《梶原景時公顕彰会》 研修旅行記
                               顕彰会については、ロマン伝説 史蹟の
                               ページをお開き下さい。
       No 2
                        景時公ゆかりの地を訪ねる 
 
                紀行 6
                            【景時公を偲ぶ甲斐路の旅】

  インターネットで(梶原景時)を検索すると無数のHPが列挙され、景時公が鎌倉時代において、いかに重要な武将であったかを窺い知ることができる。加えてその相当数に頼朝の名が連なり、いつも影のように頼朝に寄り添う景時の姿も垣間見ることができる。

  今年の研修は、紅葉に染まる甲斐路を訪ね、在りし日の景時公を偲ぶ旅である。

《金指盛澄と梶原塚》
  平成13年11月27日、会員43名を乗せたバスが恵那山トンネルを抜けると、時雨模様の空が一転快晴となる。

  最初に訪ねる地は、鎌倉時代、諏訪武士の頭領で諏訪明神(諏訪大社)下社の祠官でもあった金指盛澄が、命の恩人である景時の死を聞くと、供養のため宝剣を埋めて建てたという(梶原塚)である。


  下諏訪町のHPを開くと、歴史上の人物6人の最初に盛澄の名があり、すべてが紹介されている。
  諏訪神社最古の(諏訪大明神絵詞)によれば、盛澄は木曾義仲を婿にとり女子一人出生すとあり、義仲の義父に当たる。

  元暦元年(1184)1月20日、義仲討ち死に後、盛澄は鎌倉へ召還されたが、京都の城南寺の流鏑馬に参加していたため遅参し、頼朝の怒りを買った。処刑を命じられた景時は、この比類なき弓馬の達人を失うのは惜しいと思案の末、盛澄の見事な流鏑馬を頼朝に台覧させたところ、
  「さすが神に仕える者、神のご加護があってこそ」
と許され、盛澄は諏訪に帰ることができたという。 毎年8月1日のお舟祭りには、(金指盛澄、時代行列)が繰り出して人気を博していると聞く。


  一行は、先ず下社に参拝し、徒歩で(梶原塚)へ向かう。途中道が分からず、行きずりの方にわざわざ現地まで案内をして頂いた。

  梶原塚は、過去数回様々な事情で移転されたが、現在は菅野町会館の敷地内にひっそりと立っていた。(上座堂 梶原塚)と刻字されたこの(報恩碑)は、極めて小さいが、訪ねた一行にとっ
ては大きな存在感があった。

《梶原景時像と今諏訪神社》
  諏訪市沖田町の(おぎのや)で釜飯の昼食後、バスは再び中央道に入り信濃路から甲斐路へと渋滞なく走る。一宮御坂ICを出て国道137号を南下、建立まもない(梶原景時公像)のある河口湖畔、大池公園へと急ぐ。

  (梶原景時・知られざる鎌倉本體の武士)の著書で知られる甲府市在住の弁護士、梶原等先生始め、関係者のご努力で、平成13年11月3日、入魂、除幕された景時公の像は、波静かな河口湖に向かって威風堂々と座していた。
  その傍らには、今日一日講師をお願いした梶原先生のにこやかなお顔があった。

  時に梶原景時を語るとき、平家から寝返ったり、義経をざん訴(事実を曲げた陰口等)したりと評判は必ずしもよくない。その真偽については、景時公像の台座の銘文に(物語上の事実であり、歴史上の事実ではない)と刻まれており、これこそ梶原先生が著述された(景時没後800年の今、正しく評価されるべき)といわれる重要な部分の一つであろうと思う。

  一行は梶原先生に案内されて、先生の出生地、河口湖町船津を訪れた。今諏訪神社は同地区5番地にある筒口神社の南隣にあった。神社の建物には梶原家の家紋(丸に並び矢)が付されている。また、氏子は代々梶原姓を名乗っており、氏神様は景時公か、梶原一族の祖先では……。
  一行の興味は尽きない。

