日本男子体操競技
に関して想うこと
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2008.10.14 基本力 − その2 著書内で城間コーチは、自分の育てた選手たちのことをエピソードを交えて、愛情深く語っている。 100人の選手の中には、前述の米田・鹿島・冨田の前に、ソウルやバルセロナで銅メダルの池谷幸雄と西川大輔、アトランタの田中光、シドニーの藤田健一らがいる。 本当に100人に、同等の愛情を注いだのだろうと思われる。 しかし、それを受け止める側の気質によって、つながりの質もまた変わるのだろう。 ヤンチャな悪ガキだった池谷や藤田、随一の天才・米田、おとなしくてどう接していいか困ったという冨田。 生真面目で聡明な西川、素直で可愛かった鹿島。 それぞれの師弟関係や心のつながり方が、とても味わいがある。 中でも、興味深いのは、西川と鹿島の2人。 城間コーチも、この2人に対しては、格別の愛情があったのではないかと推測してしまう。 鹿島は自宅が近くだったため、3歳で兄と一緒に入門した。 最初はコーチの言うことに全く耳を貸さず、ただ走り回って遊んでいたらしい。 ある時、鉄棒の解説をしようとしたコーチをさえぎって、「ぼく、できるよ」と鉄棒によじ登り、逆上がりをしてみせた。「おーっ」という感嘆の声に包まれ、この時感じた晴れがましさが、鹿島の一生を決定付けたのではないかと城間コーチは言う。 あの時、鹿島は体操が大好きになったのだろう、と。 鹿島は、23歳で世界の頂点に立ち、翌年オリンピックでも活躍する。 25歳から重なるケガに苦しめられ、遠ざかる世界の難度に悩まされ、それでも2年後、北京オリンピックの代表選考会で復活してきた。 この不屈の精神を支えたのは、体操が好きだという思いだったろう。 2008.10.13 基本力 アテネオリンピックの団体決勝、ミスの許されない最終種目・鉄棒。 息が詰まるような重圧の中で、日本選手は3人が3人とも、見事に胸のすくような、攻める演技と精神力を見せ、感動的な金メダルを勝ち取る。 その3人、米田・鹿島・冨田の各選手に共通すること。 それは中学卒業までのジュニア養成期に、同じ体操クラブで、同じひとりの指導者の元に育ったということ。 大阪・マック体操クラブ。城間晃コーチの元に。 その城間コーチの著書、「基本力」(ダイアモンド社・刊)を読んだ。 城間コーチは、この著作で「オリンピック選手」を育てるのではなく、「将来、オリンピックに行くことが可能な選手」を育てた結果が、世界一に結びついたと言う。 今まで、100人の選手を育てた。 その中からオリンピックに行ったのは7人で、メダルを持ち帰ってきたのが5人。 1人ひとり、身体的素質も気性も、そして時代も異なる子どもたち。 その違いを理解した上で、一貫して同じことを教え込んだ。 「基本の徹底」を。 大技をマスターすることは楽しい。だがそれは、高校入学後でいい。 15才までは、繰り返し基本を徹底し、基本を完璧に身に付ける。 基本が身に付いた子は、自分で考え努力して、どんどん大技をこなすようになってゆく。 壁にぶち当たった時も、立ち返る場所「ここまではできる」という基本がある。 高校入学後は、それぞれの新しい指導者や仲間たちとの出会い、そして自分自身との戦いによって、選手はアスリートに育ってゆく。 だから、ジュニアコーチは、もう一切口を出さない。 オリンピックに行けなかった、93人についても触れている。 同じ才能を持ち、同じ努力をしても、いやそれ以上の才能を持ち、それ以上の努力をしても、叶わないことがあるのが、現実世界だ。 体操を辞めた後でも、自分なりの生き場所を切り開いてほしい。 体操に注いだ情熱と、勇気と根性で。 「ここまではできる」という、基本に立ち返りながら、と。 2008.10.5 北京オリンピックの銀メダル アテネで体操ニッポンが金メダルを獲得した後、体操の10点満点制が廃止された。 