笑う男「生」学


「男らしさ」の天国と地獄!

『子どもの権利オンブズマン通信』99年2月号を大幅改稿
  1.  男もコーヒーを入れて、早く飲みたい。

     ボクは、最近でこそ言わなくなったが、泣いている男の子に「男のくせに泣くんじゃない」とよく言っていた。もちろん今では「男が泣いてなぜ悪い!」と豹変?!しているのだが。この「男のくせに」というのが、相当深いところで性差別を生み出す基盤になっている事が分かってきたのだ。
     このような学校のジェンダー形成機能を教育課程と比較して「隠れたカリキュラム」と呼んでいる。しかし、これはマイケル・アップルの主著である『学校幻想とカリキュラム』(日本エディタースクール出版部1986年)に詳しく書かれているように「知の正統化」に向けての文化資本の再生産としてのイデオロギー形成の一方法概念である。
     従って、差別の制度化に貢献する学校教育の概念として明確になっている。すなわち、ジェンダーフリーの教育に限らず、あらゆる学校知を教育として子どもの中に再生産する概念である。
     さて、会社や学校という職場でも、男は「期待」されていることが多かった。男の教員がウロウロと湯沸かし室の周りにいると、女性の高齢の教員に、「男の人はどっしり座って待っていなさい」と大いに叱られたものだった。二十年前の新任教員時代は、コーヒーやお茶が飲みたくても「女の先生が入れてくれるまで待つ」のが普通だった。ボクは、「男はつらいな」と思った。
     自分の家では、自由にコーヒーやお茶が入れられるのに、どうして学校は待たなきゃいけないのか?しかも、「男として待つ」と、女の先生が「もうちょっと待って下さいね、今やりますから」などというので、目茶苦茶恐縮してしまう。家なら、連れ合いや母親が「ボーッとしているくらいなら、自分でやりなさい!」と完全にキレル条件がそろっているくらいの状況なので、ちょっとドキドキしてしまう。
     男っていうのは結構つらいものなのだと思う。しかし、中にはジーッと待てる人もいて、すごい忍耐力があるな!と感心する。ちょっと手を伸ばせば、お茶くらい12秒位で入れられるのに、それを、女の先生が入れてくれるまで待っているんだからすごい。そのうちに飲みたくなくなるんじゃないかと心配になる。挙げ句の果ては「やっぱり女の人に入れてもらったお茶はおいしいなぁ」とお世辞まで言わなくちゃいけないんだから大変だ。飲みたいのを我慢して待ち、そのあげくお世辞までなんで言わなきゃいけないのか?どうしてそんな「道」を選択するのかが、ボクには分からない。それに、女の人が「お茶を入れるのが上手」だとか「料理が上手」だというのは大ウソだ。単に、作るのに習熟しているからだ。そういう経験が多く、学習効果があったからだ。たまたま女にそういう機会を「独占?」されていたからにすぎない。
     「据え膳」という言葉がある。すぐに食べられるように用意されて食事が出てくることだが、多くの家庭はこうした男にとって、据え膳が日常的なのだ。だから「据え膳」のもう一つの意味に「女が男に言い寄ること」(『辞林21』三省堂)などというのがあるのだろうか?
     『家事労働に賃金を』というイタリアのマリアローザ・ダラ・コスタの書には、女が家事労働の無定量の時間に区切りをつけるためにも外で仕事を持て!という。また、出産の拒否という闘争も組まれている。その主張は「子どもの存在は家事労働の量を増すばかりでなく、必然的に女を拘束している。というのは、この労働は無償であり、ここから男への依存と女の孤立という事態が生じるからである。」と述べる。
     こうしたフェミニズムに対し男  学は、家事労働を男が分担することで、とりあえず女性を無定量な家事労働から解放することを志向する。それは、家事の「絶対量」にも影響を与える。例えば、男自身が自分でアイロンをかけるようになれば、そのしんどさ故に、アイロンは「どちらでもいい」「必要なものだけでいい」「もうやらなくてもいいだろう」ということにもなる。よって、もしアイロンが女性の分担としてやられているのなら、ワイシャツ2枚のアイロンが1枚になることもありうる。自分でしない男は、女を家庭内クリーニング屋さんと間違えることもないだろう。

