特に銀を得、植民地経営の中心を鉱山に置いた。最大のボリビアのポトシ銀山発見(1545)後労働力を初めはインディオに頼ったが、逃亡してしまうのでアフリカ西岸から黒人を奴隷として連行して使役するようになった。
ヨーロッパの変動
インド航路の成立で地中海イスラム経由の東方貿易は衰えヴェネツィアから中心がリスボンに移行した。アメリカ大陸の発見により銀が新大陸から大量に入り、銀の価値が下がり物価が上昇した。それまで銀は南ドイツで産しフガ―家の独占であったがフガ―家は没落し、その銀に頼っていたヴェネツィア等イタリアの諸都市は没落する事になる。
又新大陸からトウモロコシ・かぼちゃ・さつまいも・ジャガイモ・トマト・とうがらし・タバコなどが伝来し、かぼちゃ・さつまいも・タバコなどはアジアへ移りジャガイモはヨーロッパの主要食糧となった。梅毒はコロンブスと共にヨーロッパに渡っている。アジア・ヨーロッパから新大陸へは小麦・さとうきび・コーヒー・馬・牛・羊・鉄が持ち込まれた。病気としては天然痘・ペスト・インフルエンザのウイルス細菌が新大陸に持ち込まれ、免疫の無いインディオの人口は減少した。
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