(U-2) 6章 18世紀の思想

グロティウス(15831645) 

独立戦争のオランダ名門領主の子で16歳で弁護士になり東インド会社とポルトガルの争いの弁護に当たり国際法の分野に入った。航海の自由を「航海自由論」に展開した。1610年オランダはカルヴィン派が多数を占め「救済は誰がされるかは神が初めから決めている」の説をとるが、アルミニウスが「キリストの救済はすべての人に及ぶ」と言う救済普遍説を主張しアルミニウス派が作られた。之にカルヴァン派が反対し、政治問題となりグロティウスは両派の和解への努力を尽くしたが、巻き込まれてアルミニウス派と見なされ16181619年の会議でアルミニウス派の敗北と決まると、グロティウスも捕われ幽閉された。1621年妻の協力により脱出しパリでルイ13世の保護を受けた。当時ドイツでは30年戦争がありオランダ独立戦争の思い出を加えてパリ亡命中「戦争と平和の法」を著した。

彼の意見は「神定法(神が関わる)」・「国定法(国が市民・主権者によって定める)」・「万民法(人類の利益を狙い国家間の協定)」の何れでもなく、人間の理性に基づく自然法であり近代自然法の父とされる。

デカルト(15961650) 

数学のような合理的理性をすべての人は有するが、正しく使わないと誤りが入る。その為疑いを以って確かめる方法的懐疑を尽くし、残る自我は思惟に本質がある。一方物は延長を本質とする物体で、独立の世界にあり併せて物心二元論と呼ぶ。動物も物理的機械で延長を本質とする物の世界となる。人間の身体は動物と同じく物理的機械であり、思惟を本質とする心との問題はどうなるのか、デカルトを含め色々の考え方がある。

スピノザ(16321677)

スピノザは自由主義者貴族的なスペイン出身のユダヤ人でスピノザ商会を父より受けたが、23歳の時ユダヤ教を破門されそれを機に商会を辞め、哲学研究に入った。世界は実体としての神であり、属性として自然の様相を示すとした。人は神の属性のうち思惟と延長の二つのみを認識できるとしたが、彼はこの様な心と身体の追求より人間の認識と倫理に注目した。善・悪・感情行動を幾何学的に定義位置づけし、唯一の実体である神の属性の形として、永遠の相の下に見る哲学が神への知的愛であると考えた。彼は16641672年英仏の争いに巻き込まれた後、カルヴァン派から無神論として非難をあびた。しかし国内外で交流を行い1677年死んだ。

ライプニッツ(16461716)

ライプニッツは30年戦争の末期東ドイツに1667年ライプチッヒ大学博士となりマインツ侯に仕え、1676年ハノーファー侯に仕え旧教・ルター派とカルヴァン派の統一に尽力したが成功しなかった。文化人との交流はホッブス・ニュートン・マールブランシュ・スピノザなど千人以上の著名な人物と交流し、宮廷文化サロンをアカデミーへ制度化する努力を尽くしたが、ベルリンの科学協会が1700年に成立しただけで、その会長の地位も1710年に追われ1716年死んだ。彼は又微積分の創造者でもある。

彼は理性の真理と自然学に於ける事実の真理を分け、理性の真理について究極思惟単位を分析して把握結合し、法則を解明して理性の真理を得る事が出来ると考える。 

事実の真理につても究極単位をモナドと名付け、モナドは部分を持たずその為単一の全体が一斉に発生し、一斉に絶滅すると考える。個々のモナドが反映する宇宙は完全な神の作品で、可能な調和の内最善のものを選び創造したと考える。

この楽観的な神の調和秩序への信頼の下宗教学問の普遍化が目標となり、その為前記の新旧教会の統一や新教会内のルター派とカルヴィン派の調和に尽力することになった。

ホッブス(15881679)

ホッブスはオクスフォード大学で学びフランシスベーコンの助手や貴族の家庭教師にもなっている。近世科学思想に接し物体・人の知性・国の制度も全てその粒子の能力で説明出来ると考えた。物体は運動の理論で説明、人間の感情・欲望・思考を外界に対する内界意力の複合と説明、国家は人間相互の結合と離反で説明した。これが完成する頃チャールズ一世とイギリス議会は対立不安定になった。ホッブスの国家に対する考え方は絶対主権の国王に組するものとして議会の反発を受け、1640年フランスに亡命した。

ここでガッサンディやパスカルと交流し国家論1651年リヴァイアサンを発表した。リヴァイアサンは旧約聖書の海の怪獣で当時の絶対主義国家(相争うイギリス・フランス・オランダなど)を例えたのである。来るべき帝国主義を予想して「富は力なり」と唱えた。宗教より国政を優越させる「リヴァイアサン」の宗教批判の部分が、イエズス会の強いフランス宮廷で反発を受け1651年イギリスに帰国した。クロムウェルが登用しようと誘ったが政争を避け拒絶した。しかし科学的な物体に対する説明「物体論」は神学的な教会の反発をうけた。

