第Ⅳ部 人類はどこへ行くか
(Ⅳ)1章 20世紀の世界
「Ⅱ部西ヨーロッパ諸国の発展と科学1~8章」に示した様に、ゲルマン民族を主とするヨーロッパ人の活動が世界を律している。科学と化石エネルギーとが結合した文明が持つ軍事力で世界を制圧している。世界の現在起きている騒乱の原因もヨーロッパ人が作ったものである。第1,2次大戦後も平和は定着していない。中東・アフリカ・アジアについて状況を略述してみよう。
中東はイギリス、フランスが1次大戦に勝利してドイツの同盟国だったトルコの中東地区を100%自国の利益の為居住民の都合を考慮せず線引きし、イラク・ヨルダン・シリア・レバノン・サウジアラビアを作り自国の勢力を保ったことが今日の騒乱の原因になっている。同時にイギリスが同じ地区にアラブ人とユダヤ人に国を形成することを約束し、第1次大戦でトルコ帝国に対抗したことが今日のパレスチナ騒乱を引き起こした。
アフガニスタンではイギリスがロシアと2次大戦後はイギリス・ロシアに代わり、アメリカがソ連と対立したことが今日の騒乱の原因となっている。
イランについてもイギリス・ロシアのせめぎあいから第2次大戦後原油を抑えるためアメリカが介入し、イラン国民の反発をかいホメイニのイスラム体制に賛同する学生は、アメリカの支持するパーレビー元国王の引渡しを要求してアメリカ大使館に乱入大使館員52人が人質として包囲封鎖され、解決には1979年3月より1981年1月までかかった。1980年に始まったイラン・イラク戦争では、イラクにアメリカが肩入れしイラン不利の体制で1988年終結した。
中東混乱の原因は米・英・仏・ソ連(ロシア)の行動にある。
アフリカの混乱も18~20世紀にわたりイギリス・ドイツ・ベルギー・ポルトガルに分割され植民地とされたことが遠因である。
アジアについても然りでヨーロッパを学習した日本の大東亜戦争には問題もあるが、ヨーロッパの植民地は無くなったものの後遺症があり東チモール・インドとパキスタン間・スリランカ等の紛争が絶えない。
ロシア・中国・インドの後2者はヨーロッパの産業革命を背景にした軍事経済力により植民地または半植民地化された。ロシアは1700年ごろより西ヨーロッパ文明を取り入れ改革を進め、第1次大戦最中1917年帝政が廃止され共産主義を基本とするソビエトが成立し工業国家を目指したが無理があり、第2次大戦後46年経って1991年崩壊しロシア共和国となった。三国とも今は欧米先進国の産業革命を背景とした繁栄を目指している。ただロシアは化石燃料が豊富で供給国であるが専制的性格はソビエト時代と変らず、中国は人口が多すぎるのと共産主義を基本とした国であることに変りはない上、理解しがたい不合理を強行する面がある。
以上三地区の内問題は中東で第一次大戦前後より大油田が発見され世界石油の6割以上が埋蔵されているため、中東の諸国は独立していると言っても事実上欧米に支配又は強い影響をうけている。その状況を以下に注記した。
イラン
1907年 英露協商により、両国のイランでの勢力範囲確定
1909年 立憲派がテヘランを制圧皇帝退位
1919年 クルド人シムコがソ連軍の助けを得て、ウルエミ湖一帯を支配
1925年 レザハーンがパーレビー朝を建国しシムコを追放
1935年 国名をイランるとする
1941年 第2次大戦中、レザハーンは中立を維持するため連合軍が領内を通過す
ることを拒否。その結果英・ソ連が侵攻。レザハーンは息子パーレビーに譲位して亡命
1946年 イランのマハバドでクルド人民共和国の独立宣言ありイラン政府は戦闘なしに制圧クルド語の出版教育を禁止した
1950年 イラクとの国境付近で2万のクルド人とイラン政府軍が衝突
1978年 脱イスラム、西洋化を進める王政に反対するデモが全国に拡大
