(U-2) 7章 18世紀科学技術による産業革命
7-1 鉄の製造
製鉄に石炭を使用
鉄鉱石から鉄を作るには古代より木炭と共に加熱し、木炭の炭素が鉄鉱石の酸素と結合しガスとなって放出され、鉄は残余の不純物と共に高温の塊として残り、高温の内にハンマーで不純物を叩き出し鉄製品とするのが一般的だった。鋳物用にはより多くの木炭を使い、水車送風機で温度を上げ木炭の炭素が鉄に入り、1〜3%になると鉄の融点が下がり溶け固まって脆い鋳鉄になる。この鋳鉄はねばい鉄と共に初めからあった物ではなく、鉄を作る技術が進むほど送風機によって温度が上がってしまうので、ねばい鉄ができず脆い鋳鉄になってしまい、それを又ねばい鉄にする話が次につづく。
鉄の需要が増加して森の木を伐採し森林が無くなり、製鉄用の木炭が不足したイギリスでは、石炭それも蒸し焼きにしたコークスを使用することを考えた。コークスを燃やすにはより大量の空気を送る必要があり、水車送風機では不十分であった。イギリスのセヴァ―ン河上流に住む鋳物業者アブラハムダービーは、ニューコメンの蒸気機関の話を聞き1712年これを水車の代わりにした強力送風機により、コークスの高温燃焼を可能にし安い鋳鉄が量産出来るようになった。ニューコメンの機関とはピストンが最下点にあるシリンダーの下部より水蒸気を入れ、ピストンが最上部まで押し上げられた所で蒸気を入れるバルブを閉じ、シリンダー内部に水を入れシリンダー内を冷却すると、蒸気は凝結して真空を生ずるからピストンは又最下点に戻り、流し込んだ水と蒸気の凝結した湯はシリンダーの外へバルブを開けて流し出し、出したらバルブを閉める。之を繰り返して上下運動をするから送風機が動かせる。
この機関を使い炭坑の水汲みポンプにつないで使い、55メートルの深さから200リットルの水を毎分汲み上げ馬6頭分に相当し、1733年特許が切れるまでイギリス110台作られ鉄と石炭の時代が生れた。
鍛鉄・鋼の製造
鋳鉄は蒸気機関送風・コークス使用の溶鉱炉で大量に作られる様になったが、鍛鉄や鋼は低い温度の木炭炉で作った鉄を叩いて不純物を搾り出す、能率の悪い方法によっていた。大量に出来る鋳鉄は脆く入り込んだ炭素を抜かなければならない。抜く為には炭素を酸化すればよい。1776年ワットの機関を可能にした「孔ぐり盤」の発明者ウイルキンソンは、ワットの蒸気機関と送風シリンダーを合体して、鋳鉄溶鉱炉に送り込んで炭素を酸化し減らそうとした。しかし炭素が下がると融点が上がり鉄は固まってしまうことと、燃料のコークスは炭素であり鋳鉄と混在し除去が難しい。
1783年ヘンリーコートはコークスの燃焼炉と鋳鉄の溶解炉(反射炉)を分離し、炭素がぬけ粘土状になった鉄を鉄棒で捏ねられるようにした。これで粘りのある鍛鉄が大量に得られるようになった。加工法についても水車利用のハンマーでは間に合わないので二つのローラーを蒸気機関で動かし、それで鉄を挟み圧延する事で均質大量の棒・板を作ることが出来た。これらの溶解・精錬(炭素を抜く)・圧延の機械を設計・製造・取り扱う技術は、イギリスの国家機密に近いので海外に出さない様努力した。こうして産業・交通・軍事(特に軍艦と火砲)に威力を発揮し18〜19世紀イギリスは世界の王者に成長した。
鋼(鍛鉄も鋼)は更に1856年ベッセマ―転炉・1865年シーメンスマルチン平炉・1878年トーマスギルクリスト転炉・二次大戦後酸素上吹転炉を経て、今日に至っているが鋳鉄即ち銑鉄を作る溶鉱炉は大きく機能が良くなり、高炉と呼ばれているが本質はヘンリーコートの時代と変らない。
7-2 蒸気機関の発明
17世紀イギリスは燃料として森の木を切り尽くし石炭に頼るようになっていた。然し炭坑は湧水の汲み上げに悩んでいた。トーマスセィヴァリー(1650〜1715)は蒸気を冷やすと負圧を生ずることに目をつけ、蒸気を満たしたタンクの下の一部を地下水につけ、その上のタンクの蒸気を冷却する。そうすると水はタンクの上まで一杯になるが、そこで下の地下水との連絡を切りタンクを加熱すれば蒸気圧を生じ、水は排除出来る。この原理を1698年特許として取得し、1702年実際に作ったわけではないが、こう作れば可能だと図入りで出版した(実際は実用不可能であった)。
ダートマスの没落貴族鍛冶屋ニューコメン(1663〜1729)はこの本を読みその欠陥を知り、蒸気をいれるシリンダーで直接水を汲み出すのではなく、シリンダーにピストンをつけ蒸気流入と冷却でピストンを上下し、その力で吸い上げポンプを動かす(前述)方法で炭坑湧水の問題を解決した。