  梶原先生は幼少の頃、ここを梶原神社と思いこまれたことや、例祭日には隣のお籠屋でご馳走にありつけたことなど、当時を述懐されていた。

《井出家本家の四脚門と屏風》
  今諏訪神社から歩いて数分、船津8番地に井出與五右衛門氏経営の酒造所がある。この入り口に文化年間(1818)に建築された観音開きで閂付きの扉に化粧金具を配した四脚門が殆ど無傷で残っている。

  また通された奥座敷には、NHKの歴史番組にも紹介された一対の屏風が相対し、曽我兄弟の仇討ちや頼朝の様々な場面が描かれている。絵の中には景時公らしき武将もあり、楽しいひと時であった。

  梶原先生は、その輪の中で、
  「曽我兄弟の仇討ちの真意は、鎌倉幕府転覆狙いかも…」
  と話された。いわゆるクーデターである。 時あたかも鎌倉幕府が頂点を極める頃で考えにくいことではあるが、当時の状況や経緯から推して興味深い話しである。

《鐘山温泉 ホテル鐘山苑》
  今日の宿は河口湖に近い超人気ホテル、鐘山苑である。
  少々書き辛いが、同ホテルの川柳コンテストの一句、〔また来たい今度は夫じゃない人と〕、に集約されるように、確かにまた来たいホテルである。到着後、庭の茶室でお抹茶を頂き、広大な庭園に点在する東屋の一軒で甘酒を味わい、大浴場(赤富士)では夕暮れ富士の景観を満喫。特に夕食後の社員8人による(霊峰太鼓)は圧巻で、遠く近く強弱を繰り返す太鼓の壮大なドラマは、ロビーを埋めた宿泊客の魂を揺すり魅了した。
  また鐘山苑のオーナー桑原さんが、梶原先生と同窓で、先の甘酒茶において30数年ぶりの再会ドラマに立ち会ったり、印象的な旅の一夜となった。

《忍野八海 清見寺》

     ☆ 赤富士やひとひらの雲欲しきかな  幸耕

  翌日早朝は、寝ながらにして雲一つない赤富士を堪能して出発。
  先ず富士の胎内から湧き出る八つの泉で有名な忍野八海を探索する。淡いブルーとエメラルドグリーンの透き通る美しい泉は、研修疲れの見える一行を和ませてくれる。

  次の寄港地、由比町では、料理茶屋(玉鉾)で海老ずくしの昼食を頂き、近くの東海道広重美術館を鑑賞。最後の寄港地、清見寺に向かう。

〔清見がた波ものどかに晴るゝ日は関より近し三保の松原〕 と兼好法師が詠ったように清見寺の前身、清見関からは三保の松原が望見できたという。

  ここに景時公最後の足跡がある。正治2年(1200)正月20日、景時とその一族は、地元の武士団に襲われて滅亡した地とされている。
  清見関の残材で張られたという清見寺の本堂西側の一部天井に染みている血痕は景時のものと伝えられ、梶原一族の壮絶な最期を物語っているようだ。

                         写真をクリック!


梶原塚


梶原景時公像


清見寺にて

  さて、例年の如く今回も密度の濃い研修旅行となった。
  そして行く先々の方々に大変お世話になった。梶原塚まで案内して頂いた地元の方、ご多忙にも拘わらず一日ご指導頂いた梶原等先生、井出家本家のご家族の方、犬山の瑞泉寺で修業されたこともあるといわれる清見寺のご住職、大きなドラエモンの前掛けをして孤軍奮闘された犬山ツーリストの小川社長さん。皆様有難うございました。


                            [機関誌(かじわら)掲載 平成14年5月12日号]



               紀行 7
                          【伊豆・戸田温泉と歴史ロマンの街探訪】

  東名を走ると、富士山が最初に姿を見せるのは浜名湖の北東端を跨ぐ紅い浜名湖橋を渡る前後である。今日の富士山は雲上でシャッポを脱ぎ、にこやかに景時公顕彰会一行30名を迎えてくれた。こんな富士もまた一興である。