1979年2月 亡命先のパリから帰国したホメイニ師がイスラム革命に着手し、パーレビー朝を倒しイスラム原理に基ずく体制を樹立
1979年3月 KDPI(イラン領内クルド)がサナンダジュでイラン政府を攻撃占拠しイラン政府は反撃
1979年11月 テヘランの米大使館員人質事件発生。イスラム系学生が大使館に乱入、パーレビー元国王の引渡しを要求し、大使館員52名を人質として占拠
1979~1989年 ソ連のアフガニスタン侵攻によりアフガンより300万の難民が流入
1980~1988年 イラン・イラク戦争
1984年 PUKI(イラン領のクルド)がイラク領へ入りイラクのPUK(イラク領内のクルド)の援助を受ける
1988年3月17日 PUKとイラン軍がイラクのハブジャを占領。翌日イラク軍は毒ガスで空爆約5000人が死亡
1989年6月 ホメイニ師死亡。ハメネイ大統領が最高指導者となる
1992年 アフガン難民帰還始まる
2002年 アメリカのアフガニスタン爆撃を恐れアフガン難民が流入
アフガニスタン
1839~41年 第一次イギリス・アフガニスタン戦争
1878~80年 第二次イギリス・アフガニスタン戦争
1893年
11月12日アフガニスタンと英領インドの間でデュランド協定が署名され、二国間を分ける境界線がひかれた
1919年 5月第三次イギリス・アフガニスタン戦争
8月18日アフガニスタン外交の独立が復活
1928年 国王アマーヌッーハーンが国民に対し男女両方の西洋ドレスコードを公表
1929年 1アマーヌッラー国王イタリアへ亡命。10月モハマドナディル・シャー王位宣言
1933年 ナディル・シャー暗殺、ザヒル・シャー即位
1964年 新憲法制定、女性参政権、教育の権利、就労の自由が認められる
1965年 初の普通選挙実施
1973年 ダウード率いる軍部がザヒル・シャー国王を追放し共和制二移行
1978年 4月28日ダウード大統領と家族が共産党のクーデターにより殺害
される
1979年 9月16日ハフィズ・アミンが新政権をたて大統領になる。12月27日ソ連のアフガニスタン侵攻が始まりアミン大統領は殺害された
1980年 1月14日国連総会でソ連のアフガニスタンからの撤退案が可決。2月22日ソ連に抗議するデモに参加したカブール住民がソ連軍の襲撃で殺された
1984年 ムジャヒディンによる反ソゲリラ戦激化
1986年 4月21日アメリカ合衆国はアフガニスタンのムジャヒディンに対空スティンガー・ミサイルを提供すると表明。 5月ナジブラ政権樹立
1988年 4 月12日米国、ソ連、パキスタンおよびアフガニスタンによるジュネーブ和平合意調印。アフガニスタンからのソ連撤退が決定
1989 年 2月ソ連軍の撤退完了
1992年
4月28日ムジャヒディンによる政権樹立。主導権争いによる内戦が始まる
1994年 11月12日タリバンがカンダハールを占領
1996年 9月26日タリバンがカブールを制圧。10月ムジャヒディン各派は北部同盟を結成
1998年 タリバンが8月マザリシャリフを制圧、9月バーミヤンを制圧
2001年 1月タリバンがヤカオランを制圧、3月バーミヤンの大仏を破壊。9月11日米国同時多発テロ。9月25日タリバンがカブールの米大使館を爆破。10月7日米英軍がアフガニスタンのタリバン統治域を大規模な空爆を始めた。11月15日反タリバン勢力北部同盟がカブールを制圧しタリバン政権崩壊。
12月5日アフガニスタン各派代表者会議においてボン合意達成。12月22日ボン合意に基いてカルザイを議長とする暫定政権発足
2002年 6月緊急ロヤジルガによりカルザイが暫定大統領となる。
2004年 1月憲法制定ロヤジルガにより新憲法採択。10月9日選挙によりカルザイ大統領誕生
2005年 9月18日国会下院、県議会選挙実施。12月19日国会開会