  2.  男は女より「すぐれている」かどうか?分かるワケがない。

     男の方が「優越」しているという神話がある。その神話は、男を気分よくさせた。むろんそれは差別を正当化そして正統化する。しかし、実は男が「優越」し、女が「劣等」であるなんてことは、いまだかつて誰も証明したことはない。
     男の差別者性は、反転して「優れていなくてはならない」という強迫観念を日常化し、《ハビトゥス》を生産した。ここで差別者は同時にその差別根拠によって同時に「抑圧」されるということも言い添えておきたい。
     ボクの高校時代、最初におつき合いいただいた彼女は、相当頭脳が優秀な人であった。「岡崎君はどうして勉強しないでサッカーばっかしやってんの?単語の一つも覚えたらぁ」と本山の地下鉄のホームで大きな声で言われて困った事がある。本当の事実だから困った。
     彼女とうまく行かなくなった理由が、ボクの勉強嫌いからだとは必ずしも言い切れないが、そのとき勉強しない自分を、最初に「劣等意識」が襲った。そして、当時の同級生の友人であった秀才君にかなりバカにされた。いわく「オマエにはあんな優秀な女はもったいない」である。ところが、そこまできたとき、こんどは、ボクをバカにしたその友人のおかげでボクは「男は成績が良くなくては『ダメ男』になるぞ!」という強迫観念から自由になれたのだ。なぜなら、その秀才は、ボクの一番嫌いな人間のタイプであり、競争主義の勝者であったが、人間臭さのない、殴りたくなるような嫌味なバカヤローだったからだ。つまり、「学校化された成績優秀偉そう人間=生活役立たず人間&魅力無し&一緒に遊びたくない人間」というオカザキ原理からすると、彼の言うことなどに脅迫観念を感じる方がアラアラバカバカしいと心底想い、考えたのだ。
     つまり、「成績や金」という世俗的な排他的価値が優先するようなヤツ(男女不問)となんか付き合ったら、こっちが「腐る」などという考え方が一層強くなったのだ。それは、「やっかみ」というより、「それを追い求めることでどれだけ人間がつまらなくなるか」、少なくとも「そういう人間とは一緒にいたくない」という思考回路がボクの成育の中で条件反射的なものとしてできてしまっていたからだろうと思う。
     成績が優秀であるということは、一つの優秀さではあるけれど、「優秀」「劣等」というのも「ものさし1本の世界」に埋没している人間ならともかく、そうでないなら、決して固定的・運命的・未来的・ノストラダムス的・輪廻的に考えることはできないのだとボクは確信している。
     だから、今どきというか、昔から「男が女より優秀である」というのが『神話』でしかなかったことは、よーく考えれば、だれもがみんな知っていたのではないか。つまり、男が優秀だと思いこみたいという願望は、ちょっと周りを見れば分かることで、「男尊」どころが「学校化」という男の論理が優先している価値の制度化自体が、生活の足下からグスグスとくずれているのを、うすうすみんな知っていたのではないか。
     男がみんなランボーにあこがれたり、ダーティーハリーになりたがってたかどうかは分からないが、もしランボー的身体を願っているとしたら、それはみんなマッチョな攻撃性をうらやんでいるだけである。(それだって、ボクの小学校時代によく見た「港の姉妹」の髪の毛を掴んでの「後方引っ張り倒しのワザ」を知っていれば決して男のみが強いわけでないことは実感できるはずだ。)
     この男性マッチョ主義は、初歩的なというか基本的な身体的権力の構築である。早い話が、ランボーは乱暴者という権力者なのだ。多分、男が女より優位に立てるとしたら(それが優位と言えるかどうか?)それは、今の所「乱暴者」というのが男に多い!という点だけかもしれない。もちろんこれだって、統計があるわけでも無し。ただ一般に言えるのは、男が女に対して為す「陰湿な暴力(レイプやセクハラ等)」が多いのは事実だということ。が、その「身体的暴力=乱暴」を男が女より「すぐれている」点だと言うのは、かなり無謀な話ではある。