王制復古後も政治から遠い所で研究を続けたが、16651666年の大火と疫病によるチャールズ二世の苛立ちから、彼の無神論にまで八つ当たりされホッブスの著書は発禁になった。しかし彼の名は外国で高まった。

ロック(16321704)

ロックの父は中層の小地主法律家で清教徒革命に議会派として参戦したが、ロックは革命時寛容なオクスフォード大学で哲学を学び、ボイル等と交流し科学医学をも学び、1666年王政復古に尽力したシャフベリー伯一世の知遇を得仕えた。チャールズ二世は反動的で旧教官吏を重用し、国教徒貴族を押さえ込んだ。しかしロックは「宗教寛容論」をまとめ政治は外的生活のみに関与出来、内的生活としての信仰に政治の干渉を拒否した。

チャールズ二世は更にルイ14世と結びオランダと戦いを始め、議会は国王の独走を止める為官僚を国教徒に限定した。シャフベリー伯は新教だったので1675年フランスに亡命しロックも従った。1679年帰国したが、後に来たジェームズ二世となるチャールズ二世の弟によりシャフベリー伯は追われ、ロックを伴いオランダに亡命させられ伯は翌年死んだ。ジェームズ二世は1685年即位し更に反動的で旧教を復興し様としたため、議会内の国教派と新教派が協同して国王の廃止を決め名誉革命を実行した。ロックもオランダから新国王夫妻と共に帰国官職は辞退したが顧問として立憲君主政に尽くした。1696年「統治二論」で第一に王権神授説に反論し、第二にそれに代わる社会契約説の確立を主張、自然状態でも自然法で平和が保たれるが自然法の違反に対しては、その救済が個人では難しいので政府を作り、国民は政府と自然法の補完をする社会契約を行うと主張した。

彼の哲学は人間が理解すると言う事は直接実体を知るのではなく、感覚によって知ると考える。その感覚も多数の種類の物が複合された物で、人間は感覚器官を通して得た多くの観念を綜合して合成する。しかしこの観念は経験に原因しており天成の観念は存在しない。即ち人間の知性は経験によって得られる物であるとする[経験主義]を貫いた。

バークリー(16851753)

バークリーは清教徒革命時アイルランドを征服したイングランド貴族の子弟で英国教徒であった。ダブリン大学を卒業「人間知識の原理」を発表した。彼の物に対する認識の経験実証の考え方はロックの上を行き、知覚で得られた物実在と言うのは、知覚で得られる観念その物であると結論した。

バークリーの時代スペイン継承戦争が終り、大陸の毛織物の需要が多く一般農民が土地囲い込みで没落し、中層富農・ヨーマン・市民革命によって豊かになった地方中層地主ジェントリ―が成金となり、カフェーに集まっていたがバークリーは之を嫌い勤勉な公共精神を求めた。一度大陸に渡ったが1731年アイルランドに戻り、司教として社会問題や宗教教育に尽力した。

ヒューム(17111776)

スコットランドのジェントリ―(地方中層地主)の子弟でエジンバラ大学を経てフランスに遊学「人間本性論」を1739年発表した。彼の考え方は懐疑論であり、バークリーが物の実体が知覚によって生じた観念であると認めたのに、それも認めなかった。ヒュームにとって心は単なる知覚の束であり実体など無いと言う。イドラを完全に無くしたものの見方は無理で完全な認識と言うものはあり得ない。ヒュームは自然科学的に探求し因果に絶対的なものは無く、信念的な「恒常的連接」と言う習慣でしかなかった様に、道徳も絶対的なものでなく信念的な「普遍的感覚」と言う習慣でしかないと結論した。社会にとって得なことで共通の好感を感じ、損になることで共通の反感を生ずる。この普遍的感覚による道徳を基に暗黙の合意が成立し社会が出来ると考えた。そしてホッブス・ロックの想定した自然法や社会契約を否定した。

モンテスキュー(16891755)とヴォルテール(16941778)

モンテスキュー はフランス貴族官僚の子弟1721年フランスの旧体制を批判する「ペルシャ人の手紙」で有名となった。20年をかけて具体的事例から経験科学的に考えた「法の精神」を1748年まとめた。之は立法・司法・行政の三権分立の構造を、市民・君主・貴族の階級関係と共に明らかにした。この著作はヨーロッパの話題となり、イギリス議会もこの考え方を採用する事を公式見解で示した。しかし彼の各時代・各地域の文化を平等に見る考え方は、フランスのキリスト教イエズス会から非難を浴び、1751年ローマ教会から禁書とされた。然し啓蒙主義の流れを止める事は出来なかった。

