NO 5

                     エッセー     人 生 は 旅       
       第21話
                 【あの人に逢いたい】 ( 今…どこに )
  「ちょっと、ちょっと、書いて書いて…」
 Sさんが、3時の短い休憩時間に飛び込んできた。

 半ドン(土曜日)で学校から帰っていた私は、その場であり合わせの紙に鉛筆を走らせる。この頃よくあることである。

    
☆ 親友の文見るたびに職工に
               なり切れぬ吾一人苦しむ     Sさん


 焦燥、不安、切なさが身に染みるような歌である。

 私が中二のとき、当時我が家の近くにあった小さな鉄工所で、油にまみれて働くSさんと仲良くなり、それが縁で数人の職工さんにも何かと声をかけられるようになった。

  Sさんは、私より10歳ほど年上の22.3才で、仕事中にたくさんの短歌を詠まれた。
  短歌は字数が多いので俳句よりやさしいというSさんの影響を受けて、私も自然に短歌を作り始めた。
  Sさんは私に歌心句心を芽生えさせてくれた最初の人である。


  どのような事情があるのか知る由もないが、Sさんは鉄工所の長い屋根の庇の下を囲って、一人暮らしていた。夏は暑く冬は寒い。大変な毎日であったに違いない。
 私はいつもやさしいSさんが好きで休みの日など、よく遊びに行った。

 私が高三になった春の或る夜のことである。

 「こんな詩を作ったよ」 と、Sさんから紙片を渡された。
 
        
1. 我が秘めし 我が心
            夢かうつつのエンゼルか
           胸に咲き出しひともとの
            薔薇にも似たるかの君よ
              ああ青春の片想い

        2. 涙ぐむ 宵星よ
            エレジー聞いて泣いたのか
           人の哀れを知るならば
            教えよ幸を我が胸に
              ああ青春の片想い

        3〜4. ??……忘却


 
藤村風の七五調で、少し直せば現代にも通用する演歌の詩にもなりそうだ。
 そのとき私は、初めてSさんは誰かに恋をしているのではないかと直感した。

 Sさんが想う相手の人は、少し離れた場所に住む細身のきれいな娘さんであった。
 まもなく同じ職場で働く数人の仲間あげての友情で、その娘さんとデートの約束が取り付けられた。

 しかし、デートの結果は惨憺たるものであった。
 何でも待ち合わせ場所で 「こんばんは」と、云ったきり、別れるまで会話が一言もなかったらしい。

 犬山城の石垣を何回かぐるぐる廻っただけで、早々と帰って来たというのである。

  「あんな人いやだ」
 

 思い起こせば、未だにSさんの純情さが身に染みる。好きな人だからこそ、何も云えなかったのだ。 Sさんの失意は相当なものであったらしい。まもなくSさんは、私にも黙って鉄工所からいなくなった。
 時を同じくして、鉄工所も手狭になったのか、他所へ引っ越して行った。


 昭和50年代に入って、カラオケの時代が訪れる。
 友人に誘われて、初めて入った犬山市東部のあるカラオケ喫茶?に、都はるみの歌が流れていた。
 犬山の情景が詩に重なる。店主が訝る私にこう云った。

 「何年か前に、犬山市が募集した犬山の歌のグランプリですよ。この(恋の犬山)は、プロが作曲し、都はるみが歌っています。残念ながらヒットしなかったけどね」

 懐かしさがこみ上げてくるような美しい詩であった。
 (恋の犬山)が3コーラスに入ったとき、私は愕然として店主を睨みつけた。

    
♪♪ 犬山城の岩肌に ほろり落とした男の涙 ♪♪
 
 ただならぬ私の様子に店主は、途中でカセットを外して差し出した。
 私は懐かしい作詞者の名前を食い入るように見つめた。

 店主は、私の問いに次のように答えた。
 「このSさんは、しばらく小さな工場を経営しておられましたが、うまくいかず、今は行方不明と聞いております。亡くなったという噂もありますが……」
 
 叶わぬ恋ではあったが、Sさんは職場仲間の友情によって実現した、あのデートの思いを詩に表現したのだ。

 
  私の昭和50年代は、会社人間として、にっちもさっちもいかず、すべてがままならぬ時代である。犬山市が歌詞を募集したことすら知らなかったのだ。知っていたらSさんとの再会は多分実現していただろうと思う。

