笑う男「生」学


ジェンダーフリーは学校を超えられるか第6回 最終回

「性解放」的働き方

 シリーズの最終回は、労働=働くということについて考えてみたい。以前からボクは「教育サボタージュ論」というのを展開してきた。それは、ちょっと聞いただけの人には大いなる誤解を生んだし、それを理解してくれた人々の一人、山田牧子さんにさえも、十年くらい前に、集会あとの懇談の時の東別院付近の喫茶店で「まだ、時期が早過ぎるわ!」と忠告をいただいいた事がある。むろん、今現在だって「早過ぎる」かもしれないのだが。このサボタージュ論は、近現代産業社会の効率主義や業績主義自体に異議を申立て、そんなに一生懸命に働いても人生は幸せとは言えないんじゃないの?という気持ちを伝える論としてボクは提起した。
 いままで述べてきた、この性の解放というか、まあ、性別役割分担を解消しようという論議は、フェミニズムの運動としてはいいけれど、同時に今までの男に担わされた「頑張ることが善である」という価値観を再検討しないとしたら、そのフェミニズムには反対したい!ということをつけ加えたい。実は、十二三年前に、東京で毛利子来さんとジョイント講演会をしたことがある。かの「男にも育児時間を!連絡会」のイベントである。その時に、フロアーの女性から「岡崎さんは、学校で遅くまで残って一生懸命仕事したい女がいるのに、夫がそれを支持しないでいる時に、その夫に賛成するのですか?」という複雑で重要な問題を提起された。そのころ、ボクは「女だから」という論調は、男とケンカする時に戦術としては有効かもしれないが、決してそれを根っこに持ちたくないと思っていたので、とにかく男だろうが、女だろうが、残業はやめる方に加担したい!と思うようになっていた。もう一つ例をあげると、悪名高き「愛知の主任制」に反対している時に、「女性にも主任を!」という運動に自分がどう対応したらよいか?と考える機会があって、その時にも随分悩んだ。結果、女だろうが、男だろうがイカンことはイカンのだ!という主張をしようと思うようになった。
 これは昔のかの有名な「主婦論争」にも匹敵する重要な問題だと思っている。「管理職の登用が男性に偏るのは良くない」とか「女性にも深夜残業をさせるべきだ」とか、「女も男並みに頑張ってこそ発言権がある」という、フェミニズム資格試験的「傾向と対策」問題のよう な、慎重に論議の必要な課題なのだと思う。
 ボクの教育サボタージュ論は、教育愛が常に善なるものという「教育愛神話」批判の一つとして提起している。「一生懸命やれば、子どもはよくなるはずだ」が「教員がこんなに愛を注いでいるのに、よくならないのは、子ども自身のせいだ」とか「親の愛がたらないからこんなことになった」という例の言い方に「発展」するのを阻止したいとボクは思っている。した がって、「一生懸命に子どもに尽くすことは、偏狭なエゴイズムであり、『教育愛』は子どもを抑圧することがある」(「ボクの教育命題2」)という「教師の勤勉」を批判するために、教育をサボタージュしよう!という主張をしてきた。むろん、これは善良な人々にはウケないのだが、ボクは正しいと今のところ思っている。
 それが、職場で不平等な差別を受けて、男並みに一生懸命仕事をやりたいと思っている女性の反発をくらうのである。むろん、「その仕事の『内容』しだいじゃないの?」という〈無難な意見〉もいいのだが、ボクはあえて「善きことも、時にはやらない勇気が必要だ!」という事にしている。なぜなら、その勤勉一生懸命残業的お仕事を「内容はたいしたことないけど」なんていう人はいないからだ。「保健だより」問題を見てもそれはよくわかる。教育の仕事には不必要なことなど何もないというのが、いままで職員会でボクが学んだことだ。誰にも「意義」を見つけることができるようになっている。現実的には「雑務なんてないよ」という論調で、「雑務排除」というのが、いっこうに進まないのを見ても分かる。
 性の解放としての、労働現場での平等運動・性差別撤廃が、労働条件をよくすることにつながらない限り、あまり意味はないのではないかと思う。男女の性差別を解消し、性によって区別されないということが、性に区別なく抑圧されることにつながる恐れも十分あるのだということを、ボクは意識している。時として、「人間の解放」という言い方は、全ての異なる一人一人が、「人間」という言葉で、理不尽にくくられてしまうことがないだろうかと考える。男でも女でもなく、ボクのばやいはオレがオレが!の世界でいいのではないか?
 今回の労働基準法改「正」が、「労使自治」という特徴でまとめられているが、果たして、労使が意識として区別できるほど、緊張関係があるのだろうか?時間を切り売りして生活費を稼ぐという単純な労働者は、できるだけ正しく・働かないでお金が欲しいという素朴なホンネを隠さないでいたい。「そんなこと言えるのは、親方日の丸の先生だからよ」という多くの世間の人々の罵声が聞こえてきそうだ。それでも、昼間っから喫茶店やパチンコ店(ボクは、中に入ってやったことはないけど)でサボっているサラリーマンを見ながら、いいぞいいぞ!と思う、過労死してしまったら、いくら皆に尊敬され敬われても、その葬儀がいくら立派でも、つまらない。嫌味を言われてサボる方がよほどいいや!と確信している。

(1999年6月6日)


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