(U-2)3章 17世紀の学芸知識の交流
3-1 宮廷城館サロンでの交流
フランス・イギリス・ドイツでは国王中心の官僚体制が成立し富を蓄えた上層市民は、土地でなく官職を買収して貴族官僚になった。彼等の男は家庭教師やキリスト系学校・大学で学び、女子は家庭教師や修道院で学び高い教養を持った才女として育った。一方周囲では30年戦争が起こりドイツを荒廃させ各国も紛争で休む間もなかった。そこで教養ある才女は自分の城館サロンに文化人・芸術家を呼び会話を楽しみ上品と優雅さを競った。話題は珍しいものチューリップ・紅茶・ココア・コーヒーなどで、チューリップ以外は医薬品と考えられ上流のみに許された贅沢であった。飲食・賭博・舞踏だけでなく文芸談義・フランシスベーコンの思想・ガリレオ・ケプラーなどの力学光学天文学の発見も話題になった。チャールズ一世の侍医ハーヴィー(1578〜1657)は血液が全身を循環している事を発見した。この発見はガリレオ・ケプラーが世界は機械的調和で構成されているという思想と結びつき、動物も機械であるとの考えが生じた。イギリスのホッブス(1588〜1679)・オランダのデカルト(1596〜1650)も宇宙・動物のみならず政治・倫理・知性・理性も機械的調和で成立しているとの哲学を展開した。これらは城館サロンの良い話題であった。
ポールロワイヤルとジャンセニスト
サンシラン(1581〜1603)は土地を買い貴族になった領主の子で政治能力をリシュリューに評価され誘われたが、1636年ポールロワイヤル尼僧院の司祭となり慕う人材も集まり隠士団を作り、成金上層市民の子弟を学ばせる初等学校も作り教団の形を整えた。ジャンセニウス(1585〜1638)はオランダ生まれでルーヴァン大学・パリ大学を経て、サンシランと親しくなりサンシランの邸宅に住んだ。ジャンセニウスは旧教であるが救済は「神の絶対的な恣意の恩寵による」とし、「神を失った人間は独善の奴隷となる」などと主張し信仰の厳しさがカルヴァンに近い上、絶対王政に都合がいい仏国教会(実現しなかった)の創設に反対であった。体制べったりのイエズス会とジャンセニウスは教義のそりが合わなかった。勅任雇用官僚と国王で絶対王政を目指すリシュリューの中央集権を避けて、ポールロワイヤルに逃げ込んだ成金上層市民・買官貴族官僚も多くジャンセニウスに共鳴し、中央集権・絶対王政に反対していた。
1638年ジャンセニウスが死ぬとリシュリューはサンシランを捕らえた。しかしポールロワイヤル教団は1640年ジャンセニウスの遺作を出版し対立した。1642年リシュリューが死に翌年13世と捕われのサンシランも死に、ポールロワイヤル問題は終わったかに見えた。
リシュリューは買官貴族官僚を圧迫し勅任雇用官僚と王で中央集権を進めたが、更にマザラン(1602〜1661)で強化された。買官貴族官僚・成金上層市民はイギリスのピューリタン革命に刺激され、フロンドの乱(1648〜1653)を起こした。これに旧封建貴族・新興勤労市民層も参加しパリは一時占拠されたが結局失敗した。フロンドの乱に参加した富裕上層市民はポールロワイヤルとも関係していた為、イエズス会が反撃に出てパリ大学教授会はジャンセニウス及びそれを信ずるジャンセニストを異端とし、1653年教皇もそれを認めた。ポールロワイヤルの人々はジャンセニストであり有名なパスカルに援助を求め、パスカルも「田舎人への手紙」を発表しイエズス会の堕落を指摘ジャンセニウスの正当性を主張した。しかし教会は「田舎人への手紙」も禁書にした。
パスカルはその後サイクロイドの研究を行うと共に信仰の著作を手がけたが病気勝ちになり、神学論争から手を引き慈善事業を行ったが1662年パンセを残して死んだ。
宮廷・城館の学芸交流の組織化と民間への進出
交流の手段として1516年イタリ―のタッシ―が作った郵便が使われ、ラテン語から現代語使用に変化する。フランソワ一世は1539年法律用語をフランス語で書くように勅令を出し、カルヴァンはフランス語のキリスト教綱要を出し反論もフランス語で行われ、教育機関でのフランス語化が進んだ。1474年メジチ家が「プラトン学院」を作ったのに続き1601年自然科学を対象に「山猫学院」を作り、1631年フランスのリシュリューがフランス語の「週報ガゼット」を出しフランス語整備のため「王立仏語学院」を作った。才女達の主催する城館サロンで研究者の交流が出来たが、郵便制度と現代語を使うことで各地の宮廷や城館サロンとの交流、更にサロンに参加出来なくても私書簡で研究者の交流が進んだ。更に民間研究サークルが生じフランスでは、1630年頃からパリ司祭メルセンヌの地下室でガッサンディ(1592〜1655)・デカルト(1596〜1650)・パスカル(1623〜1662)の他イギリスのピューリタン革命で亡命中のホッブス(1588〜1699)などが自然科学についてのサークルを開いた。しかしフランスではフロンドの乱の失敗で成金上層市民の力が無くなり、中央集権に組み込まれ城館サロンにも民間の学芸交流にも王権が管理支配することになる。
