笑う男「生」学


「行きすぎたジェンダーフリー教育」という考え方

資料:菱村幸彦「ジェンダーフリーを考える」(教職研修2003年9月号)を端緒として

岡 崎 勝

 はじめに

 先回の第一回日進市男女共同参画推進懇話会(03年11月4日)に、日進市教委が提出した資料(教委の説明によると、「課長に見せただけだ。市の共同参画担当課長が、勝手にみなさんに配布した。ここで論議するためのものではない。」とのことだった。ただ、ボクとしては、ならば、当日すぐに回収すればいいし、後日 委員に連絡すればいいのだ。第二回の懇話会に、教委担当者は「こんな考え方もまだまだある。ということで課長に渡した」と説明した。)は、大変興味深いものだった。とりわけ、その論旨は、時代遅れというよりも、現状の認識の非常にあまいエッセイ風の論述であった。それでも、菱村氏の言おうとしていることは、男女共同参画社会を創るためにも、きちんと受け止めておく必要があると思う。とりわけ、菱村氏は教育関係者であり、文部省にも所属していたこともあり、著作も多く影響力が少なくないと思われるからである。
 ある意味で、非常に貴重な資料である。このエッセイの視点や考え方について、私なりの意見をここに述べて、菱村氏のようなとらえ方では、とうてい男女共同参画社会の推進できないということを明らかにしたい。

 資料における問題点

 1)「男女混合名簿が七割とは」について

 「男女混合名簿を廃止した校長に敬意を表している」と述べているが、その理由は述べられていない。しかし、この校長は「ジェンダフリーは共産主義の理念」だということを述べて、思想に偏りがあるので、廃止した……と、私は報道で読んでいる。
 もし、菱村氏が同じ見解ならば、ちょっと困るのだが、ジェンダーフリーが共産主義とかマルクス主義だという論拠を示してもらわなくてはならない。(むろん、共産主義やマルクス主義ならなんでもダメダというのは、思想的にまた歴史的にも、別に批判されるべきだろうが)この点については、そう主張しているいくつかの論文をよんでいるので、いずれハッキリさせたい。しかし、少なくとも「正論04年2月号」に「ジェンダーフリーの元祖はやっぱりマルクスとエンゲルス」石井公一郎(元東京都教育委員)著を読む限りは、あまりにもコジツケでしょというところだ。むろん誤読の自由はあるのだが。
 また、本文で、菱村氏は家庭科男女共修にも疑問を持っているように読めるが、男女混合名簿を「そんな考え方もあるのかと意表をつかれた」とか、「男女混合名簿なんて不便だから、とてもはやるまいと思った」と述べるあたりは、ほとんど、教育に対する時代的要請や、人権問題としての性差別を認識していないことを、まるで「告白」しているようなものだ。混合名簿にしたら、最初は慣れないが、すぐに慣れてくる。名簿を男女で分ける必要性がどこにあったのか?ということに気づく。菱村氏も文部省時代に、こんなことを書かなくてよかったと思う。
 この最初の部分だけでも、性差別問題など人権問題への基本的学習と認識が、彼には乏しいことが分かる。

  2)「行き過ぎたジェンダーフリー」について

 菱村氏は男女共同参画基本法の内容について「異論はない」というが、「ジェンダーフリーの思想が教育界に浸透しつつあるのが気がかりだ」と述べる。しかし、菱村氏はジェンダーフリー教育は「性差を撤廃しなければならないという考え方である」とも言う。しかし、それは、明らかな間違いで、ジェンダーフリー教育は、性「差」でなく性「差別」を撤廃するために、社会的・文化的につくられた男女の差異を論議し、解消すべきものは解消しようということだと私は理解している。
 ジェンダーフリーの「フリー」はバリア・フリーの「フリー」とは違うのである。ジェンダーフリーの「フリー」は「ジェンダーに囚われない、ジェンダーからの自由」であり、 ジェンダーの「ない状態」、あるいは「性差の全く無なる状態」のことを指し示してはいない。
 逆に、なんでも一緒主義は、無為無策でしかないだろう。もちろん、一緒で問題ないものは分ける必要はない。分ける必要がないのに分けていれば何かそこに意図があるのだろうから、それを検証すればいい。
 ジェンダーフリー教育を進めるのは「男らしさ」「女らしさ」というものが一体何なのか?何に基づいて言うのか……そういうことを再検討し、性差やジェンダーへのよりよきものを目指すということに他ならない。
 男女共同参画法は、男女特性論を前提にしていない。生物学的男女差があるのなら、役割も違って当然という論理が、余計な差別を生んできた。そして、育児や家事の男性の分担の推進にみられるように、特性論が間違っていることは周知のこととなってきた。
 男女の生物学的な同質化・均質化をねらってジェンダーフリー教育をしているのだとしたら、それこそ問題だ。人間の多様さを男女という二分法にこだわらず、一人一人の個性というとらえ方をするべきだというのが、ジェンダーフリー教育だろうと私は捉えている。男女にかかわらず自分の能力を十分に開花されることをめざすのが男女共同参画社会なのだ。
 その意味で、菱村氏が「行き過ぎた」というのは、きちんと論議もしていなければ、「男女同一の更衣室」など、一部報道にあるような、根拠や事実関係もハッキリしないことで取り上げるのはいかがなものか。それをさもあったかのように報道していく論者に左右されているとしか思えない。
 もし、菱村氏の憂うような「男女同一の更衣室」「すべて混浴」などはジェンダーフリーでなく、セクハラと言った方がいい。

  3)「時代の流れに惑わされない」について

 男女混合名簿にするかしないかは「学校が判断すればよいわけだ」と菱村氏はいう。その通りだ。もちろんその時は、「学校」は校長でなく、校長を含めた教職員である。しかし、その時にただ漫然と「前例踏襲主義」であるならば批判を免れないだろう。私も、トップダウンで何でも決める今の教育行政の在り方は問題があると強く感じる。男女混合名簿だけでなく、少人数学級や教員の勤務時間の整備などそういう問題も学校の独自の決定が必要なのだ。ここだけは、学校の自律独立の必要性を認めたい。すぐに隣の学校や教委に相談して決める校長が多いのを是非問題にするべきだ。
 混合名簿が不便だというのも、実際に不便だと言っている学校の教員の声が、どのようなものか聞きたい。少なくとも、ボクが在職した学校では、変更した一、二年は慣れないということで面倒なことはあるが、すぐに慣れ、逆に分ける手数が省けていいというコトさえある。
 また、たとえ面倒でも、教育的に望ましいのであれば、実施すべきだ。面倒だから教育の理念までないがしろにしてよいと言うことではないだろう。
 「区別」と「差別」は違うが、「区別」が「差別」の原因になることが多いのは事実だ。聞こえのよい「区別と差別は違う」を実際にきちんと論議していくことが重要だろう。

  おわりに

 ジェンダーフリーへの疑問はあって当たり前である。しかし、教育の現場では、少なくともジェンダーフリー教育についてはまだまだ学習が足りないと思う。私自身の自戒を込めて、子どもへの教育だけでなく、教職員の性差別やセクハラがあるのではないか?それが、「悪気はなかった」「そんな意味で言ったのではない」という反省を超えて学習・研修する必要がある。
 「男女平等教育」を踏まえて、一歩進んだジェンダーフリー教育が実施され、それが、今までとどこが、どう違うのか? そこを今後課題にしていくべきだ。



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