 当時二つ折りの(恋の犬山)の詩と楽譜が相当数配布されたとのこと。
 市へ尋ねてみようかとも思う。
 現在存命ならば、80才前後だろうか。最近は特に逢いたいなあ…の気持ちがますます強い。

 しかし、Sさんの行方は杳(よう)として、深い霧の中である。



       第22話
                  【徳本峠へ古道を歩く】

  昭和4年に梓川に沿った自動車道が開通するまで、上高地に入る唯一の手段として親しまれた、徳本峠(とくごうとうげ)越えを思い立ったのは、昭和33年の8月下旬のことであった。
  徳本の名の由来については様々な説があるが、初めてこの峠を越えた甲斐の医師、永田知足斎の別姓が本命であると聞く。

  当時の雑誌(山と渓谷)は、初めて上高地入りをする登山者に、この峠越えを盛んに勧めていた。その理由は峠から望む穂高連峰の景観の素晴らしさにあった。

  更に私が延々7時間余りを要して辿り着いた徳本峠には、大自然が織りなす神秘な幻想の世界が待っていた。
  いつものことながら、夜行列車に乗るため名古屋駅のコンコースに並ぶのは、むしろ楽しみの一つでもある。また汽車がトンネルに入るたびに、急いで窓を閉めるのも今思えば懐かしい。

  その日の午前6時、私は松本電鉄、島々駅に降り立った。
  殆どの登山者が上高地行きのバスに乗り換えるのを尻目に、私は新淵橋を渡って島々宿に入った。そして6時30分、街道右側の道標に従って、徳本峠に続く島々谷への道に踏み入った。
  日本登山会の育ての親ともいうべき英国のウオルター ウエストンも、この道を何度も歩いたことだろう。
  やがて道は北沢と南沢の分岐に着く。右を行けば鍋冠山から大滝山、更に蝶ケ岳へと続く。私は左に分かれる道に一歩を踏み出した。


  踏み跡もはっきりしており迷うこともないが、樹林地帯の単調な道で全く展望が利かない。我慢、我慢の歩を運ぶ。

  午前10時30分、島々宿から4時間、峠までの中間点、岩魚止(いわなどめ)の滝に到着。谷を遡上してきた岩魚が、これ以上進めないことから名付けられたもので、ここより峠に向かって一転急登の連続となる。

  一汗二汗流して更に3時間余り、辿り着いた徳本峠の眺望は、正に絶品、一大パノラマであった。
  穂高連峰から明神岳へ続く荒々しい岩峰と、青く蛇行する梓川に白い河原が点在するこの美しい山岳風景は、他に類を見ない。

  峠の茶屋(徳本峠小屋)に先客が一人休息をとっていた。島々谷に入ってから初めて出会う登山者である。川口市から来たというKさんは40歳前後であろうか。大変気さくな人であった。

  「今夜ここに泊まりませんか?」
  「ここ泊まれるのですか」

  実は今夜の宿について、漫然と頭にあったのは、あのウエストン師を案内した往年の名ガイド、上条嘉門次の末裔が経営する嘉門次小屋である。以前に食した岩魚料理の味と、ウエストンのピッケルが飾ってある嘉門次小屋に思いを馳せ、未練を残しながらも、何となくKさんに興味を惹かれた私は、この徳本峠小屋に泊まることにした。

  その夜、小屋の経営者、小松康さんの話は、夢とロマンと冒険に満ちたものであった。峠で知り合った男女の仲人を務めたり、命をかけた遭難者の救出など、興味津々たる話は夜更けまで続いた。
  Kさんは、主人と親しいらしく「ヤスさん、ヤスさん」と何度も声を掛けていた。

  翌朝5時前、Kさんに促されて朝食前に峠上に出る。黒々とした穂高連峰が徐々に明るくなりつつあった。
  そしてそれは突然であった。オレンジ色の無数の光りの矢が、東側の山の稜線を飛び越えて、穂高連峰の山頂を射る。
  私は思わず拳を握り息を呑んだ。光りと陰が彩なす大自然の競演である。山頂の朝焼けは徐々に山麓に下りていく。
 