イギリスでは城館サロンの光景は少なくロンドンの酒場でボイル(1627〜1691)など研究者が集まり、「見えない大学」と呼ばれる自然科学を話題とした昼食会を開いた。これには観察と実験を重んじるフランシスベーコンの哲学の裏付けがあった。成金上層市民が勅任貴族官僚となる一方その豪奢な生活を支える勤労中層市民は、サロンに出入り出来ないが一般市民より余裕があり成金上層市民の生活を真似た。当時貿易がもたらすインド・中東から紅茶・コーヒー・ココアは高級医薬品であったが、中東ユダヤ人が安値で仕入れるようになり、マルセーユ(1640年以後)・オクスフォード(1650年以後)・ロンドン(1660年以後)・パリ(1680年以後)のコーヒーハウスで高いが手の届くようになり、中層市民が一杯の贅沢をもとめながら知識情報を交換する事になる。例えばパリのルーブル宮殿北隣にあるパレロワイヤルに、カフェ・化粧店・出版社・賭博場・演劇館などが集まり市民文化を作り上げた。モリエールも此処で成功し喜劇をヒットさせたのである。
リシュリューの発行した「週報(ガゼット)」に対しフロンドの残党である反中央集権上層市民は「月刊知識人(サヴァン)」(1665年)・社交界のスキャンダル芸能界の事件を扱う「娯楽マーキュリー(メルキュールガラン)」(1672年)などを発行した。中層市民は買って読むだけでなく投書も行い、若し字が読めなくてもカフェに行けば常備の雑誌を誰かが大声で読んでくれるので、最新の話題に触れる事が出来自由な民間文化が生まれた。
1683年財務長官コルベールの死後ルイ14世は夫人の言うことを聞いて、ナントの勅令を廃止し新教徒ユグノーの進行の自由を認めなくなったので、フランス産業の担い手である勤労中層市民・自営中層農民であるユグノーを数十万人イギリス・オランダ・ドイツに流出させ、宮廷の贅沢と戦費でフランスは荒廃した。
ベイル(1647〜1706)はフランス政府の新教徒弾圧を察しオランダに亡命、ロッテルダム大学から「文芸界報」を送りモンテーニュ・デカルトの影響をうけ、懐疑こそ哲学の方法として既成の宗教思想を批判する「歴史的批判的事典」を16961697年にまとめ百科全書派の先駆けとなった。
同じくフランスのフォントネル(1657〜1757)は通俗雑誌「メルキュールガラン」の編集を行い、「死者との対話」で権威主義を批判した。又分りやすい説明でコペルニクス以後の天文学・デカルト以来の哲学を解説する「寓話の歴史」(1687年)・「神託の歴史」(1687年)を書き、宮廷サロン・城館サロンに独占されていた知識的話題をカフェの民間サロンの開放し、伝承・権威に対する批判を強めた。古典信奉者と論争し近代文学の優れている事を主張、歴史に於ける進歩を明らかにした彼もまた百科全書派のさきがけの一人である。
ルイ14世の学芸に対する姿勢
1661年ルイ14世は親政を始め、絶対君主を目指す中央集権下で1695年三つの学院を「フランス学院」に統合し、言語・芸術・科学を独占的に支配しその象徴として、ヴェルサイユ宮を作りヨーロッパ最大のサロンとした。成金上層市民は国王の勅任を得て貴族官僚になる為、宮廷の趣味に合うよう努力しヨーロッパ各地でもフランスのバロック様式を模範とし、言葉・しぐさ・文化を楽しむ事が上流貴族の条件になった。
1672年ルイ14世は宮廷詩人ドノードヴィゼに資金を出して、「メルキュールガラン」として社交・芸能界のスキャンダル・噂話等通俗の話題などの娯楽雑誌を出させ、サロン・上中層市民必読の雑誌となり、ルイ14世はフランスの話題についても中央集権であった。メルキュールガランはルイ14世が引き金を引いたが後にフロンドの残党やフォントネルたちが引継ぎ、権威を批判し自由への要素が主張された。
3-2 オランダのチューリップバブル
