(U-12章 藤原氏の興亡

有力豪族の影響を絶った蘇我入鹿誅殺645年より持統天皇の死702年までは天皇が親政し家臣の介入をゆるさなかったが、持統の死後藤原氏は文武天皇の妃に藤原不比等の娘宮子が入り、以後次第に結合を強くし発言力を高め300年後衰退してゆく過程を見てみよう。この世代の主役は天皇家と貴族公家となり大和政権の勢力は関東以北より北上し東北一帯と北海道南部を制圧しほぼ現在の日本が形成された。

2-1        壬申の乱後不比等登場

吉野宮の誓約

679年天武天皇・鸕野皇后・天武皇子の四人(草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子)と天智皇子の二人(河嶋皇子・芝基皇子)は吉野宮で「千年後までも互いに事を起こさない」ことを誓い686年天武が死ぬ直前皇后と草壁皇子に後事を拓した。

大津皇子の死(686)

天武天皇の殯宮の儀がはじまった日河嶋皇子が大津の謀反を密告し、鸕野皇太后は草壁皇太子の前途を安全にするため機先を制して大津皇子を捕らえ死を賜い、妃山邊皇女は髪をみだし素足で走行き殉死した。その草壁も689年天皇になることなく薨じている。

藤原不比等(658720

父鎌足母よしこのいらつめ(与志古娘)だが、父は天智天皇と大鏡には記されている。壬申の乱後天智重臣鎌足の子なのに草壁・持統に信頼重用されているのをみると真実かもしれない。20才の時天智朝右大臣蘇我連の子女娼子と結婚し武智麻呂(南家)・房前(北家)を、又賀茂媛との間に宮子(文武天皇の妃で聖武天皇の母)が生まれた。どのような過程があったのか分らないが草壁皇太子の信任を得ていた様で皇太子がなくなる時愛用の刀を貰っているが、この時31歳翌年従五位下相当の法律職に任官以後持統の信任も厚く順調に出世していった。694年宇合(式家)が生れ、695年五百重娘(いおえのいらつめ)の間に麻呂(京家)が生まれた。更に700年頃天武・持統に仕え信任厚かった県犬養三千代(父は壬申の乱で功あり)を妻とした。三千代は美努王との間に葛城王(臣籍に入り橘諸兄)他二人の子があったがこの頃は離婚していたようだ。三千代は文武天皇の乳母をしており後宮内の情報に詳しく、不比等と天皇・持統太上天皇とのパイプ役として重大な役割を果たした。701年不比等等が中心となり大宝律令を作り翌年配布した。

この年文武天皇と不比等の娘宮子の間に首皇子が生まれ、同年不比等と三千代の間に安宿媛(あすかのいらつめ)が生まれ後に首皇子(聖武天皇)の皇后(光明皇后)となった。708年には正二位右大臣となった

 

文武天皇には他に石川刀子娘(蘇我系で不比等の娘より尊貴)の間に広成・広世皇子がいたが、石川刀子娘は不比等,三千代の謀略で嬪号を剥奪され二皇子も皇籍から除かれ首皇子が71415才で皇太子となった。元明天皇(文武の母で草壁皇子の妃であり天智の娘)は首皇太子をすぐ天皇にせず草壁皇子との間の娘文武天皇の姉永高皇女を元正天皇とした。皇親の系統が藤原氏により消えてゆくのを避けたものと思われる。715年安宿媛は首皇子の妃となり718年阿部内親王(孝謙・称徳)と基皇子をもうけた。不比等は72063才で死んだ。死後正一位太政大臣となったが天皇家の内に深く食い込み藤原の基礎を作り上げて行った。父鎌足は天智の重臣であったが中クラスの豪族で不比等は成り上がり者であった。先輩豪族の妬みと妨害があるのが当然だがあまり見られない。旧豪族や皇親系氏族が退潮の流れのなかで自然選択を受けたとも言える。