  11月17日好天に恵まれた研修旅行は、途中渋滞もなく沼津ICを下りて昼食場所の
(みなと寿司)へ予定時刻到着。


《蛭ケ小島及び歴史民族資料館》
  昼食後最初の研修地、韮山町の(蛭ケ小島)に向かう。韮山町には、頼朝、政子、時政等の織りなす人間模様を始め、伊勢新九郎をめぐる堀越御所と韮山城など、数多くの史蹟があり、正に日本歴史の奔流に沿う町である。

  昭和33年の狩野川台風で知られる狩野川は、古代乱流によって幾つもの中州ができ、大蛭、小蛭、和田島などと呼ばれていた。(韮山町HP)
  永暦元年(1160)平家に捕らえられた頼朝が、清盛の継母、池禅尼の命乞いによって助けられ、14歳で配流されたのがこの島の一つ蛭ケ小島である。

  以後頼朝は34歳まで韮山を中心に比較的自由な生活を送ることになる。箱根や伊豆山での信仰生活や平家に属する伊藤裕親の娘、八重姫との初恋、出産、姫の身投げなど、多感な青春時代を過ごした韮山の生活にこそ、後に富士川や壇ノ浦の合戦を経て、鎌倉幕府を開く原点があるように思われる。
  手入れの行き届いた美しい公園の中にある(頼朝配流の地)の石碑は、寛政2年(1790)江戸家の家臣、飯田忠晶によって建立されたもので、町指定の文化財となっている。

  蛭ケ小島と隣接する地に県指定の文化財、歴史民族資料館がある。この茅葺きの建物は近くにあった上野家が住居としていたものを町が譲り受け、蛭ケ小島に移築したもので、屋内に展示されている民具などから18世紀中頃の古民家(農家)と思われる。
  頼朝もこのような家で未来に向け満を持していたのであろうか。この地における頼朝の20年に及ぶ生活の一端を偲ぶことができる。


《天守君山 願成就院並びに政子産湯の井戸》
  大型サロンバスは、再び伊豆箱根鉄道を横切り、一方通行や細い道を巧みに縫って願成就院に向かう。

  守山を背にした韮山町寺家に位置する同寺院は、高野山真言宗に属し、鎌倉幕府の事蹟を伝える(吾妻鏡)によれば、文治5年(1189)頼朝公の夫人、尼将軍北条政子の父、時政が、頼朝の奥州藤原氏討伐の先勝を祈願して建立したとある。
  本堂には、毘沙門天像などの重要文化財や、重要美術品とされる政子地蔵菩薩像が安置されている。


  保元2年(1156)この地で生まれた北条政子は、配流中の頼朝と結ばれ、鎌倉幕府の草創期から体勢が固まるまで、その果たした役割は大きい。将軍のお台場として華やかな生涯を送った反面、幕府浮沈のためには我が子を犠牲にしたり、正に歴史の中のヒロインと云えよう。

  願成就院から北へ10分ほど歩くと、山麓にある民家の入り口に政子産湯の井戸がある。雑草越しに覗くと石の井戸枠があり水を湛えていた。妊婦のいる家では、この井戸水を汲み安産を祈る風習が最近まであったという。


《 戸田温泉 》
 
午後3時半、予定時刻に願成就院出発。修善寺道路、戸田峠を経て5時過ぎ戸田温泉到着、(ときわや)に旅装を解く。高足ガニと夕暮れの茜富士で知られる戸田温泉は、伊豆では比較的新しく、本格的に湯が湧き出たのは昭和61年という。
  豪華な夕食と広い部屋でのくつろぎは、充分満足のいくものであった。

《修善寺温泉・修禅寺及び日枝神社》 
  翌18日、(ときわや)午前8時半出発。昨日の往路を修善寺温泉まで戻る。伊豆最古の温泉といわれるこの修善寺には、弘法大師の開湯と伝わる(独鈷の湯)を始め、頼家や範頼の墓など源氏ゆかりの史蹟が多くあり、所用時間に応じて探訪コースが幾つも用意されている。