  「素晴らしい…モルゲンロートですね。言葉になりません」
  「私は毎年、これを見に来るのですよ」
  「毎年ですか?」
 
  私の問いにKさんは、腕を組みながら照れ臭そうに口を開いた。


  「家内に会いに来るのですよ」
  「エッ…?」
  「プロポーズしたのは、正にこの瞬間でしたよ。戦前のことです」

  「奥様は…?」
  「先月、妻の七回忌を終えました。この6年、毎年この時期に来ます。この瞬間はいつも家内が傍に居るような気がするのです」

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 常念岳のご来光
                                   上高地 明神にて       

  朝食を済ますと、Kさんは私とヤスさんが見送る中、昨日登って来た同じ道を引き返した。
  私はヤスさんに厚く感謝の意を伝えて、反対に上高地へ下りるべく、歩を踏み出した。

  1時間半もすれば上高地の明神へ下りられるのに、Kさんが何故この道にこだわるのかその心情が分かるような気がする。思うにこの単調な長い17キロの道のそこかしこに、亡き奥様との思い出があるに違いない。

  あの岩陰に、あの渓流のほとりに、Kさんは思い出を辿りながら歩いていることだろう。そしてまた、来年のこの時期、1年一度の奥様との逢瀬を楽しみに、この島々谷を登って来られることだろう。

  梓川に出た私は、明神館の前を通って河童橋に向かう。Kさんと別れた後のこの胸の熱さは何だろう。感動と、ただ一言で云えない何かが私の胸を去来する。

  まもなく河童橋に着いた。いつもと変わらぬ穂高の山々を見上げながら、もう少しKさんの思いに浸っていたかった。

  私は橋の袂の五千尺旅館の引き戸を開けた。そして熱いコーヒーをオーダーした。




     第23話   
                     【 日間賀島にて 】

  日間賀島西港前の売店の横から真っ直ぐ東に歩くと、まもなくなだらかな上り坂となって島の中心部へ向かう。道は狭いが日間賀島では東西を貫く大動脈である。
  この日間賀島へ家内と最後に訪れたのは、昭和62年の夏の終わりであった。以来ほぼ四半世紀ぶりである。
  あの日、角から消えるまで、何度も笑顔で手を振って見送ってくれたあの民宿のおばあちゃんの姿が浮かぶ。定かではないが、そこは確か歩いて10分足らずだったと思う。緩やかな上りではあるが何度も額の汗を拭う。
  緩い角を曲がって、そのこじんまりとした建物が目に入ったとき、私は懐かしさの余り思わず声を上げた。
  しかし、古びた見覚えのある門に手を掛けようとして、はっと息を止めた。私はその異様な光景にしばらく凝然と立ちつくした。


  平成16年8月29日(日) ある団体の日間賀島日帰りグルメの旅に参加した。
  折から台風16号が接近中で知多の海はかなり荒れていた。それでも師崎港を勢いよく出発した40人貸切の海上タクシーは、予定通り7分で西港に到着する。

  カラオケが始まり、宴が佳境に入り始めたのを機に、私はそっとホテルを抜け出した。そしてあの民宿に通じる西港前の売店に向かった。

 
門はしばらく開閉された形跡がなく縦横に蜘蛛の巣が張り、建物全体が色あせて生活の臭いが全くない。 廃屋同然である。 

  「そこは空き屋ですよ」

  後ろから声がした。振り向くとエプロンをした人なつっこい女性が立っていた。

  「そうですか。ここのおばあちゃんは?」
  「数年前にお亡くなりになりました」
  「そうでしたか、確か娘さんが一人みえましたが?」
  「昨年の春、名古屋の方へ越して行かれましたよ」
  「……」

 私はいろいろ聞きたかったが言葉を呑み込んだ。聞いても仕方がない。事情によっては胸が痛むこともあり得るのだ。なお話したげな女性に礼を云って私は引き返すべく坂を下り始めた。

  しかし、考えてみると当時でも60歳を超えたおばあちゃんだ。生存ならばもう90歳に手が届く頃なのに、昔のままのおばあちゃんを期待して訪れた自分の迂闊さに苦笑する。

  最近は遠近にかかわらず、昔行ったことのある場所を突然思い出して、そこへ今すぐ行きたいという欲望に駆られることがしばしばある。
 
  「昔を懐かしがるのは歳をとった証拠です」

  ときどき家内に云われる言葉である。
 



        第24話
                【 素敵なドラマをありがとう 】

            あの日 もし
                  紅葉の季節でなかったら
                  遠回りをしなかったら
                  ドライブインの前で対向車がなかったら
                  とんがり帽子の茶房に入らなかったら