ヴォルテール はパリの成金上層市民である公証人の子弟でイエズス会の学校に学んだが、自由思想を持ち1717年オルレアン公を風刺する詩を作り投獄されたが、獄中「エディプス王」を書き名声を得て社交界の花形になった。17261729年までイギリスに亡命し、ピューリタン革命後のイギリスの先進体制を見た。帰国後「イギリス書簡」を出し合理的なクエーカーの話、ベーコン・ロック・ニュートンの哲学など先進イギリスの文化を伝え、独断より寛容な懐疑を主張し啓蒙主義を明らかにした。

フランス政府は体制批判と取り発禁とし逮捕し様とした。 彼は貴族夫人の城に隠れ劇や詩の創作を行ったが、1744年旧友が大臣となり若干政府の信用を回復した。1749年プロシャのフリードリヒ二世に招かれポツダム宮で暮らし1751年「ルイ14世」をまとめた。1753年ジュネーブに移り、社会文化史研究の先駆けとなる「風俗史論」1756年まとめ、更に1759年青年が形而上学から目覚めて幸福になる努力を行う風刺啓蒙小説「カンデイ―ド」を発行、「寛容論」・「哲学辞典」などを執筆し不正な裁判・社会の偏見に立ち向かい人権擁護に努めた。

ルソー(17121778)

「不平等起源論」(1754)で人間の本性は善だが制度が悪に向かわせる。その制度とは財産の私有で、平等を歪めるので自然に帰るべきだと結論する。しかし之は啓蒙主義と対立をまねいた。1762年に出した「社会契約論」で理性より心情を重んじ、人間の自然に生ずる心情は「絶対的な善」と論じ、社会も之に基づいて形成されるのが正しいと考える。自分の信ずる心情を宗教会議が否定したり妨害したり出来ない。国民の契約によって成立した国家では、国民の心情の私的な利害が相殺されるので国民に共通な心情が成立し、国民はすべて之に絶対的に服従すべきであると結論された。之は矛盾を含むもので、自由革命が恐怖政治と表裏一体である事を示したものであった。宗教を神でなく心情に重点を置いた事、政治を王でなく民衆に重点を置いたことでスイスにもフランスにも居られなくなり、プロシャ・イギリスに渡り精神異常を発し1778年パリで死んだ。

ディドロ―(17131784)とダランベール(17171783)

1732ディドロ―はパリ大学で学び、懐疑する理性を重んじ合理主義的理神論を示した「哲学断想」を1746年出版し、啓蒙主義者として出発パリ高等法院から焚書処分され、「盲人書簡」(1749)で盲人に見えない神は存在しないと論じたので投獄された。

ダランベールは法学を学んだが代数・物理の研究を行い、1741年王立科学学院の会員となり1743年解析力学をまとめ「力学原理」を書いた。1747年パリの出版社が連合で啓蒙主義の綜合事典を作ろうと、文系のディドロ―と理系のダランベールに編集を頼んだ。モンテスキュー・ヴォルテールその他計264人で執筆した「百科全書」は1751年から順次出版された。序文にダランベールが述べた「諸分野の関連と各分野の原理が明らかになる事が目的」とされ、人間はそこから出発しそこへ戻るべき原点を示そうとして、知識の総合を行おうとした。ディドロ―の合理主義・無神論・唯物論がフランス政府・イエズス会・ジャンセニストの反発を買い、出版禁止問題も起きたが図表11巻・本文17巻を1772年に完成させた。

アダムスミス(17231790)

スコットランドのジェントリ―の子弟でありグラスゴー大学・オクスフォード大学を経て、グラスゴー大学の教授となりヒュームと親交し影響を受けた。三年間のフランス旅行中に、諸学者と交流した他フランスの経済動乱を見た。コルベールの重商主義その後ロワイヤル銀行(王立銀行)・ミシシッピ―会社の株式投機・バブル崩壊とそれに対する重農主義の展開(特権階級の反対で上手くゆかない)などを見た。イギリスではジェームススチュアートが「金属貨幣が富を形成する手段であるから放任すると、地主が貯め込んで流通が減少して経済は小さくなるから、地主に金を使わせるか税金で取って政府・宮廷が使うかしなくてはならない」と重商主義を唱えていた。イギリスに戻ったアダムスミスはその欠点に気づいた。社会は資本家と労働者とでなり、生産物の価格は資本家の変動利益と労働者の固定賃金で決まる。市場価格によって利潤率が変り、之によって資本が移動する。利のある所へ金が移るのであり、それにより産業生産が活気付く。これを「神の見えざる手」とよんだ。重商主義のように産業の制限や保護は無用で、自由放任であることが大切で政府の仕事は国防・司法・警察・消防・土木・教育・福祉と公共分野の最小限とすべきだと考えた。この考えは現在も基幹として通用している。

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