  たまたま居合わせた数人で、温泉場の南山に眠る13士の墓を訪ねた。頼家が殺害された6日後に家臣が再起を期して謀反を企てたが、挙兵前に発見され殺されたその無念の家臣達が祀ってあるという。つづら折りの山道を息を切らして登った南山の山腹に、13の墓石が苔むして建っていた。


  温泉場の中心にある修禅寺は、平安初期の大同2年(807)に弘法大師が開基したもので、当時はその地名から桂谷山寺といわれ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほど格式の高い寺だったという。


  その後、康安元年(1361)畠山国清と足利基氏の戦禍を受けたり、応永9年(1402)には火災で伽藍を消失したり、寺は荒廃し衰退した。
  延徳元年(1489)韮山城主の北上早雲が再興し、叔父の隆渓繁紹(遠州石雲院)が住して曹洞宗に改宗され、現在に至っていると聞く。
 

  修禅寺の東に隣接する日枝神社は、古くは修禅寺の鎮守様であったという。祭神は(大山咋命)である。

  ここに景時公の確かな足跡がある。
  源範頼は、兄頼朝の誤解によりここに幽閉され、建久5年(1194)景時の率いる500騎の不意打ちに遭い、防戦の末自害した。範頼が幽閉されたという信功院跡に庚申塔のみが現存している。


                           写真をクリック!


日枝神社にて


光源寺にて

《廣徳山 光源寺》
  2時間余りを温泉と歴史ロマンの街、修善寺町で遊び、今回最後の研修地、静岡市清水の光源寺に向かう。途中清水の(いおほら)で昼食。都合で先に清水港で買い物を済ませ、到着した光源寺の山門では、清水梶原会の会長でもあるお馴染みの守永了俊ご住職にお迎えを頂いた。

  境内に景時公の碑があり、(不盡乾坤燈外燈龍没)と刻まれている。龍のような武将が悠久な大自然に供養されてここに眠ると解釈される。
  守永ご住職は、この九文字に思いをふくらますことは生きがいの一つと話される。


  また本堂では、檀家の葬儀を済まされた直後でお疲れにも拘わらず、終始柔和な笑顔とやさしい語りで研修疲れのみえる一行を癒して頂いた。改めて厚くお礼を申し上げる。

  なお、この旅行に際し、お世話頂いた犬山ツーリストの小川社長様、名鉄西武観光バスの運転手さん、ガイドさんにも感謝の意をお伝えし、結びとする。


                            
 [機関誌(かじわら)掲載 平成16年5月9日号]


              紀行 8

                             【景時公施餓鬼会に参加する旅】

  平成17年7月14日(水)、41名の景時公顕彰会員を乗せたバスは、渋滞もなく東名高速を進む。昼食のため一旦御殿場インターで降り、「カメヤ」に入る。
  昼食後再び高速に乗り、厚木インターで降りて寒川町にある寒川神社に向かう。

《相模国一之宮 寒川神社》 
  御祭神は「寒川比古命.寒川比女命」の二柱で、寒川大明神と奉称し、関東地方の文化の生みの親として、また八方除けの守護神として一切の災禍を取り除き、福徳開運をもたらす神様として、広くあまねく信仰されていると聞く。
  神社参集殿前には、寒川町梶原公顕彰会の高橋会長さんを始め、役員の方々が待機しておられ恐縮する。

  役員さんの案内で大鳥居をくぐり、太鼓橋を渡ると、一万五千坪の広大な境内の奥に、平成九年十月完成という拝殿や御社殿が、老杉や古松の間に神々しく鎮座していた。

  本日は正式参拝ということで、白衣に袖を通し神妙に本殿前に座する。巫女さんの優雅な(剣の舞)は、いつまでも心に残る印象深いものであった。
  再び参集殿に戻り、摂待を受けながら懇談をする。寒川神社では、結婚式場から百床に及ぶ病院、老人介護施設、子供のための教室など多角経営がなされているという。

