笑う男「生」学


混合名簿は絶対に「正しい」か?

  1.  混合名簿は「燃えないゴミ」であった

     ボクは、学級名簿を男女別にしない混合名簿を13年前から使っていた。先回に述べた「男の育児時間問題」を提起したあと、東京の「行動する女たちの会」に会い、混合名簿のことを知って、はじめようと思ったのだ。たかが名簿のことだから、どってことはなかった。むろん管理職は良い顔をしなかったし、養護教諭や出席簿の係からはいやな顔をされた。でも、ちょっと現状と違う事をやると、いつもいやな顔をされることが多かったから、それほどのトラブルはなかった。職員会で管理職に「混合名簿」について見解を聞いても、何も知らないので答えられない。しかし、この混合名簿が違法行為ではないことは認めた(当たり前だが)。
     混合名簿が正しいことくらいは理論的には言えるが、この名簿問題はもともと理屈だけではない。しかし、極少数派のボクとしては理論だけがたよりだからそれなりに勉強した。今ではいろんな参考書が出ているから便利になった。
     ただ、男教員どころか女教員もこの混合名簿については懐疑的で、「そんなことにこだわって何になる?」というムードが支配的だった。現状肯定のためには「常時こだわりのない」態度を要請されている学校社会では、ボクの提起を「聞き置く」的扱いにした。つまり、混合名簿は焼却できないで放置しておく「燃えないゴミ」だったのだ。積極的な反対はしないが、物好きな人の突拍子もない考えということだ。

  2.  6年前からのつつましい動きから全校実施へ

     今の学校に赴任した時の最初の職場ビラが、混合名簿実施のテーマだった。あのころ養護教諭は自分の実務が混乱するという理由で猛烈に反対し、民主的教員の一人は「そんなささいなことにこだわらずもっと大きな問題があるでしょう」といいながら、大きな問題も避けていたし、みんなも「ウーム」の大合唱だった。面と向かっての反対はなかったが、いまいち「なんでぇ?」という職場だった。
     ところが、三年前、現職教育でジェンダーフリーの研修を任されて、ボクはビデオなどを見せながら話し合いをした。自分が「絶対にパーフェクトに正しい」と思ってこの混合名簿をやっているわけではなく、多分正しいよね!くらいの感覚なので、ボクは、「混合名簿ははじめ面倒ですよ」「まあやったからと言って全差別がなくなるわけでもないし」と率直に言った。
     次の年、半分くらいのクラスが混合名簿にした。校長が「やれるクラスからやってみたらいいよ」と職員会で発言したのだ。そして、今年度(98年度)から、全校実施になった。
     最初の年のジェンダーフリーの反省会では、実務的な煩雑さをみんな率直に話した。ボクも最初の頃そうだったから、そうだそうだと思った。今年の反省会では「他にもジェンダーフリーする場面があるのではないか?」とか「君とかさんについて疑問がある」というようなことも指摘され、「『明るいこころ』(道徳の副読本)にはジェンダーフリーの視点からみると問題が多い」ということの指摘もあった。職場は深化し進化した。
     ボクが、ちょっと見直したのは、みんなが率直に自分の思いを語った時である。そこがいいなと思った。確かにタテマエも社会の方向もジェンダーフリーがいいのだ。しかし、そこへ意識や習性がまだついていってないのも事実だ。特に男は。だから、そこを避けずに、率直に話し合うことで、より意識が深化する。ボクが回りくどく差別の問題は難しいと発言した時、同僚に「岡崎さんは、どうしてもっと率直にそれは差別だ!といわないのか。直球で言って欲しい」と批判された。あまりに気を使い過ぎるということらしい。「そうか、そうか、悪かった」と反省させられた。

  3.  トップダウンの「絶対に正しい」は恐い

     混合名簿で差別が解消したとか、混合名簿でいじめがなくなったという報告を聞くと、それはそういう場合もあるかもしれないが、でもな……と思う。混合名簿をきっかけにして性差別が問題になることはあるだろうが、特効薬ではない。逆に、校長・行政や大組合の命令で「あっと言う間に混合名簿」となる方が、差別は温存されるだろう。確かに、その方が早く「改善」される。しかし、できるだけじっくりと自己省察する機会はあった方がいい。良いことにも悪いことにも、トップダウンの恐さはあって、自分の頭で考えることを回避する。全校で混合名簿に取り組んだからと言って、それが「すごい」かどうかは、その当事者でなければわからない。「教頭が『PTAのかあちゃんが』という言い方で保護者を呼ぶのはやめるべきだ」という意見が職員から先日出た。職場もちょっと変わってきたような気がする。●

    (1999年3月14日)


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