笑う男「生」学
シリーズ:ジェンダーフリーは学校を超えられるか
第1回 家事・育児は押しつけ合おう
はじめに
どんな運動にも(スポーツ運動から住民運動、選挙運動までを含む)エネルギーがいる。そして、人間一人ひとりのエネルギーは無限大ではないので、どうしても効率を考える。効率が高率になり、マンネリ化してくると飽きる。飽きてくるとつまらなくなり、いつまでもそれをだらだらやっていると、毒素がでてくるようになる。
ボクが今までジェンダーにこだわってきたのは、フェミニズムは多種多様のものであるにもかかわらず、「フェミニズムだ!」というと「ははっー」となって、まるで水戸黄門の印籠のようになってしまうのがいやだったからだ。ボクのようなイイカゲンな男がまじめなフェミニストと一緒に運動したり考えたりできるとすると、それは大変いいことではないかぁ!と思うからだ。
それに、メンズリブという言葉があるように「男にも解放を!」ということが世間で認知されはじめ、その考え方が労働の在り方を考える上で大いに参考になると思ったからだ。
このシリーズはジェンダーを再考し、性差別問題を考える参考になればと思って書く。
- 男にも育児時間を!
現在は、ボクら公務員の男性にも「育児休業」が認められるようになった。しかし、少し前は、男が育児時間を取ることなど「非常識な事」だったのだ。
1985年2月14日にボクは息子の為に名古屋市に毎日3時間の育児時間を要求したのだが、当時それは「ドンデモ先生」として報道された。すでに東京の田無市では条例化されていたが、この愛知・名古屋では宇宙のはるかかなたのM8星雲くらいの話だった。
中日新聞の社説ではボロクソに書かれた。勤務先の学校へも抗議の電話が入った。でもボクはそのころ は、そういう反応にドキドキしながらも平気だった。(今もそうだが)
水田珠枝さんやワーキングウーマンの女性が随分助けてくれたので、心強く思った。残念ながら男はあんまり助けてくれなかった。
- 家事育児が好きなんですか?
それ以後、性差別の撤廃を求める集会に参加を乞われて出席するようになった。むろん、今まで女性がそういう運動をしたり集会をするのは「ウーマンリヴ」というよばれ方社会的に認められていたが、そうした集まりに男性の参加は比較的少なかった。しかし、ボクのようなヘンな男が現れて、女性の権利拡張の運動も勢いがついたのだ。
が、その時に参加者から出る発言で、ボクが違和感を持ったのは「岡崎さんのような夫を持つ奥さんがうらやましい」とか「家事・育児が好きなのはすばらしい」というものだ。それは差別で培養された「本音」であった。誰しも、そう思うのは勝手だが、この発言は事実認識に違いがあるのではないか。つまり、「奥さんが」いないところで「うらやましい」という発言をしてもらっても、ボクにとっては何の意味もない。また、当の「奥さんが」そう思っているのかどうかは別だということだ。
「家事が好きだ」といわれても、いつボクが家事が好きだといったのか?そりゃー半年に1度くらいは、「好きになる」こともあるだろうが……「毎日、ご飯のおかずを考えること」のしんどさをボクは知っているので、そして、多少気分がすぐれなくても、キレそうでも、口をあいて待っている子どもたちやボク自身のおなかを満たすには、「作るしかない」のだ。そういう実態を知っている女性は、「家事が好きだ」なんていう人が極少数であることくらい 知っていそうなもんだ。
それに、育児なんてのは「夜泣き」や「授乳やおしめ替え」など気が遠くなるほどつらい、けどやらねばならぬことなのだ。だから「好き」には程遠い。
- いやなことは押しつけ合おう!
家事や育児は、いやだけどやらねばならぬことだとボクは思っている。だから、夫婦や家族で押しつけ合うしかない。家事や育児は手伝うものでなく「分担」するものではないだろうか。
だから、男がたかだか「育児時間を要求」したり、「食物アレルギーの子のためのキャロットケーキを作った」くらいで、ギャーギャー騒ぐな!ということだ。むろん、一つの戦略で「男も家事をやるんだ!」という宣伝は必要だろうが。調子にのってはいけないのだ。
保育園で親子給食会の機会があった。そのとき、食物アレルギーの息子は弁当を持っていった。彼が食べられるシュウマイをボクが作り弁当に入れておいたら、同じクラスの「まのあけみ」ママが「みなさぁーん、大甫くんのお父さんの作ったシュウマイですよ!見て下さい」と宣伝したので、一つの「岡崎パパは偉い!神話」ができてしまった。それをボクの勤務先のPTA講演会でもしゃべったので、目茶苦茶恥ずかしかった。まのさんのネタになってしまったのだ。
連れ合いは「私の方が、たくさん家事育児やってるのにー」と笑いながら怒っていた。つまり、すごく偉いのか、そう大したことでないのか、あるいは取るに足らない事なのかは、相対的なものなのだ。ボクは家事や育児なんかはできるだけ手を抜きたいと思っている。むろん、「いやー、今日は子どもが熱を出して、家で待っているので早く帰ります」と言って「家事・育児を悪用すること」はいいかもしれないが。
しかし、毎日の暮らしの中で、家事や育児が家族で分担されて定着した時、それは、性差別への闘いやフェミニズムの成果というよりは、家族構成員の間での「力のバランス」で押しつけ合った成果だと思う。例えば、シングルで「分担どころが、自分でやるしかない」という家族なら、暮らしの中に力のバランスなど必要ない。
「家事育児は半々で!」というのは、あくまで「スローガン」であって、現実はもっと流動的だろう。大体「半々」という概念は家事や育児の現実にはそぐわない。真剣に「半々でやっている」人にお目にかかりたいものだ。半々はかけ声でいい。お互いが、「今日は、どうしても重要な用があるので、夕飯はあんたの番だ」と言う場合に、どちらが重要か?などとは決められない。妻の会社の企画会議と夫のビデオ研究会とどっちが重要かなどということは「どっちもそれなりに重要なのだ!」から。
したがって、お互いがどれだけ自分の方が重要かを主張し合うわけで、大抵は論議に疲れた方が負けるのだ。あるいは、一応負けといて、次回にそなえ、自分が優位にたって本命に勝負するということもあるだろう。そうしたかけひきが家族間の中で「健全に実施される」ことが一番大切だと思う。
面倒ならすべて外食で!という人もいるだろう。ボクは外食がどうしても好きになれないのだが、ボクは、自分で作ればいいんだから楽だ。
そして、どうしても自分ばかりが不利ならその家族を解体すればいいのだ。結論は常に単純である。
とにかく、家族の暮らし方には不当な差別も多いが、それに「平和的解決」などは期待しない方がいい。それより、押しつけ合いながらうまくやる道を、それぞれが探す事の方が重要ではないか?
1998年1月16日
(つづく)
このシリーズは子どもの人権オンブズマンの機関紙での連載である。次回以降は
2:男らしさの天国と地獄 3:混合名簿は絶対に正しいか 4:男と女しかいない性教育の迷い 5:タテマエ男とホンネ女 6:「性開放」的働き方