(U-2)5章 18世紀の世相
5-1 イギリス・フランスの投機
1600年に作られたイギリス東インド会社は、綿織物の輸入で大企業になり有力な株主の都合で左右されていたが、名誉革命後改善されオランダとも協調前途有望であった。そこに投機が生じ、先ず船舶と積荷に対する保険が対象になり、商人の溜まり場コーヒーハウスで満額になるまで受け付け、投資家の名と金額を記した証券を作った。それらはまともな投機だったが、この頃イギリスでは海外開発と産業革命が進んでいたので、それに関連して山師も絡み「沈没船から財宝を回収する」・[新大陸アジアで金銀を採掘する]・「新しい機械を作る」・「卑金属から金銀を作る」などいかがわしい投機も多かった。 通貨の需要も増加し、1694年国債を担保に同額の銀行券(紙幣)を発行するイングランド銀行が出来、1698年にはロンドン株取引所も出来た。
ここらまでは投機がまともであったが、1709年になり投機の高まりの末オクスフォード伯バートハリーは代書屋のブラントを使い「南海株式会社」を作った。この会社は進行中のスペイン継承(1701〜1713)でイギリスが勝って、スペインの支配する新大陸の南海貿易を独占することを目玉とした会社で、スペインが新大陸との貿易から手を引くことが前提であり、いかがわしい投機であった。
こんな投機がコーヒーハウスの株取引所で行われ、集められた金は事業に使用し益をあげる前に関係者で分配され、其れが又更に投機に用いられマルチ商法のねずみ講と全く同じで、そのバブルは何時はじけるかが問題であった。
18世紀に入った頃工場や商店の経営者も金を蓄え始めていたが、経営する地元を離れ都会のコーヒーハウスに出入りし不在地主達と交流するわけに行かず、地元の居酒屋を溜まり場として情報交換し会員による協同組合的組織を作った。
バブルの崩壊はフランスとイギリスの双方であり、フランスでは太陽王の浪費のツケが回って居た所にイギリスから山師ジョンローが1716年やってきて、オルレアン公に通貨紙幣を増発すればいいと進言し、フランスはそれを取り入れてジョンローに紙幣を発行する銀行を認めた。紙幣を発行する銀行から政府が金を借りそれで市民が買った国債を償還したのである。そしてジョンロー銀行を王立銀行とした。しかし紙幣を回収しなくてはならず、新大陸ルイジアナの金鉱を掘る「ミシシッピ―会社」を作り、この中身の無い会社が開発ラッシュで受けて株式が良く売れ紙幣回収は成功した。
1719年「王立銀行」のジョンローはフランス国債の全額買い取りを行い、市民は国債を王立銀行で紙幣に代え「ミシシッピ―会社」の株を買った為額面500ルーブルの株が1000ルーブルになり、更にジョンローが貨幣鋳造権と徴税代理権を得た為、1万800ルーブルにまで上昇した。所が貴族コンティ公が金儲けのためこの株を入手しようとしたが手に入らず、怒って用意した紙幣を王立銀行に持ち込んで金貨に代える事を要求した。現在と異なり紙幣は金貨と交換する権利があったが、王立銀行には勿論その裏付けは無く、この事実が明らかになり人々が銀行に押し寄せ王立銀行券は紙屑となった。
イギリスではスペイン継承戦争が終わっても、スペインが南大西洋の制海権を失う事が無かったので、南海株式会社が中南米貿易を独占して営業する事は出来なかった。そこで5000万ポンドの国債を引き受け、其れを担保に5000万ポンドの株式を発行し利益を図ろうとした。東インド会社とイングランド銀行の反対があったが、1720年4月何とか2000万ポンドの国債買収権を得た。南海株式会社の株は100ポンドの額面が1050ポンドにまで人気が上昇していた。所が南海株式会社ばかりでなく、この様な投機対象が山の様に増加し資金不足が考えられ、それによる破局を防ぐべくイギリス政府は、大手民間四社を特許状のない会社だとして起訴した。しかし特許状のある政府会社も又インチキである事は知れ渡っており、政府関係者が利食い売りを始めたと情報がコーヒーハウスや新聞で流れるや、暴落を始めた南海株式会社の株は1050ポンドから126ポンドにまで下落した。こうして実体の無い景気はしぼみ人々に損害だけを残した。
5-2 18世紀のアメリカ
18世紀のイギリスのピューリタンから生れた世相、「天は自ら助くる者をたすく」・「正直は最善の方策」・「向上の精神」が18世紀末のアメリカ東部植民地でもあふれ、それが19世紀のアメリカ発展の土壌となった。その状況はベンジャミン(1706〜1790)の行動がそれそのままである。彼はボストンの貧しい職人の子で、15才で学校をやめ異母兄の印刷会社の見習になり、18才1724年ロンドンに渡り印刷業の準備を行ったが上手く行かず、フィラデルフィアの印刷所で1729年経営権を貰い、ペンシルヴァニァガゼットを発行した。1731年巡回移動図書館を始め、1732年「貧しいリチャード暦」を発行した。之は農作業の為日の出・日の入りや耕作・種まき・収穫の時期と天気予報、更には料理・家計・保健・警句処世術・教訓などあらゆる面にふれた実用的暦であり、身近で親しみがあり非常に売れた。郵便の整備が必要と考え、東海岸幹線道路整備に力を入れ、1740年に定期郵便船と定期郵便馬車の運行実現に尽力した。
植民地での暖房暖炉を作る暖炉工の不足と、煙を室内に出さないように煙突を大きくすれば暖気が空に逃げ、薪が大量に必要になり、開拓民には不向きであった。フランクリンは鋳鉄製のストーブを作り室内に置き、それに煙突をつけて煙を外へだすと、ストーブの外面からも煙突の外面からも室内を暖める事が出来る、我々が知っているストーブを発明した。薪は少なくても暖かく人々に喜ばれた。
厳しい新大陸の生活に科学が必要と考え、アカデミーを作りペンシルベニア大学を創立した。電気の実験で凧上げが有名だが、病院を作り天然痘予防接種1752年にフィラデルフィア火災保険相互会を創った。彼はまさしくアメリカ人であった。
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