2-2 武智麻呂・房前・宇合・麻呂の協力で藤原の勢力拡大

長屋王の変(729

当時の背景として皇親政治の公地公民機構がくずれてきており区分田耕作者が疲弊してきた。政治面では天皇・皇親の専制を藤原氏の様な律令的官人が揺がし続ける状態にあった。新興の律令的官人の方が現実に対応する能力を持っていた。長屋王は現実には親王であるが(書記では藤原により王とされる)天智の娘御名部皇女と高市皇子の子であり、草壁皇太子と元明の子吉備内親王の夫で本人はもとより数人の息子(王)も皇位継承者であり、藤原一族からは煙たい存在であった。しかも左大臣としてトップに立ち嫉視が注がれていたに違いない。

弱点は皇親政界の血統はよいのだが、時代潮流の問題点をつかみ適切な対応をすることに向かなかった。適切な対応をすれば王親家・寺社による原野の勝手な占拠を止めさせるとか、過重な租庸調を改善し新しいやり方を探さねばならないが、従来の皇親政治とそれに関係する人々を整理することになり反対は目に見えている。実行力に欠けているのは育ちから当然で事件はそういった背景で起こった。

事件の前に聖武天皇は藤原安宿媛(光明子)との間に阿部内親王説と基皇子をもうけ,県犬養広刀自との間に井上内親王・不破内親王・安積親王をもうけた。

基皇子が旧不比等邸で生まれると藤原氏は強引に生後一ヶ月の皇子に立太子の礼をおこなった。しかし一年後夭折してしまった。安積皇子が生まれたのはその後一年の間であったから、藤原氏はせっかくの皇太子を失い危機感を持ってその時の皇位継承者を消し去る必要があった。先ず長屋一族次は安積皇子である。

729年皇太子基の死は長屋王の呪いによるものだという流言を流し、平静を失っている若い天皇聖武は藤原宇合に命じ六衛府の兵を以って長屋王の邸を囲み、翌日舎人皇子・新田部皇子・大納言多冶比真人池守・中納言藤原武智麻呂・小野朝臣牛養・巨勢朝臣宿奈麻呂らに罪を糾問され申しひらきも許されず、妃吉備内親王及び子の膳部王・桑田王・葛木王・鉤取王と共に自害し果て5人の皇位継承者が消えた。ただし不比等の孫に当たる安宿・黄文・山背等諸王は不問にされた。事件後藤原安宿媛(光明子)を皇后とする詔が発せられ、皇親以外から初めて皇后とされ

藤原氏は准皇親氏族化した。これで光明子に今後親皇が生まれなくても光明子を天皇にすれば問題はなくなった。蘇我系の皇親中にある血統を除き、その代り藤原が食い込む事が選択された。生物の自然選択と同じといえる。

塩焼王配流(742

塩焼王は鎌足の娘と天武の子新田部親王の長子で聖武と県犬養広刀自との子不破内親王の夫である。理由がよくわからないが伊豆三島に流され後許され復帰している。同時に妻の不破内親王は親王の名を削られ、目的は聖武の皇子でありながら立太子出来なかった弟安積親王に対する同情が、対立する阿部内親王の立太子を阻むものとして姉の位も削るよう狙われたらしい。この事件の直前737年天然痘の流行により藤原四家の長武智麻呂・宇合・房前・麻呂ことごとく亡くなり藤原の勢力は一時後退し葛城王が臣籍に入り橘諸兄として力を振るうことになった。

藤原広嗣の叛乱(740

藤原四家の長4人が死亡後政権は橘諸兄に移り四家の内式家宇合の子広嗣は大宰小貳として九州に追われ、一年半ほど管内豪族の動きや疲弊の深い農民の状態を観察しあらゆる機会を捕らえ官人を誘い豪族をあおり、災害のたびたび生ずるのは諸兄のブレーンである玄ム・真備の為でこれを除くべきと、聖武天皇に信書を提出し74093日挙兵した。聖武天皇は大野東人(壬申の乱で大伴吹負を破った近江側の大野果安の子)を大将にして一万七千の兵を動員し東人の適切な行動もあり二ヶ月で制圧し広嗣は捕えられた。

2-3南家仲麻呂の台頭と滅亡

安積親王暗殺(744

広嗣の乱後光明皇后(聖武夫人)の庇護下頭角を現してきた南家武智麻呂次男仲麻呂の後見する阿部皇太子(女性阿部内親王)と、橘諸兄の後見する安積親王に北家房前の三男八束(母が三千代の子牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持等もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていた。