           就中(なかんずく)
                  友愛会がなかったら
                  友愛会に出席しなかったら

           私の人生の中で この15年に及ぶ
                  ドラマとの出会いはなかった

           友愛会よ
                  ちょっぴり はかない
                  素敵な贈り物を
                            ほんとにありがとう

                                        
平成元年2月12日(日) 晴
                                        高山線車内 飛水峡付近にて


昭和61年12月16日(晴)

  その夜、親しい友人と会う約束があった。私は急ぎ足で広い久屋大通りを横切り中日ビルに入った。一階にある喫茶店は広小路通りに面していた。ネオンに映し出されたテレビ塔のエレベーターがゆっくり上昇する。

  その時、一人の女性が喫茶店の大きな窓を左から右へ横切った。
  「おや…」
  やや濃いめの化粧をしたその美しい女性は次の窓に移りつつあった。私は身を乗り出してその後ろ姿を追った。
  「まさか…」
  それは一瞬のことであった。


  しばらくして我に返ったとき、胸が高鳴っている自分に気づき、苦笑しながら思わずあたりを見回した。その先に近寄って来る友人のにこやかな顔があった。
  「やあ、どうかしたのか…?」
  「いや、似た人が通ったのでね」


3年前に遡る

  昭和58年11月12日(土)晴〜13日(日)晴
  友愛会の親睦会が、水明館(下呂温泉)で行われるため、午後早めに出発した私は、中央道で中津川を経由して、国道257号線に入った。

  裏木曾の紅葉は素晴らしかった。夕森高原や乙女渓谷などロマンティックな道標を目にしながら、やがて舞台峠を越えると急な下り坂になった。
  時計は3時を指している。もう下呂温泉は近いので急ぐことはない。右側にあるドライブイン(舞台峠)に入ろうとしたが対向車が続いたため、行き過ぎてしまった。

  今度は左側に赤いとんがり帽子の屋根が見えてきた。駐車場にクルマは一台もない。私はウインカーを点滅させた。

  カウンターの中から女性の澄んだ歓迎の言葉を受けながら私は店の奥に進んだ。
  腰を下ろした正面にルノアール風の少女画があった。
  窓を通して聞こえて来るのは渓流の音か。

  しばらくして、私は妙に甘酸っぱい感情に包まれ始めた。
  先ず、メルヘンティックな少女の絵に見覚えがあった。更に規則正しい瀬の音は、いつか何処かで聞いたような懐かしさがあった。

  「おかしいな…」

  熱いコーヒーをすすりながら、店内を見回していた私はきれいな毛筆で俳句が書かれた短冊が掛けられているのを発見した。

    窓たたき
      落ち葉茶房の美女を訪ふ

                      昭和48年11月

  この句もどこかで見たか聞いたか記憶がある。
  いや待てよ…ややッ…何とこれは、自分の詠んだ句ではないか。

  私は呆然として窓外に目を転じた。渓流の上を飛んできた一枚の枯れ葉が、一旦静止した後、方向を変え窓に向かって一直線に突進してきた。それは蘇った記憶の中の光景と全く同じ光景であった。

 
「そうだッ」
  思わず声を出した私は、改めてカウンターの女性を直視した。

  「どうかされました…?」
  カウンターに白い花の一輪挿しがあった。その上で微笑んだ地味な紬を着た女性は、30歳前後であろうか、首を傾げた仕草に少女のような可憐さがあった。

  「間違っていたらごめんなさい。あの俳句は、以前私が作りかけて結句がうまく表現できず、ボツにしたのと同じなんです。確かに一度来た記憶があります」

  彼女の目が輝き始めた。

  「ああ、あの時の方ですね。はっきり覚えております」
  「48年といいますと、10年前ですね」

  彼女は仕事に一段落をつけ、テーブルを挟んで私と向き合った。

  「あの日は風の強い日でした。あなたは41号線の方から上がって来られました。下呂温泉へ行く途中、この道にきれいな紅葉のトンネルがあったから、つい曲がってしまったとおっしゃっていました」

