笑う男「生」学


ジェンダーフリーの教育展望

職場通信:きょういく大研究52号1999年1月28日発行
  1.  「君」と「さん」の理解

     男の人に「君」、女の人に「さん」という区別はおかしいというのがジェンダーフリー教育の一つにある。正直に告白すると、ボクはいまでも時々というか、けっこう頻繁に「君」を使うことがある。
     でも、「君」は、目下へ使うことが多くて、しかも主従関係がもとになって作られた言葉なので、やはり「さん」が良いと考えている。(うーむ、考えているんだ。)
     歴史的社会的に差別の道具として作られてきたものは、できるかぎり「知ったその時」から排除していくのが良いと思う。疑問に思うくらいならいいが、一番困るのが、居直ることだ。知っていても、あえて差別の道具を使うなら、当然リスクを背負う覚悟をすることだ。職場で今回のように率直に話し合えるのが一番いい。「疑問なことは疑問なのだ」から。それと、ボクだって「絶対に正しい!」と偉そうには言えないので、よろしく。(謙虚でしょ?)
     唐突だが「バカチョン」カメラという言い方がある。これは、明らかな差別語である。「チョン」は朝鮮人への日本人が与えた「差別的俗称」である。「馬鹿でも朝鮮人でも使える」というのが「バカチョン」なのだ。つまり、知らないからといってすましているわけにはいかないことも多々ある。
     「君」が差別語であるというのは、ちょっとキビシイ話だろうが社会に出れば「さん」なのだから、まあ学校でもみんな「さん」でいいのではないか!とボクは単純に思っている。
     つまり、「いわれなき区別は差別である」から、「必要ない区別は必要ない」というボクの主張だ。

  2.  ハイヒールも女性抑圧の道具だった!

     「女性の小さい足は美しい」という美意識が、中国の纏足という女性抑圧の道具として民衆にまで行きわたっていた。今どき、纏足なんぞしている人はいないのだろうが、それが「男の美意識」を土台としているところが恐い。
     十七世紀初めに現れたハイヒールも「よたよた歩く(当時は四十cm以上のものも多い)女性」を女の無力さとして男が求めたということだ。もちろん足を小さく見せることになる。足フェチという性的嗜好にも直結しそうだ。
    (駒尺喜美編『女を装う』勁草書房刊)
     つまり、だからハイヒールなど履くな!ということではない。何を履こうと勝手だが、そういうことを知ってしまうと、なかなか複雑な心境になる。スカートと貞操帯、指輪、首輪等々、色々とある。
     最近の歴史学や民俗学はそうとう進んでいて、とりわけフェミニズムの研究者が多くなり、女性としての自分が一体何物か、男の従属物でない女とは何であるか?という思考ができるようになってきた。ボクもそういう本や研究者の話聞きながら、なんでなんで?と考える。学問が男の論理だった時代は終っている。

  3.  女らしく育てたい=母性の神話

     先日、K市で女性学を研究する市民のために実施された学習会へ招かれて話をしてきた。ボクは、これから『男学』を提唱していこうと思っているので、その話やら、育児家事労働や学校の性差別の話をした。十数人の学習会なので参加者も色々と発言してくれた。少人数の会合の方が、やっぱりおもしろい。
     若いお母さんが「女の子らしく育てたいのですが……」と言い出したその時、「具体的にそれはどういうことなの?女らしくって何?」と中年の女性が指摘した。(きたぞぉーっ)とボクは思った。
     案の定、その若いお母さんは困ってしまった。「お行儀よく」と言っても、それは男だろうが女だろうが同じだし………。つまり、実際「女らしい」と言っても別に「女」だからということはない事柄がほとんどだ。他の人が、「母性が女には……」という。ボクはまずいなぁと思う。やはり、その女性がすかさず「はあー?母性?あなたね、母性なんてないのよ」と断じられて、そのお母さんはたじたじ。
     確かに「母性」なんて言うのは、神話・イデオロギーだということが最近学問的に明らかになりつつあるから、あまり大きな声ではいえないのだ。生物学でも母性は存在が否定されている。母乳が出るから、赤ちゃんを生むから母性があるわけではない。セックスが女であることや、男であることも「先天的に決まっているとは言えない」という研究が出てきている。(伏見憲明『性のミステリー』講談社)
     母性は近代の産物であり、べつに人間普遍の代物ではない。『母性は女の勲章ですか』(産経新聞社刊)で大日向雅美さんは、母性に縛られた女の悲劇をルポしている。子どもを持たない女性がどれだけいわれなき差別されているかをきちんと聞き取り調査している。
     今や性別二元論(男と女しかいない)ということが問われはじめている。「ホモだ!」とバカにしたり、「ゲイは去れ」という男主義は社会的には人権侵害にあたるだろう。ボクも話す時は「男らしさから自分らしさへ」というものが多い。
     男女共同参画社会へ向けての動きは行政主導型になっているが、今どきもう、男と女を分ける必然性はなくなっている。学校という職場は男女給与など勤務条件の性差は無いことになっているのにね。
     先日学校で上演された、うりんこの『あいつ、こいつ、きみは誰?』も、父親が出ていった家族の兄と妹が主人公になっている。つまり、男と女の関係が変わりはじめれば、当然家族の在り方も変わる。シングルを「欠損家庭」などと言う時代錯誤の発想は速やかに駆逐されねばならない。父母子などという家族形態がモデルになる時代はもう終った。それぞれが自分たちなりの「家族」の在り方や性存在を自前で見つける時代なのだ。(終り)


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