《梶原七家臣の塚》
 寒川神社の南、鎌倉街道の要点であったという「一の宮」には梶原屋敷跡がある。この近くに梶原七家臣を弔った五輪の塔が建っている。

 清水で討ち死にした景時一行を、一の宮の留守居役であった家臣や家族が弔ったという説、景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを機に、復権を願い出たが許されず、その場で自害した。その七家臣を祀ったものという説など、複数に亘る伝説は想像が広がって楽しいものだ。
 塔の後ろには、当時の内堀の名残とされる水路が残っている。

《由比ヶ浜と旅館「わかみや」》
 (我ひとり鎌倉山を越え行けば星月夜こそうれしかりけれ)と、堀川院百首和歌に詠まれた古都鎌倉。今夜の宿は由比ヶ浜に近い潮騒のほどよく届く国家公務員保養所「わかみや」である。

 夕宴に先立ち、梶原拓名誉会長の名代として、岐阜県庁秘書課、都竹淳也主査さんが、所用を済ませて駆けつけてくださり、開口一番ユーモアたっぷりのご挨拶をいただき、和やかなうちに懇親が深まる。

 27室、収容人員81名の小規模ながら当地の旬の素材をいかしたミニ会席は味わい深かった。大浴場が意外に小さかったことを除けば、一行にとって心に残る旅の一夜となった。

《建長寺 .梶原施餓鬼会》
翌15日、旅のメイン梶原施餓鬼会に参観のため、7時20分建長寺に向けて出発する。
  臨済宗建長寺派の大本山である建長寺は、建長5年(1253)北条時頼に請われた大覚禅師(簡渓道隆)を開山として創建された日本最初の専門道場と聞く。

 ♪建長円覚古寺の、三門高き松風に♪…と、文部省唱歌「鎌倉」の一節にもあるように円覚寺と共に鎌倉を代表する名刹といわれている。
 一行は午前八時前に総檜づくりの三門に到着する。いつもは11月に実施するこの研修旅行が、今年だけこの時期になったのは、建長6年(1254)以来連綿と続く梶原施餓鬼会を拝観するためである。

 弁護士で作家の梶原等先生は、著書「梶原景時」の中で、その模様を次のように語られている。
 「午前8時、梵鐘の音が開始の合図であります。三門に集まった衆僧32人は、厳粛に読経を始めます。  先ず三界のすべての霊が彼岸に至るようにと唱えます。これは有縁、無縁の精霊を供養するための施餓鬼会であります。これに続いて、歌をうたっているのではないかと錯覚するほど、リズミカルなお経が朗詠されます。この時点からいよいよ梶原一族の精霊に捧げる(梵語心経)といわれるお経が始まります。   これを聞いていますと、何故かしら心が洗われるような気がいたします。そして建長寺管長が最後の御焼香をして立ち去ります。その後、各僧が一人づつご焼香をしながら立ち去っていきます。そして誰もいな
くなります。終了時間は午前8時45分であります」

 この日の施餓鬼会も全くこの通り厳かに行われた。特に雲水さんを含めた30余人の衆僧さんが、お経の大朗詠と共に三門を三周する光景は、まさに景時公一族に届けとばかりの圧巻であった。

 今日の施餓鬼会には、我々一行の外、寒川町顕彰会のご一行、兵庫県滝野町の梶原康史ご夫妻も参加されていた。こんなに多くの方々が見えるのは珍しいこととお聞きする。我々も線香を済ませてから、新しくて豪華な紫雲閣へ案内され、吉田正道管長猊下にお会いする。ご多忙な中を親しく歓談の時間を割いてくださる。

 吉田管長猊下は、岐阜県山県市(旧美山町)のご出身で、小学三年生のとき出家され、永い修業の末昭和62年に建長寺の管長にご就任され、若い雲水さんの指導にも当たられているという。


 この席で我々顕彰会のためにご染筆の書をいただく。

                           梶原景時公於終焉の地
                           本軆如然武士魂 累功
                           覇業殉権門 怨親憎愛
                           皆空幻無限清光照故原
                                           建長栢樹 

