笑う男「生」学


ジェンダーフリー教育と朴婉緒的フェミニズムの可能性雑感

 ジェンダーフリー教育の徹底!
 ぼくは、ジェンダーフリー教育をだんぜん支持してきた。そして、あちらこちらで、古いしがらみと「前例踏襲主義」に縛られて怒っている女や男と、一緒にケンカもしてきた。随分と世の中は変化したと思う。ジェンダーフリーを言う人間を「変人奇人」から「進んだ人」と呼ぶことが多くなった。
 しかし、いまだに「ジェンダーバイアス」(無意識に性別で「差別」しながらそれを当然・自然だと思う惰性的習慣的慢性的考え方:岡崎的解釈)のかかった発言を見聞きする。ただ、ぼくはそういう人を「意識が未成熟な人」であると思うと同時に「正直な人」でもあると思っている。そして、ジェンダーフリー教育が学校を改善するのは、そういう人が「変わらないかぎり」終局を迎えない、果てしのない闘いだと思っている。
 先日「専業主婦はどうしてイケナイのぉぉぉぉぉ」と聞かれた。ぼく自身は「いけない」などと思っていないし、「できるだけ少なく働いてできるだけ良く生きる」のを目指しているので、できれば専業主夫に将来なりたいと思っている。専業主婦が否定的に扱われてしまうのは、自律自立するための経済的な力がない(やりたい事ができないとか、すぐに離婚しにくい)、ことと社会的な場に出られないという二つが、当面の課題になっているからだと思う。(むろん、それ以外にむつかしく言えば家族の再生産問題もあるだろうが……)
 とりあえず、学校では、ジェンダーフリー教育をぼくなりにしている。現在の担任している子供の親は専業主婦が結構多いのではないか?と思い(調査はしていないし、できない)、「女性も経済的自立をしなくてはいけないのではないか」などと子供に教えつつ、ちょっと、担任している親にも聞いてみたい気がする。でも、このたぐいの問題は、そうとう緊張感がある。つまり、親の存在や、生活の在り方そのものを「評価」するようなことになりやすいからだ。たとえば、「煙草の害」を教えて、タバコをすってる人は迷惑な人です!みたいな話になったとき、家族に該当者がいると、子供もそうとう悩む。
 働くことの意義や意味を考えているより、「喰えないから働く」というのが一番わかりやすい。同様に、ジェンダーフリー教育も、ジェンダーバイアスがかかっている制度や管理者との闘いが一番わかりやすい。
 混合名簿について「行政主導でなく職員が研修しながら自己変革するのがいいのだ」とぼくが言うと、「そんなこと言っていたら、いつまでたっても学校は変わらないわよ!」と痛烈な反論を食らう。「たとえトップダウンでもやってもらわないと、先生たちなんか、自分で変わろうとなんてしないじゃないの」と、本当に的確に指摘される。名古屋市教委の調査では、「混合名簿を取り入れている」学校が増えているそうだが、その中には「PTAに配布する名簿ダケが混合名簿」の学校もあり、それでも「取り入れているには違いない」と市教委は言う。そんなもんは、ぼくからいうなら「取り入れているフリをしている悪質な学校」の項目に入る。(そんな項目はないが)

 朴婉緒さんの「男女平等」について
 朴婉緒(パクワンソ)さんの『あのたくさんのシンアは誰が食べてしまったのか』という私家版本を、翻訳した夢2001というグループのメンバーにもらって読んだ。おもしろくて朴婉緒の別の作品『結婚』(学芸書林1992年)も一気に読んだ。
 すでに七〇才になる韓国の小説家である。彼女は「この国の作家であることを喜ばしく誇りに思っている。貧しく迫害された経験のために、すべてのことを深く多様に感じることができたし、植民地時代と同族同士の戦争は、膝をついて頭をさげたいような高貴な人間性から、足で踏みつけてもまだ足りないような卑しい人間まで、千層万層の色々な人間を経験させてくれた。」(二〇〇〇年ソウル国際文化フォーラム発言)と述べ、市井の作家として、リアルな生活の中で「男女平等・フェミニズム」も考えようとしている。彼女は自分をフェミニストだと 思ったことはないというが、理想的な男女平等教科書には決して無い、深い洞察と生活を変えることのむつかしさを書き続けている。
 『(夫婦が解体した)私の失敗の原因は「男女平等」のせいだった。わたしは一人の男を愛するというよりは、男女平等を愛していたの。男女平等ということにこだわる余り、愛を省略して男を選んだのよ。……』(『結婚』より)
 ジェンダーフリー教育は、自分が幸せに生きよう、自由に生きよう、楽しく生活しようとすることを、「いわれのなき性差別」によって、妨げられない「力」をつける教育でなくてはならないのだろう。しかし、それは「極めてむつかしい、困難な教育」である。
 そして、ぼくの考えからすると、その教育は「面倒な日常生活」を避けては到達しない「ダーティな仕事」のはずだ。
 朴婉緒作品を読みながら、その先には、 夫婦とか恋人や家 族の「愛」は、どうやって確認していくのか?愛が消失したら、どうするのか?そんな、ラジカルな問いが在るように読めた。 悄然と、またまたぼくは立ち尽くす。

 朴婉緒『あのたくさんのシンアは誰が食べてしまったのか』が欲しい方は実費でおわけします。岡崎勝まで連絡を!

(きょういく大研究73号2001年11月25日)


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