744年正月11日聖武天皇は難波に行幸され造営中止になった恭仁宮に仲麻呂が留守官として残り、安積親王は脚の病で桜井頓宮(さくらいかりみや)より恭仁宮へ帰った。二日後安積親王は急死したが仲麻呂の暗殺という噂が難波の朝廷に広まった。しかしこの事件は仲麻呂を留守官から外すだけで終わった。支配層に騒動を避けたい心が在り、安積親王を担ぐグループに果断な行動をとる力が無かったから仲麻呂を処分出来ず、逆にこの後仲麻呂の思う方向へ事態は進んでゆく。度をはずした所業の悪儲けのように見えるが社会は公平に出来ており、仲麻呂はこれから大成功した後急転地獄に転落する。

阿部皇太子即位(748

藤原氏と一線を画して来た元正太上天皇(藤原の血は入ってない)が崩御し諸兄には都合悪くなり、悩める聖武天皇は太上天皇になって皇位を阿部皇太子に譲り、自らは大仏造営に専念する事にした。こうして748年未婚の女帝孝謙天皇が誕生した。聖武夫人の光明皇太后も仲麻呂を庇護する立場(阿部皇太子の母であり共に藤原一族)であり諸兄は大変劣勢になってしまった。

道祖王の廃太子と大炊王の立太子(757

7565月崩じた聖武太上天皇は遺詔して新田部親王の次男塩焼王の弟道祖王(ふなどおう)を皇太子に定めた。翌年諸兄が亡くなり仲麻呂は障害となる道祖王を除くことにとりかかった。その年三月孝謙天皇に詔を出させ、道祖王は聖武の喪中でありながら淫縦で孝謙の教導に従わなかったとして群臣に聖武の遺詔を示し、廃太子を諮問した。これは仲麻呂・孝謙天皇・光明皇太后三者で練られたもので、藤原豊成右大臣(仲麻呂の兄)他群臣も致仕方なく道祖王は皇太子の座を追われた。新皇太子について色々意見が出たが仲麻呂は天皇が決めることだと言い孝謙天皇は大炊王を指名した。この人は仲麻呂の娘の夫で仲麻呂の邸に住んでいた。仲麻呂・孝謙・光明皇太后のぬかりない行動で後の淳仁天皇が誕生する。

強引な行動に反対派の逆襲を予想し孝謙女帝が矢面に立って実行した。

社会の状況を見、徭役に改善を行い兵・防人・衛士・仕丁等の負担減ずるなど豪族農民の欲することをよく知っており宥和もとった。それで反対派の行動が広がらないとみて的中していた。現実に適した対応を取り世に受容され、橘諸兄の子奈良麻呂・藤原豊成等反対派は多かったが排除され落ち着いた。

橘奈良麻呂の変(757

大炊王立太子の前748年に光明皇后の皇后職が紫微中台と改称され仲麻呂は長官をかねた。光明の権力を中核として広く人材を集め大伴・佐伯・多冶比・石川・巨勢・阿部氏の他有力帰化人を加え太政官府を浮き上らせる形勢であった。道祖王廃太子・大炊王立太子をおこなった後757年内相を特別に作り、内外の兵事を一手に握り反対貴族の死命を制することになった。この状況の中でも奈良麻呂はクーデター計画を練っていた。主謀は奈良麻呂と大伴古麻呂で大伴家持が加わらず佐伯氏は乗り気がなかった。最後の顔合わせは大伴古麻呂・多冶比真人うしかい・多冶比真人禮麻・多冶比真人鷹主・大伴池主・大伴兄人・黄文王・安宿王・小野東人などで72日に決行ときめた。(1)大伴古麻呂は陸奥鎮守守として赴任の途中不破関に留まり関を閉鎖、(2)田村邸の仲麻呂を囲んで殺し、(3)大炊皇太子を廃する、(4)光明皇太后の居所を占拠駅鈴と天皇御璽を奪う、(5)右大臣藤原豊成に天下の号令を行わせ孝謙天皇を廃し四人の王から新天皇を選ぶ計画であった。