 この書は後日お軸に表装し、梶原忌に掲げさせていただく。
 この後、管長猊下の案内で普段入れない開山堂を拝観する。蘭渓和尚の木像下には石棺が安置してあり、扉には出身地中国四川省の蜀光錦の文様が飾られている。また、法堂(はっとう)の天井画は、鎌倉在住の日本画家小泉淳画伯による巨大な「雲竜図」が描かれており、非公開の時期にもかかわらず特別に拝観させていただいた。

                    

                                   建長寺にて

《鶴岡八幡宮》

 興禅寺庫裏改装の業者である魚津寺社工務店さんが、鶴岡八幡宮の改修に携わっておられることから、思いがけず参拝の機会を設けていただけた。
 宝物殿を拝観の後、本殿へ昇殿し正式参拝をする。さらに白旗神社(源実朝令をお祀りしている)に参拝してから、工務店さんが新築された素晴らしい斎殿内部を拝観させてもらう。

《御霊神社》
 鎌倉観光会館「味亭」で昼食後、最後の研修地である梶原一丁目の御霊神社に向かう。
 御霊神社の祭神は、鎌倉権五郎景政で、景時が幼少の頃より尊敬してやまない直系の先祖にあたる。

 責任社員の石井さんを始め役員の皆さんに案内をいただき、梶原の由来にもなった梶の木(深沢小学校内)の話を聞き、校舎裏山崖下にある梶原供養塔や梶原一族に向かって涙を流すという「梶原なみだ石仏」
に般若心経一巻を上げ線香をする。この後、役員さんが心を込めて清掃された神社に参拝してすべてを終了する。

 この旅行にあたって、大変お世話になった寒川町梶原顕彰会の高橋会長さん始め役員の皆さま、建長寺の吉田管長猊下。御霊神社の石井責任役員さんを始め役員の皆さま。
 鶴岡八幡宮特別拝観にご尽力頂いた魚津社寺工務店様、本当にありがとうございました。

 また、終始的確な判断でスケジュールをこなしていただいた犬山ツーリストの小川社長さん、安全運転に徹した井野ドライバー、明るい笑顔でユニークな古川ガイドさんにも厚くお礼を申し上げる。

     
[機関誌(かじわら)掲載 平成17年5月14日号] 



              紀行 9
                 
【尼御前岬から安宅の関へ】


  《風強く波荒きなり尼御前岬に小さき尼の像かも》 (尼御前岬にて)
  旅の途中、或いは偶然通りかかった場所がいつまでも心に残り忘れ難いことがある。その一つに今回景時公研修旅行の途中、20数年ぶりに立ち寄った尼御前岬がある。

  顕彰会一行は、昨夜の宿泊地山中温泉を出発して北陸道を北へ、日本海の美しい海岸線を望む尼御前SAに入る。岬の突端には、等身大の小柄な尼御前像が荒れる海を背につくねんとたっていた。


                      

                                 
尼御前像前にて

  源義経が都落ちして、奥州に逃げ延びる際、付き従っていた一人の尼が近くに安宅の関を控えて足手まといになることを恐れ、義経主従の無事を祈りつつ、この断崖絶壁から身を投じたという伝説が当地にあり、「尼御前像」はその尼を称えて建立されたものと聞く。右手に杖を握り、左手に笠を携えた小柄な尼御前像の旅姿は、伝説を知る者の哀れを誘う。

                

                            
尼御前岬(梶原景時公顕彰会一行)

  そもそも義経が何故都落ちをしなければならなかったのか。勝利を収めた一ノ谷の合戦後、義経は御白河法皇より検非違使(けびいし)
を任命されるが、兄頼朝に無断であったため、猜疑心の強い頼朝の怒りをかい、平家打倒の立役者は一転追われる身となる。