スコットランドの職人の子ジェームスワット(1736〜1819)はグラスゴー大学の機械技師職を得ていたが、1763年ブリキ製ニューコメン蒸気機関の実験模型修理を命じられ、修理しながらもっと改良できる事に気がついた。冷却機構をシリンダーから分離し、シリンダー内のピストンを蒸気の圧力で左右から交互に押し、例えば右に押せばピストンを左に押した蒸気が残っているから外へ排除する(左へ押す時はこの逆)。蒸気をシリンダーに入れるバルブと排除するバルブは、ピストンの往復運動に連動させる。排除した蒸気はコンデンサーで冷却水(湯)にして捨てる。又ピストンの往復運動をクランクで回転運動に変えることも必要である。
之を完成する為エジンバラ大学教授ブラックの知識と資金の援助を得、その他エジンバラ製鉄会社のローバックが資金を支えたが破産し、バーミンガムのクラブ「月狂協会」でアメリカのフランクリンなどと夢を交信していた製鉄業者ボールトンの知る所となり、援助を得1769年に取得した特許を売って2/3をローバックに贈り、残りでボールトンとワットは本格的に蒸気機関の製造を始めた。
蒸気機関の成功にはもうひとつ別の要因、シリンダーの内径加工法の進歩が必要であった。
ウイルキンソンの孔ぐり盤
ウイルキンソン(1728〜1808)は製鉄業者で蒸気機関に関心があり、そのシリンダーの内径精度が悪く蒸気が漏れる事を知っていた。その理由は孔の内面を削るのは大砲で行われており、刃物を固定し品物を回転させて削るのが一般的であり、固定した刃が動くので精度が悪かった。ウイルキンソンは品物を固定し刃を回転する事を考え、水力で回転するカッターで横に固定した鋳鉄を、トンネルを掘るようにして削る事により、1mの径でも1mm以下の精度にする事が出来蒸気機関に採用して大成果をあげ、之でワットの蒸気機関が水力に代わってすべての産業の動力として働き始める。
7-3 紡織機械の進歩
1600年代後半インドの綿織物は安く人気が高かったので、1722年毛織物業者は政府に働きかけ輸入を止めた。ジョンケイ(1704〜1764)は父の毛織物工場にいたが綿布を効率的に織る「フライングシャトル」 を発明し1733年特許をとった。この機械は紐を引くと木製ハンマーで横糸を巻いたシャトルが打ち出され、交互に開いた縦糸の間に横糸を通しながら反対まで飛んで行く事により、布を織る作業効率が飛躍的に上がり、且つ幅広の布も織る事が出来る。イギリスの気候には毛織物が合っていたが、羊毛の生産が減少していたので毛織物業者もこの方法で綿織物を作り、新興市民の目がねにも適い広まった。しかし原料の綿糸は紡出機で綿花から糸状にし撚糸機で繊維を寄り合わせて作るので、フライングシャトルで効率よく布を織ると原料が不足して成立しない。織物業者は特許料を払わず、ケイの方法が日の目を見るのは次の紡績機械や綿繰り機が出来てからである。
ランカシヤの織工ジェームズハ―グリーヴズは1760年頃綿糸の生産が遅れるので自分の仕事が出来ない事を知り、紡績機の改良に取り組んだ。1767年ジェニー紡績機(妻の名をつけた)が完成し、それは一つのはずみ車で8つのスピンドルを廻し8本の綿糸が作れた。この糸は細く縦糸には向かなかった。それでも紡工が失業の恐れから妨害を行ったので、ノッティンガムに逃れ一人で同時80本の糸を作れるジェニー紡績機を作った。他の紡績工場主はこの方法を真似て成果をあげたが特許料は払わず裁判で一生終わった。
1793年アメリカのホイットニー(1765〜1825)は、友人の綿花農場の綿花から人手で種を抜き出す綿繰作業が手間のかかる事を見て綿繰り機を考案した。之は綿花を大量に供給できる路を作ったもので、アメリカ南部が綿花の大量産地になる事を可能にした。この特許も料金が支払われなかった。
リチャードアークライト(1732〜1792)は床屋であり貴族のカツラを作っていたがあまり売れず、ハーグリーヴズのジェニー紡績機に閃きが走り、研究を重ね1769年紡出機と撚糸機を連動させた自動紡績機を作った。糸は強く縦糸にも使えた。初め水車を動力として自動生産機械工場を作った。人は機械の面倒を見なくてはならないが、この方式が働く苦しみから開放するものだと彼は考えた。このシステムに対して失業を恐れる紡工・織工更にその生産性を恐れる同業者などが妨害し、裁判で特許まで奪った。彼は挫けず働きぬき理想の実現を目指し次々に工場を作った。その製品は良質大量であり(ただし織機の機械化は未だである)認めざるを得なくなり、彼の工場の製品がイギリス綿織物と代表されるようになった。彼はナイトの位を受けて1792年60歳で亡くなった。