1602年オランダは東インド会社を作り国家的にアジアを武力で制圧し、その香辛料をヨーロッパに輸入し市場を独占した。 1618年ドイツの神聖ローマ帝国内は新教・旧教が領主・都市ごとに入り交ざっていた。ハプスブルグ家のフェルディナンド二世が神聖ローマ皇帝となり、新教徒が反発内戦となったところに、フランス・スペイン・デンマーク・オランダ・イギリスが介入30年戦争になった。オランダはスペインから独立しており戦争に介入しても実戦をするわけでなく、むしろ軍事物資の売買で賑わい各地の資金が戦争を避けてオランダに集まった。この金でトルコから来た珍しい花チュウリップが投資の対象になり、価格情報をタッシ―の郵便が伝えた。1990年日本の土地・株のバブルと同じで、誰も彼もチューリップの売買を行い法外な高値になり1637年突然暴落し大損害を生じた。オランダが今日チューリップの産地になっているのは之が原因である。オランダのデカルトは同年理性が万人に平等に当てられていても、正しく使わないとこの様になると指摘した。
3-3 イギリスの学芸情報の交換
フランシスベーコン(1561〜1626)はエリザベス一世には嫌われたが、1603年女王が死んでジェームズ一世の世となるや、あらゆる手を使い1618年には大法官と男爵の地位を得た。彼は1620年「ノーヴムオルガヌム(新機軸)」を国王に捧げた。そこで自然の性質を正しく知れば自然を使うことが出来るとし、之を「知(科学)は力なり」と言った。その為には感情による(種族の虚妄)・偏見による(洞窟の虚妄)・伝聞による(市場の虚妄)・権威による(劇場による虚妄)この四つの虚妄(イドラ)心が曇っていることが問題だと考える。解決するには、自分自身の観察と実験がこの様な虚妄を避ける知を得る事が出来ると考えた。之が今は自然科学の正しい基本となっている。
彼はその他「ニューアトランティス」で科学技術のユートピアを描いた。しかしベーコンは1621年汚職で地位身分を失い、領地に隠棲して科学実験を行ったが1626年死んだ。彼の情報交換は国王近辺に限られ広く交流した形跡は無い。
1642年ピューリタンの内乱が始まり、クロムウエルが1658年死ぬまで革命を嫌う中上層市民はロンドン西北西百キロのオクスフォードに避難し、議会派は経済支援を得る為ユダヤ人の居住も認めた。その時トルコにいたジェイコブは1650年コーヒーを持ってオクスフォードにやって来た。このコーヒーは酔い覚まし・憂鬱の治療に効き目があり大人気になった。1652年ロンドンでもエドワーズとバスカロゼがコーヒーハウスを開いた。トマスギャラウエイが開いた店は(現在バークレー銀行)交易小路にあり、「航海条例」により仕事の増える貿易商の溜まり場となり、店内で船舶・砂糖・コーヒー・スパイスの取引が行われた。又イギリスの官営郵便は宅配でなく留め置きだったが、コーヒーハウスは留め置き場として適していた。商船に委託する国際郵便の受け渡しにもコーヒーハウスが使われた。
1655年オクスフォードの「ティリヤードコーヒーハウス」は先進的学生の溜まり場となりクリストファーレン(1632〜1723)や、ロンドンの酒場で見えない大学を作っていたロバートボイル(1627〜1691)等若手科学者のオクスフォードグループが出来た。1656年オランダのホイヘンスの作った振り子時計をイギリスのアハスエルスフロマンテール(1607〜1693)が学び、イギリスで作った所クロムウエルが正確な事が清教徒にぴったりと誉めた。そのクロムウエルは1658年死にチャールズ二世(1630〜1695)の王政復古となった。その間コーヒーハウスはイギリスの町々に広まり、新聞を置きまわし読みまたは読み上げたのを聞き、あらゆる事を伝えられ色々のクラブが出来た。
レン・ボイル等オクスフォードの若い科学者たちはピューリタンだったので大学を首になりロンドンに移り、12人で科学クラブを作りベーコンの精神を以って共同研究を行った。
紅茶も伝わっていたが高く、ポルトガルから来た王女が好きだったのである程度広まったが、普及はもう少し後になる。タバコも高い税金が課せられて居たものの密輸品もあり、コーヒーハウスでの必需品となり新大陸で生産するので奴隷制度の拡大に一役買った。
1662年ボイル・レンの科学クラブは王の認可を得て「ロイヤルソサエティ(王立協会)」を作った。王に援助を受けるわけではなく、世間に変な噂を立てられないよう公認を得た。ロイヤルソサエティは始め68人週一回会合を持ち、実験と書簡の紹介があった。実験の準備と実演は会の管理人ロバートフックでオクスフォード大学の従僕であった。書簡の紹介はドイツ人の事務長ヘンリーオルデンバーグで、1665年からは月刊学術雑誌フィロソフィカルトランザクションを刊行、情報をヨーロッパ中に送付した。
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