  手にしたカップの中で氷がカチカチと鳴った。

  「しかし、あの句がどうして…?」
  「あの時、お客様は窓際に若い女の方一人とあなただけでした。カウンター越しにとりとめのないお話しをしたように思います。ときどきあなたは、お会計伝票の裏にメモをしておられました。お帰りになってから何気なく伝票の裏を見ましたら、いろいろな言葉が書いたり消されたり、また前後組み替えたりしてありました。やがてそれが句作の過程だと気が付いたとき、かねてから俳句を作りたいと思っていた私は、俳句とはこうして試行錯誤しながら作るものだと初めて気がつきました。あの日あなたのメモから言葉を並べてあの句ができてから、未熟ながらも句ができるようになりました」

  若いカップルが入って来た。
  私は短冊の前に立った。さすがに10年は永く全体に黄ばんではいるが、書かれた文字は流れるようにきれいな筆致であった。

  再び私と並んだ彼女が云った。

  「結句がうまく表現できずと云われた意味が、今何となく理解できます」
  「あの五文字が短絡過ぎるのです」

 二組の家族連れが入ってきて、店内が賑やかになった。
 席に戻った私は、忙しく振る舞う彼女を見つめた。やはり昔会った誰かの面影がある。その誰かとは、まさしく10年前の彼女であろうと思う。
 その時、窓外に展開する落ち葉の舞を見ながら、浮かんだ言葉を伝票の裏へ書きとめたのであろうか。
 遠い記憶が一つまた一つと蘇ってくる。
 
 午後4時半、
  「あの…あした帰りに寄って下さいません…? 今夜コピーしておきますから。お渡ししたいものがあります」 
  「わかりました。それからあの俳句のモデルですがね。あれは窓際にいた女性ではなく、まぎれもなく貴女でしたよ」
  「……」

  バックミラーの中で手を振る彼女の姿は見る見る小さくなり、やがて燃えるような紅葉の中に溶け込んでいった。
  まもなく国道41号線と合流する。

  翌日、この三差路に差しかかったとき、時計は既に午後4時近くを示していた。実はこの朝、急に話しがまとまり、数台のクルマを連ねて飛騨高山に向かったのである。

  帰りは、ボタン雪に追いかけられるように高山を後にした一行は、ほとんどノンストップで既に下呂温泉を通過していた。私のクルマには、俳優、森山周一郎(大塚博夫氏)他女性2人が同乗していた。
  先頭を走っていた私は、まもなく(中津川50K)の標識を前方にとらえたが、躊躇する間もなく青信号を一気に走り抜けた。国道275号線は、あっというまに後方に去っていった。

昭和62年10月31日(土)晴
  愛岐カントリークラブに着いたとき、どんよりとしていた空から無情にも冷たい雨が降り出してきた。クラブの喫茶室に集まった友人知人、4人のうち二人が風邪気味であった。気配りのいらないコンペであったが、簡単に延期されその場で解散になった。

  国道248号線に出た私は何となく中央道多治見インターに向かった。

  ♪ 明日は馬籠か妻籠の宿か ♪

  カーラジオからヒット曲(木曽路の女)が流れている。

  ♪ 誰を呼ぶのかせせらぎよ ♪

  あの茶房の下から聞こえてくる瀬の音を思い出していた。
  木曽路の紅葉はすでに始まっており、馬籠峠の茶店は、錦絵の中にひっそりと、その枯れた佇まいを見せていた。
 
  国道19号線に下った私は、坂下町から夕森高原の直下を経て257号線に入った。雨はひっきりなしにフロントガラスを叩き続けている。

  ドライブイン(舞台峠)に差しかかった。大きな水車が見える。対向車はなかった。そして次のへヤピンを過ぎると、あの茶房が見えてくるはずである。ハンドルを大きく戻したとき、

  「あれ…」

  私は短く叫んだ。赤いとんがり帽子がないのだ。駐車場もきれいに舗装されている。私はクルマを止めると、ドアを押して中に入った。

  しかし、店内に4年前を偲ばせるものは何もなかった。ルノアールも短冊もない。のみならずカウンターの奥には、全く別人の女性の丸い顔があった。それだけで私はすべてを察するのに充分であった。ただ、降りしきる雨の音に交じって、僅かに聞こえてくる瀬の音が4年前を偲ばせるのみであった。

