街づくりの政治学

この意見書は白井議員懲罰動議が可決された後,抗議的な意味合いで岡崎が書いたものである。
(青字は本HP掲載に際し加筆した)

意 見 書

2002年09月19日

日進市議会 議員各位

岡 崎  勝  
日 進 市   

 日々、私たち市民のための政務、ありがとうございます。
 私は、日進市の市民です。このたび、議会で可決されました「白井えり子に対する懲罰動議・戒告処分」は、以下の理由により、議会制民主主義の根幹に関わる重大な誤りであるとの考えを持つ者であります。

1)「白井メール」そのものについての論議が意図的に排除されている。
 今回の懲罰特別委員会の議事録を見ます限り、白井議員が発した「メール」そのものが

 という点が、きちんと論議されておらず、しかも、メールについてなにも触れられないまま、懲罰理由が「補正」という異例の形で出されています。これは、尋常とは言えない議会運営であると思います。
 とりわけ、議事録を読みますと、懲罰賛成議員の意見は「感情的にメールを非難する」か「形式論議で議事進行をする」かのいずれかであり、本質的な部分、すなわち「懲罰」を課する前提、きっかけとなったメールについての評価もバラバラです。「懲罰」とすることの意義と意味、つまり、「議会を冒涜する」ことに値するのかということについて、印象批評はされていますが、議論としては全くなされていません。「冒涜」のボーダーを論議せずして、何が懲罰であるのか?と思います。
 あえて、言うなら、このメールが論議の対象となるかどうかを一番、真剣に調査しようとしたのが白井議員だったわけです。多くの議員は「私的ではない」という結論も出さず、「一度資料として出されたのだから出してもよい」という安易な考えで、公開議論の場に出すことを可としています。
 むろん、懲罰動議の成立要件はコトが起きてから、三日以内なので、その日数を越えており、動議提出が不可能であったかもしれません。しかし、それでも疑義があるならば、別の方法で「メール」そのものを問うべきが「すじ」なのです。
 「メールの不当な扱いに反対意見を出した白井議員」の「反対意見を出したこと」のみをもって「議会冒涜」と多数で論難するという、悪意ある罠のような気がします。白井議員への「攻撃としての懲罰、先にありき」の感がいたします。

2)「白井メール」は議員として、当然為せる活動である。
 あのメールを見て、複数の議員が、単に心証を害したというだけのようにも思われます。それを数と力の論理で、懲罰に持っていくこと自体が議会制民主主義の破壊であると考えます。
 「補正」の内容をみましても、こじつけとしかいえない「法解釈・条例解釈」であります。「中断」「不当不法と拒否」「論難」「混乱」「審議秩序、傍聴秩序を破壊」「混乱」「冒涜」と仰々しい言葉が羅列されていますが、議事録を見る限りどこにも明確に確認できるものであはありません。多少の興奮した論議や批判の応酬などは、日常茶飯事であるのが議会の健全な姿ではありませんか?しかし、残念なことに、それすらも確認できません。
 「私的」と「公的」とは何か?たとえば、議員の方々は、ご自分の主張を、反対議員を批判しつつ、展開されることはないのか?それを、シンパシーを持つ友人や支持者への議場外ロビー活動としてなさることはないのか?私はそんなことは、議員の常識で「あって当たり前」と存じます。名古屋瀬戸道路問題についても、都市計画決定前後に、地権者と一部の地域の議員が「推進のための打ち合わせ」を色々なさって、道路反対派を厳しく批判されたというではないですか。しかし、そういうことが、ロビー活動としては当然あり得ます。あっても構わないでしょう。
 つまり、それくらい、自由で開放的な活動が日本では許されているのです。今回の問題で一番私が危機感を感じるのは、メールの内容が気に食わないからと言って懲罰動議を引き起こした点にあります。私的感情の報復を、公的権力を濫用し、議会(懲罰動議)を道具にして圧力をかけたということです。つまり、これは明らかな検閲による活動の妨害です。メールが私的であるかどうか、その内容が人権侵害にあたるかどうかという論議をなぜもっとしなかったのか?
 また、最近では、本人に了解も得ずに、政党の新聞への折り込み情報宣伝紙を利用して広報されたり、議会でメールを読みあげるようなことも、本当に「良識」を疑います。議会で資料として出されているから、あるいは情報公開で出されているからいいということでしょうか?それでも、書き手本人が「私的文書」と主張している以上、了承を得るのが常識ではないでしょうか?

3)安易な謝罪は民主主義を崩壊させる
 「白井議員が素直にそのとき謝っておけばこんなことにはならなかった」などという馬鹿げた意見がありますが、これこそ民主主義を知らない、恥さらし的意見であり、数と力でしかものを考えない証左であります。不本意であるにも関わらず「謝罪」することは、議員としてあってはならないのです。きちんとおかしいことはおかしいと論じることが民主主義の大原則です。
*安易な謝罪は、ファシズムにつながるという視点を私は持っています。子供たちにもよくいうのですが、「ごめんね」「いいよ」という惰性的な慣習的行動(ハビトゥス)は、教育的でなく、その問題が簡単な謝罪ですむのか、否かという判断行為が含まれなくてはならないと思っています。そして、「謝罪しないこと」が「居直り」「エゴ」にならないために、きちんとした公開の論議が必要なのです。それを避けた今回の懲罰委員会は批判されるべきです。

 私のように考える市民が多いかどうかは判りません。しかし、今回の問題に関して言えば、議会として、もう少し理論的で明確な説明が必要であると思います。現在、「市民派」女性議員への懲罰が近隣で起きていますが、その殆どが「懲罰」にあたいするとは言えないようなものばかりです。
 今回は、議員の皆様へ、失礼とはぞんじますが、一市民として意見を申し上げる次第です。ご賢察の上、議会制民主主義の本来のあり方を追及され、日進市を「バブル的発展」でなく「住みよい街」にしていただけますように、お願い申し上げます。
 次期市議会議員選挙には、当然、本件に関する各議員の見解や、今後の態度と姿勢をきちんと市民の前に明らかにしていただきたいと思います。また、この問題に関して、市民討論会等などの論戦などで、活発な論議がされることもあるかと思いますが、ぜひ、それらにも参加され、日進市のまちづくりに貢献していただきたいとお願い申し上げます。
以上


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