  義経は幼少の頃育ててくれた藤原秀衝を頼って、京より奥州の平泉へと、弁慶他側近を従えて逃亡を図る。その際、義経主従は山伏姿に扮して石川県を通過したと伝えられており、加賀市の尼御前岬、小松市の安宅の関、金沢市の大野湊神社、富来町の関野鼻等、幾つかの市町にその足跡が刻まれている。

  しかしながら、山伏に姿を変えた義経主従の中に女人は似合わない。いや本来山伏は女人禁制である。伝説が矛盾する。この論議はともかく、常に女人が大写しされる源氏物語や平家物語、また義経記などの軍記物にも語られていることのない哀れな尼御前を偲び、像を建てて弔い、供養する当地の人々の心のやさしさが見る者の胸を打つのである。

  さて、顕彰会一行を乗せたバスは、道こそ違え、義経主従と同じ安宅の関へ向かう。頼朝が張りめぐらせた関の中でも最も厳重な関といわれる安宅の関を前に、義経の苦渋の心境を思い遣ることができる。

「通せ」「通さぬ」。弁慶と安宅の関を統括する富樫の息詰まる攻防は、歌舞伎で有名な(勧進帳)で、広く知られている。
  弁慶は東大寺再建の寄付を募る勧進帳の偽の巻物を読み上げて、一旦は難を逃れたものの笠を被った義経に富樫が再び疑いを抱く。咄嗟に弁慶は、
「貴様がウロウロしているから怪しまれるのだ」と言いながら、杖で義経を完膚無きまでに叩きのめす。すっかり信用した富樫は「もうよかろう」と、主従に関所を開く。

  歌舞伎「勧進帳」では、富樫は義経と見破りながら、これほどまでして主人である義経を庇う弁慶の心情に打たれ、あえて知らぬ振りをして関所を通すという名場面であるが、当時の頼朝の厳しさから推して、この時富樫は実際に弁慶の行動を信用したものと思われる。

  バスはまもなく安宅の関に到着する。

  さて、主の無事を祈って海に身を投じた尼御前、主を杖で叩く咄嗟の行動に出た弁慶、何れも現在失われつつあるものへの郷愁さへ覚えさせてくれるのである。


    (※) 非法、違法を検察、糾弾する官吏

                              機関誌(かじわら)掲載 平成18年5月14日号  



         紀行10

             【秋色の備前・播磨路の旅】

  平成20年11月11日、会員35名を乗せたバスは殆ど渋滞もなく、名神、中国、山陽道を乗り継いで、正午近くに加古川インターを降り、砂市内に入る。昼食の場所、「樹家」には梶原氏のご子孫で本誌でもお馴染みの梶原靖史様(兵庫県加東市在住)が既にお待ちいただいていた。ご挨拶をいただいた後、寿司と蕎麦のすっきりした食事を済ます。

《十輪寺》
  駐車場が分からず、市バスロータリーの片隅に止め、少し歩いて門前に13時に着く。紅葉の中に凛と建つ豪華な山門前で記念撮影の後、本堂に上がり、ご住職から寺の歴史などを拝聴する。

  本堂裏の墓地中央あたりに梶原一族の墓があるj。天正七年秀吉の三木攻めの折、落城した砂城の城主であった梶原景秀(景行)を祀る墓碑に線香ををあげ、般若心経を唱えて一同お参りをする。すぐ隣には三浦一族の墓など、苔むした墓石が林立し、往時を偲ばせてくれる。
  拝観を終え梶原靖史様と再会を約し、バスの中から手を振って別れを惜しむ。

《旧閑谷学校》
 
バスは砂西インターから山陽道に乗り、備前インターをおりて、世界最古の庶民学校(旧閑谷学校)へと向かう。江戸時代の前期に岡山藩によって開かれた学校である。前日に見事な紅葉がテレビで全国放送された経緯もあり、駐車場は満杯、人々で溢れんばかりであった。
  特に有名なのは聖廟前に植えられている一対の「楷の木」が織りなす赤と黄の紅葉である。幹回り2メートル余の楷の木は、中国山東省の孔子の墓所から1915年に採取された種から育ったもので「学問の木」とも呼ばれ親しまれている。