難しい技を組み入れるほど、際限なく点数を伸ばすことが可能になった。 それはつまり、「美しさではなく、難度を求めますよ」という、2006年のルール改正であった。 北京前に、刈屋アナウンサーが解説してくれている。 →こちら だが、冨田や鹿島をはじめとする体操ニッポンは、美しい体操という矜持を捨てなかった。 「体操はサーカスとは違うのだ。美しくなければ体操ではない」 美しさを捨てずに難度を上げるための、血のにじむ努力の日々が始まる。 ケガを負い、治療やリハビリに時間を取られる選手が続出した。(鹿島選手もその1人) 冨田選手は、オールラウンダーなので、6種目全部の難度を上げなければならない。 6倍の苦労。 にも関わらず、ケガによる離脱なく、全ての世界選手権に出場しエースの役割を果たし続けたのは、偉業であると思う。 だからこそ、北京オリンピックで観る者の胸を打った、冨田の演技の美しさには凄みがあった。 中国は、北京で金を取るこの日のために、国家を挙げて育て支援してきた、最強メンバー。 シドニーから3大会連続出場となる、黄旭・楊威・李小鵬。 2大会連続の肖欽に加え、世選常連の陳一冰と鄒凱。 彼らが背負わされたものがいかに大きかったか、優勝が決定した瞬間の、彼らの涙と喜びようを見れば、それが察せられる。 中国選手たちの演技は、高難度で質が高く、他国のはるか上空を行くものだった。 日本は、そういう相手と戦った。 いや、究極は、自分自身との戦いであったろう。 実力は2位でも、失敗すれば最下位にまで転落してしまうのが、体操競技の怖さであるから。 銀メダルを勝ち取った。 観る者に、そういう感動を与えた、団体決勝の戦いぶりだった。 「限りなく金色に近い、銀メダルです」 チーム主将・冨田の言葉は、味わい深い。 2008.9.22 アテネオリンピックの金メダル 4年前、生放送では観ず、当日の再放送をぼんやり見た。 実況が、楽しみにしていた刈谷アナでなかったので、たいそう落胆したものだ。 当時、私が認知していたのは、ただ1人塚原二世のみ。 冨田に対しては、すごく強靭な意志の持ち主であることが感じ取られ、ひそかに畏れを抱いた。 鹿島という名前だけは、聞いたことがあった。(多分、前評判が高かった?) 今、懸命に思い出そうとしても、この程度の記憶しかない。 世間は、かなり金メダルフィーバーに沸いて、体操ファンが激増したというのに。 ゆかから出発した日本は、下の得点表のように追い上げて、最後の鉄棒で逆転優勝する。 青い数字は、演技順。その種目のエースが、だいたい3番目(トリ)を任されるようだ。
冨田選手は、5種出場のうち4種がトリで、しかも全て9.675以上というすごさ。 でも、鹿島選手も4種出場のうち、あん馬と平行棒の2種で、冨田選手を凌ぐ高得点を出している。 で、4年後の今頃になってから体操ファンになった私は、ネットの動画を必死に探して、団体総合決勝の生中継の映像が、ノーカットで見られるもの(外国語放送)をYoutyubeで見つけたわけだが。 毎日、見ていても飽きない。 特に、鉄棒の3選手の演技は爽快だ。 あの極限のプレッシャーの中、よくぞと思う。 日本優勝決定直後に、悄然とした中国選手たちの姿が、1カットだけ映る。 優勝候補でありながら、アテネでは5位に沈んだ中国。 でもまさしく、この楊威・李小鵬・肖欽らに、4年後の北京オリンピックでやり返されるというのも、感慨深い。 2008.9.18 鹿島選手の人間的魅力 実際に近くで接触するわけではなく、あくまで遠くから、しかもメディアを介して感じた印象ではあるが。 誠実で、思慮深く、繊細な人ではなかろうか。 謙虚で、善良で、知的で、芸術性を尊ぶ人だと思う。 人の輪を、外からニコニコ見守るのが好きな人だ。 アテネでの、あの団体金メダル獲得直後の歓喜の渦中でさえ、 1人だけ輪の外に居て、TV画面から切れている。 (エニアグラムでいえば、私と同じ・タイプ5寄りの4と見た。 