(U-2) 4章 17世紀の科学技術

4-1 真空と粒子

ガッサンディ(15921655)はフランスのエクス大学の教授で聖堂の司祭長でもあったが地動説に賛同し、教会が正当視するアリストテレス自然観を否定し、宇宙は真空と粒子とよりなると唱えた。之はデカルトが大小の砕片が隙間無く充満して宇宙が出来ているとの説と異なり、五年間の論争があった。イタリ―のトリチェリー(16081647)はガリレオに数ヶ月弟子として学び、山猫学院の教授になり1643年真空を発見した。ガリレオは既に水を10メートル以上ポンプでくみ上げられない事を発見していたが、トリチェリーは水銀を使い端が閉じたガラス管に水銀を入れ水銀の入った容器に開いた菅の端を入れ、菅の閉じた方を上にして立てると、ガラス管の内部上(閉じた部がある)に真空を作りだすことに成功した。彼は更に気流を気圧の分布で説明する考えから、トリチェリーの定理を発見し微積分の先がけとなり、望遠鏡を改良して顕微鏡を作成している。

パスカルは父が復職した徴税官(勅任雇用官僚)の仕事に役立つように計算機を作った。1646年トリチェリーの真空発見を聞き、ガラス管の水銀は大気の圧力で上げられてのだと考え、山の上で水銀の上がり方が少ないことを発見、「自然は真空を嫌う」のではなく大気の圧力があるからだと主張し、関連してパスカルの原理を発見している。ドイツのマグデブルグ市長ゲーリケ(16021686)30年戦争の末期に真空ポンプを作り、音の伝達・燃焼・呼吸に空気が必要である事を明らかにした。更に1654年に銅製の半球を合わせた内部を真空にして、両方から馬で引いても離れない「マグデブルグの実験」を行い大気圧の実証をした。又トリチェリーの実験を用いて気圧計に使い天候との関係を知り天気の予報を行った。天体観測でも彗星の周期性を発見し、硫黄球をこすって静電気を起こす機械を発明し科学と技術の発掘をおこなった。これらの話は自然にある大気圧に関してだが、ボイルの助手フランス人ドニパパンは1682年水の沸騰点が気圧による事を知り、圧力鍋を発明しチャールズ2世に「科学の味」と誉められた。肉などが非常に柔らかく出来たからである。

アイルランド貴族のボイル16271691)はフランス・イタリ―に遊学し、1644年ロンドンの酒場で「見えない学校」の科学者と知り合い、ベーコンの実験観察の方法やガッサンディの真空粒子の話を聞いた。ピューリタンの乱を嫌い1654年「見えない学校」の科学者とオクスフォードに移り、空気ポンプを作り助手のフックと共に空気についての実験、1660年気体の体積と圧力の関係「ボイルの法則」を発見、元素と混合物を区別して元素から化合物が生ずる理論を作り「熱は粒子の振動である」と仮定を立てた。

フック16351703)ケンブリッジ大学で学び1665年ボイルの助手となり、トリチェリーの顕微鏡を改良し、生物も細胞という粒子からなる事を1665年ミクログラフィアに発表した。粒子説は実証されロック・ライプニッツの哲学にも影響した。フックは気体のみならず弾性体の「歪みと応力は比例する」と言う弾性の法則も発見した。真空粒子説は光の本性で対立問題を起こした。

4-2 光と波

オランダのホイヘンス16291695)はレンズを改良し、次々と天文学の発見を行ったが正確な時刻を知る必要があり、1657年振り子時計を発明した。ロンドンの王立協会・パリの王立科学院に招かれるようになり、振子の時計からその振幅・周期に関する研究1673年に発表した。1681年オランダに戻りレンズの研究を行う内に光の反射・屈折が問題になった。彼は媒質により波の速さが異なる事と、幾つかの点から球状に伝わる波が合成されて新しい波となり各点がまとまって光源とみなされる事から、ホイヘンスの原理をつくり波の反射・屈折を解明し「光は波動である」とし「光論」を発表した。

この説に問題があり「波動は媒介を必要とする」と言う事で、ホイヘンスは媒体をエーテルと呼んだ。そうなると証明されたトリチェリーの真空の中にも、全宇宙の中にもエーテルが存在する事になる。又光の直進性を証明することは出来ない。イングランドのニュートン(16421727)はケンブリッジ大学に居たが疫病の流行で大学が閉鎖、故郷でリンゴの落下から「万有引力」を発想した。1667年同大学の教授となり屈折光はスペクトルで色を分解するが反射光はしない事を利用し反射望遠鏡を発明した。彼は光の直進性を説明する為粒子説を主張した。そうすると光粒子の差異から多色性・屈折・真空中の進行が説明でき、1704年「光学」に発表した。

数学では1680年積分から微分法を考案し1693年発表したが、ライプニッツが独自に1684年微分から微積分法を考案発表したため両者争い和解出来なかった。

力学について地上から天体に至るまで運動の3法則と共通の引力の法則があることを発見した。これらは1687年プリンキピアに発表した。万有引力で遠くへ力が伝えられる遠隔作用の説明は出来なかったが、「我は仮説をつくらず」として法則は現象を記述する事が大切で原因が説明できなくても良いと考えた。この考えは20世紀になって原子の挙動を扱う量子力学で、電子の軌道を説明しようとこだわる必要は無く、電子の運動変化により生ずる現象の法則が明らかになれば良いとした事と共通する。

16669月ロンドンは大火に会い全焼し、木造建築は禁止され街路・下水も整備された。オクスフォードの天文学者レンは建築の分野にも手を広げ、フックも測量・設計でロンドン復興に活躍し1668年王室建築家に命じられている。貴族は新しいロンドンに移り不在地主となり、加えて金持ちの商人市民らと新装なったコーヒーハウスでの社交を繰り広げ、文学・科学・経済あらゆる話が交わされ火事も科学の進歩の助けになった。

4-3 ニュートンの争い

1669年ニュートンは「無限項方程式による解析」をまとめ数学教授バロウに提出した。バロウは自分より優れた学者の出現を知り教授の座を譲った。一方商人の息子フラムスティード(16461719)がニュートンより若いのに、星の蝕につぃての論文で早くロイヤルソサエティの会員になった事に嫉妬し、終生陰険な行動をとった。ニュートンが発明した反射望遠鏡についての論文をロイヤルソサエティに出したが、不完全な点がありソサエティの管理人フックが指摘した所、ニュートンがかみつき光についての論争が以後続いた。その他微積分についてライプニッツとの争いの時文書を偽造するなど、どうかと思われる面も持っていた。

フラムスティードに対する嫌がらせは当時の航海技術に関係しており、航海には緯度・経度を知る事で船の正確な位置を知ることが出来る。緯度は太陽や恒星の観測と羅針盤で割り出せるけれども、洋上東西の位置経度は天文観測に時刻を組み合わせなければ出来ない。振子時計は洋上で使えず、ホイヘンスとフックが協力してゼンマイばねを使う時計を作ったが、赤道・北海など温度の差で狂いが生じクロノメーターとして実用化出来なかった。現在は狂いの出ないクロノメーターが出来ているが、当時フラムスティードの考えでは月の観測と太陽・恒星の観測を組み合わせれば出来ると言うもので、天文学者レンはそのためにグリニッチ天文台を作った。フラムスティードはこの天文台で自作の望遠鏡にマイクロメーターを附け10秒の誤差精度で天文観測データを作った。ニュートンはこの頃入れ込んでいた占星術の為そのデータを詐取し、おまけに1709年ロイヤルソサエティ会長になったニュートンはフラムスティードをソサエティから除名した。

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