7月2日決行の日その通り行われないうちに孝謙天皇の謀反の噂に対し反省を促す詔があり、また光明皇太后が異例の訓戒を述べ王臣(安宿王・黄文王・山背王,奈良麻呂)に協力を求め大伴,佐伯氏の忠誠を要求した。同時に巨勢堺麻呂と山背王(黄文・安宿王の弟)の密告があり小野東人を捕えた。翌3日東人の取り調べがあり4日に全容が明らかになった。

黄文王・道祖王・大伴古麻呂・多冶比真人うしかい・小野東人・賀茂角足は杖で打ち殺され、奈良麻呂も殺されたと考えられる。仲麻呂の兄豊成の三男乙繩も関係しており日向員外像に下されたのみならず豊成も右大臣から大宰員外帥に降格された。

以上奈良麻呂の準備不足を突かれ謀反はあっけなく押しつぶされた。

この事件後天皇等は豪族農民に対する雑徭60日の半減を実施している。その他仲麻呂が豪族農民の要求を的確に捉え対応した為動乱は広がらず収まった。しかし仲麻呂の力が結果として強くなりすぎ藤原氏内から反発を生ずる結果に進展する。

恵美押勝の乱(764)

奈良麻呂の乱後758年孝謙天皇は位を大炊皇太子に譲り淳仁天皇が即位した。仲麻呂は右大臣更に太政大臣に上りつめ天皇(婿でもある)より恵美押勝の名を賜り、恵美家を天皇家と同格の准皇親化し藤原他家より頭一つ抜け出し、これが他家の反発をかった。更に760年6月押勝を庇護して来た光明皇太后が崩御、皇謙上皇とは淳仁天皇の件で溝が生じつつある所に孝謙上皇の僧道鏡寵愛問題が生じた。上皇は未婚のまま皇太子・天皇と経過された事を考えると起きて当然かもしれない。しかしここで孝謙上皇と恵美押勝は対立状態となり押勝は非常に不安定な立場になってしまった。体制を強化する為先朝より受次いできた蝦夷討伐を進める事が一つの方法だった。658年から811年にわたり行われたがこの頃は陸奥国桃生城,出羽国雄勝城の確立等を目指して、759年から8180人が動員され押勝の四男朝刈が鎮守府将軍として城を作っていた。区分田から逃れた浮浪人を移送し世の不安を抑える目的にも使用していた。同じ対外政策で新羅討伐計画を立てたが行われず、兵力を内乱に転用しようとして後日密告された。内政では相次ぐ重臣の死をうめるのに自分の子起用し長男真楯を中納言に、次男三男の訓儒麻呂と朝刈をも起用した。ほかに押勝派の皇親2名を中納言に元王の文室浄三を加え天皇家との一体化を進めた。

これが藤原一族の反発を招くであろうと危機を感じ、押勝は直ぐ兵力使うべきだと考え船王・池田王とも連絡を取り、新羅討伐の軍事計画を内乱に向けるこ   とにした。これはすべて孝謙上皇の知る所となり上皇は淳仁天皇所管の鈴印を押収した。女帝は諸氏族出身官人の握る常備軍を使えることになり、平城京の戦いで恵美押勝は破れ近江へ逃げ琵琶湖西岸高嶋郡三尾勝野で殺された。勢力を極めた奈良麻呂の叛乱計画からわずか18日のあっけない最後であった。この乱後孝謙上皇は淳仁天皇を捕らえ、天皇の位を奪い淡路島に流した。淳仁は仲麻呂の婿であり天皇家内の争いともとれる。孝謙は自ら稱徳天皇として重祚した。更に淳仁の兄弟池田王・船王はこの乱に関係していたので罪を得て流された。又仲麻呂が殺された2日後道鏡を大臣禅師にした他、10名を新政権の要人にした中に和気王がいるがこの際の功により50町の田を賜ったのに、翌年765年8月謀反を疑われ山背国で殺された。和気王も淳仁の甥である。この狙いは孝謙と対立する天武-持統-新田部につながる舎人親王の諸王を滅ぼしたもので皇室内の争いである。仲麻呂は強引に進め力をつけ突出しすぎて反対勢力を増し自滅したといえる。これで藤原が衰退したわけではなく仲麻呂の行為は天皇家内にますます食い込み政界で力をのばし、対立勢力が無力化すると藤原氏内での争いに移ってゆく。南家は祖麻呂が母の格式が低かったのであまり活躍することはなかった。藤原も不比等の孫仲麻呂の次世代までが最もバイタリティーに富み行動力があり、藤原以外の貴族も後世の様に武士に頼む(武士そのものがなかった)ことなく兵を率い蝦夷討伐を行っている。