  もう一つのシンボルである備前焼の赤瓦が美しい講堂とともに、ライトアップされ幻想的な光景を醸し出すという。それを撮影するための、カメラの放列が夜を待っていた。我々一行は後ろ髪を引かれる思いでバスに乗る。

                              十輪寺         旧閑谷学校の楷の木             

《湯ク温泉・竹亭》
 
バスは満山の紅葉が夕焼けに染まる山峡の道を、吉井川に続く吉野川沿いに湯ク温泉に向かって標高を上げて行く。
  美作三湯の一つで今宵の宿である湯ク温泉は、1200年前、延暦寺の円仁法師が西国巡礼中、鷺が足の傷を癒しているのを見て発見したと伝えられ、別名「鷺の湯」とも呼ばれている。

  やさしの宿 「竹亭」 到着17時30分。男性の露天風呂 「ささなきの湯」 女性は 「仇討ちの湯」 、いずれも竹林の中にあり、浴槽を囲む岩の間の小さな紅葉が美しい。最上階にも男女の展望風呂 「飛天の湯」 「羽衣の湯」 があり、思い思いに温泉を楽しむ。
  今日はかなりの強行軍であったが、全員すこぶる元気で賑やかに宴席に着く。

11月12日
《吉備津神社》
  8時15分、バスは標高五百bの白い霧の中を出発。自動車道に乗って岡山インターを降りる頃には、すっかり払われて快晴となる。
  9時45分、山陽道屈指の大社、「大吉備津彦大神」を御祭神とする吉備津神社に到着する。同大神は、この地方の平和と秩序を築き、吉備文化の基礎を造られたという。


  神社の社殿は、日本建築の傑作といわれる吉備津造り(比翼入母屋造り)の勇壮な建物で国宝に指定されている。
  二つの入母屋造りの屋根が連結し、真紅の柱が組み合う華麗な社殿と、門前の聳える大銀杏の色鮮やかな黄葉とのコントラストは見る者を魅了する。また本殿とお釜殿など社殿を繋ぐ(両下造り)本瓦葺きの四百bに及ぶ緩やかな回廊は、歩くほどに神秘な雰囲気に包まれてくる。

  その他、釜の鳴る音で吉兆を占う「鳴釜の神事」や「桃太郎伝説」などで広く知られている。広い駐車場には、1932年(5.15事件)官邸で暗殺された時の総理大臣、犬飼 毅 の銅像が高く聳えている、その姿も印象的であった。

《岡山後楽園》
  予定通りの11時近く江戸時代を代表する大名庭園で、日本三大名園の一つ岡山後楽園に着く。総面積四万坪に占める野芝は15%を越えるという。
  池、茶室、築山などが水路で結ばれ、歩きながら前後左右の景色を楽しむことができる工夫された回遊式の庭園である。借景の岡山城と点々と廷内に彩なす紅葉が画竜点睛を添える。あっという間の回遊であった。


  ここより昼食の場所「四季の彩・後楽園店までバスで15分、四季彩の名の通り、色とりどりの豊富な食事は、歩き疲れた後の空腹を満たすのに充分であった。


                                      吉備津神社      岡山後楽園
《魚の棚商店街》
  バスは岡山城を窓に映しながら岡山インターに入り、伊川谷インターを降りるまで長い走行、最後の視察地、明石市の魚の棚商店街に15時丁度到着。350メートルの直線道路の両側に店が並ぶ通称「魚の棚」で一行は土産など最後の買い物を楽しみ帰途に着く。


  今回もまた犬山ツーリストに大変お世話になった。また2日間を通じて急ブレーキ一つなかった名鉄観光バスの野村ドライバーさんと、「私は眠らせ名人」などと言いながらも、豊富な知識と接客の確かさに一行の舌を巻かせたバスガイドの隅原さんにも厚く御礼を申し上げたい。


                              機関誌(かじわら)掲載 平成21年5月10日号



                                    旅行記 N0 1へ戻る