2007年 現在に至るまで新政権とバックアップする米英軍とヨーロッパ諸国の対テロ作戦は治安の安定に至らず、タリバンは復活勢力を増しビンラーデイン(タリバンと同盟する同時多発テロの指令元らしくその捕縛がアメリカの重要作戦だった)捕まらず2001年からの戦争の見通しはたっていない
イラク
19世紀以後 オスマントルコの衰退に伴うアラブ地域への列強(英・仏・露)諸国の進出
1899年 (クエートがイギリスの保護国になる)
1912年 イラク北部のモスル地方で石油発見
1914~1918年 第1次世界大戦 ドイツはベルリン~イスタンプール~バグダットの3B政策を狙いイギリスと対立
1915年 フセイン~マクマホン協定 イギリスのマクマホンはアラブのフセインと協定、アラブが大戦中イギリスに協力することと引き換えに大戦終了後アラブ国家樹立を約束
1916年 サイクス~ピコ協定 英・仏・露3国トルコ領分割のサイクス~ピコ協定を結ぶ
1917年 バルフォア宣言 バルイギリスはバルフォア 宣言でパレスチナにおけるユダヤ国家樹立を表明一連の秘密外交(上記フセイン・マクマホン協定とバルフォア宣言は両立 しない)でアラブ独立の期待が裏切られパレスチナ問題が発生した
1921年 イラク王国成立
1921年イギリスの委任統治領として成立、1932年独立上記のフセインの子ファイサルが国王となった
1952年 イラク革命により共和制に 反米路線をとりソ連と関係強化
1961年 クエート独立 クエートはイギリス保護国であり立憲君主国として独立したがイラクは自国領と主張
1968年 バース党によるクーデター バースとはアラビヤ語で復活を意味しアラブ独自の社会主義で資源の国有化と共和制国家を目指す
1975年 アルジェ協定 イラン~イラク国境の協定
1979年 イラン革命とサダムフセイン イランではホメイニの下イスラム原理主義で国家体制を樹立し、イラクではバース党のサダムフセインが大統領となる。サダムフセインは原理にはこだわらない俗性をとった
イランのアメリカ大使館人質事件 イランがテヘランアメリカ大使館員を人質にとる
1980年 イラン~イラク戦争 イラン革命の波及を警戒する米・アラブ諸国がイラクを援助。ただしアメリカはイランにも秘密裏に武器を援助。イラクは軍事大国化し、国内のクルド人に生物化学兵器を使用するに至る
1990年 イラクがクエートに侵入 対イラン戦で膨らんだ対外債務に苦しむイラクは増産による石油価格を引き起こしたクエートに侵攻した
1991年 湾岸戦争 アメリカを中心した多国籍軍がイラクに武力行使しクエートを占領より開放
1992年 国連によるイラク査察開始
1996年 イラク石油輸出再開 食料などの必需品購入目的に限り石油輸出を認めそれ以外禁止
2001年 アメリカで同時多発テロ アメリカはアフガニスタンのタリバン政権打倒のため武力行使
2002年 国連安保決議第1441号を採択 イラクに対し即時無条件の査察受け入れを要求
2003年 米英軍がイラクに対する武力攻撃 3月2日攻撃開始,4月8日バグダット陥落、12月14日フセイン元大統領が米軍に拘束さる
2004年 連合国暫定当局からイラク暫定政権に主権移譲 6月28日日本の自衛隊は多国籍軍として復興支援に継続参加
2006年 フセイン体制崩壊後初の本格政権が発足 5月20日新憲法に基きマリキ首相率いる任期4年の政権発足
フセイン元大統領の死刑確定 12月26日イスラム教シーア派住民148人を殺害した人道にたいする罪により12月30日死刑執行
以上中東は欧米露特に米英の国益に押しつぶされた歴史である。
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