  数人の先客が、きれいに帰ったのを機に、カウンターの女性に声をかけてみた。

  「よく降りますね」
  「ほんとにいやな雨ですね。こちらへはよく来られますか?」

  渡りに舟の言葉が返ってきた。

  「数年ぶりです。ここは赤いとんがり帽子の屋根でした」
  「そうです。そうです」

  彼女はにっこりしながら語を継いで、

  「ここを譲り受けて直ぐ改装しました。もう2年半になりますね」

  私は店内のとある地点に立った。

  「あのとき、この辺りの壁に短冊が一枚掛かっていました」
  「あら…」  反応があった。
  「ついこのあいだまで掛けてありましたよ。ひどく汚れてきましたので処分しましたけど…」
  「え…そうですか…」

  彼女は何かを思い出したらしい。しげしげと私の顔を見ながら云った。

  「あなたのことですね、いつかみえたらと、あの女の方が云っていたひとは…」

  やはりあの聡明な彼女は、手がかりを残していたのだ。

  「多分そうだと思います。4年前、下呂からの帰りに寄るつもりだったのですが、都合で素通りしてしまったのです」
  「そうだったんですか」

  人の良さそうな彼女は自分のことのように残念がった。
  「そうそう、ちょっと待ってください」

  彼女はそう言って、本棚やカウンターの奥など、しきりに何かを探していたが、
 
  「申し訳ありません。確かに最近まであった筈ですが…毛筆の句集です。コピーしてありました」
  「そうでしたか、ずいぶん前のことですから仕方ありません。ただ、彼女について、何か知っておられたらお聞きしたいのですが…」

  話しの内容は次のようなものであった。
  彼女が知り合いの業者から紹介されて、この店を持ったのは、昭和60年6月のことである。業者の話によれば、前の所有者は大変気の毒な女性だったという。横浜で両親が営んでいた輸入品の販売店がうまくいかず、すべてを手放して、ここで喫茶店を開き、ひっそりと暮らし始めた矢先、両親が相次いでガンのため他界してしまった。一人残された彼女は以後10年余り頑張ってきたが、建物も設備も古くなり、とうとうこの店も手放すことになってしまった。

  「私が開業してまもなく、その女性の方がみえました。そしてある人に渡して欲しいと、短冊と句集を預かりました。この短冊に興味を示す方がいたら、多分そうだから確認してこの句集を渡して欲しいという雲を掴むような話でした。1年経ってみえなければ、処分するように云われたのですが、その方の一途な顔がいつまでも印象に残ってそのまま掛けておいたのです」

  お客が出たり入ったりした。
  その間隙を縫って話は続いた。
 
  「ほんとに来られたのですね。でも申し訳ありません。お渡しするものがなくて…」
  「いや、有難うございました。私の方こそ返ってご迷惑をお掛けしました」

  私の胸の中で、新たな不安が急速に広がりつゝあった。この1年思い出しては打ち消してきたあの夜のことが、まさしく現実となってきたのである。

  「その後彼女の消息はわかりませんか?」

  しばらく考えていたが、やゝあって、

  「そうそう、別れ際にこれからどうなさるのって、聞いたんです」
  「……」
  「岐阜か名古屋に出てみようと思います…と、淋しく笑っておられました」
  「やはり……」

  去年の12月、中日ビルの窓をよぎって街角に消えたあの横顔は、まさしく彼女だったのか。少し濃いめの化粧をした彼女は、広小路通りを東新町に向かって歩いていった。その先の交差点を曲がれば、名古屋最大の盛り場、栄ウオーク街(旧女子大小路)のど真ん中である。
  あれから彼女は、そのおびただしいネオンの海の中へ呑み込まれていったのであろうか。

  雨に霞んだ茶房が、バックミラーの中でどんどん遠ざかる。あの時は赤いとんがり帽子の屋根が映っていた。今は雨に濡れた紅葉も色あせて見える。更に決定的な違いは、小さく手を振りながら、紅葉の中へ消えていった楚々とした紬の女性の姿が初めからなかったことである。

  数分で41号線に出た。4年前、青信号を一気に走り抜けた同じ方向へゆっくりとハンドルを切る。
  小止みになっていた雨は、再び沛然と降り出してきた。

下呂温泉 下呂館にて

平成元年2月11日(土)晴〜12日(日)晴
  元号が変わって、平成最初の友愛会懇親会が、久しぶりに下呂温泉、下呂館で行われる。
  JR鵜沼発13時28分の普通列車は、定刻下呂駅に到着した。休日が続き、三両編成の列車は混雑を極めた。ずっと立ち通しのため、足が張ってしまった。