クロンプトン(1753〜1827)はジェニー紡績機とアークライトが改良した水車紡績機の長所を取りミュール紡績機を作り、アークライトの機械では強い糸ができるが太かったのをミュール紡績機では細くても強い糸となり品質向上し、インド産の綿織物に匹敵出来るようになったが、彼は特許を取らなかった。
糸の方は相次ぐ発明で安定し生産過剰となったが、織機の改良はジョンケイのフライングシャトルの段階に留まっていた。カートライト(1743〜1823)は牧師だったが機械の研究に励み、1785年アークライトの水力紡績機にヒントを得て動力織機を発明した。初めは馬で動かし次いで蒸気機関を1789年に使用、ジョンケイのフライングシャトルより約4倍早く織る事が出来、綿織物の生産は増大した。
ホイットニーの量産方式開発 綿繰り機を発明したホイットニーが近代文明になした大きな仕事は、製品の要素を互換性にして量産を可能にしたことである。
1790年後半に独立したアメリカは、イギリスの復讐又は革命後のフランスの圧力を恐れ、武器を必要としていた。アメリカ政府はホイットニーとマスケット銃一万丁納入の契約をした。五千ドルの前払いで一年目4000丁、二年目6000丁総額十三万四千ドルであった。アメリカ政府としてはこの当時これだけ大量の銃を作ってくれるのは有難かった。ホイットニーは銃を部品ごとに一定の少ない公差で同一に作れるように、工具の製造から始めた。出来た互換性のある部品を組み立てれば出来る予定であった。しかし工場の建設・専用工具の製造に時間がかかり、二年過ぎても五百丁しか納入出来なかった。しかしアメリカ陸軍は、彼の製造の考え方を高く評価し期限を延長したのみならず、全代金十三万四千ドルを先払いした。直ぐ後でアメリカがナポレオン戦争でイギリスと戦った1812年には二度目の注文で一万五千丁を契約した。この方法がその後今に続く大量生産方式として成立した。
大量の扱いはホイットニーの方法ほど基本的ではないが、この頃1794年革命後動乱のフランスは(いずれも戦争が引き金になる)軍隊の食料保存法を公募し、菓子職人アーベルが研究の末10年後食品を工場で壜詰にすることで成功した。原理が解明されたのは後の19世紀の末であり、ここでは経験を生かしたものであったが、壜はやがて缶に替わり今日も大量の保存食として成立している。
フランス軍の軍服を大量に作るため1829年ティモニエがミシンを発明している。
7-4 蒸気船,蒸気機関車
乗り物にワットの蒸気機関をつける試みは馬車に付けて蒸気自動車、船には外輪・スクリューの試みが1804年まであった。実用化は1807年フルトンがイギリスのワット商会のエンジンをのせ、外輪でハドソン川のニューヨークとオルバニーを32時間で結ぶ定期航路を始めた。外洋では1819年アメリカのサヴァンナ号がジョージアとリバプールの大西洋横断を40日かけて行ったが、90馬力の蒸気機関を使ったのは80時間だけで(あとは帆)、おまけに客はいなかった。外洋定期船は1822年イギリスの世界最初の鉄製船アーロンマービン号でロンドンパリ間を油と鉄を運んだ。しかし未だ主力は大型高速帆船であった。
陸上では1825年にイギリスのジョージスチ―ブンソンがストックトンとダーリントンの間45kmの市街鉄道を客車6両・貨車6両・勤労者用貨車14両を引いて蒸気機関車で走った。アメリカでは1828年ボルチモアとオハイオの間にレール馬車を走らす予定だったが、蒸気機関車による列車と馬車を競争させて、蒸気機関による列車の方が優れていたので、馬車を中止した。更に併行線として五大湖と運河による交通路建設が進められていたが、アレゲニ―台地を越える為工期と費用の点で運河が中止され、鉄道が決定した。イギリス・アメリカに続きフランス1832年・ベルギー1835年・カナダ1836年・ロシア1838年・オランダ,イタリ―1839年と鉄道はヨーロッパ中に広がった。
page.19.html U-2 8
章 産業革命が東洋を制圧 へ
index.html 目次 へ