第U部 歴史との照合

U-1 日本の諸氏興亡

(U-11章 天智天皇以前の史実

この世代の主役は大王、豪族であり大和の勢力を九州と関東以北に広める動きもある。AD550650の間に物部氏が勢力を失い蘇我氏が滅びているが、この間のいきさつは日本書記によるよりないが、内容が簡単で利害関係当事者である藤原氏と天武王朝により作られた史書に公平性にかける点があると留意しておく。

1-1 物部氏が蘇我氏に敗北

伝統的豪族物部氏は新興実力者蘇我氏が朝鮮半島と関係し、そこを通して伝来した仏教及び大陸文化の受け入れに協力するわけにいかなかった。これに大王(書記では天皇)の継承問題と絡み蘇我馬子と対立し585年先手を打たれ味方の穴穂部皇子を殺され、ついで馬子側は敏達天皇の妃炊屋姫(推古天皇)を先頭に厩戸王子その他多くの皇子豪族の連合軍を集め渋川(現在大阪府八尾市)で物部氏を滅亡させた。

1-2 物部氏が蘇我氏に敗れたことの評価

この争いは物部,蘇我の勢力争いであるが新しい文明を進んで検討することは自然の流れでありそれに逆らうことは、生命の衰えを示すもので物部の滅亡は必然のものであった。新しい文明のどれを受け入れ、どれを採用しないかは単純に排斥したり又は唯受け入れるよりはるかにエネルギーを必要とすることである。蘇我氏がそこまで考えたかは疑問で回答は次にでる。

1-3 蘇我氏の滅亡

蘇我馬子は物部氏を制圧し用明天皇がなくなると、欽明天皇の12番目の皇子で蘇我稲目の娘小姉君を母とし穴穂部皇子の弟である泊瀬部皇子を崇峻天皇とし、自らの娘,河上娘を妃に入れた。所が身内で思う様に動くと思った崇峻天皇が蘇我のやり方を好まず軍備を整え馬子に対抗する姿勢を見せたので、先手をうって配下の東漢直駒をやり592年暗殺した。しかも蘇我全盛期の敏達・用明及び崇峻天皇の次推古天皇は皆河内磯長谷の王家の谷に葬られているのに、崇峻天皇は殺された日に倉梯岡(くらはしおか)陵に葬られ王家の谷ではなかった。628年推古天皇の死後田村皇子と山背大兄皇子が後継候補だったが、後者は聖徳太子の子で声望たかく蘇我蝦夷はこれを嫌った。蝦夷は自分等に近い古人大兄皇子(舒明天皇と馬子の娘の子)を天皇にする前提として、山背大兄皇子をさけ田村皇子を天皇とする意見を通した。更に643年蘇我入鹿は巨勢徳太、倭馬飼等を遣はして山背大兄皇子を殺し聖徳太子の一族は共に滅ぼされた。この頃蝦夷・入鹿の権勢は大王(天皇)をしのぐものがあり色々問題を生じていた可能性がある。これを打ち砕いたのが中臣鎌子(鎌足)と中大兄皇子である。中臣氏は神祇を司る豪族で鎌子はその中でどんな位置に居たか分らないが、旻法師が教える国の学校に学び法師が入鹿・鎌子を推奨しているからその様な学校に学べるのはある程度の位はもっていたに違いない。

又物部と蘇我が仏教を入れることで対立したとき物部と行動を共にした同名別人の中臣鎌子がいるが、その人と異なり神祇を司る氏族でありながら新しい文明を学ぶ進取性があったと思はれる。彼は始め軽皇子に近づきその後変更して中大兄皇子に接近し改新の計画をねり、蘇我氏内の不平分子その他有力な貴族を味方に引き寄せ(この中に入鹿の命令で山背大兄皇子を殺した巨勢徳陀臣も入っている)、645年外国の使者が来たと偽って入鹿を呼び出し切り殺し蝦夷も自殺クーデターは成功した。

古人大兄皇子はバック入鹿を失い天皇になることを辞退、皇極天皇の異母弟軽皇子が孝徳天皇となった。

1-4 蘇我氏滅亡の評価

国又は地域の広がりの中で王朝が変わることなく続くというのは世界で少なく、英国がすこし日本に近いが完全な形で存在するのは日本だけである。特徴は権力より自然に生ずる求心的価値を有することで、国のまとまりの中心として長年月かけ安定した世界を作った。始めから在ったものではなく2世紀から崇神王朝・仁徳王朝・継体王朝の5 世紀頃にかけて、いくつかの豪族の争いと話し合いから次第に中心として大切にする傾向が生じた様で、大王と称し後天皇とされたが物部・蘇我の対立が生じた欽明天皇の頃は、ほぼ万世一系の特別な存在という方向に固定されて来ている様子が各豪族の長と大王(天皇)のやりとりから窺える。蘇我氏の行動はその状況の中で起きたのだから問題になる。中国の様に易姓革命が当然ならば蘇我氏が天皇,皇子を殺しても問われることはなく、人民にどちらが利を与えるか天によって問われると考える。

しかし日本(当時まだその言葉はなかった)では蘇我氏の行為は、当時数百年かけて作ってきた社会の基本まだその言葉はなかったが天皇制をゆるがすものであり、全体の利益を損ない社会不安を作りだしたとおもわれる。蘇我氏は物部氏を滅ぼしてから増長し歴史の流れを見誤ったのである。

同様な人物が蝦夷・入鹿(馬子はすでに死亡)の外織田信長・足利義満があり、前者は天皇を無視、より高い立場をもとめ後者は天皇たらんとした。蘇我・信長・義満の最後には差があり義満は病死で他二者は非業の死をとげている。義満が南朝を北朝への取り込みに働いた借りがあり、北朝天皇側の反発が少なかったのかもしれない。死後朝廷より太上法皇号を贈る申し入れがあったがさすが次期将軍義持は辞退している。それで天皇制の伝統は救われた。

若し馬子が崇峻天皇を殺さず入鹿が山背大兄皇子を殺す事なく、ただ天皇家に力を及ぼし続けるだけであったら蘇我の時代は更に百年以上続いたと思われる。

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