2-4        式家広嗣,清成,百川,良継の協力

宇佐八幡神託事件(769)

769年5月大宰主神の中臣習宜阿曾麻呂(なかとみすげのあそまろ)が宇佐八幡神の教えと称し「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と神託をもたらした。この問題と併行して不破内親王の所で県犬養姉女・忍坂女王・石田女王が志計志麻呂(塩焼王の子)を皇位につけようと、天皇に呪いを三度にわたって行ったと密告があった。不破内親王は京外に追放され、子の氷上志計志麻呂は土佐に流された。後内親王は許されたが子の氷上志計志麻呂は許されず皇位継承権を失っている。道鏡を皇位につけるため競争相手を減らすためと考えられている

道鏡を天皇にすれば良いなどと神託があるわけはなく称徳側の誰かが手を回したに違いないが、称徳女帝は夢の中で八幡神使に会い神託を受けるため和気広虫を遣わす事を求められたと言いだした。 広虫はかたく断ったので弟の清麻呂が宇佐に赴き、道鏡を皇位につけるなとの神託をもたらした。称徳天皇は広虫・清麻呂を激しく責めている。始めの習宣阿曾麻呂の神託も称徳の意向であったろうし、清麻呂に対しても天皇の意に沿う神託をせよと暗示したのだが、藤原百川等がバックになって清麻呂が表で動き称徳・道鏡の目的は成立しなかった。

770年8月称徳女帝は53歳で世を去り道鏡は下野薬師寺別当として都を追われた。

次の天皇を誰にするかで、右大臣吉備真備は天武の孫文室浄三真人又は文室大市真人を押したが、藤原百川(式家)藤原永手(北家)藤原良継(式家)は称徳の宣命を偽作して、天智の孫にあたる白壁王(当時63歳)を強く推し770年光仁天皇となり井上内親王を皇后に、他戸親王が皇太子になった。藤原の策謀は続き、772年皇后が天皇を殺す為呪いをかけたとして井上皇后は皇后を追われ、他戸親王も皇太子を廃され二人とも775年殺された。皇太子には半島出身の祖を持つ高野新笠と光仁天皇の子山部親王(37歳)があてられ、781年桓武天皇となる。一連の事件は藤原式家の手によって動かされ井上内親王・他戸親王も式家の手で毒殺されたと言われている。山部親王が皇太子となって数年の間に式家の良継・百川・清成三人の娘が桓武天皇(山部親王)の妃になっている。一連の事件にもう一つ付け加わった謀反と称する事件が生じた。781年桓武天皇即位の時、先に称徳天皇呪い殺し事件に絡んで土佐に流された氷上志計志麻呂の弟氷上川継はその当時幼少なため許され従五位下になっていたが、今となって山部親王にとって目障りな存在に成り始め、謀反の疑いをかけられ伊豆三島に流された。この事件では京家の浜成、北家の魚名も罪を得、京家は以後姿をけす。

藤原内部の争いも生じ始めている。700年頃不比等が大宝律令制定の中心だった頃から781年桓武即位までが藤原内部が結束し、バイタリティを発揮し他氏族を排除し天皇家に食い込み准皇親化した。以後966〜1027年の道長で全盛の形をとるが内実は700年代までがダイナミックであり、以後氏族内の抗争に終始し天皇家の内部の争いと絡んで進行する。

藤原種継暗殺(785)

種継は式家宇合の孫清成の子で、平城京より遷都すべき長岡京建造の責任者の一人であるが、785年9月長岡京で射殺された。すでに死亡した大伴家持が大伴・佐伯両氏と種継暗殺計画を立て皇太子早良親王(桓武の弟)の了解を得ていたと噂があり、しかも早良皇太子は天皇が平城京に行幸中の留守官であった責任もあり食事も取らず自ら死を選んだ。元来桓武天皇が即位する時前光仁天皇は桓武の弟早良親王を皇太子に指定した。しかしその後桓武と式家種継の娘の間に安殿親王が生まれその子を皇太子にしたいと桓武は思ったであろう。その桓武を取り巻く力は式家なので早良親王は式家トップの種継を除く計画を大伴と組んだと考えられる。しかし結果は桓武・式家の有利に落ち着いた。