  駅を出た私は、正面に喫茶店を見つけ、道路を横切った。
  オーダーを取りにきたウエートレスの丸い顔は、あの茶房の人の良さそうな女性の顔を思い出させた。
  帰り際、彼女は句集を処分してしまったことについて、申し訳ないと何度も謝った。あれからもう1年半になる。
  私はしばらく感慨に耽った。

  やがて私は何となくあの茶房に連絡を取ってみたい衝動に駆られた。黄ばんだ短冊を10年も掛けていた彼女のことである。もしかして何か連絡が入っているかも…

  「そうだ」 あのとき、マッチをくれたっけ。

  私は思わず両方の手で左右のポケットを押さえた。当然ある筈がない。私は自分の仕草に苦笑した。
  そういえば、あのマッチはクルマのポケットに入れたままだった。ポケットの底にほこりと共にある筈である。立ち上がりかけて、また失笑する。今日は高山線で来たのだ。

  次に私は胸の内ポケットから小さな手帳を取り出した。重要な電話番号だけ控えてあり、肌身離さず持ち歩いている手帳である。

  「あったァ」 私は思わず歓声を上げた。

  丸い顔のウエートレスが目まで丸くして振り向いた。
  店の隅に周囲を仕切った電話ボックスがあった。ボタンを押す。
  電話は確実に繋がった。呼び出し音が一回二回……

  「はい、〇〇工務店です」
  「………」
  「もしもし」 男性の太い声である。
  「失礼しました。間違えたようです」

  慌てて電話を切った。本当にダイヤルを間違えたと思っていた。
  しかし、再度慎重にかけ直したとき、そのダイヤルは間違っていなかったことが分かった。
  その男性は、声の割には丁寧に答えてくれた。

  「ここはあなたのおっしゃる喫茶店ではありません。この番号は私どもが昨年増設した電話の番号です。最近まであなたと同じような電話がよくかかってきました」

  我が人生にちょっと切ないドラマを残して、彼女は疾風のごとく通り過ぎて行った。これからの人生、幸せであれと祈るのみである。

  翌日の午前、列車は静かに下呂駅のホームを離れた。そして徐々に速度を速めた。
  あの三差路が三色の点滅をくり返しながら、15年に及ぶドラマとともに、益田川の対岸を今後方に去って行く。





                               平成17年9月17日 尾北ホームニュース       
                                               第1267号に掲載     
         第25話
                   【尾張広域緑道を歩く】

 名古屋上水道は、犬山城下から鵜飼町、材木町、井堀町を横断し、四日市地内から木津用水と平行して南に向かう。
 同地を起点として、その導水管敷地の上に設けられた春日井市庄内川畔に至る19.5`の花と緑の遊歩道及び自転車道が「尾張広域緑道」で、昭和天皇在位60年記念事業の一環として愛知県が整備したものである。


 中間点の小牧市本庄には、管理事務所と共にフレッシュパークと呼ばれる広い敷地に各種スポーツの施設があり、賑わいを見せている。

           
            緑道神子橋                         フレッシュパーク

 午前10時、犬山駅から西に徒歩15分、四日市信号の石段を下り尾張広域緑道に入る。
 平均13b余の緑道は、四季折々の花が咲き乱れ、遊歩道と自転車道が蛇行する。また、左右には運動施設や東屋が間断なく点在する。


 名鉄犬山線を潜ると視界が開け、御岳や恵那山をはじめ中央アルプスの連山まで、くっきりと遠望できる。国道41号線の隧道を潜り、材木市場を横切る。歩くほどに左右から木の香が漂う楽しいひと時だ。

 11時40分、五条川と交差する「さくらのはな橋」を渡る。桜の季節は低く垂れ下がった両岸の桜と、水面を覆い尽くした巨大なピンクの花筏が目を楽しませてくれる。

 正午、緑道から少し離れた大口町二ツ屋に鎮座する「おちょぼ稲荷」に参詣。パンフの狐伝説に浸った後、丸い屋根の東屋で弁当を開く。

 やがて緑道は小牧市内に入る。田県神社の西を巻いて名犬県道を横切り、上飯田線を潜って小松寺地内に入る。大山川に架かるきれいな「緑道神子橋」を渡り、13時30分、目的地「フレッシュパーク」に到着。

 帰途は上末駅まで徒歩10分、小牧まで高架を走るピーチライナーは快適である。
 
 残り半分、春日井市庄内川畔まで明日にでも歩きたくなる感動の一日であった。

         



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