だから、すごく口下手で、当たり障りのない受け答えしかできない、 その気持ちが分かるのだ) 不器用だからこそ、ひたむきに真っ直ぐに、体操競技に注ぎ込んできた全て。 それが、たぐいなく美しく、私たちの胸を打つのだと思う。 そして、2004年アテネから2008年北京への苦難に満ちた道のりも、 北京オリンピック本番での非情な結果も、たいへん味わい深い。 ゆずの名曲『栄光の架橋』を聴く度に、 歌詞の1番は2003年から2004年の、2番は2005年以降の鹿島選手に、 ぴったり重なるなぁ、と思う。 2008.9.17 鹿島選手の演技 北京オリンピックでは、 「なに?ベテランなのに失敗しちゃったんだ」という印象しか(失礼ながら)なかった。 しかし後日、インターネット動画で、彼の演技を観て、私は胸を射抜かれる。 2004年アテネオリンピック団体総合での、あん馬・跳馬・平行棒・鉄棒。 同大会・種目別決勝での、あん馬銅メダル。 2003年アナハイム世界選手権での、あん馬・鉄棒の2つの金メダル演技。 2005年メルボルン世界選手権での、あん馬銅メダル。 別格。 という言葉が、語弊があるなら、「別物」? とにかく、他の誰とも異なる。こんな体操選手は、ほかに見たことがない。 足の長い八頭身から繰り出される、高い芸術性。 リズム・間・流れが、とにかく心地よく美しい。 「白鳥の舞い下りるがごとく」とか「背中に生えた羽が見えるよう」と形容される、 軽やかな、伸び伸びとした、しなやかさ。 冨田の演技の美しさが、サムライが武士道を探求するような、求道的な精神美だとすると、 鹿島の演技の美しさは、優れた絵画やバレエや音楽に共通する、洗練された芸術美。 冨田の演技が、ストイックさゆえに妖艶だとすると、 鹿島の演技は、天使のような清らかさ、少年が放つ爽やかな色香。 まだまだこれからという2005年以降、手術やケガで本来の活躍が望めず、本当に残念。 2008.9.16 冨田と鹿島 過去の資料をひも解いていると、多くの様々な選手たちを教えられる。 そのうちの一選手に、いつしか私の関心は、強く吸い寄せられていった。 鹿島丈博選手。 冨田洋之選手とは、同郷にして同い年。 小中学校時代の体操クラブも同じ。 高校こそ異なるけれども、大学も、卒業後の所属先も同じ。 鹿島選手の方が早咲きで、中学2・3年で、連続全国中学1位。 15才にして、当時世界2位の畠田選手を敗って、あん馬全国1位に輝く。 世界に認められるのもいち早く、アテネ前年の世界選手権にて、あん馬と鉄棒の金メダルを獲得。 しかし、伸び悩んでいた高校時代には、冨田選手に全国高校個人2連覇されるなど、 2人のライバル関係は、抜きつ抜かれつ。 というより、オールラウンダー冨田に比し、鹿島は種目別のスペジャリストなので、 ライバルである以上に、盟友・親友の要素が強い関係であろうと推察される。 『世界の冨田』は、鹿島という刺激なくしてはあり得ず、同時にまた 『世界の鹿島』も、冨田という存在なくしては、生まれなかったのではなかろうか。 2008.9.15 熱の理由 なんで、こんなに心を掴まれたのか、分からない。日本の男子体操競技に。 4年前のアテネ団体金メダルの時でさえ、大いに感動して拍手を惜しまなかったが、何日も後を引くようなことはなかった。 それが、今回の北京では、違う。 理由は分からないが、とにかく熱が引かない。興味が尽きないのだ。 なるほど、今大会の世界チャンピオンは、紛れもなく中国だろう。 確かに日本は、種目別においては1つのメダルさえ取れなかったかも知れない。 だが、しかし、それでも私たち観る者の多くは、日本の体操の美しさに、激しく心を打たれた。 冨田選手の、ぐいぐいと人を惹き付ける、力強い精神美。 19才・内村選手の、若さと躍動感の中にも、脈絡とその精神美は流れている。 日本の男子体操って、なんだかすごいぞ・・・・というわけで、日本体操協会のHPに日参する日々が、始まったのが3週間前である。 過去の資料をひも解くうちに、私の熱の理由も、だんだん解明されてきた。 |