薬子の変(810)

安殿親王は平城天皇になり4年後809年皇太弟神野親王に皇位をゆずった。理由は病気であったが神野皇太弟は断りきれず嵯峨天皇となった。平城太上天皇は治療で数ヶ所を転々としていたが体調を回復し4年ばかりの在位に未練が生じ、嵯峨天皇の治世に色々口出しするようになった。又上皇の後宮に入った種継の娘薬子も上皇の威光をもとに政令に関与した。特に旧都平城京に遷都しようとする上皇と桓武の作った新平安京を保とうとする嵯峨天皇との軋轢が大きかった。810年平城太上天皇は命を下し平城に都を遷すべく平安京にいた坂上田村麻呂や藤原冬嗣・紀田上を造営使としようとした。

嵯峨天皇は行動を起こし伊勢・近江・美濃の三関と国府を固め薬子の兄仲成を捕らえた。上皇は急に事態が変わったので川口道より東北へ入ろうとしたが阻まれ剃髪し薬子は毒を飲み死した。この事件の前807年に平城天皇の異母弟伊予親王が皇位を狙っているとして親王および母藤原吉子(南家)は自殺、兄の大納言藤原雄友(南家)は伊豆に流され雄友とともに南家の乙叡(たかとし)は中納言を解任南家はここで更に勢力を失ってゆく。式家も薬子・仲成の成敗で後退し残った北家が上昇してゆく。

2-5 北家の台頭と藤原氏の全盛と衰退

承和の変(じょうわ)(842)

わかり難い事件で恒貞親王は仁明天皇の皇太子で父淳和上皇は840年になくなっていたが、842年謀反の疑いをかけられ皇太子を廃された。新皇太子には仁明天皇と藤原冬嗣(北家)の娘順子の間に生まれた道康親王がなった。順子は北家良房の妹でもあり道康は文徳天皇となり良房の娘明子を女御とし清和天皇を生む。この変で藤原愛発大納言は解任され良房が代わり、翌年政権主席の式家百川の子緒嗣が亡くなると良房は政権三番目となり、847年橘氏公死亡、854年源常が亡くなると台閣の首座となり天皇の外戚でもあり地位は磐石となった。

磐石とは言っても京都の天皇政権内のことにすぎず、奥陸は蝦夷を制圧し終えていたが国内各地の地元勢力は不平の中から武士勢力として育ちつつあり、それまで支配出来たわけではなく、逆に次の時代にはとって変わられることになる。

応天門の変(866)

866年3月10日夜応天門が燃えた。大納言伴善男が犯人は最高権力者源信であると言い出したが調べの結果無関係と分り、逆に伴善男と子の伴中庸(なかつね)が犯人とゆう事になった。二人は認めなかったが遠流となり伴即ち大伴氏が失脚し、この処置で藤原良房が摂政になった。この話もよく分らない話ですべて良房の差し金との説もある。

菅原道真の左遷 (901)

道真は土師氏に由来する代々家系菅原家に生まれ18歳で文章生となり、その20人中2人の文章得業生に入り秀才の名をあげ民部省の官人として実務を積み文章博士となり、式部少輔に任ぜられ886年には讃岐守として国司となった。888年阿衡の紛議が中央政界で生じた時、当事者藤原基経に書を呈し紛議が学問的にも無意味であることを訴え、基経も了解し収まった。この事件は宇多天皇が皇位についてから基経に関白になるよう詔を下した。基経は辞退の表を儀礼的に奉り宇多天皇は上表却下を告げその文中に「阿衡の任を以って為せ」とあったのがもめた。阿衡の任とは中国の古典に出ており、基経のとりまき学者が位は高いが職掌はないとの説を基経に吹き込んだので揉めたのである。宇多天皇がほとほと困った所にその論争は意味のないことを説明、基経が納得したので天皇は高く評価し重用した。893年参議・895年中納言・897年藤原時平と並ぶ大納言となり、宇多天皇が子の醍醐天皇へ譲位する時言い残したことによって899年時平が左大臣・道真が右大臣となった。