  3.  男らしさは「労働尊重主義=企業戦士」  のこと

     ボクにとって、男らしさから自分らしさへの実戦的転移とは、働き方のフィールドを問題にしていくのが一番いいと考えている。「男は黙って働く」という産業社会の労働観こそが、まず変わらなければならない。男性学(男  学)はまさに労働の問題を避けて通れないのではないか?と確信している。多分「勤勉」という観念も男らしさの範疇に入るのだろう。業績主義、競争原理など現代産業社会を支えるイデオロギーはすべて「働きかたの倫理」を実戦する「男の生き方」なのだ。しかしながら、一見「男天国」に見えても、実は「過労死地獄」なのだ。
     労働を考えなおすとき、ボク自身が学校労働者、つまり教員、教師であることが大変都合がいい。教員は時間も忘れて子どもたちのために頑張ることがいいことで、それを決して疑ってはいけない!というのが社会通念になっている。
     しかし、いまボクの周りでは、定年前に過労が原因でなくなってしまったり、退職を余儀なくされている仲間が珍しくなくなった。これは、学校制度そのものの問題や、親たちそして市民社会の変化の「つけ」が学校にきていることで、教員や子どもの疲れが増加しているという見方もできる。
     ところが、それなのに「教員が休暇を取って映画を見に行くととは何事だ!」という「世間の目」という匿名の不満はよく聞かれる。学校が開かれていくのと同時に、不満や抗議も多くなっているが、その中で「教員のゆとり」は確実に消失しはじめている。「子どもを善くしていこう」というようなタテマエ声は開かれても、現実の過労教員の声とは交差しない。むしろ、「教員が休暇をとらずに仕事をすれば子どもは善くなる」と「世間の目」は一層過労教員を増加させる。一口で言えば「教育愛による抑圧」である。「身も心も粉にして働いてこそ教員である!」という感情だ。
     現場感覚では、教員がゆとりを持って子どもと付き合えば、事態は相当善くなるというのが率直な思いなのだ。管理職は子どもや教員の実態を知りながら、動きは「世間の目」に合わせてしまうことが多い。
     男的学校社会の中で、過労や超過勤務が当然視されるなかで、「果てしない教育愛」という母性神話から紡ぎ出された抑圧も同時に学校を席巻している。ここでは男女強制の抑圧機能がみごとにマッチし確立している。
     以前「職場で抑圧的な管理職に男も女もない。出世自体に価値を置かない」とボクが言うと、活動的女性が「オカザキさんはそういう出世から『降りられる場所=男』にいるからそう言える。私たち女はその場所にまで上がってもいない!」と批判された。しかし、ボクはその見解が、今の産業的男社会を支えているシャドーワーク的女社会を反転させるだけだとするのなら、大いに不満なのだ。
     ジェンダーフリーして女性が管理職に登用され、男と同じように過労教員を抑圧するならば、そもそも「管理職とは何か?」という根本的な問いを出していかねばならない。つまり、労働体制そのものへのキビシイ批判なくしてのジェンダーフリーなどあり得ないのだと思う。それは、ボクの知っている女性校長の方が、むしろ男校長以上に抑圧的になれるという経験からだ。それは、「男に負けないくらい」管理することが、女性の地位向上につながるという矛盾を孕んでいるということだ。
     職場の労働の在り方への批判も当然ジェンダーフリーでなくてはならないし、女性が、男性がという水準はもういらない。闘いもジェンダーフリーである。誤解のないように言うが、女性が機会均等に職業を選択し携わることができるようになるのが優先順位であることは当然だろう。しかし男であれ女であれ、抑圧されていることは勲章ではないのだ。ボクはそう思いつつ、嫌な上司は「男女不問」であることもハッキリと言い続けたい。●
    (1999年3月7日改稿)


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