しかし二年後太宰権師に左遷翌々年配所で亡くなった。道真の左遷は藤原時平の策謀もあったろうが、最も大きかったのは周囲の妬みである。宇多天皇在位中は表立って攻撃する人は少なかったが、右大臣になった翌年三善清行は辞職勧告を行っている。又道真右大臣の内示があった後高官等がストライキを行ったりしている。左遷の決まった後宇多上皇は天皇に会ってとりなそうとしたが時平が兵を固め会見を阻んだ。

基経の関白職は天皇幼少の時摂政を置き補佐するが成年に達した所で摂政が不要になり関白に任じた。既に藤原氏は866年応天門の変の時良房が摂政となっていたが以後北家のリーダーが摂政関白となる例となった。

965〜1027年の道長で繁栄を極めたとされているが、北家内・藤原内・京都内での権力争いにすぎずエネルギーに欠け地方の動乱を収めるには武士の力を借りざるを得なくなっている。更に道長の子頼通に娘がなく天皇・皇太子の妃とする事が出来ず、藤原氏と関係の少ない後三条天皇が1068年即位し、天皇は藤原の勢力を除去する事に全力を傾けられた。次の白河天皇は幼少の堀川天皇に位を譲り自ら上皇(院)として院政を行い、実権を握った。その後も鳥羽上皇,後白河上皇と院政が100年余り続き天皇は無力となり藤原摂関の意味が消滅した。しかし藤原氏に之に立ち向かうエネルギーが無くなっており藤原時代は終わりを迎えた。

藤原氏が主体性を持っていたのは不比等の700年頃(不比等42歳)から百川等が力を発揮した800年(桓武)までであろう。藤原の時代は1074年の頼通の死まで300年以上あるが輝いていたのは100年ばかりであとは残光にすぎない。これは東北への軍事面でも示され以下蝦夷討伐の対処に触れる。

2-6 文武(694)〜弘仁(811)の蝦夷征討

白鳳天平の大和政権は奥州へ領域を広げ続けた。蝦夷とアイヌの関係を明らかにするまではできないが、彼等は国としての組織化の方向はなく部族連合で結束は弱く劣勢にならざるを得なかったが、激しい攻防が100年にわたり制圧され、その後各地に配流されたり、叛乱があったりして880年頃収束した。大和の豪族,貴族は藤原一族を含めて後世の公家と異なり軍事の先頭に立って働いている。この100年を過ぎるとエネルギーは京を中心とする政争に注がれ京の貴族は武士の力を借りなければ紛争の解決は出来なくなる。以下700〜800年の奈良貴族の活動を示した。

 

720年 多冶比県守  持節征夷将軍  多賀の鎮所を強化

724年 藤原宇合   持節大将軍   

724年 小野牛養   鎮狄将軍

724年 大野東人   鎮守将軍    多賀城設営

737年 藤原麻呂   持節大使    奥羽山脈打通作戦を大野東人と

                    共に行う

762年 藤原朝獲   鎮守将軍    多賀城を改修雄勝・桃生城を作る。

767年 大伴益立           伊治城を作る

774〜

780年 大伴駿河麻呂         桃生城・伊治城・多賀城を焼かれた

                    が登米郡・山海二道・出羽・雄勝,

                    羽の賊を平定

780年 藤原継縄   征夷大使    成果なく天皇の怒りをかう

780年 安部家麻呂  出羽国鎮狄将軍 出羽の伊治呰の乱を平定

780年 藤原小黒麻呂 持節征東大使   成果少なく天皇の怒りをかう

788年 紀古佐美   征東大将軍   阿弖流為に大敗天皇の怒りをかう

791年 大伴弟麻呂  征夷大使    阿弖流為に善戦

994〜

804年 坂上田村麻呂 征夷大将軍   胆沢城,志波城を作り蝦夷軍を破

                    り阿弖流為を捕らえた。

811年 文室綿麻呂  征夷将軍    陸奥三郡(和我・稗縫・斯波)を

                    設置し、志波城移転

 

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